カラマーゾフ家の悪魔 スメルジャコフ
章の概要
長男ドミートリイから、3000ルーブリの使い込みと、カチェリーナ、グルーシェンカの三角関係など、一連の経緯を聞かされたアリョーシャは、父フョードルの助けを得るために、カラマーゾフ家に向かいます。
カラマーゾフ家のダイニングでは、フョードルとイワンが酒を片手にくつろぎ、忠僕グリゴーリイ、義理の息子スメルジャコフが後ろに控えています。
「召使い」といえば、みずぼらしいイメージがありますが、貴族に仕える下僕は身なりもきちんとして、高級レストランのギャルソンみたいです。スメルジャコフも、決して卑しい出で立ちではありません。
しかし、スメルジャコフには、寛容な義父グリゴーリイさえ慄然とさせるような一面がありました。
冷笑、冷淡、冷酷、冷眼。
『悪魔』を反キリストとするなら、スメルジャコフこそ、カラマーゾフ家に入り込んだ悪魔です。
第Ⅲ編 第六章「スメルジャコフ」では、フョードル殺しの鍵となるスメルジャコフの屈折した人柄が描かれています。

動画で確認
映画『カラマーゾフの兄弟』(1968年)より。(1分動画)
カラマーゾフ家のダイニングで、フョードル、イワン、忠僕グリゴーリイ、スメルジャコフが語り合っています。スメルジャコフの屁理屈は、イワンに聞かせるためのもの。スメルジャコフはイワンに心酔し、自分も兄弟のように振り向いて欲しいと願っています。その屈折した感情が一家の破滅とフョードル殺しに向かわせます。
スメルジャコフの生い立ちは、1968年映画版では省略されていますが、TVドラマ(2007年)では詳しく描写されています。
カラマーゾフ三兄弟が仲好く遊ぶ傍らで、葬式ごっこに耽るスメルジャコフ。信心深いグリゴーリイはまっとうな人間に育てようとしますが、スメルジャコフは屁理屈ばかり並べて、神を嘲弄します。かっとなったグリゴーリイはスメルジャコフを殴り飛ばし、この頃から、てんかん発作が現われるようになります。
ちなみに当時のロシアの貧しい家庭では、むち打ちなどが普通に行われていた様子が随所に描かれています。
配役や美術は映画版の方が原作に近いですね。TVドラマはずいぶんスマートで、あまり邪悪な人間には見えません。
https://youtu.be/-YcFzj5MyMo?t=717
無口で陰気なスメルジャコフ
ドミートリイの金銭問題を解決する目的もあり、アリョーシャがフョードルの邸宅を訪れると、フョードルは歓喜して息子を抱きしめ、飲食でもてなします。
ダイニングには、すでにテーブルについて、コーヒーをすするイワンの姿があり、彼らのやりとりを黙って見ています。
画像は、映画『カラマーゾフの兄弟(1967年)』より。詳しくは記事下方の出典を参照
フョードルの側には、頑固で信心深い忠僕グリゴーリイと、調理の得意な青年スメルジャコフが仕えています。
フョードルに「パラムの驢馬」と揶揄されるスメルジャコフは、痴れ者の女性『いやな臭いのリザヴェータ』から生まれた、父なし子です。巷では、フォードルが父親と噂されていますが、確かなことは分かりません。しかし、リザヴェータがカラマーゾフ家の裏庭から忍び込み、風呂場で男の子を産み落としたことから、グリゴーリイとマルファ夫妻が憐れんで引き取り、フョードルも間接的に援助しています。
そんなスメルジャコフの人柄を、作者は次のように表現します。
やっと二十三、四歳の青年だったが、彼は恐ろしく人づきが悪く、無口だった。それも内向的な性格で人見知りをするというのではなく、むしろ性格は傲慢で、人を見下すようなところがあった。ところで、話がこうなると、私としては、この男についてせめて一言なり触れずには先へ進むわけにいかなくなる。彼はグリゴーリイとマルファの手で育てられたのだったが、グリゴーリイの言いかたを借りると、『まったくの恩知らず』に育って、内向的で、隅のほうから世間を白い目でにらんでいるような少年になった。
幼いころから、猫を首吊り台にかけ、そうしておいてその葬式ごっこをするのが大好きだった。葬式のときには、祭服に見立てたシーツをひっかぶり、高炉代りに何やら猫の死体の上で振りまわしながら、歌をうたうのである。
恐ろしいですね。
日本でも、猟奇犯罪が起きる前には、その近くで犬猫殺しが発生すると言いますが、スメルジャコフも深い闇を抱えた人間なのでしょう。
恐ろしく感じたグリゴーリイは、「その現場をつかまえて、こっぴどく鞭で折檻(せっかん)した」が、スメルジャコフ少年は反省するどころか、「部屋の片隅に引っこんで、一週間ばかりはそこから白い目でにらんでいた」・・・怖いですね ^_^;
それでも、グリゴーリイはスメルジャコフに読み書きを教え、13歳になる頃には、聖書について教えようとしましたが、
「神さまは第一日目に世界を創られたけど、太陽や月や星は四日目に創られたんでしょう。それじゃ、第一日目には光はどこから射(さ)していたんです?」
などと屁理屈を言う始末。
グリゴーリイは呆気にとられ、スメルジャコフ少年を激しく鞭打ったりしますが、反省どころか、ますます心のねじくれた人間になり、生涯の持病となる「てんかん」発作を起こすようになります。
天地創造と「光はどこから射したのか?」
作中に登場する、「光はどこから射したのか」という問いかけは、旧約聖書『創世記』の記述に基づきます。
「光はどこから射したのか」という問いかけに関する江川氏の注釈は次の通りです。
今風に喩えたら、冷笑系ですね。少年の心に、正しい言葉は響きません。嘲弄と屁理屈があるのみです。
では、なぜ、スメルジャコフは反キリストであり、否定者であるのか。
キリスト教と聖書の原理原則、『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は初めに神と共にあった。 すべてのものは、これによってできた』(ヨハネによる福音書 1:1-18)に基づきます。
聖書は「神の言葉で書かれた書物」であり、人類は「聖書=言葉」を通して、神の教えを知ることができます。
聖書を否定することは、神の言葉を否定することであり、愚弄や冷笑も同罪です。
厳密には、スメルジャコフは「反キリスト」ではないかもしれませんが、聖書や神の教えに背を向けているという点で、背徳的と言えます。
フョードルの信頼とスメルジャコフ
それでも、スメルジャコフが15歳になると、書物に興味を持つようになります。
それに気付いたフョードルは、ゴーゴリの作品集とスマラグドフの『万国史』(注解参照)を読むよう薦めます(案外、優しい)。
しかし、少年がもう十五歳になってからだが、あるときフョードルは、少年が書棚のあたりをうろつきまわって、ガラス越しにほんの表題を読んでいるのを目にとめた。フョードルはかなりの蔵書を持っていて、その数は百冊ほどもあったが、だれひとり当のフョードルが書物を読んでいるところを見かけた者はなかった。彼はさっそくスメルジャコフに書棚の鍵を渡して言った。
「さあ、読むがいいぞ、庭をほっつきまわっているよりは、図書係にでもなったほうがよかろう。ゆっくり読むがいい。まずこれを読んでみろ」
そう言うとフョードルは『ジカーニカ近郊夜話』ゴーゴリの最初の作品集を少年に抜き出してやった。
少年は読むことは読んだが、不満な様子で、一度も笑おうとはせず、それどころか、読み終ったときには眉をひそめていた。
「どうだ? おかしくないか?」フョードルがたずねた。
スメルジャコフは黙っていた。
「返事をしたらどうだ、馬鹿者」
「嘘のことばかり書いてあります」スメルジャコフはにやにやしながら、つぶやいた。
「ふん、それなら勝手にするがいい。おまえもまったく下僕根性だな。待て、これがいい、スマラグドフの『万国史』だ、これはほんとうのことばかりだぞ、読んでみろ」
しかしスメルジャコフは、スマラグドフも十ページと読まなかった、退屈だったのである。こうして書棚はふたたび閉じられてしまった。
小説や歴史本に興味を示さないのは、スメルジャコフが作り話や懐古よりも、現実的な知識を欲しているからではないかと思います。
現代でも、小説や歴史本より、SNSに書かれた生々しい体験やリアルな意見を好むのも、その現われでしょう。切羽詰まった人間にとって、作り話や昔話(歴史本)は、何の説得力もなく、退屈なだけです、貴族みたいな知的遊戯は、時間的にも、経済的にも、余裕があればこそ。それより現実を処すためのノウハウの方が役に立つんですね。スメルジャコフが神の人アリョーシャより、きわめて現実的なイワンを好む所以です。
本作に登場する『ジカーニカ近郊夜話』をはじめ、代表作「外套」「狂人日記」「死せる魂」など、青空文庫で無料で読むことができます。
青空文庫 ニコライ・ゴーゴリの作品一覧を見る
病的な潔癖症
やがて、グリゴーリイとマルファは、スメルジャコフの病的なまでの潔癖症に気付きます。
きれい好きになった青年はけっして返事をしなかったが、パンでも、肉でも、どんな食べものでも、まったく同じことをする、――つまり、ひときれをフォークに刺して、光にすかしては、顕微鏡でものぞくようにしてためつすがめつし、しばらく思案してから、やっと覚悟をきめて、口の中へ送りこむといったふうなのである。
「いやはや、たいしたお坊ちゃまがあらわれたものさね」彼を眺めやっては、グリゴーリイがつぶやいた。
フョードルは、スメルジャコフにそういう新しい性癖が出てきたことを聞くと、さっそく彼を料理人に仕立てることにして、モスクワへ修業にやった。
数年間修業をして戻ってきた彼は、すっかり面がわりがしていた。なんだかふいにめっきり老けこんだ感じで、年齢にまったくそぐわないくらい皺(しわ)だらけになり、顔色は黄ばんで、去勢者(注解参照)に似た感じになっていた。性質は、モスクワへ発つ前とほとんど変りがなく、あいかわらず人づきが悪くて、相手がだれにせよ、人とつきあう必要などまったく感じていなかった。
≪中略≫
そのかわりモスクワから帰郷したときの身なりは立派なもので、きれいなフロックコートの下にさっぱりしたシャツを着こみ、服には一日に欠かさず二度、自分で入念にブラシをかけ、仔牛のなめし革のしゃれた長靴を英国製の特別なワックスで磨いて、鏡のようにぴかぴかにするのが大好きだった。
料理人としての腕はたしかなものだった。フョードルは彼に給料をきめてやり、その給料をスメルジャコフはほとんどそっくり、着るものや、ポマードや、香水などに使っていた。そのくせ女性に対しては、男性に対してと同様、軽蔑の念を抱いていたようで、勿体ぶった、ほとんど近寄りがたいような態度を持していた。
今でもこういうタイプは少なくないですね。元々の気質に、呪われた出生が重石となり、どんどん、いじけた、それでいて俗人を軽蔑するような、複雑かつ敏感なパーソナリティです。
それでも、一人の使用人として、きちんと給料を支払い、調理の勉強もさせてやるフョードルは、近年の外国人技能実習制度で、若い外国人労働者を使い捨てにしている雇用者より、100倍マシですね😅
*
映画のスメルジャコフと忠僕グリゴーリイ。原作通りのイメージです。
「去勢者」とは
ここでは、スメルジャコフを形容する言葉として、「去勢者」が使われていますが、これは男性器を外科的に取り除く事ではありません。キリスト教の一派として、異常なほど「清純」「清潔」にこだわる考え方がある、という話です。
「去勢者」について、江川卓氏は次のように解説します。
ドストエフスキーは自身が編集していた雑誌「エホーハ」の1865年1月号に去勢はの実施に関するカラトゥーゾフの興味深いエッセイを掲載しているが、そこでも去勢者たちの顔は「熱病でもわずらったような、痩せて黄色っぽい顔」と形容されている。
このエッセイはスメルジャコフの性格を理解するうえにきわめて示唆に富んだ事実を数多く含んでいる。たとえば、去勢派使徒は「非信徒の肉欲にまみれた手で調理された食物を「不潔な、汚れたもの」として口にしなかったと述べられているが、ここに語られているスメルジャコフの「潔癖性」はそのことを連想させずにおかない。
157ページ上段にスメルジャコフの得意の料理が「魚肉まんじゅう」と「魚汁(ウハー)」だと述べられていることも、「非信徒が「肉類は肉欲を刺戟するゆえに有害」だとして、もっぱら魚類を食していたことに相応する。160ページ下段で、「嫁をもらったら」というフョードルのすすめに、スメルジャコフが奇妙な反応をすることも注目される。
何を考えているのか分からない男
無口で、陰気なスメルジャコフですが、妙に正直なところがありました。ある時、フョードルが酔ったまぎれに、自分の家の庭のぬかるみに、手に入ったばかりの虹色の百ルーブリ紙幣を3枚落として、慌てていると、スメルジャコフが拾って、全額、届けてくれたのです。
「いや、まったく、おまえのような男は見たことがないわい」――そのときフョードルはこう断言して、彼に十ルーブリくれてやった。
優しいですね (^_^)
それから、フョードルは、ますます注意深くスメルジャコフを観察するようになります。
フョードルは彼の正直さを信じていただけでなく、この青年が自分のことも、他の人たちに対すると同様、白い目で見ていて、いつも黙りこくっていたにもかかわらず、どういうわけかこの青年を好いてさえいたらしい。口をきくなど、めったにないことだった。
これが事件の伏線になっていて、スメルジャコフにだけは「グルーシェンカの逢い引きの合図」「首からさげた3000ルーブリ」の秘密を知ることになります。
(参考 【17】ドミートリイの告白 ~3000ルーブリをめぐる男女の愛憎と金銭問題 カチェリーナとグルーシェンカ
思うに、フョードルの信頼は本物だったでしょう。
でも、スメルジャコフは、決して本心を明かさなかった。
この男の様子を目にして、いったいこの青年は何に関心をもっているのか、彼の頭にいちばんよく浮かぶ考えは何なのか、とだれか自問してみる気を起したとしても、その顔を見ただけでは、まったくのところ、どうとも決めかねたであろう。ところで、彼はどうかすると家のなかでも、でないまでも、庭先や往来で、ふいと立ちどまってもの思いに沈み、かれこれ十分間もいっとたたずんだままでいることがあった。
観相家なら、そういう彼の様子を見やって、この男の脳裏にはなんの思念も思考もあるわけでなく、あるのはただ一種の観照だけだということだろう。
画家のクラムスコイ(1837~87、ロシアの写実派の画家)に、『観照する人(注解参照)』という第のすばらしい絵がある。冬の森を描いた作品で、森を抜ける道に、人里はなれた森の奥にまよいこんだ百姓が、やぶけた長衣(カフタン)に木皮の靴といったなりで、たったひとりぽつねんと突っ立ち、何か思いにふけっている様子なのだが、その実、何を考えているわけでもなく、ただ何かを《観照》しているのである。
もしだれかが彼の肩をぽんと叩(たた)いたとしたら、彼はぴくりと身ぶるいして、目はさめたが、まだ何もわからぬといった様子で、きょとんと相手の顔を見つめるに相違ない。なるほど、すぐに我に帰りはするだろうが、何を考えて突っ立っていたのかと問われても、おそらく何ひとつ思い出すことができないだろう。しかし、そのかわり、この観照の状態にあった間に自分が受けた印象は、たしかに心の底に深くたたみこまれるのである。しかも、この印象は彼にとって貴重なものであり、彼はおそらくそういう印象を、いつとはなく、無意識のうちにさえ、蓄積していくのである、
――それがなんのためであり、なぜそうするのかも、むろん、彼は知らない。おそらく、何年もの間にそういう印象を積み重ねた末に、ふいといっさいを投げ捨てて、魂の救いを求めてエルサレムへ放浪の旅に出ていくかもしれないし、また、ひょっとすると、故郷の村をだしぬけに焼き払ったりするかもしれない、いや、ことによると、その両方をいっしょにやってのけるかもしれないのだ。民衆の間にはこういう観照家がかなりいるものだ。
そしてスメルジャコフもまた、おそらくそういう観照家の一人で、自分ではまだなんのためともよくわからず、やはりそうした印象をむさぼるように蓄積していた最中だったのだろう。
『観照』によく似た言葉に『沈潜』があります。
(参考→ 海のように深く静かに沈潜する ~内省こそ人生の処方箋)
沈潜も「物事に深く没頭すること」を意味しますが、そこには自分自身、あるいは、研究、人生の問題、など、向き合う対象があり、漠然と何かを探し当てようとする「観照」とは異なります。
ちなみに、『大辞林 4.0』では、主観を交えず,対象のあるがままの姿を眺めること。冷静な心で対象に向かい,その本質をとらえること。「人生を―する」と解説されています。
スメルジャコフの黙考は、「観照」であって、「沈潜」ではありません。喩えるなら、霧の中にぼーっと突っ立っている、でも、頭空っぽで立ち尽くしているのではなく、頭の奥では忙しないほど思考が働いて、何かを掴まんと藻掻き苦しんでいる、そういうイメージです。
スメルジャコフでなくても、10代後半から20代の青年には、こういう状態がよくあります。
それが何か、よく分からないのだけども、「何か」が必要で、必死に追い求めている――その間、一人旅に出かけたり、友だちと喋りまくったり、図書館で本を読み漁るタイプもいます。知性が高く、野心的な若者ほど、そういう傾向にあるのではないでしょうか。何も考えない若者は、そこで満足してしまいますけども。
ただ、スメルジャコフの観照には、一種不気味なところがあり、「故郷の村をだしぬけに焼き払ったりするかもしれない」、シニカルで、虚無的な一面を伴っています。
こうした不気味さを感知しながらも、それ以上、深く追及することなく、また警戒もしなかったあたりに、フョードルの人の好さ、脇の甘さが表れています。
スメルジャコフの屁理屈と無神論
キリスト教徒を止めれば、罪も罰も無い
しかし、無口な青年スメルジャコフも、『パラムの驢馬(注解参照)』のように突然口を利き始めます。
話の発端は、ルキャーノフの店に商品を取りに行った忠僕グリゴーリイが、そこの主人から聞いた「ロシア兵士の偉業(注解参照)」です。
なんでもその兵士は、どこやら遠い辺境地方でアジア人の捕虜になり、キリスト教を捨てて回教に改宗しなければ、即座にむごたらしい死刑に処するぞとおどされたのだが、どうしても改宗を肯(がえ)んぜずに受難の道をえらび、生皮をはがれながらも、キリストの栄光をたたえながら死んでいったという
それに対する、フョードルの回答は、そういう兵士はすぐにも聖徒の列に加えて、はがれた生皮はどこかの僧院に奉納すべきだ、「さぞかしたいへんな人出になって、お賽銭がごっそり入るだろう」と与太をとばした。」
ところが、スメルジャコフは、突然、大声で意味深なことを話し始めます。
「なるほどその感心な兵隊のしたことはたいへん立派な偉業にはちがいございませんが、私の考えますところでは、そういう不測の際には、たとえばキリストの御名と自分の洗礼を否定しましたところで、ひとつも罪にはなるまいと存じます。そうすれば命をながらえて、いろいろと善行も積めますわけで、長年のうちにはその善行で異聞の臆病な行為(注解参照)のつぐないもできるのではございませんか」
隠れキリシタンの踏み絵に喩えたら分かりやすいですね。
死にたくなければ、イエスの聖像(イコン)を踏めと迫られる。
真面目な信者は、「それはできませぬ」と拒否して、火刑に処せられます。
が、よくよく考えれば、聖像(イコン)を踏んだところで、棄教したことにはなりません。要は心の問題ですから、聖像を踏もうと、叩こうと、その後も信仰に励めばいいのです。むしろ、その場は生き延びて、残りの余生、いっそう信仰に励んだ方が神の心に適うのではないか――とスメルジャコフは言いたいわけです。
ちなみに、これを題材とした小説に遠藤周作の『沈黙』があります。マーティン・スコセッシ監督で映画化もされて、日本でも大変話題になりました。『沈黙』では、気の弱いキチジローが命惜しさに聖像を踏んで生きながらえます。他の信者から見れば裏切りですが、キチジローの信仰心は少しも揺らいでいません。
ゆえに、このロシア兵も、その場で適当にやり過ごして、生きながらえ、その後も信仰に励めばいいのです。その方が、償いにもなる、というのがスメルジャコフの考えです。
すると、フョードルは、「em>それがどうして罪にならん? そんな出まかせを言うと、まっすぐ地獄へ落ちて、羊肉みたいにあぶられちまうぞ」と反応し、忠僕グリゴーリイも怒りを露わにしますが、スメルジャコフの考えは変わりません。
「羊肉云々はまちがっておりますよ。だいいちそういうことのために地獄で罪を受けるわけがありませんし、そうあってはならないはずでございます。公正に申しますなら。
≪中略≫
それよりとくとご自分でお考えくださいな、たとえば、私がキリスト教徒の迫害者の手に落ちて、神の御名を呪い、神聖な洗礼を否定するよう迫られるとします、そういう場合でも私は自分の判断に従って行動する完全な権利をもっているはずです、そうすることになんの罪もない道理ですから。
≪中略≫
だって私が迫害者たちに向かって、『いえ、私はキリスト教徒ではありません、私は自分のほんとうの神さまを呪います』などと言おうものなら、そのとたんに私は至高の神のお裁きによって呪われた中でも呪われた破門者ということにされ、異教徒として神聖な教会から追放されてしまう道理じゃございませんか、ほんとうにもう、そう口にした瞬間ですよ、――いえ、口にした瞬間どころか、口にしようと思った瞬間にそうなりますので、私が追放されるには、一秒の四分の一もかからないことになるわけですよ、そうじゃありませんか、グリゴーリイさん?」
つまり、「私はキリスト教徒ではありません」と言えば、『破門者』として、イエス・キリストとも神様とも縁が切れ、罪にも罰にもなりません、という考え方です。
例えば、マフィアの一員であれば、組織に従属する限り、組織の掟に縛られます。しかし、組織を脱退して、普通の社会人になれば、もはやその掟は存在しないも同然です。
人が「罪」や「罰」に縛られるのは、キリスト教の一員であるからで、それを自分から放棄すれば、地獄も、呪いも、何の関係もないというわけですね。
ちなみに、スメルジャコフの発言は、同席するイワンに聞かせるためです。無神論者で知られるイワンの気を引いて、対等に話したいと考えているからです。
「あれはお前に聞かせているんだぞ」とフョードル。イワンの冷ややかな眼差がいいですね。
スメルジャコフの恐れ知らずの発言に、グリゴーリイは呆気にとられますが、フョードルは大笑いしながら、次のようにツッコミを入れます。
なるほど迫害者に対しちゃおまえは正しいかもしらん、だが、自分の心のなかではやはりおまえは自分の信仰を否定したわけだし、現にたちまち破門されると自分でも言っているわけだ、じゃ、おまえが破門者だとしたら、地獄に行ってから、よく破門されてきたと頭を撫でてもらえるわけもあるまい。その点はどう考えるんだ、すばらしいイエズス会徒(注解参照)?
凶悪な迫害者に対し、その場で棄教の「振り」をしたとて、罪も罰も恐れない――といことは、信仰の否定に他なりません。なぜなら、罪と罰、しいては(宗教的な)善悪の観念があってこその「信仰」だからです。
そうしたフョードルの鋭い質問に対し、スメルジャコフはフョードルとグリゴーリイの両人に対し、次のように返答します。
聖書にもちゃんと言われているじゃありませんか(注解参照)、もし人がほんのけし粒ほどの信仰でも持っているならば、この山に向かって、海に移れ、と言えば、山は、その最初の一声とともに、一刻の猶予もなく海に移るだろうって。
どうです、グリゴーリイさん、私が不信心者で、あなたのほうは、のべつ私をどなりつけられるくらい信仰が篤いということなら、ひとつあの山に向かって、海までとは言いませんよ(なにしろ海まではここからじゃ遠すぎますから)、せめて、ほら、裏庭のすぐ向うを流れているあの臭いどぶ川にでもいい、移るように言ってみてはどうです、そうすれば、すぐにご自分で納得が行きますよ、何ひとつ動くどころか、何もかも元のまま、ぴくりともしやしませんや、いくらあなたが大声出してわめかれてもですよ。
ということはつまり、グリゴーリイさん、あなたもちゃんとした信仰は持っちゃおられなくって、ただ他人をやたらとどなりつけておられるだけってことなんですよ。
ところで、よくよく考えてみればいまの世の中には、なにもあなただけじゃなくって、上は最高のおえら方から下はそこらのどん百姓にいたるまで、山を海に吹きとばせるような人は、ぜったいにだれひとりいるわけがありませんや、
まあ、そんな人は世界じゅうにせいぜい一人、多くても二人ぐらいのものでしょうし、それもたぶん、どこかエジプトの砂漠あたりでひそかに行ないすましていらっしゃって、とても見つけ出せることじゃありませんや、――で、もしそういうことなら、ほかの者は残らず不信心者ということになりますがね、
ところで、よくよく考えてみればいまの世の中には、なにもあなただけじゃなくって、上は最高のおえら方から下はそこらのどん百姓にいたるまで、山を海に吹きとばせるような人は、ぜったいにだれひとりいるわけがありませんや、≪中略≫ で、もしそういうことなら、ほかの者は残らず不信心者ということになりますがね、
だとすると、あれほど慈悲深いことで知れわたっていらっしゃる神さまが、どこかの二人の隠者だけを別にして、あとの連中、つまり、世界じゅうの住民全員に呪いをかけたりなさるものでしょうか、だれひとりお赦しにならないものでしょうかね?
とういうわけですから私も、一度は疑いを起したところで、悔悟の涙を流しさえすれば赦していただけるものと、あてにしておりますのですよ」
聖書によると、「人がほんのけし粒ほどの信仰でも持っているならば、この山に向かって、海に移れ、と言えば、山は、その最初の一声とともに、一刻の猶予もなく海に移る」はずだが、現実に、山を動かせる人間などいません。どれほど篤い信仰心を持っていようと、現実はかくの如しです。
ゆえに、教えそのものが非現実的であり、そのようなものに、命を懸ける必要はない。だから、ロシア兵士も、その場で適当に合わせて、生き延びればよかったんだ、という話です。
理屈は分かりますが、スメルジャコフの論にも無理がありますね。
何故なら、聖書が語っている「山も動かす」というのは、「たとえ話」であって、現実的に山を移す話をしているわけではないからです。
たとえ話に根拠を求める方がおかしいでしょう。
でも、スメルジャコフは、その矛盾に気付いていません。
その点、イワンとアリョーシャの回答は次の通りです。
イワンとアリョーシャの意見
フョードルはスメルジャコフの迷回答に大ウケして、次のように反応しますが……
「待て!」フョードルが有頂天になって金切り声をあげた。「するとなんだな、山を動かせる人間がとにかく二人はいる、と考えるわけだな? イワン、しっかり覚えて、書きとめておけよ、まさしくこれこそロシア人じゃないか!(注解参照)」
イワンの反応は、みすみす命を捨てるような信仰心を揶揄するもの。
「まったくそのとおりですね、これはロシア人の信仰の特色ですよ」イワンが笑顔でうなずいた。
対して、アリョーシャは、スメルジャコフの回答をきっぱり否定します。
「いいえ、スメルジャコフのはまるでロシア的な信仰じゃありません」アリョーシャは真剣な調子できっぱりと言った。
その後に続く、フョードルとアリョーシャのやり取りですが、ここで言われる「ロシア的」というのは、作品冒頭の「ロシア的でたらめさ」に通じるのではないでしょうか。
(参考→ 【1】淫蕩父 フョードル・カラマーゾフ 指針を欠いたロシア的でたらめさ)
「おれはこいつの信仰のことを言ってるんじゃない、その特色のことだよ、その二人の隠者というところさ、そのちょっとした特色のことだけを言っているんだ。こいつはロシア的じゃないか、え、ロシア的だろうが?」
「ええ、その点はまったくロシア的ですね」アリョーシャはにこりとした。
「本物の信仰心があるなら、山も海に移る」という聖書の教えが本当なら、地上の全人類は、(どこかの二人の隠者を除いて) 、不信心だと呪われるはず。だが、現実には、神様はそこまで無慈悲ではないから、自分一人、不遜な態度を取ったところで、罪にはならないだろう、というのがスメルジャコフの考え方です。
が、そもそも、「山が海に移る」というのは、「祈りは、それぐらい奇跡的な力をもたらす」という喩え話なのですから、宗教論の前提からして間違っています。だから、アリョーシャも、「ロシア的な信仰じゃありません」ときっぱり否定するわけですね。
ちなみに、「山が海に移る」という喩え話は、日本でも、「お婆さんが熱心に祈ったら、長年悩まされてきた腰痛が治った」とか、「一心不乱に稽古に励んでいたら、突然、悟りが開け、剣の極意を体得した」みたいな話があるでしょう。実際に病巣部が治癒したのか、剣の技術が格段に向上したかは分かりませんが、本人にしてみたら、「山が海に移るような、奇跡的な出来事」に違いありません。
聖書が説くのは、人間の内側に訪れる、大いなる奇跡の話であり、実際に山を動かす、みたいな話ではないんですね。
天国や地獄より、今一瞬を生きる自分の命が大事
さらにフョードルは問いかけます。
馬鹿め、おれたちがこの世で信仰をもたないのは、ただ思慮が浅いからにすぎんのだぞ、なにしろいそがしいからな。
第一、仕事が多すぎる、
第二に、神さまが時間を充分にくださらなくて、一日をわずか二十四時間とおきめになった、だものだから、悔い改める時間はおろか、ぐっすり眠る時間もないほどだ。
ところがおまえが迫害者たちの前で信仰を否定したあのときはだな、考えることといえば信仰のことしかないようなときで、ほかでもない自分の信仰心を示さなければならないはずのときだったじゃないか?
してみると、これはやはり罪になると思うが、どうだ?」
フョードルいわく、日常においては、人は神も罪も意識しないし、そもそも信仰について考えることもありません。しかし、迫害のような、命にかかわるような状況においては、人間の信仰心がタメされます。そのギリギリの時に、信仰を否定するのは、やはり罪になるのではないか、という考え方です。
それに対するスメルジャコフの回答は次の通りです。
罪になるからこそ、その罪は軽くなるのですよ。
なぜって、もし私がそのときほんとうの、真に正しい信仰をもっていたのなら、自分の信仰のために受難の道を選ぼうともしないで、けがれたマホメットの信仰に鞍がえしたことが、たしかに罪になるかもしれません。けれど、そういうことでしたら、受難などというところまで行かずにすむわけじゃございませんか、
なぜって、その瞬間に山に向かって、さ、動いて、迫害者を押しつぶせ、と言いさえすれば、山はさっそく動きだして、ごきぶりみたいに迫害者を押しつぶしてくれるでしょうし、私のほうはそれこそ何事もなかったような顔で、神さまをほめたたえながら、さっさと引きあげればいいわけですよ。
けれど、もし私がそのぎりぎりの瞬間に、ひとつそこのところをためしてみてやれというわけで、わざわざ山に向かって、迫害者どもを押しつぶせ、と大声でどなってみたのに、山が押しつぶしてくれなかったら、どうでしょう、そのときには私の心に疑いがきざさないものでしょうか、しかも死を目前にしたそんな恐ろしい質問にですよ?
それでなくても私は、天国には完全には行きつけそうもないとわかっているのに(なぜって私のひと言で山は動かなかったんですから、天国でだって、私の信仰をあまり信用していちゃくれないわけですし、天国ではそうたいしたご褒美にあずかれそうもありませんからね)、
だとしたら、そのうえいったいなんのために、なんの得にもならないのに、むざむざと自分の生皮をはがれなくちゃならないのです?
私の背中の皮がもう半分ほどはがされかかっているというのに、そうなってもまだ、私のひと言どころか、大声でわめいても、山は動いちゃくれないでしょうよ、
そういうときになっったら、疑いがきざすどころじゃない、恐怖のために分別も何もなくしてしまって、ものを判断することがまるでできなくなる道理ですよ。
ときまれば、どうせこの世でもあの世でも、自分の得になることはないし、ご褒美もいただけないと見当をつけて、せめても自分の生皮ぐらい大事にしようと思ったところで、どうしてそれが特別の罪になりましょう?
ですから私は、神さまのご慈悲を大いに当てにして、何もかもすっかり赦していただけることもあるのじゃないかと、希望をつないでおりますのですよ……
生きるか死ぬかみたいな、ぎりぎりの場面で、信仰を貫いたとて、山が動いて、迫害者を踏み潰すわけでもなければ、確実に天国に行けるわけでもありません。
「どうせこの世でもあの世でも、自分の得になることはないし、ご褒美もいただけないと見当をつけて、せめても自分の生皮ぐらい大事にしようと思ったところで、どうしてそれが特別の罪になりましょう」というのも頷ける話で、自分の命と、現実には有りもしない神様の恵みをディール(取引)するほど、脳天気にもなれません。だったら、命大事に、棄教の振りをする方が利口ですね。また、そのような態度を取ったとしても、慈悲深い神様は、そうした人間の弱さをお赦しになるだろう……という話です。
屁理屈といえば、屁理屈ですが、現実に即して考えれば、現代人には納得のいく話です。
本当にあるかどうかも分からない天国や地獄より、今、この一瞬を生きる、自分の命が大事です。
【まとめ】 冷笑で人も世界も救えない
こうして、スメルジャコフの屁理屈は、イワンの「神がなければ、すべてが許される」につながっていきます。
スメルジャコフは、この時、すでにイワンを強く意識しており、彼こそ自分の理解者であり、共に世の中を変える同志と憧れています。
しかし、イワンの無神論は、スメルジャコフとは全く違っており、イワンの場合、「あまりにも悲惨、かつ不条理な現実に耐えられなくて、天国への切符を慎んでお返しする」ですから、はなから神や罪を小ばかにしているスメルジャコフとは異なります。むしろ、薄っぺらい屁理屈で、イエス・キリストや聖書を嬲るスメルジャコフの態度には嫌悪感をもよおすのではないでしょうか。
信仰を突き抜けた末の無神論と、冷笑系は、似て非なるものです。
なぜなら、イワンの無神論の根底には、人類に対する計り知れない愛がありますが、スメルジャコフの冷笑は、ただの「イジリ」に過ぎないからです。
イワンは、もしかしたら、アリョーシャやカチェリーナの愛によって、再び信仰を取り戻すかもしれません。
しかし、はなから否定し、反抗するだけのスメルジャコフに救いはありません。
なぜなら幸福の根拠となる「愛」がないからです。
この後、スメルジャコフは、イワンに「グルーシェンカの逢い引きの合図」と「首からさげた3000ルーブリ」のことを口にして、イワンの心を激しく揺さぶります。スメルジャコフには、イワンの無神論が一種の迷いであり、心の底では愛の救いを欲していることが感じられるからです。
(参考→ 【12】 神がなければ全てが許される? イワンの苦悩もいつか解決される / ゾシマ長老の励まし)
イワンに匹敵するほどの知性をもちながら(少なくとも本人はそう思っている)、イワンに「対等な仲間」とみなしてもらえないスメルジャコフは、イワンに逢い引きの合図と3000ルーブリの秘密を教えて、イワンの心を試します。イワンにしてみたら、ドミートリイとフョードルが互いに殴り合い、破滅してくれた方が都合がいいわけですから、無関心を装って、カラマーゾフ家から遠ざかった方がいいですね。その場に居合わせたら、きっと二人の間に割り行って、悲劇を止めようとするから。
しかし、イワンはスメルジャコフの挑発に乗るようにして、モスクワに旅立ってしまいます。
「悪魔」というなら、スメルジャコフこそ、悪魔です。
日本で悪魔と言えば、「邪悪な霊」「性根の腐った悪人」を連想しますが、【悪魔(Devil)】の意味するところは、「誘惑」と「堕落」です。
日本ではタロットカードの絵柄がよく知られていますが、男女の首に鎖がかけられ、悪魔の足元に繋がれています。彼らは欲望の虜となり、堕落した人々です。
「邪悪な霊」は、嵐を引き起こして、禍をもたらしますが、「悪魔」は、欲深い人間の目の前に「情報商材」を置いて、「これを読めば億万長者になれるよ」と囁きます。罠に陥るのは本人であって、悪魔が直接、手を下すわけではありません。たとえ同じものが目の前にあっても、心正しい人や、真偽を見抜ける人は、そんなものに手を出さないからです。
スメルジャコフも、イワンやドミートリイに直接手を下すわけではないですが、イワンのプライドをくすぐって、わざと彼を留守にし、ドミートリイに対しては、止めるどころか、彼の犯行に見せかけます。
本作では、しばしばイワンの幻影として悪魔が現われますが、その影はスメルジャコフです。
賢いイワンが、まんまと罠に嵌まったのも、スメルジャコフこそ、何の良心も持ちあわせない、邪な心の持ち主だからかもしれません。
『パラムの驢馬(ろば)』とは
フョードルはスメルジャコフを「パラムの驢馬(ろば)」に喩えます。
パラムの驢馬とは、江川卓氏の解説によると、
なおスメルジャコフは159ページ下段の注に見るように去勢派と関連づけられているが、両派の教祖コンドラーチイ・セリワーノフ(―1832)は、はじめ「聖母」アクリーナにひきいられるオリョール県の「船」(信徒の共同体)に加わったとき、はじめは唖(おし)をよそおって、いつも末席に控え、目立たない存在だったという。
スメルジャコフと同じく、セリワーノフも突然に予言を口にしはじめ、「キリスト」と認められるようになったという。
「寡黙な人が突然口をききはじめる」とありますが、ここでは、イワンを相手に、スメルジャコフが得意満面に自説を披露した――という印象ですね。
ちなみに、イワンは、ドミートリイの騒動があって、初めてカラマーゾフ家と父親を訪ねたわけですから、スメルジャコフとは一切面識はありません。
ウミヘビがじっと巣穴で餌を待つように、イワンの帰郷を待っていたのでしょう。
悪魔というのは、狙った相手を陥れるまで、何年でも辛抱強く待てるものです。
魚汁(ウハー)と魚肉まんじゅう
本作には、しばしば魚汁(ウハー)と魚肉まんじゅうが登場しますが、魚汁は「スープ」、魚肉まんじゅうは「魚肉入りピロシキ」ですね。
魚汁は、ポーランドでは「Ucha(ウハー)」といい、グダンスクやグディニャなど、バルト海沿岸のバーやレストランに行くと、「本日のおすすめ」で美味しい魚スープを食べることができます。
Autorstwa Kagor at the Ukrainian language Wikipedia, CC BY-SA 3.0, Link
魚肉入りピロシキ(Pirozhki)は、日本でもお馴染みの、揚げギョーザみたいなものです。スラブ系のピロシキは、小麦粉の皮が厚くて、オーブンで焼いたり、油で揚げたりします。
ポーランドでは、キノコ入りや酢キャベツ入りが人気ですが、魚肉も美味しいと思います。
By Evilmonkey0013 at English Wikipedia, CC BY 3.0, Link
肉類については、日本の仏教でも、肉食を禁じている宗派がありますから、ロシア正教においても、肉食=不浄とする考え方があるんでしょうね。あえて言うなら、牛肉や豚肉が美味しくなったのは、近代農業が発達したおかげで、昔の家畜は、牧草や穀類で育ってるから、現代ほど美味しくなかったと思います。肉は革靴みたいに固くて、臭い。その点、魚は、塩焼きでも美味しく食べられるから、食通に言わせれば、魚類の方が美味だったのではないでしょうか。
帝政ロシアの宮廷料理とその構造(PDF) 吉田浩 (岡山大学大学院 准教授)