江川卓『カラマーゾフの兄弟』は滋賀県立図書館にあります詳細を見る

    【6】 僧院の『薔薇の谷間』とゾシマ長老の女好き ~薔薇は何を意味するのか

    フョードル イワン ミウーソフ 僧院に到着 カラマーゾフの兄弟
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    僧院とフョードルの洞察力

    章の概要

    淫蕩父フョードルに育児放棄された三人の息子――長男ドミートリイ、次男イワン、三男アリョーシャは、フョードルとドミートリイの金銭問題をめぐって、初めて一堂に会します。

    家族会議を言いだしたのはフョードルで、《おそらくは冗談半分に》、高徳の僧ゾシマ長老に仲裁を依頼します。

    ちょうどこうした時期に、この乱暴な一家全員の顔合わせ、というより一種の家族会議が長老の庵室で行なわれ、それがアリョーシャに異常に強烈な印象を与えることになった。この会合の名目は、実を言うと、まったくいい加減なものであった。折から、遺産相続と財産上の決済をめぐるドミートリイと父親フョードルのいさかいは、明らかに、もうどうにもならないところまで行って、二人の関係は手のつけられぬほど緊迫化していた。

    そこで、なんでもフョードルのほうから、おそらくは冗談半分に、ひとつゾシマ彫鏤おのところにみなで集まってみたら、ちう案が出されたということらしい。直接に長老の仲裁を求めないまでも、長老の地位と顔がものをいって、ことも穏便にはこび、いくらかはまともに話もまとまるのではないかというわけだった。

    それに対し、ドミートリイは、むろんのこと、長老なんぞかつぎ出してきて自分をおどかす気だな、と勘ぐったが、このところ父親とのいさかいでひどく乱暴な振舞に出ているのを、内心苦に病んでいた矢先でもあったので、この申し出を受けて立つことにした。

    家族会議には、たまたま町に滞在していたピョートル・ミウーソフ(最初の妻で、ドミートリイの母でもある、アデライーダの従兄。西欧かぶれの自由派。「西欧かぶれのミウーソフ」を参照)も参加します。ミウーソフが興味をもったのは、ふいに僧院と《聖者》の顔を一見したい気持ちにかられたからです。

    それぞれの性格をよく知るアリョーシャは、一癖も二癖もある兄弟と父親が一堂に会することに強い不安を覚えます。

    『第Ⅱ編 ある家族の由来 / 第1章 僧院に到着』では、僧院にやって来たフョードルがさっそく道化の本性を露わにし、同行者をうんざりさせる場面を描いています。

    馬車の中で ~フョードル、イワン、ミウーソフ、カルガーノフ

    きれいに晴れあがった八月末のこと。

    カラマーゾフ父子とミウーソフらは二台の馬車を連ねて僧院にやって来ます。

    一台目には、ピョートル・ミウーソフと、彼の遠縁に当たる二十歳のカルガーノフが同乗しています。

    二台目には、フョードルとイワンが同乗しています。ドミートリイは後から遅れて来る予定です。

    作者いわく、

    彼は遅刻だった。訪問客たちは、塀(へい)がこいの外の宿泊所で、馬車を乗り捨てて、徒歩で僧院の門をくぐった。フョードルを除く他の三人は、これまでに一度として僧院なるものを目にしたことがなかったらしく、ミウーソフにいたっては、三十年この方、教会にさえ足を踏み入れたことがなかったようである。彼は、ことさら平然としたふうをよそおいながらも、さすがに好奇の眼差(まなざし)をあたりに走らせていた。しかし、教会と付属の建物のほかには、いや、それとてごくありふれたもので、僧院の内部にこれといって彼の観察眼に訴えるようなものは何もなかった。礼拝堂からは、最期まで残った人たちが、帽子をとり、十字を切りながら出てくるところだった。

    ≪中略≫

    乞食たちがたちまちわが訪問客の一行を取り囲んだが、だれひとり施しをしようとする者はなかった。若僧のカルガーノフ一人だけが、財布から十カペイカ銀貨を取り出し、どういうわけか妙にせかせかとうろたえた様子で、一人の女乞食の手にそそくさとそれを握らせると、「みんなで同じように分けるんだよ」と早口に言いそえた。同行の者のうちでこのことについて彼にとやかく言う者は一人もいなかったのだから、彼がうろたえる必要はひとつもなかったのだが、それに気がつくと、彼はいっそうどぎまぎしてしまった。

    乞食に施しをする場面は、心理的な雰囲気がよく出ていますね。

    二十歳のカルガーノフだけが乞食を見て見ぬ振りできず、若さゆえの正義感で乞食に小銭を渡します。

    現実社会においても、周りは何もしないのに、自分だけ施しをするのは、どこか気恥ずかしいし、逆に、間違った事をしているような気持ちになるものです。

    動画で確認

    イメージが掴めない方は、TVドラマ『カラマーゾフの兄弟』(2007年)のクリップが参考になります(約1分)

    フョードルやミウーソフが馬車から降りて、僧院に向かう途中、乞食の手に小金を握らせる場面です。

     全編をYouTubeで視聴する(自作プレイリスト)

    雰囲気的には、アイキャッチ画像の「1968年版映画」の方が、当時に近いですね。

    僧院と『薔薇の谷間』 ~ゾシマ長老は女好き?

    一考は、道すがら、トゥーラ県の地主マクシーモフに出会います。

    地主のマクシーモフは、年のころ六十歳ばかりだが、歩くというよりは、一行のわきを小走りに駆けるようにしながら、うずうずする好奇心をそれこそむきだしにせんばかりにして、一行をじろじろと眺めまわしていた。その目つきには、どことなく、厚顔なところがあった。

    真面目なマクシーモフは、フョードルが僧院でも愚かな振舞をするのではないかと気が気でありません。案内に来た修道僧の前で、やんわり釘を刺しますが、フョードルはお構いなしに僧院を愚弄します。

    「さて、庵室だ、ようやく着きましたな!」とフョードルが叫んだ。「囲いをめぐらして、門も閉めてある」

    そう言うと、彼は門の上部や横手に描かれている聖者の像に向かって、大げさに十字を切りはじめた。

    「よその僧院に自分の掟(おきて)を持ち込むな郷に入っては郷に従えと言いますがね」と彼は一言した。「この庵室には二十五人からの聖人さまが、おたがいにらめっこしながら、キャベツ汁をすすって、行いすましてござらっしゃる。そのうえ、この門から内へは、女人は一人も入れないんだそうで、こりゃもうたいしたことですわ。それがまた実際にそうなんですからな。ただ、噂に聞いたところでは、長老さまはご婦人ともお会いなさるとか?」フョードルが突然、修道僧に問いかけた。

    「平民の女性はいまでも見えておりますよ、それ、あそこの回廊のそばで待っております。上流の貴婦人方のためには、やはりこの回廊に、と言いましても囲いの外になりますが、小部屋が二つ建てつけてありまして、ほれ、あれがその窓でございます。長老さまも、お元気なときは、内側の道路を通ってお出ましになりますので、つまり、やはりその囲いの外へ出られますわけで、現にいまも、ハリコフの地主でホフラコワさまといわれる奥さまが、病弱のお嬢さまとごいっしょに待っておられます。たぶん、お出ましの約束があったのでございましょう。このところめっきり衰弱されて、一般の人たちのところへもめったにお出ましがないのですが」

    「すると、なんですな、やはり庵室からはご婦人方のところへ抜道が通じておるわけですか。いえ、神父さま、べつに変な意味で申しておるんじゃなくって、ただ言ってみただけのことですがね。ただ、アトスでは、ご存知かどうか、女人禁制どころか、女と名のつくものは、牝鶏だろうと、七面鳥だろうと、仔牛だろうと、めすはいっさいご法度と聞きましたのでね……」

    「フョードルさん、ぼくはあなた一人をここへ残して、帰ってしまいますよ。ぼくがいなければ、あなたなんかさっさとつまみ出されてしまうところだ。いまから予言しておきますがね」

    「あなたの邪魔だてをしているつもりはありませんがね、ミウーソフさん、おや、ごらんなさいな」

    囲い内に一歩足を踏み入れるなり、フョードルがすっとん狂な声を出した。

    これはこれは、なんてすばらしい薔薇(ばら)の谷間にお暮らしなんだろう!

    『薔薇の谷間』について、江川卓氏は『謎とき カラマーゾフの兄弟』の『薔薇と騎士』の章で、次のように解説しています。

    ドストエフスキーがたいへんなカトリック嫌いであったことは、よく知られている。ローマ・カトリックについての彼の次のような言明を引いておくだけでも十分だろう。

    『ローマ・カトリックは、地上の支配のために早くからキリストを売り、人類をして自分にそむかせ、このようにしてヨーロッパの唯物論と無神論の最も主要な原因となったのだが、このカトリックこそ当然のことながらヨーロッパに社会主義をも生み出したのである』(「作家の日記」 1877年11月)

    これと似たような言明は、『作家の日記』の各所で繰り返されているし、この『カラマーゾフの兄弟』でも、「大審問官」伝記は明らかにローマ・カトリックを念頭に置いて書かれている。

    ところが奇妙なことに、どう見てもドストエフスキーの宗教的理想を託した人物像と目されるゾシマ長老の描き方に、ことさら彼をカトリックと関係づけようとする節が見られるのである。このことは第二編「場ちがいな会合」で、フョードルが僧院ゾシマ長老の庵室に入ろうとする瞬間から、早くも暗示される。庵室の囲い内に一歩足を踏み入れた瞬間、フョードルがすっとんきょうな声を出すのだ。

    「これはこれは、なんてすばらしい薔薇の谷間にお暮らしなんだろう! 」

    語り手(作者)はすぐに注釈を入れて、「事実、薔薇の花こそいまはなかったけれど、ここにはかずかずのめずらしくも美しい秋の花々が、ところ狭しとばかり咲き乱れていた」と述べている。

    つまり、実際には薔薇の花はなかったのであり、フョードルの叫びは何か別の意味合いをもっていたのだろう、と断ぜざるをえない。 

    ≪中略≫

    『ファウスト』(ゲーテ)では明らかに薔薇の花に魔除けの機能が託されている。フョードルはひょっとしてそのことを踏まえて、ゾシマ長老のもとに女人の出入りが許され、いわば、「悪魔の誘惑」にゾシマ長老がさらされているらしいのを(『すると、なんですな、やはり庵室からはご婦人方のところへ抜け道が通じておるわけですか』)、薔薇の花の霊験で撃退できるとでも考えたのだろうか。

    ≪中略≫

    「地獄とはなんぞや?」と設問して、そこではゾシマ長老が「それはもはや愛することができないという苦悩である」と応え、さらに地獄に落ちた人間に「いま私は、地上にいたときあんなにも軽んじていた愛の炎に身を焼かれている」と語らせている。

    『ファウスト』と『カラマーゾフの兄弟』の間には、一見そう見えるものより、はるかに密接な関係があるようであり、そのことにはここでも、もう一度立ち返らなければならない」 (94P)

    フョードルの言う『薔薇の花』が何を意味するのか、作中では、はっきり言及されていません。

    「魔除け」の意味もあれば、「美しい夫人たちに囲まれて」という揶揄かもしれないし、どうとでも取れる文章です。

    江川氏いわく、前述のマクシーモフの台詞、「Un chevalier parfait ! (申し分ない騎士でいらっしゃいますなあ!)というのは、ゾシマ長老のことを指し、薔薇は聖母マリアのシンボル、すなわち、カトリックのシンボルであることを、暗に匂わせていると結論付けています。

    私も原文を知らないので、何ともコメントのしようがないのですが、「薔薇の谷間」と言えば、どこか女性器を思わせる響きがあり、ゾシマ長老も好色との印象が強いです。

    実際、フョードルとイワンとアリョーシャが神と不死の存在について論議する有名な場面『第Ⅱ篇 第8章 コニャックをやりながら』において、フョードルは「あの男は好色爺なんだ。それもたいした好き者で、もしわしの娘でも、女房でもいいが、あの男のところへ懺悔に行ったとしたら、いまだって心配でならんだろうよ」と明言しています。

    ゾシマ長老は女性信者にも大変人気がありますが、そうしたことへの当てこすりもあるのかもしれません。

    ともあれ、『薔薇の谷間』という表現が、決して褒め言葉でないのは誰の目にも明らかだし、道化のように見えて、実は誰よりも洞察力に長けて、頭もいい。

    『カラマーゾフの兄弟』といえば、それぞれが個性的というイメージがありますが、そのルーツはフョードルに他ならず、ドミートリイも、イワンも、アリョーシャも、父フョードルの長所と短所を同じように受け継ぎ、完全に別個の生き物というわけではありません。

    三人の息子たちは、これ以上ないほど濃厚な血族であり、フョードルの忠実な分身なのです。(当人らは、そうは認めたくないだろうが)

    江川卓による注解

    昼の礼拝式

    長老との会見は『昼の礼拝式のすぐあと、十一時半ごろに予定されていた』について。

    ロシア正教会では朝の日の出のときから数えて三時間ごとに四度、正式の礼拝、祈祷が行われるが、このうち二度目、三度目をオペードニャ(ミサ)と呼び、それぞれを「早いオペードニャ」「遅いオペードニャ」と区別する。ふつう「早いオペードニャ」が九時前後、「遅いオペードニャ」が十二時前後に行われるしきたりで、ここで「昼の礼拝式」と訳したのは、「遅いオペードニャ」を差す。
    誰かにこっそり教えたい 👂
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