少年たち ~皇帝暗殺と未来の12人の使徒
章の概要
アリョーシャは、一家の問題を解決すべく、ホフラコワ夫人の屋敷に向かいますが、その途中、橋のたもとで投石している少年たちと出会います。少年たちの標的は、掘割の向こうにいる小柄なイリューシャです。アリョーシャは、イリューシャを庇おうとしますが、逆にイリューシャに石を投げられ、指に噛みつかれます。
アリョーシャには、なぜ自分が見知らぬ小学生から恨まれるのか、まったく見当が付きません。しかし、用事が一段落したら、この謎を解き明かそうと決心します。
『第Ⅳ編 うわずり / 第3章 小学生たちと近づきに』では、未来の十二人の使徒となる少年たちとの出会いを描いています
動画で確認
TVドラマ『カラマーゾフの兄弟』(2007年)より。
掘割でイリューシャに石を投げる少年達。アリョーシャが止めに入りますが、逆に、イリューシャに噛みつかれます。
https://youtu.be/-YcFzj5MyMo?t=4994
原作だと、かなり至近距離から石を投げているイメージがありますが、実際にはこれぐらいだと思います。
また、原作では、アリョーシャは先に少年たちに話しかけ、それからイリューシャを庇いに行きますが、TVドラマでは、アリョーシャが直接イリューシャに話しかけ、指をかまれる脚本になっています。
※ スネギリョフとドミートリイの殴打事件の動画は記事後方にあります。
アリョーシャの衝撃 ~謂れのない恨み
アリョーシャは、ホフラコワ夫人の屋敷に向かう途中、掘割を挟んで、小学生の子供たちが石を投げ合っている場面に遭遇します。
下記の描写を見る限り、公立学校は、そこそこに裕福な子供も交じってるみたいですね。
広場を過ぎ、小さな掘割一つをへだてて(この町には掘割が縦横に通っていた)(注解参照)ボリシャヤ通りと平行して走っているミハイロフスカヤ通りへ抜けようと横丁へ折れたとたん、下手の橋のたもとに一団の小学生がたむろしているのが目に入った。せいぜい九歳から十二歳くらいまでの小さな子供たちばかりだった。学校からの帰り道らしく、ランドセルを背負っている者も、革かばんを肩からぶら下げている者もあり、学生服姿も、外套姿もいたが、なかには、金持の父親に甘やかされている幼い子供たちがとりわけ得意になって見せびらかしたがる、胴にひだの入った革長靴を履いている者までいた。
一方、掘割の向こうでは、イリューシャが一人で少年たちに立ち向かっています。
一方、掘割の向うには、こちらの一団から三十歩ほど離れたところに、もう一人子供が立っていた。やはり脇(わき)にかばんをぶらさげた小学生だが、せいぜい十歳くらい、いや、そこまでも行っていないくらいの背恰好に見え、顔色が悪く、病的な感じで、黒い目がきらきらと光っていた。
最初、アリョーシャは少年たちに話しかけ、投石を止めさせようとしますが、少年たちは構わず、イリューシャに石を投げつけ、イリューシャも石を投げて返します。しかし、その中の一つは、明らかにアリョーシャを狙ったものであり、ただならぬ気配を感じたアリョーシャは、イリューシャの方に向かい、石つぶてからイリューシャを守ろうとします。しかし、イリューシャはアリョーシャにも敵意を露わにし、アリョーシャは背中に石をぶつけられた挙げ句、指に噛みつかれます。
「向うで聞いたんだけど、きみはぼくを知っていて、なぜだかわざとぼくをねらったんだって?」
少年は暗い目つきでアリョーシャを見あげた。
「ぼくはきみを知らないけど、ほんとにきみはぼくを知っているの?」アリョーシャは重ねてたずねた。
「うるさくするない!」少年は突然いら立たしげに叫んだが、そのくせ、その場を動こうとはせず、あいかわらず何かを待ち設けるふうで、またもや憎悪に目を輝かせはじめた。
「じゃ、いい、ぼくは行くよ」アリョーシャは言った。「でも、ぼくはきみを知らないし、からかうつもりもないからね。あの子たちは、なんと言ってきみをからかうか教えてくれたけれど、ぼくはきみをからかったりはしたくないんだ、さよなら!」
「坊主のくせに舶来ズボン(注解参照)なんか穿きこんでさ!」
少年はあいかわらず敵意のこもった挑(いど)むような目つきでアリョーシャの後姿を追いながら叫んだ。そして、今度はアリョーシャがかならず飛びかかってくるに相違ないと、とっさに身構えたが、アリョーシャは振り返ってちらと彼を見ただけで、そのまま歩いて行った。ところが三歩も行かないうちに、少年の投げた石がいやというほど彼の背に当った。それは少年のポケットにあったいちばん大きな石ころであった。
≪中略≫
怒りたけった少年は、頭を下げて両手で彼の左手をつかむと、その中指に思いきり噛(か)みついた。そして指に歯を立てたまま、十秒ほど離そうとしなかった。アリョーシャは思わず悲鳴をあげ、力いっぱい指を引き離そうとした。ようやく少年は指を離して、もとの距離までとびのいた。指は、爪のつけ根のところを、骨に達するくらいひどく噛まれていて、たらたらと血が流れた。
骨に達するぐらい噛みつくとか、怖いですね🙄
少年イリューシャの態度にアリョーシャは激しい衝撃を受け、用事が一段落したら、その謎を解き明かそうと固く決心します。
アリョーシャにとって最大のショックは、突然、見知らぬ少年に石を投げられたことです。
生まれてこの方、誰の恨みを買うこともなく、天使のように愛されてきたアリョーシャにとって、見知らぬ他人、それも少年から敵意を向けられるなど思ってもみなかったからです。
存在するだけで、誰かに恨まれる。
アリョーシャは初めて、社会の理不尽を経験します。
貴族階級というだけで、恨まれ、蔑まれる現実。
兄や父の業深いために、自分まで巻き込まれる運命。
ゆえに、アリョーシャは、この問題を自分で解決しようと心を決めます。
ドミートリイの業とアリョーシャの償い
イリューシャがアリョーシャをはじめ、カラマーゾフ一家を目の敵にするのは、以前、ドミートリイがイリューシャの父親で、退役大尉でもあるスネギリョフの顎ひげをつかんで、往来に引きずり出し、公衆の面前で、殴る蹴るの暴行を加えたからです。(作中では、「スネギリョフ二等大尉」とも表記される)
この一件は、『第Ⅱ編 場ちがいな会合 / 第6章 どうしてこんな男が生きているんだ!』で、フョードルがドミートリイの暴力性を訴えるために、家族の会合で暴露します。
スネギリョフは、フョードルの使い走りで、ドミートリイ名義の手形をグルーシェンカに届けたことがありました。
『第Ⅱ編 場ちがいな会合 / 第6章 どうしてこんな男が生きているんだ!』で、ドミートリイの台詞、「あなたの代理人とかいうあの大尉は、あなたがいま凄腕といわれたその婦人のもとへ出かけて行って、あなたの持っているぼくの手形を引き受けてくれ、で、もしぼくがあまりうるさく財産の清算を迫ってくるようだったら、その手形をたねに訴訟を起して、ぼくを監獄へぶちこんでくれと、あなたの代理ということで頼みこんだじゃありませんか」で経緯が語られています。
スネギリョフにしてみたら、とんだとばっちりで、往来でドミートリイに殴られるいわれもありません。
しかし、それをイリューシャと少年たちが目撃し、学校で「垢すりへちま」と冷やかされた事から、イリューシャの心に憎悪が芽生えます。
イリューシャは学友たちに苛められてもひるまず、一人で戦っていたのでした。
アリョーシャは、そんなイリューシャ父子の境遇に心を痛め、救いの手を差しのべます。
いわば、フョードルが仕掛け、ドミートリイが無実の人を苦しめた業を、アリョーシャが自分の血をもって償うわけですね(イリューシャに噛みつかれた)。
アリョーシャは、イリューシャとの出会いを通して、貧民の苦しみや貴族社会に対する反感を体験します。
そして、この出来事が、幻の続編「第二の小説」で、アリョーシャを社会運動に向かわせます。
そんなアリョーシャに、十二人の使徒のように付き従うのが、イリューシャの葬儀に立ち会った少年たち(コーリャ・クラソトーキンがリーダー格)と言われています。
「カラマーゾフ」の姓が意味するもの
江川卓氏の著書『ドストエフスキー (岩波新書 評伝選) 』によると、イリューシャとの出会いと「カラマーゾフ」の名には次のような意味があります。
小説には、文字どおり「黒を塗られた」者たちも登場する。イワンが語る幼児虐待の話の中に、もらしたうんこを顔じゅうに塗りたくられて、便所の中で「神ちゃま」にお祈りを捧げる三歳の女の子の話が出てくる。ところが、「うんこ」を意味するロシア語の「カール」の語源を尋ねると、どうやらこれが「黒」や「汚泥」にかかわっているらしい。アリョーシャの未来にとって重要な意味をもつイリューシャ少年も、初めて小説に登場するときの服装描写を見ると、「右の親指のあたりに大きな穴があいていたが、そこにはたっぷりインクを塗りたくってあるらしかった」と書かれている。「インク」(ロシア語では「チェルニーラ」)も、明らかに「黒」(チョールヌイ)から作られた言葉である。
初めての出会いのとき、イリューシャ少年はアリョーシャの指に噛みつく。次章でホフラコワ夫人とリーザは、少年に「狂犬病」の疑いをかけて大さわぎをする。つまり「黒を塗られた者」としてのイリューシャは、このとき「黒を塗る」地主の出自をもつアリョーシャの体内に入りこんだ。こうしてアリョーシャは「塗る者」から「塗られた者」への転身をとげる。
このエピソードそのものは、ドストエフスキー一流のブラック・ユーモアだろう。しかしエピローグの最後、「石の傍らでの演説」で、アリョーシャが少年たちに向って、イリューシャの「美しい記憶を未来永遠にわたってぼくらの心の中に持ちつづけましょう!」と訴えるのは、もう冗談でもなんでもない。二十世紀初頭、ヴャチェスラフ・イワノフは、「一人ひとりが生きたイリューシャの存在を、自分自身と不可分のものとして自身のうちに納め入れる」という言葉で、これをドストエフスキーが発見した「新しい組織原理」であると論じた。この「組織原理」によって結ばれたアリョーシャと「十二使徒」が、爆弾による皇帝暗殺を実行するはずだったのである。
さらにひとつ、「黒を塗られた者」というイメージが、キリストの原義である「油を塗られた者(メシア)」との連想を誘うことも無視できない。アリョーシャ・カラマーゾフは、命名法から見ても「黒いキリスト」になぞらえられていたのである。
『謎とき『カラマーゾフの兄弟』 (新潮選書) 』にも、詳しい解説があります。(一部、重複します)
アカデミー版三十巻全集の注によると、ここでイリューシャ少年がアリョーシャに投げつける罵言「坊主のくせに舶来ズボンなんか履きこんでさ!」は、古来の聖者伝で、聖者、とくにユロージヴィ的な聖者が、しばしば子供たちから悪しざまな嘲笑を浴びせられる設定を想起させるという。
しかし、問題はそれだけでは終らない。「黒」との連想だけを考えてみても、この章には、「スムールイ」(浅黒い)という形容詞から派生した姓をもつスムーロフ少年の登場があるだけでなく、イリューシャ少年は「黒い目をきらきらと光らせ」ているし、スムーロフ少年は「黒の学生服」を着せられている。
さらに興味深いのは、このスムーロフ少年が左ききであることで、左ききが石を投げるという発想は、どうやら旧約聖書の士師記二〇の叙述、つまり、ベニヤミンの人たちの中には「左ききの精兵が七百人いて、いずれも一本の毛筋を狙って石を投げても、はずれることがなかった」を踏まえたものではないかと思われる。いや、これだけ神話的な道具立てがそろえば、そもそもこの章全体が、ユダヤ人に石をもって打たれようとしたイエスの事跡との連想で書かれていると考えてもよいはずである。イエスがユダヤ人に向って、「いずれのわざゆえに我を石にて打たんとするか」(ヨハネ一〇・三二)と問いかけるのをそのまま真似るように、アリョーシャは石を投げつけたイリューシャ少年に向って、「ぼくがきみに何をしたというんだい?」と問いかけている。
とくに注目されるのは、この章の最後に、アリョーシャがイリューシャ少年との出会いに謎めいた「強烈な衝撃」を受け、その謎を解き明かそうと固く決心した」と述べられていることである。むろん、アリョーシャがこう決心するのは、少年の足が「インクを塗られていた」からではなかった。ましてやそこに「カラマーゾフ」の字解きやキリストの黙示を読みとったからではなかった。「インクを塗られた」足は、本来はイリューシャ少年の置かれている状況をもっともなまなましく特徴づけ、この少年の存在に鮮烈なリアリティを吹きこむデテールとして機能しているはずのものである。しかし、そのような鮮烈なデテールであるからこそ、それは読者の記憶にも、むろん、アリョーシャ自身の記憶にも強く焼きつけられずにはいない。
おそらくアリョーシャは、長編の最後でイリューシャ少年を埋葬するそのときまで、この「インクを塗られた足」を記憶の中にもちつづけていただろう。いや、第二の小説で皇帝暗殺の罪を犯し、処刑されるそのときまで、この「黒を塗られた」足は彼の記憶の中に生きつづけるかもしれない。そして、そのような生命力あるイメージとして、もっともリアルな原イメージとして、このデテールはアリシャのものとなる。「黒を塗られた」イリューシャ少年が、「黒塗り」という姓をもつアリョーシャの中に入りこむのである。
冗談はさておき、ドストエフスキーが語りたかったのは、「インク」を塗られたり、「うんこ」を塗られたりした受難の小キリストたちが、アリョーシャ・カラマーゾフの中に入りこむことによって、アリョーシャの人間的成長に重要な役割を果したということだっただろう。このことによって、「黒を塗るもの」としてのカラマーゾフは、「黒を塗られたもの」と合体し、いわば「黒いキリスト」としてのアリョーシャ・カラマーゾフの人格が完成するのである。
第七編四章「ガリラヤのカナ」の章で、アリョーシャは大地に身を投げ、狂ったように大地に接吻しながら、一つの人間的変貌を体験する。「彼が大地に身を投げたときは、まだ弱々しい少年にしかすぎなかったが、ふたたび立ちあがったとき、彼はすでに生涯を通じて変らぬ不屈の闘士となっていた」とテキストにはある。この「不屈の闘士」に「黒いキリスト」の名を冠することは、書かれなかった第二の小説まで見とおした場合、ドストエフスキーの真意にもっとも近い解釈であるように思われる。
イエス・キリストが全人類の罪を購う為に十字架にかけられたように、アリョーシャも償いの人生を選ぶのだと思います。
父フョードルの業、貴族社会の業、それぞれの罪を背負って。
また、その姿が、多くの国民に悼まれて、本作の「作者」がアリョーシャの伝記を書くに至ったのではないでしょうか。
【序文】「カラマーゾフの兄弟」の全てが凝縮した『作者より』と二部構成の謎)
少年たちのエピソードは、「第一の小説」(現存の「カラマーゾフの兄弟」)の中で、完全に回収されてない為、読者泣かせの設定ではありますが、「第二の小説」がアリョーシャと少年達をメインにした物語――と思えば、納得もいきます。
恐らく、初めて「カラマーゾフの兄弟(第一の小説)」を読んだ読者は、イリューシャの葬儀と「カラマーゾフ万歳」で終わっているのに、違和感を覚えるでしょう。
え? これがエンディング?
ドミートリイがシベリアに送られて終わりじゃなかったの? と。
実は、その先が本編で、アリョーシャが、フョードルの父の業を背負い(愚かな皇帝)、ドミートリイの冤罪をなぞらえる(皇帝暗殺未遂の嫌疑)予定だったと知れば、本作の見方も随分変わってくると思います。
動画で確認
TVドラマ『カラマーゾフの兄弟』(2007年)より。
ドミートリイがスネギリョフの顎ひげを掴んで往来に引きずり出し、それを少年たちが目撃する場面です。
https://youtu.be/-YcFzj5MyMo?t=4994
往来でスネギリョフを殴りつけるドミートリイと、止めに入るイリューシャ。
それを少年たちが目にして、イリューシャの父親を「垢すりへちま」と馬鹿にし、掘割での石投げに繋がるわけですね。
アリョーシャも小児性愛者?
ちなみに、このパートでは、アリョーシャが子供好きである事実が語られ、小児性愛の一面を窺わせる――と言われています。
アリョーシャは子供を見かけると、けっして知らん顔で素通りできないほうだった。これはもうモスクワにいたころからそうで、彼がいちばん好いていたのは三歳ぐらいの幼い子供だったが、十歳か十一歳ぐらいの小学生にも目がなかった。
イワンと『料亭みやこ』で語り合う場面で、「アリョーシャ、実を言うと、ぼくも子供が大好きなんだ。それに、覚えておいてもらいたいが、冷酷で、はげしくって、肉欲の強い人間、カラマーゾフ的な人間は、どうかするとひどく子供好きなものらしいぜ」というイワンの台詞がありますが、アリョーシャも同類ということではないでしょうか。
また、ラキーチンとの会話で、「やっぱりきみもカラマーゾフなんだな、完璧なカラマーゾフなんだな」という台詞がありますが、アリョーシャの中にも、淫蕩父フョードルや二人の兄たちに似た情欲が眠っている――ということで間違いないと思います。
江川卓による注解
この町には掘割が縦横に通っていた
アリョーシャが、石を投げる少年たちに出会った場所。
話の糸口をつくった
アリョーシャが少年グループに話しかける場面、
だが、どうやら、敵対関係にあるらしかった。アリョーシャはそばへ寄って、ブロンドのちぢれ毛をした、血色のいい、黒の学生服姿の少年をつかまえ、その様子を眺めまわしながら、こう話しかけた。
「ぼくがきみたちみたいなかばんを下げていたころには、みんな左側に下げていたもんだよ。右手ですぐにものが出せるからさ。でもきみはかばんを右側に掛けているね、ものが出しにくいんじゃないかい」
アリョーシャはわざとらしいけれん味などみじんもなく、いきなりこういう実際的な注意で話の糸口をつくった
「こいつは石を投げるのも左なんだ」
イリューシャに石を投げる少年たちのグループにいる、スムーロフ君のこと。イリューシャが死んだ時も、激しく泣きながら、煉瓦のかけらを雀の群れに投げつけたりしている。未来の武闘派?
インクを塗りたくってある
イリューシャとインクについては、上述の「カラマーゾフ」の意味を参照のこと。
舶来ズボン
イリューシャがアリョーシャの服装を見て、蔑むように言う言葉。