江川卓『カラマーゾフの兄弟』は滋賀県立図書館にあります 詳細を見る

【43】 一本のねぎと『蜘蛛の糸』 一筋の救いも利己心で切れる

アリョーシャの膝に手を置くグルーシェンカ
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ゾシマ長老の死後、奇跡が起きないどころか、フェラポント神父らに貶められたことで、アリョーシャは大きなショックを受けます。

そこにタイミングよくラキーチンが現われ、自暴自棄になったアリョーシャを淫婦グルーシェンカの住まいに連れて行きます。

『第Ⅶ編 アリョーシャ / 第3章 一本のねぎ』では、アリョーシャの優しさが堕落の誘惑を遠ざけ、グルーシェンカとの心の交流を深める場面が描かれています。

動画で確認

映画『カラマーゾフの兄弟』(1968年)より。1分クリップ。

グルーシェンカに招かれたアリョーシャが、まるで幼い少年みたいにグルーシェンカと向かい合い、グルーシェンカも食べる気満々で、妖艶な笑みを浮かべます。
衣装や丁度など、原作の雰囲気を忠実に再現しています。

目次 🏃‍♂️

一本のねぎと『蜘蛛の糸』

グルーシェンカの誘惑

ドミートリイ、フョードルをはじめ、町中の男たちが熱を上げ、良識ある人からは『淫売』と罵られるグルーシェンカとはどんな女性なのでしょうか。

グルーシェンカは本名を「アグラフェーナ・アレクサンドロヴナ」と言います。

今でこそ(半ば憧れを込めて)淫売と称されますが、十七歳の時、ポーランド人の将校に見初められて結婚したものの、すぐに捨てられ、恥辱と貧困の中に置き去りにされた過去がありました。その後、裕福な商人で、町長でもあるサムソーノフの囲い者になります。そのおかげで、世に辱められた哀れなみなし子は、血色のよい、むちむちとした肉体美の美女に成長しますが、それ以上に特筆すべきは、金儲けの才能でした。時には、フョードル・カラマーゾフと組んで、手形の買い占めでボロ儲けすることもあり、ついにはサムソーノフの信認も得て、資産の一部を譲り受けます。

そんな彼女は、ソボルナヤ広場に近い、町でいちばんにぎやかな界隈に、サムソーノフ証人の後家モロゾワ夫人の中庭にある小さな木造の離れを借りて住んでいました。

家には女中が二人おり、一人はたいそう年寄りの女で、もう一人は二十歳ばかりの元気な小娘のフェーニャです。

アリョーシャがラキーチンに連れられてやって来ると、グルーシェンカは大喜びで迎え入れます。

映画でも、さりげにボディタッチ(アリョーシャの太ももに手を置く)していて、なかなかスリリングです。

しかしながら、アリョーシャは、「淫売」のグルーシェンカに、感じの良い一面を見出し、ひどく驚きます。

彼女ははしゃいだ様子でアリョーシャのすぐ横に腰をおろすと、うっとりしたように彼の顔を見つめていた。彼女がうれしかったことは事実で、その言葉に嘘はなかった。彼女の目は燃えるように輝き、口もとは笑っていたが、それは素直な、楽しげな笑いだった。アリョーシャは、彼女がこんな善良な表情を見せようとは思いもかけなかった……

きのうまで、彼はほとんど彼女に会ったことがなく、何か薄気味の悪い女性という観念を頭の中で作りあげていたし、きのうはきのうで、カチェリーナに対する毒々しいまで狡猾な仕打ちにはげしいショックを受けもしたので、いま突然彼女の中に、まったく別人のような、予想外の人間を見出してひどく驚いたのである。

確かにいまの彼は自分自身の悲しみにひどく打ちひしがれていたが、その目は思わず知らず彼女を凝視しないではいられなかった。彼女の物腰からして、きのうとは打って変って感じのよいものだった。きのうのような例の甘ったるい口のきき方もほとんど消えていたし、あのなよなよと妙に気取った身ぶりもかげをひそめていた……すべてがさっぱりして素直だった動作はてきぱきと素早く、裏のない感じだった。ただ、彼女はひどく興奮していた。

アリョーシャを見つめるグルーシェンカ

グルーシェンカは、ゾシマ長老の死に茫然自失とするアリョーシャの膝に乗って、彼を抱きしめます。

アリョーシャにとってはあるまじき行為ですが、アリョーシャは意外にも嫌悪や淫らな気持ちではなく、「特別な感情」を抱きます。

というのも、「二人の女の愛と意地 ~プライドは愛より強し? 令嬢カチェリーナ」で描かれているように、ドミートリイの使いでカチェリーナを訪ねた時、その心証は決して好ましいものではありませんでした。

彼女のせいで、兄と父が争っていることもあり、アリョーシャにとっては、災いの女に他ならなかったからです。

グルーシェンカに迫られ、ビビるアリョーシャ。可愛い。
アリョーシャにせまるグルーシェンカ

ところが、実際、間近に接してみると、思い描いていたような悪女ではないことに気付きます。

だが同時に彼は、茫漠としてとらえどころもなく、また悲しみに打ちひしがれた精神状態にあったにもかかわらず、やはり自分の内部に生れてくる一つの新しい未知の感覚に驚かないではいられなかった。つまり、この女、この《恐ろしい女》は、これまで女というものについての想念がちらとでも心にひらめくたび、きまって彼の胸に生じた恐怖、あの以前の恐怖心を呼び起さないばかりか、むしろ反対に、いままでほかのだれよりも恐れていたこの女、いま彼の膝に乗って彼を抱きしめているこの女が、突然まったく別の感情、思いもかけなかった特別の感情を彼の心に呼びさましたのだった。

それは彼女に対するいわば異常ともいえるほどの、このうえもなく大きい、純真そのものの好奇心であったが、そういった一切が、いまはなんの危惧も、以前のような嫌悪感の片鱗をさえ感じさせないのである――これが思わずも彼を驚かせた最大の原因であった。

そんなアリョーシャの内面に気付きもせず、グルーシェンカは嬉しそうに彼の目を見つめ、「さあ、坊や、こっちを見て笑ってちょうだい、楽しそうにしてよ、あたしの馬鹿な喜びようを笑ってちょうだいな……あら笑ったわ、笑ってくれたのね! なんてやさしい目かしら。でもね、アリョーシャ、あたし、おとといのことで、あのお嬢さんのことで、あんたが怒ってるとばかり思ってたの」と親しみを打ち明けます。

正直言うとね、アリョーシャ、前にはあたし、あんたにずるい魂胆を持っていたわ。だってあたしは卑しい女だし、気ちがいじみた女だもの。でもね、アリョーシャ、そんなあたしにも、あんたがあたしの良心みたいに思えるときがあったの。しょっちゅうこう考えるのよ、『こんなふうじゃ、きっとあの人に、けがらわしい女だって軽(けい)蔑(べつ)されちゃうわ』って。おとといも、お嬢さんのところからここへ駆けてくる途中でそう思ったの。あたし、もうずっと前からあんたのことをそう見ていたのよ。 ≪中略≫

信じてもらえるかどうかわからないけど、どうかするとね、アリョーシャ、あんたを見ていると、ほんとに恥ずかしくなってくるときがあるの、自分ってものがすっかり恥ずかしくなるの……どうしてあんたのことをこんなふうに考えるようになったのか、いつごろからそうなったのか、あたしにはわからないし、憶えてもいないけど……

そして、アリョーシャがゾシマ長老の死に打ちひしがれていることを知ると、「まあ、ちっとも知らなかったわ!」彼女はうやうやしく十字を切った。「だのに、あたしったらどうしよう、あたし、この人の膝に乗っかったりして!」と姿勢を正し、アリョーシャの胸の痛みに同調します。

アリョーシャを堕落させようと、ギターを奏でるラキーチン。
ギターを弾くラキーチン

「姉さん」 あなたが僕の魂を立ち直らせてくれた

しかし、アリョーシャを堕落させるつもりで連れてきたラキーチンは面白くありません。

アリョーシャが自棄を起こして、神さまに謀反を起こすつもりだったこと(肉食と色情の誘惑に堕ちる)、また、グルーシェンカが彼を「取って食うつもりだった」と暴露し、二人の間に波を立てようとします。

そんなラキーチンに対して、アリョーシャは、グルーシェンカに対する好意を打ち明け、彼女の同情に感謝します。

この女(ひと)を見たまえ、この女(ひと)がぼくをかわいそうに思ってくれたのがわかったろう? ぼくは邪悪な魂を見出すと思って、ここへ来た。ぼく自身、それに惹かれて来たんだ、なぜってぼくも卑しい、邪悪な気持でいたからね。ところが、ぼくが見出したのは誠実な姉さんだった、宝物を――愛する魂を見つけたんだ……この人はいまぼくをかわいそうに思ってくれた……アグラフェーナさん、ぼくはあんたのことを言っているんですよ。あんたがいまぼくの魂を立ち直らせてくれたんです」

それでもラキーチンは、「二人ともまるで気がちがったみたいだ! 二人揃ってセンチになってさ、いまにも泣きださんばかりじゃないかと嘲ります。

そんなラキーチンに対し、グルーシェンカが語って聞かせるのが、「一本のねぎ」です。

ラキートカ、あたしは悪い女にはちがいないけれど、こんなあたしでも一本のねぎを人にやったことはあるのよ

一本のねぎ ~意地悪婆さんと天使の救い

『むかし、あるところに、それはそれは意地の悪いお婆さんがいて、ぽっくり死んでしまいましたが、一生の間に何一つよいことをしませんでした。そこで悪魔がお婆さんをつかまえて火の海に投げ込んでしまいました。

お婆さんの守護天使は、せめて一つぐらいお婆さんのよい行ないを思い出して、神さまに申しあげるわけにいかないだろうかと、じっと立って考えていますと、ふとこのお婆さんが、畑から一本ねぎを抜いてきて、乞食に恵んでやったことがあるのを思い出しました。

そのことを神さまに申しあげると、では、そのねぎを取ってきて、火の海のお婆さんに垂らしてやり、それにつかまらせて、たぐってみるがよい、うまく引きあげられたら天国へ行かせてやるが、もしねぎが切れてしまったら、お婆さんはいまいる場所にとどまるしかない、というご返事です。

そこで天使はお婆さんのところへ飛んで行き、ねぎを垂らしてやりました。さあ、お婆さん、これにつかまってあがって来なさい。天使はお婆さんをそろりそろり引っぱりあげました。

そして、もうすこしですっかり引きあげられるというときに、海の中にいたほかの罪人たちが、お婆さんが引きあげられるのを見て、自分たちもいっしょに引きあげてもらおうと、みんなしてお婆さんにつかまりました。

ところがこのお婆さんは、それはそれは意地の悪い人でしたから、足をばたばたやってみんなを蹴とばしながら、「引っぱってもらってるのはわたしだよ、おまえたちじゃないよ、わたしのねぎだよ」と叫びました。ところが、お婆さんがそう叫ぶが早いか、ねぎはぷつりと切れてしまいました。

お婆さんはまた火の海に落ちて、いまでもそこで燃えています。天使は泣く泣く帰って行きましたとさ』

この話、どこかで聞いたことがあると思いませんか?

そう、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』です。

『蜘蛛の糸』が児童向け文芸雑誌『赤い鳥』に掲載されたのが1918年(Wiki参照)、『カラマーゾフの兄弟』が初めて日本で紹介されたのが1914年・米川正夫訳(ドストエフスキー翻訳作品年表)なので、何らかの形で影響を受けたのではないか……と考えるのが妥当でしょう。もちろん、それを裏付ける資料などは存在しませんが。ちなみにドストエフスキーは1880年に本作を完結した後、1881年に没しています。

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一筋の救いも利己心で切れる

芥川龍之介の『蜘蛛の糸』では、極楽のお釈迦様が地獄に堕ちた大泥棒のカンダタを憐れみ、この大泥棒も、一生に一度だけ、蜘蛛の命を救ってやったことを思い出して、救いの糸を垂らしてやります。カンダタは糸にしがみつき、必死で上り始めますが、他の罪人たちも彼の後についてきた為、「降りろ、降りろ、この糸は俺のものだ」とわめきます。その瞬間、糸はぷっつり切れて、カンダタは再び、地獄に真っ逆さまに落ちていく……という話です。

どちらも共通しているのは、罪人にも善心が存在し、救済の機会も訪れるが、利己心をむき出しにすれば、その機会も失われる、ということ。

彼らは罪を犯したから地獄に居るのではなく、自分が助かることしか考えないから、いつまでも地獄から這い上がれない、という喩えです。

人が罪深いのは、意地悪婆さんやカンダタに限った話ではありません。

アリョーシャも「ぼくは邪悪な魂を見出すと思って、ここへ来た。ぼく自身、それに惹かれて来たんだ、なぜってぼくも卑しい、邪悪な気持でいたからね」と自覚しています。グルーシェンカも、人前では強気ですが、結婚相手に捨てられたり、裕福な商人の囲い者になったり、フョードルと共謀して金儲けに走ったり、そんな自分を心の底では軽蔑しています。自分は善人と言いきる方が不実というものでしょう。

だからこそ、天の神さまも、お釈迦さまも、一度は救いの手を差しのべます。

しかし、直接天国に掬い上げるのではなく、心の地獄から自分で這い上がってこい、というわけですね。

そして、その手段は、蜘蛛の糸のように細く、ネギのように脆い。

救済の手段としては、かなりハードと言わざるを得ません。

あんな細い糸に大勢がしがみついたら、意地悪婆さんやカンダタでなくても、「降りろ、降りろ」とわめくでしょう。どうせならナイロンザイルぐらい丈夫な糸を垂らしてくれたらいいのに、そうはならないのは、「救済の太さ」とその人が為した善の量は同じだからでしょう。

意地悪婆さんもカンダタも、ちらとでも他者を気遣う気持ちがあれば、糸はみるみる太くなり、彼らだけでも助かったかもしれません。なぜって、一本のネギも蜘蛛の糸も、利己主義な人間の目前でぷっつりと切れてしまうからです。

現実社会においても、誰かが救いの手を差しのべても、「もっと寄越せ」「あいつより少ない」「俺から先に配れ」と文句ばかり言っている人がいます。そういう人は何をもらっても感謝の念はないし、むしろ「足りない」「これじゃない」と不満がつのるばかりです。

逆に、一切れのパンでも、「こんな非常時に有り難い」と感謝の気持ちで受け取る人は、いつも「ありがとう」の気持ちを欠かさないので、周りにも真っ先に気に懸けてもらえるし、またその感謝の念で援助する人も救うものです。こんな私でも人の役に立つことができた、と。

仏教では『長い箸の喩え』もあるように、極楽と地獄にあるものは同じと言われています。極楽では、皆が長い箸を上手に使い、「あなたからどうぞ」の気持ちで食べものを分け合うので、いつも満たされていますが、地獄では、我先に満たされようとするので、長い箸を使いこなすことができません。いつもお腹が空いて、喧嘩ばかりしています。

人の世も同じ、救いの手はそこら中にあるのに、「これじゃない」「もっと欲しい」の欲張りで、自分から助かる機会をぶち壊し、いつまでたっても地獄から這い上がれない人はたくさんいます。

か細い糸に見えても、思いやりや感謝によって、それはどんどん太く、強く、なるのかもしれませんね。

*

グルーシェンカの話に登場する『ねぎ』は、日本の青ネギ(green onion)や白ネギ(leek)ではなく、薬草のチャイブ(Chives)ではないかと思います。「エゾネギ」「セイヨウアサツキ」の和名で知られます。欧州では料理の仕上げに使われ、サラダやスープの薬味に最適です。青ネギや白ネギと異なり、スパイシーな苦みが特徴です。

Botanical illustration
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君はキリストじゃないし、僕もユダじゃないからね

かくしてアリョーシャはグルーシェンカの心を溶かし、アリョーシャもグルーシェンカの気づかいに救われます。

さながら義理の姉弟のように心を交わすと、ラキーチンは「そんな馬鹿な」と悔しがりますが、グルーシェンカはラキーチンの底意地の悪さを詰り、アリョーシャにありったけの情愛を示します。

そして、かつての結婚相手(ポーランド人)がモークロエに来ていることを知ると、「さよなら、アリョーシャ、運命が決まったの。お兄さんのミーチェンカによろしく言ってね、それから、この悪い女を、悪く思わないでちょうだいって。もう一つ、『グルーシェンカは、あんたのような高潔な男のものでなく、卑しい男のものになりました!』って、このとおりの言葉で伝えてほしいの」「それからもうひと言、グルーシェンカは一時間だけあの人を愛したことがあるって、たったの一時間だけだけれど、愛したことがあるって。だからその一時間を、これからの生涯けっして忘れないように、これはグルーシェンカの一生のお願いだって!……」と迎えの馬車に乗りこみます。

まったく予想外の展開に、ラキーチンが不快感を露わにすると、アリョーシャもラキーチンに対する失望を滲ませます。

というのも、ラキーチンは、25ルーブリと引き換えに、グルーシェンカの所に連れてくると約束していたからです。同情は上辺だけで、心の底では、アリョーシャがグルーシェンカの色香に惑わされ、世間の笑いものになることを望んでいたからですね。

「つまり、堕罪女を回心させたってわけかい?」彼は毒々しい笑いをアリョーシャに浴びせた。「淫売を真理の道へ向けたってわけか? 七匹の悪鬼を追い出したつもりか(注解参照)、ええ? 待望のわれらが奇跡、ここに実現せりか!」

「やめてくれ、ラキーチン」胸に苦しみを抱えた声でアリョーシャが答えた。

「なるほど、さっきの二十五ルーブリの件でぼくを《軽蔑》しているんだな? 真の友を売ったというわけだ。だがね、きみはキリストじゃないし、ぼくもユダじゃないからね(注解参照)

「ああ、ラキーチン、ほんとの話、そのことは忘れていたんだ」アリョーシャは叫んだ。「きみに言われて、いまやっと思い出したくらいだ……」

しかしラキーチンは、もう完全に腹を立ててしまった。「畜生、きみらみたいな連中は悪魔にでもさらわれるがいいや!」彼は突然わめきだした。「まったく、なんだってきみなんかと関わり合ったんだろう! 今後、きみなんかとはもうつき合いたくもない。さっさと行きやがれ、きみの道はそっちだ!」

そう言うと、アリョーシャ一人を暗闇の中に置きざりにして、彼は別の通りへ急に折れて行った。アリョーシャは町を出はずれて、野中の道を僧院へと歩いて行った。

ラキーチンの「二十五ルーブリ」については、江川卓の『謎とき『カラマーゾフの兄弟』 (新潮選書) 』に次のような解説があります。

失意のアリョーシャをラキーチンがグルーシェンカのもとへ案内するくだりでは、ラキーチンが「二十五ルーブリ」で「真の友を売った」という自責へのためか、アリョーシャに向かって、「だがね、きみはキリストじゃないし、ぼくもユダじゃないからね」と釘をさす場面が設定されている。(第Ⅶ編 三章)。ソ連のヴェトロフスカヤ女史などは、この挿話から、ラキーチンは本来は「オシーニン」と呼ばれるべきであったという説を立て、ラキーチンに「ユダ」のイメージを認めるよう主張している。

「オシーニン」は「オシーナ」(やまならし)から派生した姓だが、「ラキーチンは「ラキータ」(柳)から派生している。ドストエフスキ-は、あまりに底が割れてしまうことを恐れて、「オシーニン」姓は採らなかったが、その代り、野中の四つ辻でドミートリイとアリョーシャが出会う場面に「一本柳」と「首吊り縄」を用意して(第Ⅲ編 十一章)、そのイメージを補強しているというのである。

ユダといえば、イエスの熱心な弟子でありながら、「銀貨三十枚」でイエスを裏切り、イエスに有罪判決が下ると、罪の重さに耐えきれず、首を吊って死んでしまいます。

ユダ、自殺する
そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。 そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。 6祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、 相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。 このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。
- マタイによる福音書 第二十七章

度重なる恥と恨みから、ラキーチンがアリョーシャを破滅させる機会を虎視眈々と狙っているのは確かで、幻の続編では、ユダ的な役回りをするのは確実でしょう。

グルーシェンカの住まいを出てから、「まったく、なんだってきみなんかと関わり合ったんだろう! 今後、きみなんかとはもうつき合いたくもない。さっさと行きやがれ、きみの道はそっちだ!」と言い捨て、それぞれ違う道に行ってしまう描写が印象的です。

ラキーチンの場合、「なんだってきみなんかと」というのは、アリョーシャの事が嫌いというよりは、アリョーシャみたいな人間と一緒に居ると、自分の卑小さが身に染みて(生まれ育ちを含めて)、自尊心が傷つくからでしょう。

アリョーシャは、まるで謂れのない理由で恨まれるわけですが、人間関係というのは、得てしてそういうものだと思います。

※ ちなみに、ラキーチンはドミ-トリイの裁判で、証言台に立ったグルーシェンカに「いとこ」であることを暴露され、大恥をかきます。

【コラム】 この人だけがわたしを憐れんでくれた ~グルーシェンカとアリョーシャの友情

『一本のねぎ』も、見どころの多い章ですが、もっとも美しい箇所は、淫婦と呼ばれるグルーシェンカがアリョーシャの優しさに心を打たれ、生来の自分を取り戻す場面でしょう。

グルーシェンカはポーランド人に捨てられた後、世間の偏見や惨めな過去と戦いながら逞しく生きてきました。その過程では、他人に強く言い返すこともあれば(カチェリーナの時のように)、懸想する男達を愚弄することもあったでしょう。そして、そんな自分を心の底では恥じていたと思います。

聖書のキャラクターに喩えれば、「罪深い女」といったところでしょうか。

一見、こわいものなしのグルーシェンカも救いを待っていました。下心ではなく、無条件で自分の全存在を肯定してくれるものです。

グルーシェンカは、彼女を捨てたポーランド人がモークロエに来ていることに心を乱され、「あたしは卑しい女なのか、卑しい女ではないのか、あの男のところへ突っ走るんだろうか……ひょっとしたらきょうあそこへナイフを持って行くかもしれないわ」等々、激しい口調で自身の葛藤を語りますが、アリョーシャはそんな彼女を「愛にかけては、ぼくらより上だ」と表します。「この人の魂はまだ安らぎを知らない、だから、いたわってあげなくちゃいけない……この人の魂にはすばらしい宝が隠されているかもしれないしね……」。

その言葉を聞いたグルーシェンカは涙でむくんだような顔に感動の微笑を浮かべ、「この人がはじめてあたしを憐れんでくれたのよ、この人だけが、そうなのよ!」と救いが得られたことを実感します。

アリョーシャもまた、一人の迷える女性を救ったことを実感し、「ぼくは一本のねぎを恵んだだけですよ」と言いながら涙を流します。

グルーシェンカはともかく、なぜアリョーシャまで泣くのかと言えば、彼はゾシマ長老の一件で神を見失い、「もう、どうにでもなれ」の気持ちでグルーシェンカの所にやって来ました。期待した奇跡も起こらず、逆にフェラポント神父らに嘲弄されるのを目の当たりにして、信仰など何の意味もないと虚無感に陥ったからです。

しかし、グルーシェンカに対する優しい気づかいを通して、アリョーシャは再び神を自分自身の中に見出します。

神は誰かの姿を借りて現れるものでもなければ、証明によって信じるものでもなく、自己の中に存在するということ――ゾシマ長老は亡くなったが、その精神は彼の中に生きていることを実感したからです。

それはまた人類や社会に対する無限の愛であり、真実の愛は尽きることがありません。

アリョーシャがグルーシェンカに感じた憐れみの気持ちは、まさにイエス・キリストの愛であり、それゆえに、グルーシェンカも心を動かされたわけですね。なぜなら、彼女の周りには、彼女の金銭や肉体を欲する、邪な人間しか存在しなかったからです。ドミートリイも例外ではありません。もっとも、彼の場合は、モークロエでの出来事を通して真実の愛に目覚め、グルーシェンカもそれに気付いて受け入れようとしますが。

自分自身が愛を実践することによって、神の存在を識る。それこそがゾシマ長老の説く『行動の愛』です。
(参考→ 人類一般を愛すれば、個々への愛は薄くなる ~「空想の愛」と「行動の愛」の違い

自身の中に神の愛を見出すことは、遺体の復活よりも何よりも、はるかに説得力のある奇跡ではないでしょうか。

江川卓の注解

一本のねぎ

『一本のねぎ』の出処。

ドストエフスキーは一八七九年、リュビーモフに宛てた手紙で、「ねぎ伝説のところはとくに念入りに校正してください。この貴重な話はある農婦から私が記録をとったもので、むろん、最初の記録です。少なくともこれまでのところ、ほかでは聞きません」と書いている。
もっとも、アファナーシェフの『ロシア民間伝説』には、麻の縄で地獄から意地の悪い母親を引きあげようとする息子のことを語った『キリストの兄弟』という、類似した話が収められている。

七匹の悪魔を追い出した

アリョーシャの優しさにグルーシェンカが回心したことについて、ラキーチンが嫌味を言う。

つまり、堕罪女を回心させたってわけかい?」彼は毒々しい笑いをアリョーシャに浴びせた。「淫(いん)売(ばい)を真理の道へ向けたってわけか? 七匹の悪鬼を追い出したつもりか、ええ? 待望のわれらが奇跡、ここに実現せりか!

ルカ福音書第八章二節に出てくるマグダラのマリヤのことを指すらしいが、マグダラのマリヤはルカ福音書第七章三十七節に出てくる「罪の女」(淫売)とはかならずしも同一人物とはいえない。

きみはキリストじゃないし、ぼくもユダじゃないからね

ラキーチンの捨て台詞。

この否定はむしろ逆説的に解釈できる。ラキーチンは「柳」を意味する「ラキータ」から出た姓だが、彼はもともとは「オシーニン」と呼ばれてしかるべきだったとする説がある(ヴェトロフスカヤ)。オシーニンは「オシーナ」(やまならし)から出た姓で、これは一七一ページ上段にもあるように、ユダを暗示する木である。ところが、この姓を用いたのでは寓意が見えすいてしまうので、「やまならし」を「柳」に変え、そのかわり、野中でミーチャとアレクセイが出会う場面で、柳の木とミーチャの首つり自殺の考えを結びつけている(一九五ページ下段)というのである。

ラキーチン=ユダ説と関連して、108ページでラキーチンについて、「テーブルの上に放ってある金を盗んだりしない』と述べられていることに意味があるように考えられる。ユダもイエスと使徒一行の「財嚢を預か」って、一行の会計係をつとめていた。さらに言えば、それと同様のことは、スメルジャコフがフョードルの落とした三百ループリを拾って猫ばばしなかった話についても言える(160ページ下段)。スメルジャコフ=ユダ説については下巻の注でふれるが(377ページ上段)、ラキーチンが三十ループリ(ユダがキリストを売って得た金も三十ディナル)でなく、二十五ルーブリでアリョーシャを売っていることなどとあわせて考えると興味深い。

誰かにこっそり教えたい 👂
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