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    ドストエフスキーの生涯と執筆の背景 ガリマール新評伝より ~葛藤する限り、人は神と共にある

    ドストエフスキー 墓
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    目次 🏃‍♂️

    ドストエフスキー(祥伝社新書)の概要

    『ドストエフスキー (祥伝社新書―ガリマール新評伝シリーズ) 』は、ルーマニアの作家、ヴィリジル・タナズによる現代的な評伝だ。
    日本市場に出回っている既出の伝記の大半が20世紀に書かれたのに対し、本書は1977年生まれのタナズ女史が21世紀に入ってから、現代ロシア事情を鑑みながらドストエフスキーの生涯と当時の社会に与えた影響を書き綴ったもので、訳文も分かりやすく、読み応えがある。

    訳者の神田順子氏のあとがきには、2014年、ロシアによるクリミア侵攻の史実にも触れられ、21世紀になっても変わらないロシア社会の精神風土を読み解く上でも、大いに参考になるのではないだろうか。

    活字も大きいので、往年のドストエフスキーファンにもおすすめの一冊である。

    ドストエフスキー (祥伝社新書―ガリマール新評伝シリーズ)
    ドストエフスキー (祥伝社新書―ガリマール新評伝シリーズ)

    ドストエフスキーの生涯

    ドストエフスキーの青春時代

    ドストエフスキーは、自分の天分は詩を書いているミハイルのそれとは異なる、と考えていた。形式の制約によって想像力が邪魔されることのない散文に心惹かれていた彼は、自分も文筆に挑戦していることを告げる手紙の中で、「詩の極楽鳥は僕のもとを訪れないし、僕の冷えてしまった心を温めてもくれない」と記した。
    P.32

    自分の思想を表すのに、詩では物足りなかったんですね。

    ドストエフスキーは留年の決定が不公平なものだと説明したが、父から痛罵された。息子は、父が偏屈で分からず屋だと感じた。「僕らの気の毒な父さんはまるで世の中のことが分かっていないのだ。五〇年も生きているのに、人間は三〇年前と同じだと思っている。無知とは幸せなことだ」と兄に書き送っている。
    P.33

    でも、一番泣かせるのは、父に宛てたこの手紙だろう。

    翌年の別の手紙では、以下のように、当座の生活費として何ルーブルかを送るように頼んでいる。これは手紙に毎回出てくる無心であるが、父親は聞く耳を持たなかった。
    お茶ばかり飲んでいるわけではないので、飢え死にはしません。なんとか生き残ろうと思いますが、少なくとも靴を買うお金を送ってくれるようにお願いします!
    P.30

    昔、野坂昭彦がサントリーのCMで「そ、そ、ソクラテスも、プラトンも。に、に、ニーチェも、サルトルも、みーんな悩んで大きくなった」と歌っていたが、悩まずに偉大になった人など、ほんと無いよね。もし、そんな奴がいたとしたら、そいつは詐欺師だよ。

    「少なくとも靴を買うお金」というところに、少年らしい葛藤を感じる。

    父親にどう吠えたところで、財布の紐と生殺与奪を握っているのは父親だし。相手が機嫌よく財布の口を開かないことには、お菓子だって買えないという。まあ、子どもはみな貧乏を経験する。カネない、カネない、で育って、一人前の稼ぎ頭になる。その渇望がなければ、一銭だって稼げない。それが現実社会を生き抜くためのリビドーだ。

    親にこんな手紙を書かざるをえない少年ドストエフスキーの境遇と心情を思うと、いたたまれない一方、人生の一時期には必要な困窮と感じる。

    子どもにとって餓えるのは辛いことだが、上手く転じれば、地上で最強のモチベーションとなるから。むろん、それには勉学と知性という二大要素が絶対に不可欠だけども。

    活動の本格化

    1857年4月18日、ドストエフスキーは貴族の称号を回復し、特別な制限なしに出版する権利を得た。彼は二つの小説に取りかかった。ひとつは『ロシア報知』出版主幹ミハイル・ニキーフォロヴィチ・カトコフと契約した。カトコフはすぐに500ルーブルを送金した。

    ≪中略≫

    検閲を恐れ、前科者である以上軽率なまねはできないと肝に銘じながら、ドストエフスキーは可もなく不可もなく無難な書き方に徹した。

    ≪中略≫

    この頃、ドストエフスキーは、二年前にニコライ・チェルヌイシェフスキーの『芸術と現実の美学的関係』という論文の出版をきっかけに起こった大論争に加わろうとしていた。チェルヌィシェフスキーの支持者たちが、階層の利益を擁護するという芸術の社会的使命を重視するのに対し、ツルゲーネフやトルストイ、ドミトリー・グリゴローヴィチら文豪グループは、芸術の絶対的独立性を主張した。

    ドストエフスキーはどちらかと言えば後者の側に立っていたが、文学作品の啓蒙的使命を疑うことはなかった。人間の深く本質的な部分は、歴史の偶然に左右されず存在し、作家の関心はまさにそこにある、とドストエフスキーは考えていた。

    作家は特定の人物の肉体や周囲の状況を通してその本質的な部分を表現しなければならないのであり、神の存在を示す永遠の真理はそこに潜んでいる、という考えだった。この観点に立ってこそ、文学は教育的側面を持つ。とはいえ、作家は教訓を垂れる学校の先生ではなく、一人ひとりの存在理由となる神秘的真理の証人だった。生活に疲れ、不幸に打ちひしがれ、私たちと同じ人間であるとは思えぬほど堕落し、罪に陥った者たちの中に、消えたか、見失ったかした光の粒を探し出すのが作家の役割である

    現代は、小説よりも、自己啓発的なものの方がよく読まれる時代だ。

    ドストエフスキーや芥川龍之介など読むより、「あなたの心を100倍ラクにする魔法のメソッド」とか「もっと彼に愛される10の法則」とか、ああしなさい、こう考えるべきと説教を垂れる読み物の方がはるかに分かりやすいし、答に至る最短距離だからだ。

    それも一つの方法にちがいないが、あの手の本には決定的に欠けているものがある。それは「幸福」や「心の明るさ」や「成功」を第一義に考え、人間の不可思議を深く考察することがない点だ。怒りや憎しみ、嫉妬といった、どうしようもない部分について、あの手の本は否定し、ひたすら完璧を目指そうとする。憎むな、くよくよするな、羨むな、etc。その結果、できあがるのは、明るく、優しく、エネルギーに満ちあふれた理想的な人間だけれども、果たして人の世はそれほど単純なものだろうか。どうにもこうにも克服できず、ドストエフスキーみたいに賭けと借金を繰り返す人間もいれば、大酒飲みのマルメラードフ(『罪と罰』)みたいに、娘が身売りして稼いだ僅かな金さえも飲み代に使ってしまう、どうにも救いようのない駄目親父もいる。それが生々しい人間の真実であるし、そこから目を反らして、「強くなろう」「幸せになろう」と掛け声をかけたところで、不動の知恵が身につくとは到底思えない。何故なら、くさいものに蓋をする、方式で、くさいものはくさいまま、綺麗事の下にどんどん蓄積されるからだ。人間の陽の部分など放っておいても上手くいく。問題は陰の部分とどう向き合って生きていくかで、「強くなりさえすれば」「前向きであれば」というほど単純なものではないのだ。

    その点、小説は、大酒飲みのマルメラードフみたいに、人間の救いようのない部分も、これでもか、これでもか、というほどにあぶり出し、読み手に見せつける。
    イワンとアリョーシャの『大審問官』も、どうにも超えがたい現実と、なお高みを目指す魂の葛藤を描いた名場面であり、たとえそこに明確な答はなくても、読み手に考察と深い余韻を与える。自己啓発的なものは、現実の葛藤はすっ飛ばして、ひたすらパンより愛を説くけども。

    知性の深さというのは、いわば、両極の立場である。

    右でもなければ、左でもない。

    人類社会の幸福に向かって、あらゆる角度から考察できることだ。

    その際、一方を正とし、一方は間違いと決めつける姿勢では、思考も広がらない。

    その結果、大審問官みたいに、どちらが正しいともいえない喩えになるけども、その葛藤こそが次代に新たな価値観をもたらすのであって、片側に偏った思考からは、それ以上のものは生まれないのである。

    小説は、まさに人間や社会の葛藤を描くものであり、もしドストエフスキーが『大審問官』のエピソードで、イワンかアリョーシャ、どちらかの立場で物事を言い切っていたなら、それは小説ではなく、説教である。そして、ドストエフスキーも”作家”ではなく、熱心なキリスト教系物書きで終わっていただろう。

    作家とライターは違うし、メンターとも異なる。

    本質的に人間大好きな(それが高じて、人間嫌いに変じることもある)、ウォッチャーであり、アナリストであり、その知性は芸術家より科学者に近い。

    ペテルブルグの世情は騒然としていた。

    ロシアの知識階級に浸透しつつあったマルクス主義の影響下、もしくはアレクサンドル二世が貧困から救う手立てを講じないまま農奴制から解放した農民たちの窮状を冷静に分析した結果、体制批判派は急進化していた。皇帝を筆頭とする「持てる者たち」を物理的に排除することも視野に入れた流血の蜂起を、という声が広まりつつあった。

    こうして世の中全体が騒がしくなってくるに従い、個人ではなく、組織だったグループによる不穏な動きが国家の安定を脅かすようになった。学生たちの間でざわつきが広がった。1862年5月、放火によってペテルブルグの広い区画が焼け落ちた。ドストエフスキーはこれに衝撃を受け、ストラーホフによると、何百人もの人々から住処を奪った放火魔の革命家たちを痛罵した。

    折も折、”土地所有者を抹殺し、皇帝を暗殺しよう”と呼びかける「若きロシア」の檄文が郵便物に混じっているのを見つけたドストエフスキーは、チェルヌィシェフスキーのもとに駆けつけた。チェルヌイシェフスキーがこのマニフェストの先導者であると思い込んでいたドストエフスキーは、こうした犯罪の奨励はやめてほしいと頼み込んだ。

    これはドストエフスキーの見当違いであった。正当派マルクス主義者であるチェルヌィシェフスキーは、ロシア社会は革命を成功させるには未成熟である、と見なしており、性急な革命家たちを断罪した。さらには、学生運動は火事とは何のかかわりもない、とドストエフスキーを納得させた。チェルヌイシェフスキーの「ドイツ流の合理主義」や「唯物主義的功利主義」、「社会主義的ユートピア」には断固賛成できないドストエフスキーだったが、チェルヌィシェフスキーの説得が功を奏したのか、大学構内での大規模デモの際に逮捕された学生たちを擁護する記事を「ヴレーミヤ」に掲載することを決めた。

    ≪中略≫

    より急進的な『現代人』と『ロシアの言葉』は白金となった。反体制派への弾圧は強まり、リベラルな知識人たちが逮捕され、警察による監視はより厳しくなった。これに対抗するように、新たな秘密結社「土地と自由」が誕生した。この結社はロシア各地に支部を設け、やがて国全体を揺るがすテロや暗殺を準備することになる。無政府主義、革命的な思想は特に若者たちの間で広がりを見せた。

    創元社の『ロシア革命 (「知の再発見」双書)』の冒頭に、次のような記述がある。

    ロシアは多くの民族や宗教をかかえる世界でもある。そうした多様な世界は、19世紀になって工業化、近代化、都市化の嵐に巻き込まれることになった。身分上の差別や富の極端な不平等に加えて、都市問題、労働問題、土地問題、環境問題、人口問題など、新たな問題も起こった。
    近代化や工業化は、伝統的、農村的な価値観と新たなものとの間で、深刻な軋轢を生み出し、宗教上の対立や民族対立とも絡み合うことになった。
    その結果、採り入れられてきたシュシュの近代的制度、近代的価値観、近代的知などの妥当性が、ロシアで先駆的に問われることになったのである。

    ≪中略≫

    経済活動や私有財産の自由の程度の問題、言い換えれば、その自由への社会的・公的規制の程度の問題が、かつてなく先鋭化したのも、また、自由と民主主義の関係がぎりぎりにまで問い詰められ、広汎な人々の間で議論の対象となったのも、そのためであった。

    こうしてロシア革命は、広くとらえて言えば、地球上の多様な世界の「共生」関係をどのように再構築したらよいのか、という20世紀以降の世界が直面する難題を、大胆に、また先駆的に提起した場となったのである。そこに参加したさまざまな民族のエリートや民族一人一人による、問題解決のための試みの壮大なパノラマであった。

    前書き:石井規衛

    ロシア革命の顛末も、イデオロギーの勝利というよりは、最終的にレーニンの率いるボリシェビキ(ロシア社会民主労働党)が権力を握ったからで、他が権力を掌握すれば、それが正義になっただろう。最初は思想が動機でも、組織化され、権益が絡めば、政治的闘争になるし、思想より政治力の方がはるかに強いのではないかと思ったりする。いわば思想を実現するのが政治力であり、それが机上の論理から現実になれば(法律や制度といった形で)、義よりも力学が働くようになるからだ。

    ドストエフスキーは、ロシア革命の以前、ロシアはどちらに行くべきかで論議がなされていた時代の人であるから、小説の中で、これだけ豊かな思想を語ることができたのだろうと想像する。いよいよ革命が現実味を帯び、社会体制がひっくり返るところまでくれば、ある程度、道筋も固まってしまうからだ。そうではなく、三叉路の手前、思想という地図を片手に、「どちらに行くか」で葛藤した時代であるから、イワンが生まれ、アリョーシャが生まれ、ラスコーリニコフの「非凡人は社会を変革する為に殺人さえも許される」という主張が迷う心に突き刺さる。そういう意味で、創作するにはベストタイミングに生を受けたのではないかと。

    「19世紀の工業化、近代化、都市化」は、21世紀のIT化、グローバル化、そしてAI化に置き換えると分かりやすい。

    あの時代に比べたら、人権や平和に対する意識が高まり、見た目が穏やかになっただけで、新技術や経済変革によってもたらされた庶民の苦悩や格差はほとんど変わっていない。苦悩が形を変えただけで、多くの人は相変わらず貧困や空虚や孤立に苦しみ、「人と社会はどちらに向かうべきか」で道に迷っている。
    ドストエフスキーの小説が19世紀と変わらず人を引きつけるのは、そういう理由からで、「人間の深く本質的な部分は、歴史の偶然に左右されず存在し、作家の関心はまさにそこにある」と確信したドストエフスキーはまったく正しい。

    (1862年)パリ滞在10日目にしてドストエフスキーはストラーホフに「ここでは、貴兄が想像できないほどの孤独に襲われます」と書いている。
    ≪中略≫
    万博会場である水晶宮に目を見張り、金融街シティの貪欲な精神に嫌悪感を覚え、仕事場へと急ぐ名もなき労働者の「群れ」はドストエフスキーの目に黙示的なビジョンと映った。土曜日に貧民街を訪れると「白い二グロたちのサバト(大騒ぎ)」に遭遇し、そのおぞましさに憤怒と憐れみを覚えた。美しい娼婦たちのドストエフスキーは大きな哀しみを感じ取り、すべてが金で売買される社会の犠牲者である彼女たちに嫌悪感の混じった親しみを覚えた。また、生活のために我が子に売春させる窮乏した母親たちを憐れみ、幼い物乞いの姿はドストエフスキーの胸を締め付けた。

    114P

    社会をどう見るかで人間の生き様も変わる。
    『万博会場』と『水晶宮』に関しては、いろんな芸術家が、いろんな感想を抱いており、それを先進的と感じて創作のモチベーションとする人もあれば、ドストエフスキーのように、足下の困窮に心を痛める人もあり、その後の人生も様々だ。

    同時期、同じ光景を体験した思想家に、カール・マルクス、フリードリヒ・ニーチェなどがいるわけだが、この時代の大家が一様に黙示的なビジョンをもち、現代に続く問題提起をしている点が興味深い。20世紀は、文化人や思想家よりも、ジョン・レノンやスピルバーグやマイケル・ジャクソンなど、サブカルのカリスマがより大きな影響力をもち、フィーリングやファッションを変えることで、右から左に流すのに成功したけど。

    『死の家の記録』と『虐げられた人々』の頃

    (兄ミハイルが『エホーバ(世紀)』を創刊。検問委員会はミハイルとドストエフスキーの前歴に鑑み、雑誌の内容を隅々まで検問すると通知した)

    創刊号の論説は当局を安心させるような内容にした。≪中略≫ このような方針は当局の懸念を晴らすには有効だったが、圧倒的多数の貧しい民衆が苦しみあえぐ状況に対して、抜本的な解決を求めている人々――貧しい階級を出自とする新興知識階級――を満足させるものではなかった。

    自由主義思想に染まったこうした読書が、新雑誌の創刊号に発表されたドストエフスキーの小説『地下室の手記』に「我が意を得たり」と感じたとは言えないだろう。より良い世界を夢見て、その実現のためには暴力をも辞さないと考えている人々への反駁の書であった。

    ”自らの怪物性を自覚しているという意味で悲劇なのだ。≪中略≫ 地下室の悲劇白日の下にさらしたのは私しかいない。苦しみ、自虐性、何かもっと良いものがあるはずだという思い、その何かが得られない状態からくる悲劇だ。皆似たり寄ったりだ、だからわざわざ自分を変える必要などないという、こうしたみじめな人々特有の深い確信からくる悲劇がその最たるものだ。”

    シャーリーズ・セロン主演の映画『モンスター』を思い出す。ド底辺の女性、アイリーン・ウォーノスの連続殺人と逃走劇を描いた人間ドラマだが、映画の終盤、バーで馴染みの友だちと飲みながら、「環境が悪いんだ。これしか方法がなかった」と語り合う場面が印象的である。ある水準より上にいる人は、比較的恵まれた経験から「努力」というものを信じるが、その平均的な努力さえ報われないド底辺になると、諦めや開き直りの気持ちから、自虐的、あるいは放棄的な考えに陥りやすくなる。「わざわざ自分を変える必要などない」というのは、一種の諦観であり、彼らはちょっとやそっとの努力で救われるものではないことを身にしみて知っている。「勉強して、資格を取る」とか「心ばえを高くもてば、素晴らしい出来事が訪れる」とか思えるのは、まだそこまで落ちてない証でもあり、ド底辺になると、そんな希望が入り込む余地すら無くなり、大酒飲みのマルメラードフみたいに、飲む以外になくなってしまうのだと思う。だが、それもまた人間の一面であり、社会の悲しい現実でもある。
    作家は問題をえぐり出し、政治家は方策を考える。そういう意味で、作家は常に政治家の先に立つものだ。

    借金、借金、また借金

    確かにドストエフスキーの振る舞いは溺れつつある者を思わせた。金を手に入れようとする時の嘆願、屈従、臆面のなさは、もはや失うものは何もなく、通すべき筋もない、追い詰められた人間のそれだった。唯一の道義は生き延びることだった。自分は天才であるが、今のこんな状況では傑作が書けないとの信念は変わらなかった。そうである以上、一般人を縛る規範など無視する権利が自分にはある。自分の将来の作品が人類のためになることを思えば、嘘やごまかしどころか盗みでさえ許される、と考えていたのかもしれない。

    P148

    この箇所は、筆者であるヴィリジル・タナズの文章なので、実際のところ、どうだったかは分からない。
    それでも重度のギャンブル依存症に違いなく、空白が怖かったのかもしれないね。

    ラスコーリニコフの原型

    ちょうどその頃、こうした考え方を助長するような事件が起きていた。≪中略≫ 金目当てに大使館員を襲った「革命家」の士官や、二十七歳の(ロシア正教)分離派の青年ゲラシム・チストフの事件が詳しく乗っていた。チストフは二人の召使いの女を斧で殺して、彼女らの女主人の金品を奪った。

    ≪中略≫

    ”事件は現代、まさに今年起こった出来事です。ひとつの犯罪の心理報告書です。平民の出で、大学を除籍になった青年が、非常に貧しい生活を送っており、考えが浅はかで、確固たる信念もなく、巷間に広まる「未消化」のおかしな思想に影響されて、うだつの上がらない状況から一挙に脱出しようと決心します。九等官の未亡人で高利貸しを営む老婆を殺そうと決意を固めます。老婆は愚かで耳は遠く、病身でありながら欲深く、ユダヤ人並みの高利を貪り、性悪で、人から搾り取り、実の妹をいじめてこき使っています。「あんな女は何の役にも立たない」「何のために生きているんだ」「あんな女、誰にとって有益なのだろう?」といった疑問を抱いた青年は理性を失い、老婆を殺して金を奪ってやろうと決心するのです。その金で、田舎の母親を幸せにし、地主貴族の家に家庭教師として住み込み、好色な家主に追い回されている妹を救い出すのだと。また自分も学業を修めて外国に行き、障害正直に志操堅固に「人類に対する人間としての義務」を一心不乱に果たそう、そうすることで自然と「罪をつぐなう」ことができる、というのです。

    ≪中略≫

    殺人者である青年は突然、解決できない問題に直面し、予想だにしなかった感情に虚をつかれ、苦しみます。神の真理と地上の掟が彼の中で優位を占め、とうとう自主「せざるを得なく」なります。徒刑地で朽ち果てることになろうとも、もう一度人間の仲間入りをするためです。罪を犯した途端、青年は人類との断絶と離脱の感情に襲われ、極限まで苦しみます。”

    149P

    世間を騒がせた事件から、『罪と罰』の着想を得たドストエフスキーに、(『ロシア報知』の発行人)ミハイル・カトコフは、一瞬たりと迷うことなく掲載を決断し、金に困ったドストエフスキーの足下を見るように、自分にとって非常に有利な条件(印刷用紙一枚 16ページあたり、150ルーブル)で契約を結んだ。
    二束三文で買い叩かれた 「罪と罰」の権利と原稿料。現代なら幾らであろうか。

    ところが、この不朽の名作は、思いも寄らぬ展開となる。

    著者いわく「この本の読ませどころは、殺人者の動機と、他人の命を奪うことを正当化するために主人公が考えだした理屈である」と考え、最初、一人称で書いていたが、途中で、どうしても、大酒飲みマルメラードフとソーニャのエピソードを挿入したくなり、三人称で書き直すほかなくなってしまう。

    しかも、現代においては、この作品のクライマックスと考えられる、『ラザロの復活』の朗読を聞いたラスコーリニコフがソーニャに跪き、彼女の足に接吻する場面が、「キリストの言葉を娼婦の口から伝えさせるというのは(検問委員会に、)冒涜的ととられかねない」という理由で、またも書き直しを迫られ、発行者との間で激論になる。そして、ドストエフスキーを黙らせたのは、「雑誌が発行停止になれば、原稿料も払えなくなる」という極めて現実的な事情だった。

    そして、元の原稿は保存されず、今日の私たちに残されているのは『ロシア報知』の編集部によって不当なほどに修正された文章のみである――とのこと。

    19世紀にKinldleやブログがあればな。

    『カラマーゾフの兄弟』の萌芽

    (1867年、ドストエフスキーは画家ホルバインの『墓の中の死せるキリスト』の絵に魅了される)

    すでに登場人物像を掴んでいたドストエフスキーは、構想を練った。何人かの主要人物は縁もゆかりもない異質な者同士だが、探偵小説のような筋書きによって結びつく、与えられた試練に彼らがいかに立ち向かうかを描き、見えないからくりが狂って人間を突き動かすさまを、まざまざと見せつける作品にする。
    ≪中略≫

    ”長い間、ある癪そうに頭を悩ませていましたが、それを長編小説にする勇気がありませんでした。魅力的で、私も愛着があったのですが、あまりにも困難な着想だからでした。それは「しんじつ美しい人間描く」をことです。これほど難しいテーマはないと思います。ことに現代においては。(中略)

    今度、まだ完全にまとまってもいないのに、この着想を取り上げることにしたのは、絶望的な状況に陥っているからです。私はルーレットをするように危険を冒したのです。「私の筆にかかれば、何とか転がるかもしれない」と。

    おおまかな構想は出来上がっています。さらにディテールがいろいろ浮かび、私を大いに引きつけ、私の中の炎を焚き付けます。しかし全体はどうなるのだろう? 主人公は? というのも、私の場合、全体像は主人公の形をとって見えてくるのです……。

    187P

    その後また金の工面や生活の為の仕事に奔走し、長編の執筆はなかなか始まらない。それでも著者いわく「記念碑的大作として反響を呼んだトルストイの長編『戦争と平和』に対抗する作品をものにしようとしていたようだ。ドストエフスキーは「トルストイ伯爵の才能など、甘ったるくありふれたもの」と見なしてはいたが、作家の本能でこの作品の偉大さを感じ取り、自尊心に押されて、自分も十九世紀前半のロシア社会の一大絵巻を描いてやろう、と意気込んだ」とのこと。

    ロシア国民は自分の教え、自分が与える指標を必要としている、とドストエフスキーは思っていた。ロシア国民は無神論的西欧主義者たちに惑わされ、破滅に向かっている。彼らを啓蒙し救うのが自分の義務だとドストエフスキーは固く信じていた。彼らの蒙が啓かれれば、甘ったるくて無意義な、あのツルゲーネフやトルストイといった作家をやたらとまつりあげることもなくなるだろう。彼らに才能があることは認めるが、大した才能ではないし、ロシア国民やその使命について分かっていない。

    208P

    人間、これくらいの自負心と自尊心がなければ、大事など到底成せない。
    それを自惚れととるか、神の啓示と取るかは、結果次第。
    大法螺吹きで終わらなかったのが、ドストエフスキーの凄いところ。

    これはゾシマ僧正のイメージでもあるかな?

    The Body of the Dead Christ in the Tomb, and a detail, by Hans Holbein the Younger
    ハンス・ホルバイン 墓の中の死せるキリスト

    『悪霊』が社会の隙間を彷徨い歩く

    秘密結社、陰謀、裏切り者と見なされたイワン・シャートフの殺害、「大義」のためにアレクセイ・キリーロフが受け入れる自殺等々がテーマであった『悪霊』に登場する秘密結社の構成員たちは、既成秩序の破壊を第一の目的に掲げ、「すべてが覆される混沌を引き起こす」ことを望んでいる。
    ≪中略≫
    『ロシア報知』の編集長のミハイル・カトコフは、ドストエフスキーが十二月半ばに送った章の掲載を断固拒否した。主人公であるニコライ・スタヴローギンがボゴロドスキー修道院の僧正に行う「告白」が問題視された。この中でスタヴローギンは、一人の少女を陵辱したのちに、いかに彼女を自殺に追いやったかを語っている。自分の手で殺した可能性すらある。
    ≪中略≫
    「スタヴローギンの告白」は信念が足下からぐらつく大転換の話である。罪人は、信仰のみが自分の苦悩を解いてくれる、と悟る。理性が苦悩を取り去ってくれないのは、科学的真理は道徳的真理ではなく、科学的真理に頼る者は善悪の埒外に自らを置いてしまうからである。人は、自分の良心が絶対に必要とする指標なしでは生きられない存在なのだ。スタヴローギンがキリストの愛の中に救いを見出す期待を抱いて罪を告白するこの章は、ドストエフスキーに岩sレバ、『悪霊』の構築になくてはならぬ屋台骨だった。

    226P

    が、結局、問題となった数十ページは削除されたが、『悪霊』は傑作として認められる。削除された部分が「スタヴローギンの告白」として復元されたのは50年後の1923年である。

    結局”そこ”に辿り着くことを、単純に「キリスト教に帰依した」と解釈するのは誤りだ。何故なら、私たちは人間であり、人間の枠を超えることはできないからである。もし、その枠を超えて、人が人の生き方や善性を規定するならば、それはラスコーリニコフの「非凡人思想」に似て、「誰かにとっての正義」「誰かにとっての悪」になる。それは突き詰めれば、「我が正義の為なら人を殺しても構わない」という極論に飛躍し、純然たる指針にはならない。となると、高次の存在に求めざるをえないわけで、最も体系化されたキリスト教に落ち着くのも致し方ないのではないか。

    ちなみに、「宗教的儀式(規律)」と「信心」は異なるし、「教会」と「神」も異なる。宗教といえば、とかく前者をイメージしがちだが、ドストエフスキーに限っていえば、「教会に通って、教徒らしく生きる」のではなく、「聖書に書かれたイエス・キリストの精神を重んじる」ぐらいのものだと思う。

    『作家の日記』に寄り道

    (1875年、ドストエフスキーは当局に月刊誌発行の許可を願い出、『作家の日記』を連載する。)
    『作家の日記』を構想したのは忘れ去るのが惜しい「印象」を記録しておくためであった、と認めるドストエフスキーであったが、この雑誌をどのようにして、どのような方向にもって行くべきか、それは分からなかった。『市民』ですでに『日記』というジャンルに挑戦した経験があるものの、これにどのような影を与えるべきか突き詰めることができず、「いつの日か答えが見つかる」のだろうか、と自問する始末だった。メソで夫もなく、いわば有視界飛行で号を重ね、最新ニュースやセンセーショナルな出来事に目が行ってしまう結果、自分が本当に書きたいと思うことを掘り下げる代わりに多様性を重視して、やや軽いテーマを数多く取り上げることになった。H・D・アルチェーフスカヤへの手紙に書いている。

    ”机に向かって筆を執ると、私の頭には10や15のテーマが浮かんでくるのです(それ以下ではありません)。しかし、自分の一番好きなテーマは自然と後回しになるのです。あまりにも誌面を取り過ぎるし、あまりにも大きなエネルギーを要するからです。(例えば、クロネベルグの事件(七歳の娘を父親がひどく打擲したとして起訴されたが、無罪となった)。それではその号全体が損なわれてしまいます。記事の種類も数も少なくなるからです。そこで、書こうと思ったのと違うものを書くことになります。また、私はこれが本当の『日記』になるものと、あまりにナイーブに考えていたのです。本物の『日記』はほとんど不可能で、ただ読者への見せかけに過ぎません”

    271P

    PV(広告費)稼ぎに、せっせとブログを更新するブロガーみたいな。

    一番大事なテーマが後回しになる気持ちは分かる。あまりにも大きなエネルギーを注ぐために、きっかけやタイミングを選ぶのだ。
    いわば、小さな波に乗りながら、大きな波を待つようなもの。

    とりあえず書きながら、自分でもイライラしている様がよく分かる(´。`)

    著書によると「『作家の日記』12月号の半分は、ネクラーソフに捧げられた。ドストエフスキーは読者への告知欄で『作家の日記』の廃刊を公表した。これは数ヶ月前から考えていたことで、「全ロシアの、ありとあらゆる社会階層の人々から、廃刊を惜しみ、この事業を投げ出さないで欲しいと懇願する」手紙が何百通と届いたにもかかわらず、ドストエフスキーの気持ちは変わらなかった」。

    ブログ閉鎖のお知らせ、みたいなものですな。

    なかなか実入りのいい仕事だったにもかかわらず、ドストエフスキーは『作家の日記』を終了し、その後、帝室化学アカデミー国語・国文学部門の通信会員に選ばれる。化学アカデミーに対して裁量権を振るっているアレクサンドル二世の承認がなければ有り得ないことだった。

    ところが、この名誉には激務が伴い、病気がちなドストエフスキーの肉体をますます痛めつけるばかりか、「本当に書きたいテーマ」に向かう時間も削がれていく。「頭と心に小説があって表現されるのを待っている」(カラマーゾフのことだと思うが)のに、どんと腰を据えて執筆に迎えないのは、大変な苦痛だろう。

    (1873年)
    ロシア国内は一発触発の状態だった。農奴解放、農地改革、軍隊改革などのリベラルな施策がいくつか打ち出されたものの、旧態依然たる貴族制に起因する緊張を解消することはできなかった。途方もない特権の詰まった密閉状態の箱の中で、ここ20年の間に異変が起こりつつあった。最大の要因は、貧しい階層や中産階級に大学の門戸を開いた結果、反体制的な知的エリートが誕生したことにあった。彼らは、国民の大多数がどれほど惨めな生活を強いられているかを身をもって知っていた。西側のリベラルな思想を吸収した彼らは、より公正な民主主義的社会を渇望した。

    300P

    そろそろと近づく、イワン・カラマーゾフの影。

    『カラマーゾフの兄弟』 執筆の背景と読み方

    誰もが読破したいと憧れながら、途中で訳が分からなくなって、挫折しやすいのが『カラマーゾフの兄弟』だろう。

    一番の特徴は、『罪と罰』のように、ラスコーリニコフを中心とした一本道の物語ではなく、アリョーシャ、イワン、ドミートリイ、ゾシマ長老らの、それぞれの生い立ちや信条が個別に描かれ、『ゴッドファーザー 三部作』のような、多重構造の作品に仕上がっているからだ。

    『カラマーゾフの兄弟』を読む時は、長い大河ドラマとして読むよりも、「地続きの短編(連続小説)」として読んだ方が分かりやすい。

    大本となるプロットは存在するが、信心のうすい夫人の打ち明け話や、ゾシマ長老の青春期の思い出語りなど、随所に異なるエピソードが差し込まれ、その都度、流れが中断するからである。

    それよりは、新聞の連続小説のように、地続きの短編として、一つ一つの節をじっくり味わう方が分かりやすい。

    その点について、祥伝社の新書『ドストエフスキー (祥伝社新書―ガリマール新評伝シリーズ) 』で次のように解説している。

    ドストエフスキーは、1878年7月初めに家族とともにスターラヤ・ルーサの家に落ち着き、従来の習慣や日課を取り戻すと、『カラマーゾフの兄弟』に取りかかった。少なくともこれだけは確かな事実である。筆の進みは速いだろうとドストエフスキーは思っていた。

    ただし、それは体調を考慮しなければの話だった。七月十八日に重い発作が起こり、ドストエフスキーは一週間にわたって作業を中断せざるを得なかった。

    それに加えて、「悪魔のような西側勢力」に対する根深い反感も創作の邪魔をした。西側諸国は、露土戦争でロシアが得るはずだったものをベルリン会議で奪ってしまった。おまけにイデオロギー上の敵もいた。敵に鉄槌を下すことは以前より難しくなっていた。『作家の日記』を廃刊して依頼、自分の論壇を失い、毎月敵に一矢報いることができなくなったからである。

    1879年5月10日、ドストエフスキーはスターラヤ・ルーサから『ロシア報知』の編集長ニコライ・リュビーモフに送った前例の書簡の中で、検閲を恐れて言葉を換える必要はない、とわざわざ先回りして伝えている。根拠として、ドストエフスキーは検問委員会が問題にしなかった新聞記事の原文を示している。しかし、検閲委員会がイワン・カラマーゾフの発言に衝撃を受ける可能性は十分あった。

    話が長くなっていたが、これは原稿料を見積もりより多く稼ぐために頁数を増やしているのではない。そのことをドストエフスキーはニコライ・リュビーモフきちんと説明しなければならないと思った。確かに、話の結末が知りたければ購読期間を延長するしかない、ということになれば読者にとって不都合だ。しかし、第九編「予審」はどうしても必要だ。

    年内に連載が始まった小説は十二月号で終わらなければならない、という文学雑誌の監修など、ドストエフスキーは歯牙にもかけなかった。ドストエフスキーの立場は強かったからだ。

    いずれにせよ、この第十編を予定通り十二月初めに引き渡すことはできなかった。理由は例の如くである。ドストエフスキーは病み、疲労し、発想力を失っていた。しかしそれだけではなく、今やドストエフスキーにとってこの小説は「小説の中でも最も重要な小説の一つ」だった。この作品は「入念に仕上げなければならない」。さもなければ、「作家としての自分自身を未来永劫にわたって傷つけることになる」とドストエフスキーは書いている。

    父親殺しと三兄弟の運命が物語の根幹ではあるけれど、自分でも書いているうちに、「あれも、これも」と主旨が膨らみ、とにかく全部入れないことには気が済まなくなったのだろう。

    一方、体力や政情が付いていかないところもあって、文字通り、四苦八苦の連載であったと想像する。

    一気に書いたのはその通りだけども、一節書いては放心し、また気概を蓄え……の繰り返し。

    「連続した短編」というのは、そういう意味。

    ゾシマ長老の青春時代の回想や、信心のうすい婦人の告白などは、それ一つで短編に匹敵するし、本人も予期せぬエピソードだったのではないだろうか。(書いているうちに、筆が爆発するタイプ)

    カラマーゾフに懸ける覚悟と意気込み

    今はカラマーゾフという重荷を背負っている。この小説を書き上げ、玉のように磨かなければならない。私はこの難しくて危うい仕事に精力を費やすことになるだろう。私の運命はこの小説にかかっている。名を挙げることができるが、さもなくば、もはや希望はない。

    ≪中略≫

    年ないに連載が始まった小説は十二月号で終わらなければならない、という文学雑誌の監修などドストエフスキーは歯牙にもかけなかった。ドストエフスキーの立場は強かったからだ。『カラマーゾフの兄弟』は、一部のリベラルなジャーナリズムに罵倒されはしたが、読者の受けは良く、掲載雑誌の販売部数を伸ばして売り上げに貢献していた。それだけでなく、誰しもがこれは希有な作品であると、往々にして混乱気味にではあるが確信していた。この作品を希有なものにしているのは登場人物の力強さだった。結局、彼らの信念の正当性などはさして問題ではない。なぜなら、いずれが勝つとも予想できない善と悪との戦いの中で、彼らはその信念の強さに導かれてそれぞれの運命へと赴くからだ

    ≪中略≫

    ドストエフスキーは病み、疲労し、発想力を失っていた。しかしそれだけではなく、今やドストエフスキーにとってこの小説は「小説の中でも最も重要な小説の一つ」だった。この作品は「入念に仕上げなければならない」。さもなければ、「作家としての自分自身を未来永劫にわたって傷つけることになる」とドストエフスキーは書いている。

    336P

    私は『カラマーゾフ』を終わりにする。総決算の時が来るわけだが、自分としてはこの作品を高く評価しています。何しろ、自分自身と自分が大事にしているものを、たくさんこの作品に注ぎ込んだのだから。しかも、私は神経の苛立ちと心配事と苦痛の中で仕事をしています。強行軍で仕事をしていると肉体的に病んでしまうこともあります。

    (中略)

    やめる時がきました。しかもすぐにやめなければなりません。信じてもらえるでしょうか、もう三年も書き続けているにもかかわらず、一章書いては屑籠に捨て、書いてはまた捨て去る、といったことを繰り返す有様です。突然インスピレーションが湧くこともありますが、そのほかの部分はひどく苦しい作業です。

    377P

    そして、脱稿した80日後に、ドストエフスキーは絶命する。本当に命を削るようにして書いたのだろうと、誰の目にも分かる。

    しかしながら、カラマーゾフの兄弟を読み終えて、私が一番に感じたのは、あんなにも美しい場面を最後に作家生活を終えたドストエフスキーの幸福だ。

    原卓也訳。

    みなさん、ここで、このイリューシャの石のそばで、僕たちは第一にイリューシャを、第二にお互いにみんなのことを、決して忘れないと約束しようじゃありませんか。これからの人生で僕たちの身に何が起ころうと、たとえ今後二十年も会えなかろうと、僕たちはやはり、一人のかわいそうな少年を葬ったことを、おぼえていましょう。その少年はかつては、おぼえているでしょう、あの橋のたもとで石をぶつけられていたのに、そのあとみんなにこれほど愛されたのです。立派な少年でした。親切で勇敢な少年でした。父親の名誉とつらい侮辱を感じとって、そのために立ちあがったのです。だから、まず第一に、彼のことを一生忘れぬようにしましょう、

    みなさん

    たとえ僕たちがどんな大切な用事で忙しくしても、どんなに偉くなっても、あるいはどれほど大きな不幸におちいっても、同じように、かつてここでみんなが心を合わせ、美しい善良な感情に結ばれて、実にすばらしかったときがあったことを、そしてその感情が、あのかわいそうな少年に愛情を寄せている間、ことによると僕たちを実際以上に立派な人間にしたかもしれぬことを、決して忘れてはなりません。

    ≪中略≫

    これからの人生にとって、何かすばらしい思い出、それも特に子どものころ、親の家にいるころに作られたすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何一つないのです。君たちは教育に関していろいろ話してもらうでしょうが、少年時代から大切に保たれた、何かそういう美しい神聖な思い出こそ、おそらく、最良の教育にほかならないのです。そういう思い出をたくさん集めて人生を作り上げるなら、その人はその後一生、救われるでしょう

    ≪中略≫

    僕たちはわるい人間になるかもしれないし、わるい行いの前で踏みとどまることができないかもしれません。人間の涙を嘲笑うかもしれないし、ことによると、さっきコーリャが叫んだみたいに「僕はすべての人々のために苦しみたい」と言う人たちを、意地悪く嘲笑うようになるかもしれない。そんなことにはならないと思うけれど、どんなに僕たちが悪い人間になっても、やはり、こうしてイリューシャを葬ったことや、最後の日々に僕たちが彼を愛したことや、今この石のそばでこうしていっしょに仲良く離したことなどを思い出すなら、仮に僕たちがそんな人間になっていたとしても、その中でいちばん冷酷な、いちばん嘲笑的な人間でさえ、やはり、今この瞬間に自分がどんなに善良で立派だったかを、心の中で笑ったりできないはずです!

    カラマーゾフの兄弟(下)(新潮文庫)

    これがドストエフスキーの「白鳥の歌」であり、最終結論と思う。

    どれほど優れた思想が存在しようと、宗教が人間の精神生活に多大な影響を及ぼそうと、人間は、過つ時は過つし、普段善良でも、何をきっかけに悪事に手を染めるか分からない。それほど人の心というのは当てにならないし、社会もまたそんな人間で構成されている。

    では、そのような現実に対して、何が絶対的な処方箋になるかと言えば、過去に遡っても、未来に期待しても、そんなものは永久に見つからず、100年後も、200年後も、人は相変わらず同じ石に躓き、同じ痛みに悩まされるだろう。

    だが、一つだけ言えるのは、少年時代に経験した崇高な感情――アリョーシャ曰く、「今この瞬間に自分がどんなに善良で立派だったか」という魂の経験こそが、あらゆる罪の抑止力となり、再生への道筋になるということだ。

    それは、誰の神に依らず、人間に自然に備わった善性であり、それこそが永久不変の魂の指針である。

    『罪と罰』もそうだが、ドストエフスキーは人間の良心にこそ神を見ていたのではないか。

    だからこそ、人間の葛藤を神と悪魔の戦いになぞらえ、あれほどドラマティックな会話に仕上げることができたのだと。

    たとえ、その戦いに永久に決着がつかずとも、葛藤する限り、人は神と共にある。

    ドストエフスキーから若い作家志望の女学生へ

    最後に、ドストエフスキーから作家志望の女学生への助言を紹介したい。

    決して自分の魂を売ってはなりません。前金という名の棍棒で脅されながら仕事をするようなことをしてはいけません。まさに私は生涯それで苦しみました。生涯、私は急かされながら書きました。何よりも、すべて書き終えるまで原稿は一切印刷所に渡してはなりません。それは自殺であるばかりか、殺人でさえあります。遅れることではなく、駄作を書くことを恐れなければならないのです。……そして、出来上がるのはおそらく駄作です。毎回絶望を味わうのです。

    しかし、前金という棍棒で追い立てられたからこそ、あれほどの傑作になったのではないか。
    作家先生と持ち上げられ、優雅に暮らしていたら、ペン先も鈍ったはずだ。
    義憤と渇望こそ名作の礎。
    作家先生には苛酷な人生だが、そういう運命を背負って生まれてきたと思って、頑張って欲しい……って、もう鬼籍にお入りでしたね。
    残念です。

    ドストエフスキー 祥伝社

    ドストエフスキー 祥伝社

    初稿 2018年5月16日

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