江川卓『カラマーゾフの兄弟』は滋賀県立図書館にあります詳細を見る

    子は永久に『子』~父親という人生の負債(5-2)

    父親という人生の負債
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    『カラマーゾフの兄弟』 第1部 第1編 『ある一家の由来』 より

    (5) 長老

    リアリストは自分が信じたいものを信じる ~アリョーシャの魅力と未来への伏線(5)の続き

    『カラマーゾフの兄弟』の面白いところは、皆、やってることがハチャメチャにもかかわらず、『根っからの悪人』は一人も存在しない点である。

    淫蕩父のフョードルにしても、激情家のドミートリイも、実際に周りにいたら迷惑この上ないが、彼等が本気で人を騙したり、傷つけるつもりでそうしているかといえば、決してそうではなく、自分に正直に振る舞った結果であり、そこに邪心はない。邪というなら、澄ました顔で後ろから殴る奴、ニコニコしながら陰口を叩く人間の方がよほど悪質だ。フョードルも、ドミートリイも「どうしようもないクズ」には違いないが、人間としては、結構、純粋な部類に入るのだな。”周りをうんざりさせる”という点を除いては。

    そんな彼等の人間性を表す例として、こんな場面がある。

    ちょうどこうした時期に、この乱暴な一家全員の顔合わせ、というより一種の家族会議が長老の庵室で行われ、それがアリョーシャに異常に強烈な印象を与えることになった。

    この会合の名目は、実を言うと、まったくいい加減なものであった。

    折りから、遺産相続と財産上の決済をめぐるドミートリイと父親フョードルのいさかいは、明らかに、もうどうにもならないところまで行って、二人の関係は手のつけられぬほど緊迫化していた。そこで、なんでもフョードルのほうから、おそらくは冗談半分に、ひとつゾシマ長老のところにみなで集まってみたら、という案が出されたということらしい。直接に長老の仲裁を求めないまでも、長老の地位と顔がものをいって、ことも穏便にはこび、いくらかはまともに話もまとまるのではないかというわけだった。

    ここで興味深いのは、おそらくは冗談半分にという記述だ。

    高徳の僧、ゾシマ長老に、金銭問題の調停を依頼するにあたって、フョードルには二つの動機がある。

    一つは、本当に父親として無力であることを痛感し、どこかの偉い人に問題を丸投げしたい気持ち。

    もう一つは、相手の徳が高ければ高いほど、おちょくって、引きずり落としてやろうという、ふざけた根性だ。

    陰湿ではなく、“いけず”。

    見方を変えれば、フョードルも表面的にはハチャメチャだが、内実は人間観察力に優れ、頭もいい。人間を解すユーモアがあるから、高徳の僧をおちょくってやろうという気にもなるのだ。それはまた、イワンやアリョーシャの頭の良さに通じるものがある。

    一方、長男のドミートリイは、

    長老を訪ねたことはもちろん、その顔も知らなかったドミートリイは、むろんのこと、長老なんぞかつぎ出してきて自分をおどかす来だな、と勘繰ったが、このところ父親とのいさかいでひどく乱暴な振舞に出ているのを、内心苦に病んでいた矢先であったので、この申し出を受けて立つことにした。

    “内心苦に病んでいる”のですよ、皆さん……。

    これが『子』たるものの正体と言えば、納得して頂けるのではないかと思う。

    父親を殺したいほど憎んだとしても、親は親、子は親には永久に逆らえない。

    たとえ相手が強欲な淫蕩父でも、育児放棄するような親でも、子は生まれながらに十字架を背負わされたように、親を慕って生きていく。

    心底から否定などできるわけがない。それゆえに苦しむのである。

    この時点で、ドミートリイの内心の葛藤がはっきり書かれている以上、後の父親殺しの容疑者には成り得ない。少なくとも、読者には「ドミートリイではない」と分かる。

    彼は殺したいほど憎んでも、実際に父親に手をかけるほど、背信的にはなれないのだ。たとえ、アリョーシャのようにキリスト教に帰依しなくても、生まれながらに人間に組み込まれた善性によって、そうした畏れと自制心を備えている。

    この二箇所の対比を見れば、この悶着において、フョードルがどれほど立場が強いか分かるだろう。それはまた、あまたの父子関係にも当てはまることである。

    親の因果が子に報い……というけれど、ドミートリイもとことん哀れだ。

    彼は父親の分まで良心の呵責に苦しみ、その咎を償う為にこの世に生まれてきたようなものである。

    出典: 世界文学全集(集英社) 『カラマーゾフの兄弟』 江川卓

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