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    【4】 幸福に必要な鈍感力・アリョーシャ ~鋭敏な知性はむしろ人間を不幸にする

    カラマーゾフの兄弟 アリョーシャ
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    目次 🏃‍♂️

    神の人 アリョーシャ

    章の概要

    次男イワンが、自分の境遇を恥じ、気むずかしい少年に育つのに対し、三男アリョーシャ(アレクセイ)は、純朴な人柄で、誰からも愛されます。

    しかし、アリョーシャは高等中学の途中で、父の元に帰りたいと言い出し、フョードルと再会します。フョードルは心優しい青年に育ったアリョーシャに心を開き、彼の望み通り、亡き母(二番目の妻ソフィヤ)の墓参りと供養を行ないます。その後、アリョーシャは僧院に入りたいと申し出て、フョードルも、戸惑いながらも、温かく送り出します。

    『第Ⅰ編 ある家族の由来 / 第4章 三男アリョーシャ』では、朗らかなキャラクターと内気さ、淫蕩父フョードルの心さえ溶かしてしまう優しさと、徐々に変わりゆく老親の心境が描かれています。

    俗界で生きる普通の青年

    全編を通して、純粋な信仰心を持ち続けるアリョーシャですが、その本性は、決して狂信者ではありません。むしろクールなほどの現実家です。(詳しくは、【5】リアリストは自分が信じたいものを信じる ~アリョーシャの信仰とゾシマ長老を参照)

    まず最初にはっきりと断っておかねばならないのは、アリョーシャというこの青年がけっして狂信者ではなく、少なくとも私に言わせれば、神秘家でさえけっしてなかったことである。

    あらかじめ結論的な私の見解を述べておくならば、彼は要するに早熟な博愛の人であって、僧院の生活にまっすぐに飛び込んで行ったのも、当時それだけが彼に感動を与え、俗界の憎悪の暗黒の中で愛の巧妙を見出そうともがいていた彼の魂に、いわば理想の進路をさし示してくれたからだけにすぎなかった。

    また、この生活が彼を感動させたのも、ただ彼がそこで、彼に言わせれば非凡なる人物、すなわち、この町の僧院の高名なゾシマ長老とめぐり会い、初恋の人に抱くようなひたむきの情熱をかたむけてこの長老に打ち込んだからにすぎない。

    アリョーシャは一貫して神と不死を信じ、それがかえって、イワンやドミートリイの心の支えとなります。アリョーシャがふらふらと心もちを変え、ある時は信じ、ある時は不信に陥るような、一貫性のない人間なら、誰の救いにもならないからです。

    言い換えれば、アリョーシャはイワンやドミートリイより、はるかに強い人間であり、その強さはどこから来るかと言えば、「良いものは良い、正しいものは正しい」と思える素直さでしょう。イワンのように、いちいち立ち止まって、是か非か、結論づけようとする人間は、かえって、「結論のつかない問題」に直面すると、そこから一歩も進めなくなるからです。その点、アリョーシャは単純明快です。考察よりも直観で突き進むタイプです。将来を選ぶ時も、打算的な学生みたいに、「どの道を行けば、有利か」ということは考えず、自分の直観を信じます。

    次の章『ゾシマ長老』でも言及されているように、アリョーシャが神の道を選んだのも、単純に魂にフィットしたからです。田舎の信心深いお婆さんみたいに、奇跡や天罰を畏れる気持ちから、あるいは厭世的な気分から、僧院に行こうと決めたわけではありません。

    一見、感化されやすい、お人好しの青年に見えますが、イワンやドミートリイがそうであるように、彼もまた、悩みに悩み抜いて、やがては社会運動に身を投じるからこそ、アリョーシャというキャラクターが際立つんですね。

    イワン ~鋭敏な知性はむしろ人を不幸にする

    アリョーシャの人柄を、作者は次のように描写しています。

    幼年時代、少年時代を通じて、枯れ葉あまり感情を外にあらわすほうではなく、無口なくらいであったが、それも、人を信じないとか、内気だとか、陰気なつきあいぎらいだとかいう理由ではなく、むしろ正反対で、なにか別の理由があってのことだった。つまり、他人にはかかわりがないが、彼にとってはきわめて重要な、自分ひとりだけのいわば内心のもの思いとでもいったものにいつもとらわれていて、そのために他人のことはつい忘れがちになるのである。

    しかし彼は人間を愛していた。生涯、人間を信じきって生きてきたようにも見える。だが、それでいて、だれひとり彼のことを薄のろとも、単純なお人好しとも見る者はなかった。彼の風貌には、何かこう、自分は人の裁き手にはなりたくない、他人を非難する気持ちにはけっしてなれないし、何についても非難したりするものか、とでも問わず語りに語っているような、思わずそう信じこまされてしまうようなところがあった。

    しばしばはげしい悲しみを心にかみしめながらも、彼はいささかも他人を非難せず、すべてを許しているようにさえ思われた。そればかりか、彼はこの点では、だれのどんな行為にも驚いたりうろたえたりすることのない心境にまで達していて、それはもう青春時代のごくごく初期から認められたものである。

    アリョーシャは、幼少時より、自分の内なる世界を守れる人だったのでしょう。周りが何を言おうと、自分の感性、自分の思考、自分の価値観を、心の中でしっかり守っていきます。かといって、決して頑固ではなく、関わりのないことは右から左に受け流す鈍感力があります。世慣れしているように見えて、意外と繊細なイワンとは大違いですね。

    だいたいアリョーシャは、自分がだれの世話になっているかなどということには、まったく気を使わないほうで、この点がまたいかにも彼らしい、性格上の大きな特徴であった。

    兄のイワンが、大学生活の最初の二年間、自分で働いて食べていく貧乏生活を送り、ほんの幼い自分から、自分は恩人の家で他人のパンを食べて生きているのだと、痛切に感じていたのと比べると、その点、アリョーシャはまったく正反対であった。

    アリョーシャは皆に愛され、爛漫と育ちますが、イワンは他人の施しを受けている自分を恥じ、だんだん内に閉じこもっていきます。(淫蕩父が心の重荷になっている理由も大きい)

    イワンの鋭敏な知性は、むしろ彼自身を苦しめ、良い意味で鈍感なアリョーシャは、周囲の好意を素直に受け取り、のびのびと育ちます。

    傍目には、「暢気」「お気楽」「お花畑」に見えるかもしれませんが、アリョーシャの強みは、良い意味での「鈍感力」。

    イワンのように、あれこれ理由を考えたり、追及しない。好意は好意と素直に受け取り、自分は愛されるに足る人物と信じることができる。余計な情報を取りこまないので、世の中はいつでもピュアに見える、得な性格ですね

    淫蕩父も心惹かれるアリョーシャの魅力

    そんなアリョーシャに対して、淫蕩父フョードルは初めのうちこそ警戒していましたが、すぐに人間的魅力に捉えられ、深く愛するようになります。彼の願い通り、亡き妻ソフィアの墓を探し出し(フョードル自身はすっかり忘れていた)、一緒に供養します。

    その後、アリョーシャは僧院に入りたいと申し出、フョードルは快く許します。

    「そうとも、あの長老は、ここではいちばん立派な坊さんだよ」アリョーシャの話を、あまり口もはさまず、何もかもの思いに沈む様子で聞き終ると、彼はこう口を切ったが、もっとも、アリョーシャの申し出にとくに驚いたらしい様子もなかった。 ≪中略≫

    あそこへ入るのがおまえの念願だったというわけだ。まあ、それもよかろうじゃないか。おまえも二千ルーブリの小金を持っているわけだし、そいつを持参金に化けるって寸法さね、なに、おれだって、かわいい天使のおまえをほっときゃせん、向うで出せと言うんなら、いますぐにも応分の寄進はしてやるよ。だがな、出せと言われもせんのに、こちらから差し出がましくすることもあるまい、そうだろうが? だいたいおまえの金の使い方ときたら、カナリヤみたいなもんで、一週間に二粒がいいところだものな……」

    ドミートリイに対する辛辣な態度とは、ずいぶん違いますね(^_^;

    しかも老親らしく弱音を吐き、しおらしいことを口にします。こういう反応は現代も同じですね。人間、年を取ると、急に気弱になり、涙もろくなるものです。

    ところがだ、おれはな、アリョーシャ、おまえを手放すのが惜しいんだよ、信じちゃくれんだろうが、ほんとうの話、おまえが好きになってしまってな……しかし、まあ、ちょうどいい機会ができたもんさ。ひとつ、おれたち罪深い者のためにお祈りをしてくれや、まったく、ここに腰を据えていて、おれもだいぶ罪つくりをしてしまったものな。いつも考えてきたもんだよ。いったいだれがおれのために祈ってくれるだろうか?そんな物好きがこの世にいるだろうか? ってな。

    なあ、かわいい坊主、おまえ、本気にせんかもしらんが、おれはこのほうにかけちゃ、からっきし弱くってな。からっきしなのさ。

    ところが、弱いくせに、おれはしょっちゅう、しょっちゅうこのことを考えておるんだ。いや、むろん、しょっちゅうというわけにもいかんから、ときたまだがな。

    だって、なんぼなんでも、おれが死んだとき、鬼どもがおれの身体に鉤をかけて地獄へ引きずりこむ(注解参照)のを忘れてくれる、というわけにもいくまいじゃないか、と思うもんだからな。 ≪中略≫

    まあ、ともかく行ってこいや、行って真理をきわめてきてな、帰ったら、いろいろ話してくれや。向うの様子がはっきりわかっておったら、あの世へ行くのもすこしは楽だろうからな。

    それにおまえにしても、ここで、飲んだくれ爺や女(あま)っちょどもといっしょにいるよりは、坊さんたちと暮したほうがためになるだろうよ……もっともおまえは天使とおなじで、どんな汚れにも染まらんやつだがな。

    いや、たぶん、あそこへ行っても、なににも染まらんだろう、なに、おれが許しを与えるのも、そこのところを見込めばこそなのさ。おまえの頭はまだ悪魔に食われちゃおらん。ぱっと燃えるだけのものが燃えつきて、正気に返ったら、また帰って来るがいい。待っているぞ、この世の中でおれを責めようとしなかったのは、なあ、かわいい坊主、しみじみ感じ入っとるが、ほんとにおまえひとりきりだったんだからなあ。おれはそこのとこおろを感じてしまったのさ、いや、これを感じないでいられるものか!……」

    そう言いながら、彼はすっかり涙声にさえなっていた。彼はセンチメンタルだった。腹黒いくせにセンチメンタルなのだった。

    ずいぶん可愛いですね。

    「この世の中でおれを責めようとしなかったのは、ほんとうにおまえひとりきりだったんだ」という言葉にも実感がこもっています。

    外面では、遊び好きの道化を装っていても、中身は純情な田舎オヤジ、愛すべきキャラクターであることは全編を通して読めば分かります。

    見方を変えれば、アリョーシャの優しさも、イワンの知性も、フョードルから受け継いだものであり、突然変異的に生まれてきたのではありません、

    だからこそ愛憎もいっそう深く、フョードル殺しの哀れさが際立つのです。

    【コラム】 人間の善性と鈍感力について

    人間の善性は、鈍感に通じるところがあります。

    誰の目にも「好ましい人」が必ずしも善徳とは限らず、ただ単に「鈍感なだけ」ということも往々にしてあるからです。

    ここで言う「鈍感」とは、人の痛みに鈍感な『無神経』ではなく、意識的、あるいは無意識に、センサーの感度を下げて、悪口、敵意、無礼、皮肉といったものから心を守り、全部ひっくるめて許容できる能力を言います。現代風に言えば、スルーですが(意識的に無視する)、スルーよりさらに高度で、自分の悪口を言う人でさえ好意や理解を示すことができます。

    傍から見れば、お花畑の脳天気、昼行灯みたいにぼーっとして見えますが、決して愚鈍ではなく、相手の意図も性情もすべて理解しています。

    その上で、相手に救いの手を差しのべることができるのですから、どんな人も敵うわけがありません。

    ある意味、無敵の人であり、磔刑においても「父よ、彼らをお許し下さい。彼らは自分が何をしているのか、分かっていないのです」と言うイエスの心に適う者でもあります。

    逆に、イワンのように理屈が先に立つタイプは、一見、強そうですが、持論が破綻したり、誰をも救わないと分かれば弱いです。根拠となるものが理屈だけなので、それが崩れると、心が折れてしまうんですね。

    その点、善良な鈍感さは、周りを呆れさせることはあっても、不快にすることはありません。イワンの言動が反感を買いやすいのとは対照的に、「あの人は、ああいうタイプだから」で全てが許されるところがあります。

    アリョーシャも苦悩しますが、イワンのように全人類の業を背負って苦しむほどではなく、何でも自分の中で消化して、Yes、Yes、Yesで突き抜けていくところは、いかにも天界の人という感じ。悩みにも重さがなく、決して絶望するところがありません。

    人が幸福を掴むのに、高度な知性や鋼の精神は必要なく、どこか心の感知器がぼやけて、細かい事にこだわらず、自分が信じたものを、ひたすら信じ抜くことができる「鈍感力」こそ大事と思わずにいられないのです。

    江川卓による注解

    二歳くらいの頃からさえ

    ドストエフスキーに二度目の妻アンナ夫人の注によると(以下「アンナ夫人注」と略記)、作者自身が二歳の頃の思い出として、母親に連れられて村の教会へ聖体を受けに行ったとき、教会の窓の一つから鳩が飛びこんできて、別の窓から出て行ったことを憶えていたという。そのときに幼いフョードルが「鳩だ、鳩だ」と叫んだという話も伝わっている。

    アリョーシャは母ソフィヤのことは、ほとんど記憶していませんが、「わめき女」だった母が、突如、憑かれたように彼を神に捧げる場面が脳裏に焼き付いています。それはアリョーシャの幻覚や思い込みではなく、2歳ぐらいの幼子でも、何か強烈な記憶を残すことがある――という喩えです。

    彼が記憶していたのは、ある静かな夏の夕暮のことである。窓があいていて、夕日が斜めに射(さ)しこんでいた(この斜めの光線を彼はなによりもはっきりと記憶していた)、部屋の隅には聖像がかかり、その前に灯明がともされていた、そして聖像の前にひざまずき、ヒステリーでも起したように泣きじゃくり、金切り声や悲鳴をあげているのは、自分の母親である。母親はアリョーシャを両手でつかまえると、痛いほど強く彼を抱きしめ、彼のことを一心に聖母マリヤに祈るかと思うと、今度は抱擁の手をほどいて、まるで聖母の庇護(ひご)を求めでもするように、両手で彼を聖像のほうへ差しのべる……と、ふいに乳母が駆けこんできて、おびえたように母の手から彼をもぎとる。これがその光景であった!

    ちなみに、この描写は、アリョーシャが「神に捧げられし者」であり、「第二の小説(幻の続編)」においては、殉教者的な死を遂げる――という伏線ではないかと思います。

    聖痴愚(ユーロジヴイ)

    本来は苦行層の一種。信仰のために肉親や世間とのつながりを絶ち、常識、礼儀、羞恥心をさえわきまえぬ狂人や痴愚をよそおって、権威や世の思惑に媚びぬ真実の神の言葉を説いた者をこう呼んだ。新約コリント前書第四章十節に「われらはキリストによりて愚かなる者なり」とあるのが典拠とされている。六世紀ごろからビザンチン教会ではこの聖痴愚の存在が記録されているが、これがとくに数多く現われたのは中世ロシア(十四­十六世紀以降)であって、彼らは民衆の苦しみと悲嘆のいつわらざる表現者となることができた。時代が降ると、教会によって認められぬ「偽ユロージヴイ」も輩出し、奇矯の振舞で衆目を集めようとするが、他方、いくぶん神がかった狂人や白痴をこの名で呼ぶようにもなった。スメルジャコフの母親「いやな臭いのリザヴェータ」もその一人で、女性の場合には語尾が「ユロージヴァヤ」と変化する。

    「聖痴愚」については、『【16】 いやな臭いのリザヴェータと聖痴愚(ユロージヴァヤ)』でも詳しく解説されています。

    三等 (三等列車について)

    三等は、雑居房然とした車輌で、当時のロシアでは身分のある者が乗るべきものではないと考えられていた。

    アリョーシャは、高等中学に在学中、父フョードルを訪ねたいと後見人の二人の婦人に申し出て、彼女らは、可愛いアリョーシャのために、たっぷり旅費をもたせ、新しい服やシャツまで揃えてあげます。しかし、アリョーシャは、どうしても三等列車で行きたいと言い張り、旅費の半分を返してしまうエピソードに基づきます。

    ヘブライの家

    アリョーシャは、母の墓参りをする為に、父の元を訪れた時、フョードルが何をしていたかといえば、「二度目の妻が死んでから三、四年の間、彼はロシアの南部地方に向かい、最期はオデッサに落ちついて、そこで何年間かを過した。最初は、彼自身の言葉をかりると、「男やら、女やら、年寄りやら、若いのやら、種々さまざまなジューたち」とつき合ったが、ついにはジューばかりでなく、「ヘブライの家にも出入りする」ようになった。彼が金儲けの手練手管をみがきあげたのは、どうやらこの時期と考えてよさそうである

    ドストエフスキーが反ユダヤであったことは広く知られていますが、ここでも「金儲け」=卑しいと結びつけ、当てこするような描写しています。

    ロシアでのユダヤ人に対する人種的偏見はかなり根が深く、ゴーゴリの『ダラス・プリパ』などにもその模様が描かれており、差別的呼称としてジード(ジュー)がある。十八世紀末に出た法令で、ユダヤ人定住区域が設定され、一般のユダヤ人はロシア南部、ウクライナの銃後の県とポーランドにかぎって居住を許されることになったが、その例外として、第一種ギルドの商人(資本金一万ルーブリ以上)、高等教育を受けた者、等々は他地域にも居住を許された。「ヘブライの家」とは、これらの特権的ユダヤ人を指すものと考えてよい。なおドストエフスキー自身は、『作家の日記』などで、ユダヤ人を大ブルジョアジーと同義的に用いて非難の対象にしている場合が多い。

    鬼どもがおれの身体に鉤をかけて地獄へ引きずりこむ

    アリョーシャが僧院に入るにあたって、フョードルがやけにしおらしく、「自分のために祈ってくれ」と懇願する場面について。

    ロシアの巡礼歌に、新訳ルカ福音書第十六章に出てくる「乞食のラザロと金持」のたとえ話を題材にしたものが何種類かあり、そこでは乞食と金持がともにラザロという名で、実の兄弟だという設定になっている。弟のラザロは、死後、天使に迎えられて天国へ昇天し、兄の金持のラザロのほうは地獄に落ちることになっている。ふつうの巡礼歌では、金持が地獄に落ちるときには、「あばら骨に鋭い矛を突き立てられて」連れて行かれることになっているが、二、三のヴァリエーションでは、「左のあばら骨」に鉄の鉤をかけられて、見苦しくも」地獄へ曳かれて行く、という表現が見られ、ドストエフスキーはこのヴァリエーションを念頭に置いているらしい。なお、この「ラザロ」の巡礼歌は、この作品の各所にモチーフが使われている。

    なければ考えだすまでだ

    Ⅱfaundrait les inventer(なければ、考えだすまでだ)。
    同上の続きで、フョードルが口にする。
    「だいたいおれを引きずって行く者がないとしたら、そのときはどうなる、この世の真理はどこにあるんだ? なければ考えだすまでだ」

    この表現は「もし神がいないとすれば、それを考え出す必要がある」(二九九ページ参照)をもじって使っているもので、ふつうフランスの啓蒙思想家ヴォルテールの『書簡集』に出てくる言葉とされているが、本来は十七世紀のカンタベリー大僧正ジョン・ティロットソンの『説教集』に出てくるもの。

    馬車の影を磨きいたり

    同上の続き。あるフランス人が地獄の様子を描いとるが、そのとおりなのさ。《J'ai vu l'ombre d'un cocher, qui avec l'ombre d'une brosse frottait l'ombre d'une carrosse》(われは見たり、御者の影を、そは、ブラシの影もて、馬車の影を磨(みが)きいたりに関する。

    フランスのお伽噺作家として知られるシャルル・ペローの四行詩『顔を変えたエネイーダ』に出てくる。
    誰かにこっそり教えたい 👂
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