江川卓『カラマーゾフの兄弟』は滋賀県立図書館にあります詳細を見る

    【37】 人生は数多くの不幸をもたらすが、その不幸によって幸福になる ~一粒の麦、もし地に落ちて死なずば

    ゾシマ長老と客人たち
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    目次 🏃‍♂️

    ゾシマ長老からアリョーシャへ

    章の概要

    アリョーシャは料亭≪みやこ≫でイワンと語り合い、兄弟らしく心を通わせますが、イワンは父への嫌悪感から、遠くモスクワに旅立ち、アリョーシャは人生の師であるゾシマ長老の死に直面します。兄ドミートリイとフョードルが一触即発の中、アリョーシャは二人の兄を救うことができるのでしょうか。

    『第Ⅵ編 ロシアの修道僧 / 第1章 ゾシマ長老と客人たち』では、一家の不幸を予感するゾシマ長老と、アリョーシャへの深い愛情が描かれています。

    動画で確認

    映画版『カラマーゾフの兄弟』(1968年)より、1分クリップ。

    映画版の脚本は、原作と少々異なり、ゾシマ長老とアリョーシャの最後の会話は、料亭≪みやこ≫の前のシークエンスに差し込まれています。イワンと別れた後、僧院に戻ってきたら、いきなり棺桶という展開です。

    エピソードの順序はTVドラマ版(2007年)の方が忠実ですが、1968年版の方が美術、衣装とも、原作に近いです。

    TVドラマ(2007年)の、ゾシマ長老とアリョーシャの場面を見たい方はYouTubeでどうぞ。(17:25より)
    TVドラマ版のアリョーシャはロシアのブラッド・ピットみたいで、あまり好みじゃないです。(いい役者さんだけど、1968年映画版には負ける)
    原作を知らない、現代のロシアの視聴者に合わせたと思いますが、いまひとつ、深い精神性を感じない・・
    庵室のインテリアも、地方の安宿みたいで、ポーランドの山岳リゾートにも、こういう作りの民泊、たくさんあります^^
    https://youtu.be/Oy2_Ygp__EQ?t=1045

    ゾシマ長老の客人たち

    ゾシマ長老は、今日明日にも息を引き取りそうなほど衰弱していましたが、「もう一度、心から愛しているみなさんとゆっくり話し合い、みなさん方のなつかしいお顔を拝見し、もう一度わしの魂をみなさん方に吐露しないうちは、けっして死んだりはしませんぞ」と最後の力を振り絞って起きあがり、長老を訪ねた四人の神父、そしてアリョーシャに、最後の言葉を伝えます。

    動画にもあるように、長老の元に集まった神父と修道僧は四人。誰が誰か、分かりますか?

    ・ 修道司祭のヨシフ神父とパイーシイ神父。
    ・ 庵室主任の修道司祭ミハイル神父。
    (それほど老齢でもないし、さして学問があるわけでもなく、身分は平民であったが、道心堅固で、ゆるぎない素朴な信仰をもち、見かけは気むずかしそうだが、内心には経験な感動を秘めているが、彼は自身の感動を何か恥ずかしいことのように、ことさら秘し隠していた)
    ・ アンフィーム修道僧
    (貧しい農民の出身で、ほとんど字も読めない。無口な、もの静かな性質で、謙虚な人たちの中でもとりわけ謙虚で、何か偉大な、恐ろしい、自分の知恵の及ばないものに永遠におびえているといった顔つきをしていた)

    ちなみに、死の床にある人が、死の前日ぐらいに、急に元気に起きあがって、いろいろ話し出すのは珍しくありません。(当方、元看護師)

    「今日は調子いいですね~」と安心していたら、その数日後にコロっと亡くなる。あれは本当に不思議です。天に最後の力を与えられた、とでも言うのでしょうか。

    なので、瀕死のゾシマ長老が、最後の力を振り絞って、自分の半生を語ることも納得がいきます。

    一粒の麦、もし地に落ちて死なずば

    ゾシマ長老の姿を見ると、アリョーシャは思わず泣きだします(動画の通り)

    長老はアリョーシャを励ますと、二人の兄について訊ねます。

    アリョーシャが、イワンとは会って話したが、ドミートリイとは会えなかったことを伝えると、「いそいで見つけるがよい、あすも行くのじゃ、あとのことはほうり出しても、いそぐがよい。ことによると、まだいまなら恐ろしいことが起るのを防げるかもしれぬ。わたしはきのう、あの人の大きな未来の苦しみの前に頭を下げたのじゃ」と促します。

    『どうしてこんな人間が生きているんだ!』 なぜゾシマ長老は大地に頭を下げたのか」で、父フョードルへの怒りを爆発させるドミートリイの足元に額ずき、「お赦しくだされ! 何もかもお赦しくだされ!」と言う場面ですね。

    アリョーシャは、「あなたのお言葉はあまりに漠(ばく)然(ぜん)としております……いったいどのような苦しみが兄を待っておるのでございますか?」と訊ね、ゾシマ長老は次のように答えます。

    わたしはきのう、何か恐ろしいことが予感されたのじゃ……あの人の目つきにおのれの全運命が表われておるようであった。そのような目つきがちらと見てとれたのじゃ……

    これまでにもわたしは一、二度、いわばその人の全運命を描き出したような……あれと同じような表情を目にしたことがあって、悲しいことに、その運命は成就してしまった。

    わたしがおまえを兄のもとへ遣わしたのはな、アレクセイ、兄弟としてのおまえの顔があの人の助けになることもあろうかと思ったからじゃ。

    だがすべてわれわれの運命は神の思し召しのままじゃ。『一粒の麦、もし地に落ちて死なずば、一粒のままにてあらん。されどもし死なば、多くの実をもたらすべし』と言われておる。このことをよっく覚えておくのじゃ。

    「目つきから分かる」というのは、現代も同じですね。不幸は、いかにも不幸そうな顔つきの人から起きることが多いです。いつもニコニコ、お多福顔やえびす顔の人が大変な不幸に巻き込まれたという話は、あまり聞かないでしょう。突然病気になるとか、勤め先が倒産するとかいう話はありますけど、でも、その為に人生が破滅することは稀で、病気しても手術が上手くいったり、倒産しても次の仕事が見つかったり、けっこう、盛り返す人が多いです。凶相の人は、一つの失敗がきっかけで、自分のみならず、周囲も巻き込んで、みなが不幸になるケースが多いですが……。

    『一粒の麦、もし地に落ちて死なずば、一粒のままにてあらん。されどもし死なば、多くの実をもたらすべし』は、新約聖書 ヨハネの福音書 第12章『ギリシア人、イエスに会いに来る』にあるイエスの言葉です。

    さて、祭り(過越祭)のとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人(代表的に異邦人を表す)がいた。彼らは、ガリラヤのペ都債だ出身のフィリポスのもとへ来て、「イエスにお目にかかりたいのです」と申し出た。フィリポスは行ってアンドレアスに話し、アンドレアスとフィリポスは、イエスのもとに行って取り次いだ。

    イエスは答えた。

    「(人の子)が栄光を受ける時(十字架上で、死んで復活する時)が来た。はっきり言っておきたい。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、いつまでも一粒のままである。しかし、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うか、この世で自分の命を顧みない人は、それを保って永遠の生命に至る。わたしに仕えたい人は、わたしについて来なさい。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える人もいることになる。父(神を指す)はわたしに仕える人をたいせるに扱ってくださる」。
    新約聖書 新共同訳 Kindle版』より

    「一粒の麦」とは、イエスの死を意味します。しかし、それは終わりではなく、伝道と救済の始まりです。イエスがもし生に執着し、でたらめな行動をすれば、それまでの教えも無に帰し、信仰の対象にもならなかったでしょう。

    イエスは命をかけて教えを実践したから、「これは本物だ」と皆が感銘を受け、十二の使徒も伝道に生涯を捧げたわけで、「一粒の麦」としての命は終わりでも、それが大地に蒔かれれば、次代の種子として豊かに実を結ぶという喩えです。

    アリョーシャも、兄のため、人々のために尽力すれば、たとえ自身の幸福は犠牲になっても、社会的には大きなインパクトを与えるかもしれません――というのが、幻の続編「第二の小説」に予定されていたアリョーシャの立ち位置で、『新生ロシアのイエス・キリスト』となるべく生を受けた、ということでしょう。『第Ⅰ編 ある一家の由来 / 第4章 三男アリョーシャ』でも、≪わめき女≫の母ソフィヤが幼いアリョーシャを聖母マリアの聖像に捧げるエピソードが描かれています。

    人生は数多くの不幸をもたらすが、その不幸によって幸福になる

    ゾシマ長老は、アリョーシャの定めと立ち位置を理解した上で、次のように励まします。

    おまえはこの僧院の壁の外へ出ても、俗界で修道僧として暮すのじゃ。おまえは数多くの敵を持つことになろうがの、その敵ですらおまえを愛するようになるじゃろう。人生はおまえに数多くの不幸をもたらすだろうが、その不幸によってこそおまえは幸福になり、人生を祝福し、他の者にも祝福させるようになる――これが何より大切なことなのじゃ。

    ゾシマ長老の言う「幸福」とは、「禍福はあざなえる縄の如し」の福(HappyやLucky)ではなく、多くの苦しみを通して知恵が磨かれ、明鏡止水の境地に至る、というニュアンスですね。

    明鏡止水とは、荘子(徳充符)の言葉。『くもりのない鏡と波立たない静かな水の意。心にやましい点がなく,澄みきっていること。「―の心境」』です。

    アリョーシャも、不幸に心を磨かれて、いつか透明な光のような存在になるのでしょう。(天使)

    本作の冒頭、『三男アリョーシャ』の生い立ち編で、母ソフィヤがアリョーシャを聖母マリヤの聖像に捧げる場面、「ある静かな夏の夕暮のことである。窓があいていて、夕日が斜めに射(さ)しこんでいた(この斜めの光線を彼はなによりもはっきりと記憶していた)、部屋の隅には聖像がかかり、その前に灯明がともされていた」という描写が、聖人を意識していますから。

    これは、我々、一般人も同じ。

    知恵を磨く以外に、魂の平安を手に入れる術はありません。

    古今東西、「言いたいことは同じ」というのが、我々、読者の実感ではないでしょうか。

    誰かにこっそり教えたい 👂
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