江川卓『カラマーゾフの兄弟』は滋賀県立図書館にあります詳細を見る

    【18】 スメルジャコフと悪魔 ~ 無神論と反キリストの違い

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    江川卓による注解

    風呂場のじめじめからわいて出た

    グリゴーリイが、スメルジャコフの陰湿な性格を「お前は人間じゃないぞ、風呂場のじめじめからわいて出たんだ」と揶揄する。

    シベリアの囚人たちの間で、素姓のはっきりしない人間を罵るときに使われた言葉で、ドストエフスキーは一八七六‐七七年のノートで、グリボエードフの喜劇『知識の悲しみ』の主人公チャーツキイについて、「もし彼が徒刑に送られたら、彼に対して」この言葉が浴びせられただろう、と書いている。

    スマラグドフの『万国史』

    アレクサンドル学習院(リツエイ)の教師スマラグドフが一八四五年に著した『初等学校用万国史要説』を指す。この本は第十編『少年たち』でもまた登場する。

    去勢者

    フョードルがスメルジャコフを料理人に仕立てるために、モスクワへ修業にやるが、数年後に戻って来た時には、めっきり老けこんで、去勢者みたいな容貌になっていた。

    スメルジャコフを「去勢者」になぞらえた個所は、ここのほかに、342ページ下段、下巻299ページにも出てきて、顔がやせこけ、黄ばんでいるという描写と結びつけられている。
    ドストエフスキーは自身が編集していた雑誌「エホーハ」の一八六五年一月号に去勢はの実施に関するカラトゥーゾフの興味深いエッセイを掲載しているが、そこでも去勢者たちの顔は「熱病でもわずらったような、痩(や)せて黄色っぽい顔」と形容されている。このエッセイはスメルジャコフの性格を理解するうえにきわめて示唆に富んだ事実を数多く含んでいる。
    たとえば、去勢派使徒は「非信徒の肉欲にまみれた手で調理された食物を「不潔な、汚れたもの」として口にしなかったと述べられているが、ここに語られているスメルジャコフの「潔癖性」はそのことを連想させずにおかない。一五七ページ上段にスメルジャコフの得意の料理が「魚肉まんじゅう」と「魚汁(ウハー)」だと述べられていることも、「非信徒が「肉類は肉欲を刺戟するゆえに有害」だとして、もっぱら魚類を食していたことに相応する。160ページ下段で、「嫁をもらったら」というフョードルのすすめに、スメルジャコフが奇妙な反応をすることも注目される。

    観照する人

    ロシア語の原語は「ソセルファーチェリ」だが、この言葉はロシア分離派の中でも「鞭身派」や「去勢派」などの宗派を指すのにも用いられた。このことからもスメルジャコフを去勢派と関係づけようとする作者の意図が読みとられる。

    争論

    「争論」は、第七章の表題。ロシア兵士の犠牲に関するスメルジャコフとグリゴーリイの応酬の場面。

    この表題はラテン語起原の「コントロヴェルザ」というロシア語が用いられており、スコラ哲学的な形式主義的論議を意味すると考えられる。グリゴーリイを鞭身派の代表、スメルジャコフを去勢派の代表と考えて、両派の教義論争をここに読みとることも可能である。

    ロシアの兵士

    「遠い辺境地方でアジア人の捕虜になり、キリスト教を捨てて回教に改宗しなければ、即座にむごたらしい死刑に処するぞとおどされたのだが、どうしても改宗を肯(がえ)んぜずに受難の道をえらび、生皮をはがれながらも、キリストの栄光をたたえながら死んでいった」というエピソードの情報源。

    1875年にタタール軍に捕らえられて処刑されたトゥルケスタン大隊の下士フォーマー・ダニーロフのことで、この人物については1877年1月の『作家の日記』でドストエフスキー自身が論じている。

    臆病な行為

    生皮をはがれて処刑されたロシアの兵士に対して、スメルジャコフは「自分の洗礼を否定して、改宗したところで、罪にはならない、むしろ命をながらえて、善行を積んだ方が、臆病な行為の償いになる」と説く。

    鞭身派によると、自己の肉体に打ち勝つには外科手術などに頼らず、もっぱら精神の力をもってすべきであり、自身の性器官ひとつ持ちこたえられないような去勢派は哀れな「臆病者」とされた。「死せる敵に打ち勝って何の勝利ぞや、そは神のわざならず、たんなる臆病のみ」とも言われた。スメルジャコフの「臆病さ」は、他の個所でも何度も強調されており(下巻141ページ上段のドミートリイの言葉)、またイワンとスメルジャコフの対決の場面でも重要な意味をもたされている。

    イエズス会の連中

    フョードルが、スメルジャコフの詭弁に対して、「こいつはきっとどこかでイエズス会の連中とつき合っていたんだぞ」と揶揄する。

    1534年にイグナチオ・ロヨラによって、カトリック教会のために創設された男子修道会。耶蘇(やそ)会、ジェスイット教団ともいう。軍隊的組織で不況活動を協力に進めた。日本への布教でも知られる。十八世紀に一度解散させられるが十九世紀はじめに再建。その教理は簡明だが、いくぶん詭弁的であり、とくに赦される罪、懺悔を要しない罪の範囲をいちじるしく拡大して、たとえば殺人者は、「私は自分が殺した人間の生命を、彼が生れる以前に抹(まっ)殺(さつ)することはしなかった」と弁明できることにした。
    『カラマーゾフの兄弟』のテーマと関連してとくに注目される教理として、法王インノセント十一世によって非難された次の教理がある。「息子は父親の死への願望を抽象的意図としてもつことを許される。もちろん、それは父親に悪をなすためではなく、遺産が得られるという自分にとっての善のためである」ドストエフスキーはイエズス会へのはげしい嫌悪感を抱いていたようで、そのことはこの作品でも随所に反映している。
    なお、イエズス会は十六世紀ごろからロシアでも布教をはじめ、十八世紀末には二百を越える教団組織があったが、1820年に禁圧された。

    聖書にもちゃんと言われている

    スメルジャコフの弁。「もし人がほんのけし粒ほどの信仰でも持っているならば、この山に向かって、海に移れ、と言えば、山は、その最初の一声とともに、一刻の猶予もなく海に移るだろう」と聖書に書かれているにもかかわらず、実際は、そんな奇跡は起きないことを揶揄して。

    新約マタイ福音書第十七章二十節の言葉を指すが、古代の聖者伝などには、この言葉を文字どおりに解して、祈りによって山を動かし、ナイル河に沈めた聖者の涙などが伝えられている。

    まさしくこれこそロシア人じゃないか

    スメルジャコフの弁、「山を海に吹きとばせるような人は、ぜったいにだれひとりいるわけがありませんや、まあ、そんな人は世界じゅうにせいぜい一人、多くても二人ぐらいのものでしょうし」という喩えに対して、フョードルが、「山を動かせる人間がとにかく二人はいる、と考えるわけだな? まさしくこれこそロシア人じゃないか」と叫ぶ。

    39ページ下段の注でも述べたように、ロシア人には、この世界のどこかに「真理の保持者がいる」という信仰が固有のものとしてあると見られている。
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