ドミートリイの告白 ~3000ルーブルをめぐる経緯
章の概要
ゾシマ長老の仲裁の元、長男ドミートリイと淫蕩父フョードルの金銭問題について解決するために、家族の会合が開かれますが、ここでもフョードルは長男を愚弄し、神父にも失礼な口をきいて、「きょうのうちに、うちへ引っ越して来るんだぞ、枕もふとんも引っかついでな、ここにはおまえの臭いも残らんようにするんだ」と一方的に宣言します。
アリョーシャは、茫然自失として、僧院に残りたいと希望しますが、ゾシマ長老も「僧院はお前の居るべき世界ではない」と『行動の愛』を説き、父や兄たちの側にいてやりなさいと促します。
それでもショックから抜けきれないアリョーシャは、とぼとぼと町に向かいます。ドミートリイの婚約者カチェリーナ・イワーノヴナから「ぜひとも来てくれ」という手紙を受け取り、断れないからです。
ところが、その途中で、ドミートリイに出会います。
ドミートリイは、自作の詩を交えながら、カチェリーナとの出会い、婚約の運び、グルーシェンカとの出会い、3000ルーブリの使い込みなど、これまでの経緯を告白します。
『第Ⅲ編 好色な人々』の「第3章 熱き心の告白――詩に托して」「第3章 熱き心の告白――逸話に托して」「第3章 熱き心の告白――≪真っさかさま>」では、本作の肝である、「3000ルーブリ問題」の経緯が描かれます。

動画で確認
映画『カラマーゾフの兄弟』(1968年)より。
アリョーシャが裏道を歩いているとドミートリイが呼び寄せ、ぼろ屋で語り合います。切羽詰まったドミートリイがアリョーシャを恃みにしている様子が伝わってきます。
これまでにも、カチェリーナ&グルーシェンカの三角関係、ドミートリイの金銭問題が取り沙汰されてきましたが、具体的に何がどうなったのか、詳細は分かりませんでした。
『熱き心の告白』(三部作)では、カチェリーナとの出会いから3000ルーブル問題まで、絶体絶命の背景が語られますが、ただでさえ長い上、自作の詩やギリシャ詩、喩え話が随所に盛り込まれているため、非常に分かりにくいです。
多くの読者が挫折する、最初の関門だと思います。
しかし、事実関係を把握しなければ、フョードル殺しの動機も経緯も分からず、感動も半減します。
この記事では、金と女の経緯を箇条書きにして、分かりやすく解説しています。
事実関係さえ分かれば、読むのもうんと楽になるはずですよ👍
2人の女と二度の金銭問題 ~箇条書きで解説
多くの読者が混乱するのは、金銭の貸し借りが二度にわたって行なわれるからだと思います。
1度目は、カチェリーナの父が公金を浮き貸しして、軍部に責任追及され、それがきっかけで、ドミートリイとの縁が生まれます。この金銭問題は、カチェリーナの返金によって解決します。
2度目は、カチェリーナから預かった3000ルーブリを、ドミートリイがグルーシェンカとの豪遊で使い果たし、返済不能に陥ります。グルーシェンカと結婚したいドミートリイは、カチェリーナに3000ルーブリを返済し、きっちり婚約解消したいですが、3000ルーブリの大金を工面することができません。一方、父のフョードルは、ドミートリイにビタ一文、渡す気はなく、むしろ3000ルーブリを餌に、グルーシェンカの気を引こうとします。
ドミートリイにしてみれば、元々、フョードルの財産は、自分の母アデライーダ(最初の妻)の持参金で築き上げたもの。息子である自分にも、それ相応の権利があると思い込んでいます。
にもかかわらず、フョードルは財産を独り占めし、グルーシェンカにも手を出そうとしているので、怒り狂っているのです。
一連の出来事を箇条書きすると、下記のようになります。
カチェリーナの父は、ドミートリイの所属する国境守備大隊の中佐であり、公金4500ルーブリをトリーフォノフという町商人に浮き貸しするが、トリーフォノフは返金に応じず、追いつめられた中佐は猟銃自殺を図る。
カチェリーナは哀れな父を救うため、肉体を捧げる覚悟でドミートリイの下宿を訪れるが、ドミートリイは彼女の美しさに心打たれ、5000ルーブリの無記名債権を黙って差し出す。
カチェリーナは、親戚の将軍夫人から「持参金」として8万ルーブリを受け取り、カチェリーナはその中から4500ルーブリを都合して、ドミートリイに返済する(いったん金銭問題は解決)
この出来事をきっかけに、カチェリーナはドミートリイに愛を打ち明け、婚約の運びとなる。
ドミートリイは事の顛末を弟イワンに手紙で報せ、イワンを代理としてカチェリーナの元に差し向ける。
イワンはカチェリーナに好意を抱き、カチェリーナもイワンに心惹かれる。
フョードルはドミートリイを金銭的に締め上げる為、ドミートリイの名義の手形を発行し、高利貸しで儲けるグルーシェンカに渡す。
激怒したドミートリイは、グルーシェンカを殴りに行くが、彼女の曲線美に一目惚れする。
ドミートリイはカチェリーナから「姉のアガフィーヤに郵送して欲しい」と3000ルーブリを預かる
ドミートリイはカチェリーナから預かった3000ルーブリでグルーシェンカと豪遊し、返金不能に陥る。
ドミートリイはカチェリーナに3000ルーブリを返金し、婚約解消したいが、金を工面することができない。
フョードルは「自分の所に来てくれたら、3000ルーブリをあげる」とグルーシェンカを誘い、グルーシェンカもまんざらではない。フョードルは3000ルーブリの札束を大封筒に入れて、首からさげて持ち歩き、これが事件の発端となる。
ドミートリイはどうしても3000ルーブリを工面することができず、父を殺してでも……と思い詰めている。
カタリーナ(映画『カラマーゾフの兄弟 1968年』)
グルーシェンカ
動画で確認
TVドラマ(2007年)より。
カチェリーナがお金を借りるために、ドミートリイの部屋を訪れる場面のクリップです。
原作にはここまで詳細な描写はありませんが、まあ、こういう雰囲気ではあったろうと。ドミートリイが無記名債権を差し出す場面や、カチェリーナがロシア式お辞儀をして、ドミートリイが感激のあまり、剣にキスする場面など、原作に忠実に描かれています。
https://youtu.be/-YcFzj5MyMo?t=2835
フョードル殺しの経緯を読み解くポイント
ドミートリイはなぜ3000ルーブリにこだわるのか
カチェリーナと婚約したにもかかわらず、グルーシェンカと豪遊して、返済できないからです。
フョードルが3000ルーブリをチラつかせ、グルーシェンカの気を引こうとしている理由も大きいです(グルーシェンカもまんざらではない)
3000ルーブリを返済できない上、グルーシェンカまで失ったら、ドミートリイは恥ずかしくて生きていかれません。
新たな人生を始めるためにも、まずはカチェリーナに3000ルーブリを返済し、グルーシェンカと結婚したいわけですね。
厚かましい男性なら、3000ルーブリも踏み倒し、新しい愛人とのうのうと暮らし始めるかもしれません。
しかし、ドミートリイはそこまで卑劣漢にもなれず、過去の放蕩や父との軋轢を償うためにも、カチェリーナにきっちり返済したいと願っています。
それがドミートリイらしさであり、皆に愛される所以ですが、現実社会においては、こうした生真面目はかえって命取りになります。
彼の誠実は、フョードル殺しの裁判でも不利にはたらき、シベリア流刑へと繋がっていきます。
イワンとカチェリーナの秘めた恋
さらにこの出来事には、弟のイワンが絡んできます。
ドミートリイの代理としてカチェリーナを訪問したイワンは、彼女の美しさに魅了され、心秘かに愛するようになります。
心の底では、ドミートリイとカチェリーナが婚約を解消し、本当に愛する者同士が結ばれることを願っています。
また一方では、ドミートリイが強盗殺人を犯し、フョードル共々破滅して、カラマーゾフ家の遺産を手にすることができたら……という算段もあります(チラとですが)
ゆえに、良心の呵責に苛まれ、悪魔の幻影を見るようになります。裁判では正気を失って、証言台で狂乱するし。
こうした秘めた願望を見透かして、悪魔の囁きをするのがスメルジャコフです。
スメルジャコフは一方的にイワンに共感し、イワンに認められたいがために、イワンの秘めた願望を実行します。
父も、ドミートリイも抹殺して、愛も金も独り占め――という筋書きですね(もちろん、イワンはそんな事は心の底から望んでいません)
一方、カチェリーナは、イワンの恋情を知りつつも、ドミートリイとの婚約を維持しようとします。
淫売グルーシェンカに負けて、婚約を解消することは、彼女にとって最大の屈辱だからです。
イワンはそんな彼女の心底に失望し、彼女の前から去ります。
気位の高いカチェリーナにも大きな不幸が訪れます。
ドミートリイの破滅には、素直になれない二人の恋情が大いに絡んでいます。
二人の女と3000ルーブリ
上記の繰り返しになりますが、ドミートリイの告白、『第Ⅲ編 好色な人々 第3節~第5節 『熱き心の告白』――「詩に托して」「逸話に託して」「まっ逆さま」』のあらすじは次の通りです。
1. 詩に托して ~カチェリーナとの出会い
家族の会合で痴態を晒したフョードルは、アリョーシャに家に帰るよう命じ、ゾシマ長老も、自分の死後は僧院を出て、兄たちの側に居るよう促します。
アリョーシャは茫然自失としながら、町に出る裏道を歩いて行きます。
ホフラコフ夫人の娘リーズ(将来の婚約者)を通して、カチェリーナから「ぜひとも至急に寄っていただきたい」と手紙を受け取っていたからです。
その途中で、廃屋の裏庭に潜んでいたドミートリイに呼び止められます。
二人の間にあるのが、作中に描かれる「編垣」です。
二人が語り合う廃屋は、「このぼろ家の持主は、アリョーシャの知っているところでは、この町の町人出で、娘と二人暮しの足の悪い老婆だった。この老婆と娘の一家はひどい貧弱状態に陥っていて、隣同士のよしみでフョードルの家の台所に、毎日のようにパンやスープをもらいに来ているぐらいだった」と、カラマーゾフ家と因縁のある様子が描かれています。
また、娘については、「娘は、スープをもらいにくるくらいなのに、自分のドレスは一着も売ろうとしなかった」というぐらいなので、金銭に執着し、最後には家屋もろとも滅びてしまう様子が、ドミートリイの未来を暗示しています。
ドミートリイは、アリョーシャへを「地上の天使」に喩え、和平のメッセンジャーとして、カチェリーナの住まいに差し向けようとします。
ここで、本題に入る前に、シレーンだの、ケレースだの、謎のギリシャ詩が盛り込まれるため、訳が分からなくなるんですね。
詳しくは、記事後方、江川氏の注釈をご参照下さい。
2. 逸話に託して ~カチェリーナの返済と婚約
二番目の節『逸話に託して』では、ドミートリイが国境守備大隊の見習士官だった頃、カチェリーナの父、大隊長の中佐と知り合い、それを機縁として、中佐の長女アガーフィヤ・イワノーヴナ、美人と評判の次女カチェリーナ・イワーノヴナと出会うまでの経緯が語られます。
中佐は、4500ルーブルもの公金を着服し、トリーフォノフという怪しげな商人に浮き貸ししたものの、トリーフォノフに欺し取られ、パニックに陥っていました。
ついにはピストル自殺を図り、次女のカチェリーナは衝撃を受けます。
哀れな父親を救うため、カチェリーナは処女の肉体を捧げる覚悟で、ドミートリイの下宿に赴きます。
以前、カチェリーナに袖にされたことがあるドミートリイは、ここぞとばかり、カチェリーナに手を付けようとしますが、彼女の美しさに心を打たれ、黙って5000ルーブリの無記名債権を差し出します。
そのころおれは家にいたが、ちょうど夕暮で、おれは外出しようと思って、服を着替え、髪を撫でつけ、ハンカチに香水を振って、帽子を手にしたところだった。すると、いきなりドアがあいて、おれの眼の前、おれの下宿の部屋に、カチェリーナ・イワーノヴナが現われたんだ。
不思議なこともあるもので、そのとき彼女がおれの家へ入って来るのを、通りで見かけた者は一人もいなかった。だからこの一件は町ではまるで噂にものぼらなかった。おれが下宿していたのは、役人の後家で、もうよぼよぼの婆(ばあ)さん二人の家で、この二人に身のまわりを世話してもらっていたんだが、実に尊敬に値する婆さんたちでさ、おれの言うことには絶対服従だったから、おれが言いふくめたとおり、その後も鉄の棒のように口をつぐんでいてくれた。むろん、すぐさまおれは事情を察したよ。彼女は入ってくるなり、ぴたりとおれを見(み)据(す)えた。黒い目には決意があふれて、むしろ大胆不敵な感じだったが、唇と、それから口もとには、さすがに臆(おく)したような色が見えたよ。
『姉からうかがったのですが、わたくしが……自分でこちらへまいりましたら、四千五百ルーブリくださいますそうで、それで、わたくしまいりました……お金をいただきたいのです!……』そこまで言うとさすがに彼女もこらえきれなくなって、息をつまらせ、おびえたようになって、声がとぎれ、唇の両はしと唇のまわりの筋肉がぴくぴく震えだした」
≪中略≫
あのときの美しさは、そういうのじゃなかった。あの瞬間の彼女の美しさは、彼女が高潔そのものなのにひきかえ、おれが卑劣感だったからなんだ。彼女が大きな心、無私の精神の頂点にいて、父親のために自分を犠牲にしようとする見上げた心構えでいるのに、おれは南京虫だったからなんだ。しかもこの南京虫で卑劣感のおれに、彼女は全部を、そっくり全部を、魂も肉体も全部をにぎられているんだ。もう逃れようがないんだ。率直に白状するが、この考え、このむかでの考えは、おれの心臓にぴったりくらいついて、その悩ましさだけで心臓が溶けて流れ出すかと思えるほどだった。もう内心の格闘なんぞ問題にもならない感じだった。
≪中略≫
おれは窓ぎわへ行って、凍ったガラスに額を押しあてた。その氷が、まるで火のようにおれの額を焼きつけてきたのを覚えてるよ。まあ、心配するな、おれは長くは待たせなかった。くるりと後ろを向くと、机のほうへ行って、ひき出しをあけ、額面五千ルーブリの五分利付き無記名債権を取り出した(フランス語の辞書の間にはさんでおいたんだ)。それを黙って彼女に見せると、たたんで、渡してやって、自分で玄関に通ずるドアをあけて、一歩さがると、いかにもうやうやしく、真情のありったけこもったお辞儀をしたんだ、ほんとうなんだぜ!
彼女は全身をぴくんと震わせて、一瞬、まじまじとおれの顔を見ていたっけ。顔はまっ青で、そう、テーブル・クロスみたいだったよ、それから突然、やはりひと言も口はきこうとしないで、発作的にじゃなく、そりゃ実にものやわらかな物腰で、深々と、もの静かに、それこそおれの足もとへかがみこまんばかりになって、額が地につくようなお辞儀をしたんだ、女学生式じゃなくって、純ロシア式(手を前へ垂らす礼) に頭をさげたのさ!
それから、突然飛びあがると、駆けだして行っちまった。
彼女が走り出て行ったとき、おれはちょうど軍刀を吊っていた。軍刀を引き抜いて、おれはその場で自殺するつもりだった、どうしてだか、知らない、むろん、とてつもなくばかげた話だが、きっと、シラーの『歓喜の歌』はベートーヴェンの第九交響曲あまり自殺する気になったんだな。わかるかい、人間、歓喜にかられて自殺することもあるってことが。でも、おれは自殺しなかった、群盗には接吻しただけで、また鞘におさめてしまったよ。
「人間、歓喜にかられて自殺することもある」というのが、ドミートリイらしいです。
無邪気な感激屋で、平素はいい人だけど、一度火が付くと危なっかしいタイプです。
*
ドミートリイの下宿を訪れたカチェリーナ
カチェリーナの美しさに感激して、剣に口づけるドミートリイ
3. まっ逆さま(1) ~カチェリーナと婚約、イワンの横恋慕
ドミートリイの男らしい態度に心を動かされたカチェリーナは、トミートリイに手紙を送り、『気も狂わんばかりお慕い申しております、愛していただけなくともかまいません、ただ、わたくしの夫になってくださればよいのです。ご心配はいりません――あなたを束縛するようなことはいっさいいたしませんし、あなたの坐る椅子になり、あなたに踏まれる絨毯になるつもりです……あなたを永遠に愛し、あなたをあなたご自身からお救いしとうございます……』と自分から結婚を申し込みます。
ドミートリイはカチェリーナの心情を理解しながらも、あまり乗り気でありません。
一文無しの負い目もありますが、カチェリーナの愛を信じることができないからです。
カチェリーナは一人で舞い上がり、発作的に愛の手紙を寄越したに違いありません。
昔から言いますね。愛の大演説をする者を信じるな、と。
そこで、ドミートリイは、自分がモスクワに出向く代わりに、イワンを差し向けます。
この手紙はいまのいまでもおれの胸にぐさり突き刺さっている、いまはいくらか楽になったとでも思うのかい、現にきょう、その傷が痛まないとでも思うかい?
おれはすぐさま彼女に返事を書いた(どうしても自分でモスクワへ行くわけにいかなかったんだ)。
その手紙は涙ながらに書いたよ、ひとつだけ、永久に恥ずかしくてならないのは、彼女はいまや持参金つきの大金持だが、おれは乞食も同然の成りあがり者でしかないなんて書いたことだ、金のことなんか口に出したことだ!
≪中略≫
それと同時に、すぐモスクワのイワンに手紙を書いて、できるだけくわしくいっさいの事情を説明してやった、便箋に六枚からの手紙になったよ、それで、イワンに彼女のところへ行ってもらったんだ、おい、どうしてそんな目で見るんだい、なんだっておれの顔を見るんだ? 確かに、イワンは彼女に惚れこんでしまったさ、いまでも惚れてるよ。
≪中略≫
彼女がイワンをどれほど尊敬し、うやまっているか、おまえにはわからないのかい、いったいおれたち二人を比較して、彼女がおれみたいな男を好きになれると思うのかい、おまけに、ここであんなことが起ったというのに?」
「だけどぼくは信じてますよ、あの人が愛するのは兄さんのような人で、けっしてイワンのような人じゃない」
「彼女は自分の徳行を愛しているんで、おれを愛しているんじゃない」
ドミートリイは思わず口をすべらしたが、その声には憎悪にも近いはげしいものがこもっていた。
ドミートリイは、カチェリーナが自分に結婚を申し込んだのも、単なる自己陶酔と知っています。カチェリーナは、ドミートリイよりも、誰よりも、自分が好きなのです。そして、そういう女性は、ドミートリイの好みではありません。にもかかわらず、カチェリーナはドミートリイを愛する振りをし(また、そのように自分で思い込んでいる)、イワンに対する気持ちも素直に認めようとしないから、腹の底では迷惑がっているのです。
ドミートリイは、カチェリーナの心底も、イワンの気持ちも、冷静に見ています。
ところが、こんなおれのようなやつが選ばれて、イワンははねつけられた。それも、なんのためだ? それは、ほかでもない、ひとりの娘が感謝の気持ひとすじから自分で自分の人生と運命を強姦しようとしているためなんだ! ばかげてるじゃないか!
おれはこの点についちゃイワンには何も話していないし、イワンのほうも、むろん、その話は一言半句もおれにしようとしない、ほのめかすこともしない。
しかし、いずれは運命が決して、資格ある者がその位置につき、その資格のない者は永遠に裏街に身をかくすんだ――
「いずれ運命が決して、資格ある者がその位置につき」というのは、カチェリーナやイワンの思惑がどうあれ、最終的には、偽りの愛は去り、真に愛し合う者同士が結ばれるだろう……という喩えです。
動画で確認
TVドラマ(2007年)より。イワンがカチェリーナと出会い、ドミートリイからの手紙を読む場面です。カチェリーナの手がイワンの手に触れ、二人の眼差しに恋が芽生えます。
https://youtu.be/-YcFzj5MyMo?t=927
すでに婚約した身ながら、イワンの端正に心惹かれるカチェリーナ。
カチェリーナの美しさに目を見張るイワン。
イワンとカチェリーナの出会いは、ほんの数行しかないですが、TVドラマではドラマティックに描かれています。
貴族のパーティーで、自身の論文を読み上げるイワンと、それを傾聴するカチェリーナ。
彼女も、激情家のドミートリイより、知的で、洗練されたイワンの方が好みです。
いつもはクールなイワンが、「どきり」とする表情がいいですね。興味のある方は下記リンクからどうぞ。
https://youtu.be/-S8-XDxEXZU?t=953
3. まっ逆さま(2) ~グルーシェンカと3000ルーブリの使い込み
カチェリーナの父(中佐)が引き起こした4500ルーブルの金銭問題は、カチェリーナが全額返金して完結しますが、今度は、ドミートリイがカチェリーナから預かった3000ルーブリを散財し、返済不能に陥ります。新しい愛人グルーシェンカの気を引くために、モークロエで豪遊したのが原因です。
ドミートリイがグルーシェンカと出会ったきっかけは、フョードルの差し金でした。
フョードルは、ドミートリイを金銭的に締め上げるため、ドミートリ名義の手形を発行し、退役大尉スネギリョフを通して、グルーシェンカに渡します。グルーシェンカには金儲けの才覚があり、手形が不渡りになれば、ドミートリイを告訴して、監獄に入れることができるからです。(このスネギリョフが、「少年たち」のエピソードで登場するイリューシャの父親です)
頭にきたドミートリイは、グルーシェンカを殴りに行きますが、逆にグルーシェンカの脚線美に一目惚れし、カチェリーナの存在も消し飛びます。
この経緯は、『カラマーゾフの兄弟(まんがで読破) Kindle版』の一コマが分かりやすいです。(書籍については後記を参照)
漫画では、フョードルとグルーシェンカが結託して手形を発行したように見えますが、原作では、フョードルの代理人である退役大尉スネギリョフを通して、グルーシェンカに手形が渡ります。
ちなみに、スネギリョフ退役大尉は、裏の経緯を知りません。とばっちりで、ドミートリイの怒りをかい、往来でボコボコにされます。それが少年イリューシャの心に憎しみを植え付け、アリョーシャとの出会いに繋がっていきます。
あのグルーシェンカは、親父の代理人をしている例の二等大尉からおれ名義の手形を受け取って、それをたねにおれを痛い目に遭わせて、おれが手も足も出なくなるようにしてくれと頼まれていたんだ。おれに脅しをかけようとしたのさ。
そこでおれはグルーシェンカを殴りに行った。おれは以前にも彼女をちらと見たことがあった。そのときはたいして感銘もなかった。老いぼれ商人のパトロンがついていることも知っていた。その爺さんは、いまじゃおまけに病みついて、衰弱しきって寝こんでいるがね、それでも彼女にはかなりの金を残していくらしい。それから、彼女が小金をためる趣味があって、あくどい高利で金を貸しちゃ儲けていることも、その点、あこぎなくらいの悪党で詐欺師だってことも知っていた。
ところが、おれはあいつをぶん殴りに出かけて行って、そのまま居坐っちまったのさ。雷に打たれたというか、ペストにやれらたというか、たちまち感染したきり、いまだに感染のしっぱなしなんだ、
グルーシェンカに一目惚れしたドミートリイは、彼女の気を引くために、モークロエで豪遊します。
ちょうどおれがグルーシェンカをぶん殴りに行く直前、その日の朝方、カチェリーナがおれを呼んで、これは絶対に秘密で、当分だれにも知られたくないことだと言いながら(どうしてだかは知らない、たぶんそうする必要があったんだろう)、ぜひとも県庁所在地の町へ行って、そこから郵便でモスクワのアガーフィヤに三千ルーブリ送ってほしい、町に行くのは、ここの人たちに知られたくないからだ、と頼むんだ。
ところがおれはこの三千ルーブリをポケットに入れて、そのままグルーシェンカのところへ乗りこみ、その金でモークロエへ行っちまったんだ。
しかし、グルーシェンカは簡単には肌を許さず、ドミートリイは彼女の足に接吻するのが精一杯。「『なんならお嫁に行ってもいいわよ。そりゃあんたは乞食も同然だけどさ。約束なさいな、ぶったりしないし、あたしのしたいと思ったことはなんでもさせるって、そしたら、お嫁に行くかもしれないわ』――そう言って笑いやがる、いまだって笑っていやがるんだ!」と思わせぶりな態度を取ります。
だから余計で、金持ちの父フョードルと財産目当ての結婚をし、横取りされるのではないかと気が気でないのです。
しかし、最大の問題は、カチェリーナから預かった3000ルーブリをモークロエで散財したことです。
ドミートリイはカチェリーナと婚約解消し、グルーシェンカと新しい人生を始めるためにも、3000ルーブリを男らしく返済したいと願っています。
そこで、ドミートリイは、アリョーシャを天使のメッセンジャーに見立て、カチェリーナの所に遣わそうとします。
きょうこれからおまえがあの人のところへ行って、『兄からよろしくとことづかりました』というとだな、あの人は『で、お金は?』と聞いてくる。そしたら、おまえはもう一つ、こう言ってくれてもいいんだ。『兄は下劣な好色漢で、自分の欲情を抑えられないやくざな人間です。兄はあのとき、あなたのお金を送金しないで、使いこんでしまいました。動物と同じで自分を抑えられなかったものですから』、
――でも、そう言ってから、こうつけくわえてもいいんだぜ。
『その代り、兄は泥棒じゃありませんから、三千ルーブリ、こうやってお返しいたします。ご自分でアガーフィヤさんにお送りください。兄からはよろしくと申していました』
だが、そうなると、あの人は、『お金はどこにありますの?』と聞いてくるんだろうな」
事情を知ったアリョーシャは、「兄さんはいま不幸なんですね、ほんとに!」と同情し(なぜそこで同情できるのか、理解に苦しむが)、
「カチェリーナさんはすっかりわかってくれますよ」ふいにアリョーシャがおごそかな調子で言った。「この不幸な出来事を底の底まで理解して、こらえてくれますよ。あの人はすばらしく知性のある人だから、兄さんより不幸な人はいないってことを、あの人のほうでわかってくれますよ」
と励まします。
しかし、ドミートリイは、3000ルーブリをきっちりカチェリーナに返済する事にこだわります。
「だいたいここにはだよ、アリョーシャ、どんな女性にもこらえられないあるものがあるんだ。そこでどうすればいちばんいいと思う?」
「どうするんです?」
「三千ルーブリを彼女に返すのさ」
「でも、どこでそんなお金を? そうだ、ぼくは二千ルーブリ持っているし、イワン兄さんだって千ルーブリは出してくれるから、それで三千になる、それを持って行ったら」
「だけど、それはいつ手に入るんだい、おまえのその三千ルーブリは? おまけにおまえはまだ未成年者じゃないか、ところがぜひとも、ぜひともきょうのうちに、金はあってもなくてもいいから、彼女に頭を下げてもらわなくちゃならないんだ、なぜっておれはもうこれ以上引きのばせないし、事態はそこまで行ってるんだ。あしたじゃもう遅い、遅いんだよ。だから、おまえに親父のところへ行ってもらいたいんだ」
「お父さんのところへ?」
「そうだ、彼女のところへ行く前に、まず親父のところへだ。それで親父に三千ルーブリ無心するんだ」
「でも、ミーチャ、お父さんはくれやしないでしょう」
「むろん、くれないさ、くれないことはわかっている。なあ、アレクセイ、おまえにはわかるかい、絶望とはどういうものか?」
フョードルが、ドミートリイの為に3000ルーブリを立て替えることなど、絶対にあり得ません。
それどころか、フョードルは3000ルーブリと豊かな資産を武器に、グルーシェンカの気を引こうとします。
お金が大好きなグルーシェンカも、まんざらではありません。
フョードルの財産を、そっくり自分の名義に書き換え、あとは死を待つだけの、悠々自適の人生を送ることも可能です。
あんな淫蕩オヤジと同衾するのか……と思いますが、当時は、少女がお爺さんみたいな金持ちと結婚するのも珍しくないし、元々、裕福な商人サムソーノフの囲われ者ですから、我々が心配するほどでもないんでしょう。現代風に言えば、パパ活です。
3. まっ逆さま(3) ~フョードルの3000ルーブリとグルーシェンカ
大金でグルーシェンカの気を引こうとするフョードルは、3000ルーブリの札束を大きな封筒に入れ、五重に封をして、赤い紐で十字にくくって、首に提げていました。
その封筒には、『わが天使なるグルーシェンカへ、もしわがもとに来(きた)りなば』と記されています。
グルーシェンカも、ドミートリイの気持ちを知りつつ、『もしかしたら、行くかもしれないわ』と思わせぶりな態度を見せ、いっそうドミートリイを刺激します。
ドミートリイにしてみれば、フョードルが裕福になったのは、自分の母アデライーダが多額の持参金をもってお嫁に行ったからだ、という思い込みがあるので、わざと金を貸し渋る父親の心底が分かりません。だから、余計で、憎しみがつのります。
かといって、年老いた親をいつまでも恨むほど、ドミートリイも子供ではありません。
そこで、ドミートリイは考えます。
もし、フョードルが3000ルーブリを都合してくれたら、これ以上、金をせがむこともない。グルーシェンカと遠くに行って、二度と関わることもない、と。
「最後にもう一度、父親になれるチャンスを与えてやるのさ」という台詞は、父フョードルに対するドミートリイの切実な気持ちです。
「まあ聞け、法律的には親父はおれに一文の負債もない。おれは取れるだけのものはそっくり親父から取ってしまった。それはわかっているんだ。しかしだ、道徳的には親父はおれに借りがあるんだ、ちがうかい? だいたい親父は、おふくろの二万八千の金からはじめて、十万の金をこしらえたんだ。だから、その二万八千のうちからわずか三千ルーブリをおれによこしたってよさそうなものじゃないか、たったの三千だぜ、そうしておれの魂を地獄から引っぱり出してくれりゃ、親父にとっちゃ、こりゃたいそうな罪ほろぼしになるはずだ! おれはだ、その三千の金で、おまえにはっきり約束するが、すっかり片をつける、そしてこれっきり、おれのことは親父の耳に噂も入らないようにする。最後にもう一度、父親になれるチャンスを与えてやるのさ。このチャンスは神さまご自身がお贈りくださるものなんだ、と言ってやってくれ」
「ミーチャ、お父さんは絶対にくれやしませんよ」
「くれないことはわかっている、完璧にわかっている、いまはとくにそうだ。そればかりじゃない、おれはそのうえ、こういうことも知っているんだ。今度、ついに二、三日前、ひょっとしたら、きのうのことかもしれないが、親父ははじめて本気に(本気にというところを強調するよ)嗅ぎつけたんだな、グルーシェンカが、ひょっとすると、ほんとうに冗談ぬきで、おれとの結婚に飛びこむ気を起すかもしれないってことをさ、親父はあいつの気性を、あの牝猫の気性をよく知っている。してみりゃ、わざわざおれに金までくれて、そんな成り行きの手伝いをする気づかいもなかろうじゃないか、なにせご当人があの女にぼうっとなっているんだしな。ところが、まだそれだけじゃない、おれはもっと大事なことをおまえに話してやれるんだ。
実を言うと、親父はもう五日ほど前に三千ルーブリの金を引き出してきて、百ルーブリの礼にくずし、それを大封筒に入れてさ、封印を五つもした上から、赤い紐(ひも)で十字にからげて置いているそうだ。
どうだい、ずいぶんくわしく知っているだろう!
で、その封筒の上には、『わが天使なるグルーシェンカへ、もしわがもとに来(きた)りなば』と書いてあるそうだ。
これは、夜陰を見すまして、親父がへたくそな字で書いたものなんだな。それで、親父のところに金が置いてあることは、下男のスメルジャコフ以外はだれも知らない。親父はあの男の正直さについちゃ、自分自身と同じくらい信用しているからな。で、この三日間、いや、四日目かもしらん、親父はグルーシェンカが封筒を受け取りにくるのを当てにして、待ちくらしているんだ。親父が封筒のことを知らせてやったら、女のほうからも、『もしかしたら、行くかもしれないわ』って返事があったんだとさ。
ところで、もしあの女が親父のところへ行っちまったら、まさかおれがあの女と結婚するわけにはいかないだろう? これでわかっただろう、どうしておれがここにひそんでいるか、そして何を見張っているか?」
3. まっ逆さま(3) ~逢い引きの合図とスメルジャコフ
フョードルが首に提げた「3000ルーブリ」のことは、グルーシェンカ、ドミートリイ、スメルジャコフ以外の誰も知りません。
勘のいい読者なら、ここでフョードル殺しの犯人に気付くと思います。
アリョーシャも胸騒ぎがして、アリョーシャが「スメルジャコフ一人が知っているんですね?」と念を押します。
「やつ一人だ。やつも、もし女が爺さんのところへ来たら、知らせてくれることになっている」
「封筒のことを話したのもあの男ですか?」
「そうさ。これは大秘密なんだ。イワンでさえ、金のことも何も知らない。で、爺さんはイワンを二、三日、チェルマシニャにやりたがっている。八千ルーブリで森の木を伐(き)り出すとかいう買手がついたんだそうで、爺さんは、『ひとつ助けると思って、行ってきてくれ』、せいぜい二、三日のことだから、なんてイワンをくどいている。これはつまり、イワンの留守にグルーシェンカを引っぱりこもうという魂胆なのさ」
フョードル殺しでは、「イワンのチェルマシニャ行き」が一つのキーポイントになっています。
イワンの留守中に、グルーシェンカを引っ張り込む算段です。
フョードル、イワン、ドミートリイ、それぞれの思惑を知るスメルジャコフは、意味深なことを口にしてイワンを動揺させ、イワンの留守中に「不幸が起きる」と予言します。
イワンも、不幸を予感しながらも、「蛇が蛇を食い殺すだけ」と二人を見捨て、チェルマンシニャではなく、モスクワへ旅立ちます。イワンにしてみたら、ドミートリイが強盗殺人を犯して、フョードルともども破滅した方が都合がいいからです。
後に、その事実が、イワンを苦しめます。たとえ直接手を下さなくても、父親を見殺しにしたのと同然だからです。
そして、このイワンの苦しみが、裁判での狂乱となって現われ、カチェリーナの心を激しく揺さぶって、ドミートリイの有罪を裏付けるような証言につながるわけですね。
カチェリーナは、心の底では、自分に恥ずかしい思いをさせたドミートリイを憎み、イワンを慕っています。
カチェリーナが、身売りを覚悟でドミートリイの下宿を訪れた時から、二人の運命は決まっていました。
男女の機微にうとい読者には、理解しづらいかもしれませんが、女性というものは、一度、プライドを傷つけられたら、決して許そうとしないのです。
『熱き心の告白』三部作は、非常に重要なパートでありながら、異様に冗長で、ドミートリイ自作の詩のおかげでカオスと化していますが、YouTubeの動画と併せて、ゆっくり読めば、「ああ、なるほど」と分かると思います。江川氏の訳文に興味のある方は下記リンクよりどうぞ。スマホ閲覧はご注意下さい。
熱き心の告白 ~3000ルーブリをめぐる男女の愛憎と金銭問題をGoogleドライブで読む