江川卓『カラマーゾフの兄弟』は滋賀県立図書館にあります詳細を見る

    ドストエフスキーが伝えたかったこと~ 21世紀も蛮行は続く

    カジミエシュ・スモーレンの墓
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    アウシュヴィッツは過去の蛮行ではない

    私も2002年~2004年にかけて、アウシュヴィッツ・ビルケナウ国立戦争博物館を訪れた時は、何と恐ろしいことが行われていたのかと、人間の狂気の数々に眩暈がするほどの衝撃を覚えたものです。

    と、同時に、今はそんな恐ろしい出来事があったなど、想像もつかないほど、平和で美しいポーランドの景色を目にして、「平和な時代に生まれて良かった。もう二度と、あんな恐ろしい出来事が起こりませんように」「人間はそこまで愚かではない」と思ったものですが、2022年2月24日のウクライナ侵攻によって、その願いも無残に打ち砕かれました。

    どうせいつもの脅しだろうと高をくくっていたら(キーウの人々でさえ、ほんの数日前まで“まさか、この21世紀に・・”という思いだった)、本気で攻め込んできて、それも欧米の仲介で、程なく終わるだろうと期待していたら、泥沼の全面侵攻に陥って、今も続いています。いつ終わるのか、誰にも分かりません。

    そして、21世紀にもかかわらず、占領地では恐ろしい人権侵害が続いていて、想像を絶するような蛮行が(露政府の容認の元)繰り返されています。

    相手が、非文明国の半獣人なら、納得もいったでしょうが、つい先日まで、普通の一般市民として暮らしていた人達が、武器を与えられた途端、狂気の蛮族に変貌し、丸腰の一般市民を捕まえて、平然と手足を切り落としたり、生きたまま焼き殺したりしている。

    第二次大戦下のユダヤ人迫害も、「ねつ造」を主張する人があり、「同じ人間がそんな恐ろしい事をするわけがない」と思いたいのかもしれませんが、それは現実だったのだと、改めて思い知らされた次第です。

    寺山修司も、「戦争とは国家によって正当化される殺人 『死者の書』と述べていますが、本当にその通りで、人間というのは、国に承認されれば、ガス室でも、強制労働でも、平然とやるものなのです、残念ながら。そして、戦時下においては、それが英雄的行為とされ、まさに『人を一人殺せば人殺しだが、数千人殺せば英雄』という名言の世界。そこに理性も抑止力もなく、ただただ獣性があるだけです。

    その獣性を制御する為に、教育があり、文化があり、法律があり、秩序ある人間社会を維持できるわけですが、武力……というよりは、それを容認する権力は、何千万人が懸命に築き上げてきたものを一夜で破壊し、良識ある市民を獣人に引きずり下ろすようです。

    それが可能になるのも、個々の中に、そうした獣性が眠っているからで、もしかしたら、それを利用する為に、日頃から数千万の人民を飢えさせ、弑逆し、日常的な鬱憤、不満、怒り、妬みを、第二の兵器にするのかも知れません。

    先日は、とうとう、私の居住国の首相が「冷戦後の束の間の平和は終わった。今は新たな戦前である」と宣言しました。

    そして、その通りだと、私も思います。

    自分たちは、たまたま平和な時代に青春時代を謳歌して、それが永遠に続くと、暢気に考えていただけなのだと。

    ウクライナ侵攻も、一日も早く終わることを願っていますが、それも一時の気休めに過ぎず、また戦火の時代は襲ってくるのだと肝に銘じて、我々、一般市民は、自分に何が出来るか、少しでも考えるより他なさそうです。

    ■ 元記事 カジミェシ・スモーレンの序文より ~強制収容所について | Novella

    戦争と戦争の狭間 ~ドストエフスキーが伝えたかったこと

    私は隣国で、恐ろしいほどの蛮行を間接的に体験して、「ベルリンの壁の崩壊」に湧いた、あの日から30年。

    ポーランドにマーシャル・ローが発令され、その後に続く連帯運動と民主化に湧いた、あの日から30年。

    もっと遡れば、五島勤の『ノストラダムスの大予言』(1999年7月のアンゴルモア大王)と米ソ冷戦に身震いした、あの日から、数十年。

    ある日の朝刊に記載された「ソ連邦崩壊」のニュースに胸を躍らせ、ロシアのスポーツ選手や、クラシック演奏家や、芸能人や、大統領や高官までもが、西側の自由な世界で人気を博し、欧米の指導者らと仲良くハグする姿を見て、ああ、本当に人類の最悪の時期は過ぎたのだと、思っていたものでした。

    自由は勝利し、文化が知性と平和をもたらしたのだと。

    そして、同時に、こうも思いました。

    ドストエフスキーが今の明るさを見れば、きっと「我がロシアが、ついに・・!」と歓喜にむせぶだろうと。

    でも、全部、誤りでした。

    無知な女の子の幻想でした。

    ドストエフスキーは知っていたのだ、ロシアは逆立ちしても、そうはならないと。

    でも、ほんのちょっと、同胞に対して信じる気持ちがあり、その願いが「カラマーゾフの兄弟」を書かせたのだと、今なら思います。

    ウクライナ侵攻の話を日本の友人にしても、「可哀相と思うけど、所詮、他人事」「へー、そんなに深刻なの」ぐらの感想しかないです。

    明日にも我が身に降りかかるかもしれない火の粉とは誰も思ってない。

    まだ『ノストラダムスの大予言』に影響され、米ソ冷戦に震えた昭和の子供の方が、まだ政治的危機というものをよく理解していたように思います。

    その中での、ドラゴVSロッキーの対決であり、ジェームズ・ボンド
    の活躍であり(たいてい東側のスパイと戦っていた)、クラウス・フォン・エーベルバッハ少佐 VS 赤いたぬき(青池保子の漫画『エロイカより愛をこめて』) だったんだな、と。

    今では、あまりに凄惨な出来事を目の当たりにし、ロシアの作家も、文化的イベントも、一斉にBANする動きがあり、それは当然と思います。

    一方で、こんな時代だからこそ、ドストエフスキーを読む意義は非常に高く、当時から、こういう民族性と国家体質を嘆いて、こういう作品を書かずにいられなかったのだと考えると、感動もひとしおです。

    そして、その願い虚しく、今のロシア人がやってる事は、子供を猟犬に襲わせ、赤ん坊を銃剣を串刺しにする将軍たちのエピソードと何ら変わりありません。

    では、神の教えに従って、彼らと握手し、抱き合う覚悟があるのかと問われたら、イワンでなくても「天国への入場券をつつしんでお返しする」という気持ちになるでしょう。

    これらの不幸に対して、何が救いになるかと問われたら、アリョーシャや大審問官のキリストのようにキスする以外にないのです。

    昔から、幾つかの学問は禁忌とされ、地下でひっそりと受け継がれたものですが、現代においては、ロシア文学も、ロシア音楽も、そのようになっていくのかもしれません。

    でも、現代に受け継がれる名作の多くは、反抗と疑問の中に生まれたものであり、ロシアものも決して例外ではないと思います。

    今だからこそドストエフスキーを読み返したい、理由の一つがそれです。

    *

    ちなみに、多くの人は、「ロシア革命アゲイン」を願っていますが、そうはならないと思います。

    昔、多くの市民革命が成功したのは、農民やパン屋でも、鋤と鍬を手に宮殿に押し入り、それが戦力になったけども、今は銃器と火器なので、ダダダと撃ち殺されて終わりだと、私の知人も申しておりました。

    昔、梶原一騎が「愛と誠」という漫画で、「圧倒的な暴力に勝てる人間など、いやしない、断じて」と書いていましたが、本当にその通りだと思います。

    一見、進化したように見えて、いっそう暴力が勝る、北斗の拳+マッドマックスな世界に遡っていくのだろうと。

    そして、いつか、知性や文化が暴力に抗えなくなり、どこにも平安の地を見出せなくなれば、金持ちから宇宙植民地『エリジウム』に逃れるようになる・・というストーリーも、決して笑い話じゃない。

    実際に、そうなりつつあるという事を、彼の地に見出して頂ければと思います。

    誰かにこっそり教えたい 👂
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