江川卓『カラマーゾフの兄弟』は滋賀県立図書館にあります詳細を見る

    人間は近づきすぎると愛せない

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    『カラマーゾフの兄弟』 第1部 第五編 『ProとContra』 より

    『ぼくはこの神の世界を認めないんだ』というイワン。長兄のドミートリイに『墓石(無口)』と呼ばれ、一見、心の冷たそうなイワンだが、アリョーシャに対しては兄弟らしい情を示し、聞き上手なアリョーシャを相手に、素直に自身の考えや葛藤を語る。

    「ぼくは身近な人間をどうして愛することができるのか、どうやってもわからないんだ。ぼくに言わせると、身近だからこそ愛することができないんで、愛せるのは遠くにいる者にかぎるんだよ。

    ぼくはいつだったかある本で『恵み深きヨアン』(そういう聖者がいたんだ)の話を読んだことがある。あるとき、飢えて凍えた一人の旅人が彼を訪れて来て、自分の温めてくれと乞われた。するとその聖者は彼と一つ寝床に寝てやって、彼を抱きしめ、何かの恐ろしい病気のために腐りかけてすさまじい悪臭を放つ彼の口へ息を吹きかけてやったと言うんだ。

    ぼくの確信によると、その聖者がそんなことをしたのは、偽りの感情でうわずりになったせいで、義務感に命じられた愛のため、自分に課した宗教的懲戒のためだったに相違ないと思うんだ。

    ある一人の人間を愛するためには、その相手に隠れていてもらわなくちゃだめだ、ほんのちょっとでも相手が顔をのぞかせたら、愛はたちまち消えてしまうのさ」 (302P)

    これも抽象的だが、教育関係者と不良息子に喩えると分かりやすい。

    対外的な子育て論は立派だが、我が子に対してはまったく通用せず、立派な教師の息子が案外落ちこぼれだったりする。

    子供全体を愛するのは誰でもできるが、我が子と一対一になると、互いの粗が見えたり、感情的になったり、かえって上手くいかなくなるからだ。

    『ほんのちょっとでも相手が顔をのぞかせたら』というのは、相手のことが見えすぎると……と解釈しよう。

    アイドルも遠くにいるから好きでいられる。自分の親兄弟なら、気持ちもまったく違うはずだ。

    江川氏の注釈によると、『恵み深きヨアン』とは、

    6-7世紀のアレクサンドリアにこの名の聖者がいて、その恵み深さで知られていたが、ドストエフスキーはこの実在の聖者ではなく、フローベル作の『恵み深きジュリアンの伝説』からこのエピソードを取っているらしい。この作品は1877年にツルゲーネフによってロシア語に訳されている。聖者の名をジュリアンからヨアンに変えているのは、イワン自身の名と同じ名にして(ヨアンはロシア語ではイワン)、作品の中に位置づけようとした意図と考えられる。なお、ジュリアン聖者は若い時に父親殺しの罪を犯していて、その後の生涯でその罪をあがなおうとしていた。

    「それはゾシマ長老が何度もおっしゃったことです」とアリョーシャが口をはさんだ。

    「あの方も、人間の顔は、まだ愛の経験を積んでいない多くの人々にとって、しばしば愛することの障害になる、とおっしゃっておいででした。でも、人間にはさまざまな愛の形があって、なかにはほとんどキリストの愛にひとしいようなものさえありますよ、これはぼく、自分でもわかるんです、イワン……」

    「ぼくに言わせると、人間に対するキリスト的愛というのは、この地上にはありうべからざる一種の奇跡なんだよ。なるほど、彼は神だった。しかしわれわれは神じゃないからね。

    たとえばだ、仮にぼくが申告に苦悩することができるとしても、他人には、ぼくの苦悩がどの程度までのものかはけっしてわからない、なぜなら、彼は他人であって、ぼくではないからだ、そのうえ人間というやつはめったに他人を苦悩者とは認めたがらないものでね(まるで簡易ででもあるかのようにだ)、どうして認めたがらないのか、おまえはどう思う?

    それはだね、たとえば、ぼくの身体からいやな臭いがするとか、ぼくが間の抜けた顔をしているとか、ぼくにいつか足を踏まれたことがあるとか、そういう理由からなんだ、

    おまけに苦悩にもいろいろあってね、ぼくの品位を下げるような屈辱的な苦悩、たとえば、空腹感みたいなものなら、まだしもわが慈善家宣誓も認めてくれるだろうが、これがすこし高級な苦悩、たとえば、思想のための苦悩となると、もうそうはいかない、まずめったなことでは認めてもらえないんだ、

    なぜかと言うと、その慈善家宣誓が、たとえば、ぼくの顔を見たとたん、自分が空想の中で、これこれの思想のために苦悩している人間の顔はかくあるべきだと決め込んでいたのと、まるっきりちがう顔を見出すかだなんだ、そうなるともうその宣誓は早々にぼくに恩恵をほどこすのをやめてしまうがね、≪中略≫ 抽象的にならまだ身近の人間を愛することができるし、遠くからならまだなんとかなる、しかし近くからではほとんどだめだ」

    『この地上にはありうべからざる一種の奇跡』というのは、江川氏の注釈によると、

    ドストエフスキーは1864年、最初の妻マリヤの死の直後、その遺体を前に、ここに述べられたとそっくり同じ思想を日記に書き付けている。「キリストの戒律のままに人間を自分自身と同じく愛すること――それは不可能である。地上における個としての人性の法則がわれわれを縛る。自我がさまたげとなる。ひとりキリストのみがよくなしえたが、しかしキリストは、太古から人間がそれをめざし、また自然の法則によってそれをめざさざるをえないでいる永遠の理想である」

    それにしても、イワンという人は『無神論者』のイメージが強く、人間にも世界にも冷めたような感があるが、料亭『みやこ』の語らいを読むと、一気に印象が変わる。ゾシマ長老のところでも斜に構えた感じで、いかにもひねくれた人間を思わせるが、それは神を信じきれない自分を恥じ入る気持ちだったのではないかと。

    ドミートリイ、イワン、アリョーシャの中で、あなたは誰に近いですかと問われたら、私は躊躇いなくイワンと答える。

    そうなってしまうんだ。

    あまりに深く人間や世界に関心を持ちすぎると。

    出典: 世界文学全集(集英社) 『カラマーゾフの兄弟』 江川卓

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