江川卓『カラマーゾフの兄弟』は滋賀県立図書館にあります詳細を見る

    【17】ドミートリイの告白 ~3000ルーブリをめぐるカチェリーナの愛憎とフョードルの金銭問題

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    フョードル殺しの発端となる3000ルーブリの使い込みと、カチェリーナ&グルーシェンカをめぐる三角関係について、箇条書きで解説。随所に盛り込まれているギリシャ詩の意味も、江川卓氏の注解と併せて紹介しています。
    目次 🏃‍♂️
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    ドミートリイの『心の広さ』とは ~大地の女神とヴェリコドゥーシェ

    心の広さとロシアの大地

    本作で特に分かりにくいのが、ドミートリイのパーソナリティではないでしょうか。

    一見、粗野で短気。

    でも、心優しい。

    相対する要素が混ざり合って、激情的なパーソナリティを作り上げています。

    その点、フョードルやアリョーシャは単純明快ですね。

    「淫蕩」「天使」――ひと言でパーソナリティを表すことができます。

    対して、ドミートリイは、多重構造です。

    短気でありながら、情は深く、怒りながらも、相手を許す寛容さも持ちあわせています。

    彼はいったい、善人なのか、悪人なのか。

    フョードル殺しの後、ドミートリイを取り調べる予審判事や警察署長らが理解に苦しむ所以です。

    そんなドミートリイのキャラクターを読み解くヒントとして、江川卓氏は著書『謎とき カラマーゾフの兄弟』次のように解説しています。

    大地の女神デーメテールとドミートリイ

    ドミートリイが口ずさむシラーの詩『エレウシースの祭』について、(オリュンポスの山をくだって / 母なるケレースはいとしきわが娘 / かどわかされたプロセルピナを追い求める・・の個所)

    「エレウシースの祭」とは、古代ギリシャのエレウシースで行なわれたデーメーテール女神の祭で、後にはギリシャ全土で行なわれるようになったという。デーメーテールは農耕と豊穣の女神で、ローマ神話のケレースと同一視される。冥界の王ハーデースにかどわかされた自分の娘ペルセポネー(ローマ神話ではプロセルピナ)を探して、エレウシースにやってクルはナシが、祭のさいに演じられる神話劇の中心敵主題をなしていた。

    シラーの詩も、この話を主題にしているが、娘探しのテーマよりも、むしろケレースが狩猟民、遊牧民であった人間に農耕を教え、神(ゼウス)への捧げものには、血にまみれたいけにえよりも、農耕の実りがふさわしいことを説いて、人間の団結をもたらしたテーマが強調されている。

    ≪中略≫

    ケレースのギリシャ名であるデーメーテールは、ドミートリイという名の起原となっている。つまりドミートリイの日本名は「農」あるいは「豊」なのである。それだけに、ドミートリイがこの詩を引用したことの意味はきわめて大きい。

    謎とき『カラマーゾフの兄弟』 (新潮選書)

    カラマーゾフの三兄弟は、それぞれ「天界の代表(アリョーシャ)」「人間界の代表(イワン)」「地上の代表(ドミートリイ)」を表しており、ドミートリイは、地上の人々がそうであるように、欲望、情熱、苦悩、優しさといった、様々な側面を持ちあわせています。アリョーシャが一貫して善の人であるのに対し、ドミートリイは己の欲望に忠実で、非常に人間くさいです。逆の見方をすれば、「親しみの持てる人物」でもあり、アリョーシャやイワンに比べたら、友だちも多いし、二人の美女に熱愛されます。いわば、ドミートリイは、我々、一般人の代表として、金と女の苦難に巻き込まれていくわけですね。(イワンの観念的な苦しみとは別)

    アリョーシャは心の問題を「キリストの教え」によって乗り越えますが、ドミートリイは女性問題も、殺人容疑の苦難も正面から受け止め、地に足の着いた一人の人間として対処していきます。アリョーシャの優しさが「ふわっ」とした印象なのに対し、ドミートリイの優しさはトラック野郎のように「ど~ん」としてるんですね。

    その点を、江川氏は次のように解説します。

    ここではしなくも明らかになったキリスト教神話とギリシャ・ローマ神話との対応に、ドミートリイの「心の広さ」の鍵を見出すことはできないだろうか。

    ドミートリイは「ソドムの理想」と「マドンナの理想」の相克と融合に悩んでいた。旧約の世界と新約の世界との相克、融合である。

    しかし、たまたまそれを越えて、女神ケレース(デーメーテール)のうちに自身の投影を見出し、自身の苦悩を空間的に拡散させるのである。

    といっても彼は、「大地に接吻もしなければ、大地の胸をこの手で耕すこともしない」。

    彼には農民に対する、「百姓」に対する蔑視が特有である。

    アメリカへの脱走の話が出たときにさえ、ミーチャがまずこだわるのは、「おれにしたって、あそこの百姓どもを我慢できるだろうか?」ということである。

    しかし、そのくせ、長期的な展望を語るとなると、「グルーシャと向こうへ着いたら、おれはすぐさまどこか人里離れたところへ引っこんで、熊を相手に、畑を耕して働くんだ」となる。 ≪中略≫ 農耕と豊穣の女神であるデーメーテールの女神の本性は、彼の中で保ち続けられるようである。

    おそらくロシアというのは、ロシア人というのはそういうものなのだろう。検事の論告の言葉を借りれば、「母なるわがロシアと同じようなこの広さ、広大さ、それはすべてを自分のうちに呑み込み、すべてと立派に共存を果たせるのです」ということである。キリスト教神話と、言ってみれば異教的なギリシャ・ローマ神話とが、ドミートリイの中にすべて呑み込まれ、立派に共存していることが、ドミートリイの「心の広さ」の何よりの証明であった。

    謎とき『カラマーゾフの兄弟』 (新潮選書)

    「母なる大地」と喩えられるように、大地とは、全ての基盤であり、生命の源です。凍える冬も、雨の季節も、全てを受け止め、生きとし生けるものを育みます。

    一方、天空とは対照的に、大地は実感できるものであり、我々、現実社会の住民は、みな大地の子です。

    ドミートリイは、観念の世界に生きるイワンや、キリストの教えに従って生きるアリョーシャと異なり、我々の側の人間です。

    かといって、決して野卑ではなく、ロシアの大地のように「ど~ん」として、清濁併せのむ寛容さを有します。

    その生き様は、三兄弟の中でも盤石としており、考えすぎで破滅するイワンや、いまいち現実社会から浮いているアリョーシャとは違う賢さが備わっています。

    先に結論から述べれば、ドミートリイは、無実にもかかわらず、「有罪」の判決を受け入れ、社会の刑罰に従います。裁判で、ドミートリイに不利な証言をしたカチェリーナのことも許し、最後は大地のごとき落ち着きでもって、苛酷な運命に立ち向かいます。

    それが何を意味するかといえば、結局、ドミートリイのような、現実的で、地に足の着いた人間が、ロシアという国を支えていく――と象徴ではないでしょうか。

    皇帝、貴族、共産主義、etc.

    頭は変わっても、大地は変わりません。

    ロシアという国を形作っているのは、皇帝でも政府でもなく、大地に根ざして生きている我々庶民です。

    困窮や戦火で混乱しようと、大地に生きる人々の力によって、ロシアという国も続いていく、また、そうであって欲しいという、ドストエフスキーの願いが感じられます。

    ヴェリコドゥーシェと心の大きさ ~ドストエフスキー最愛の言葉

    江川氏いわく、ドストエフスキーは「心の大きさ」を意味する「ヴェリコドゥーシェ」という言葉をこよなく愛していたそう。

    『カラマーゾフの兄弟』では、カチェリーナがドミートリイに対する使用例(ドミートリイを「愛していた」、あの「心の大きい人」というニュアンスで)の他に、イッポリート検事の論告の中に二度ほど使われているのが目立つ程度と。

    「そうすれば諸君は、彼がいかに心おおらかに、卑しむべき金属へのいかに大きな軽蔑の念をもって、その金を一夜のうちに蕩尽してしまうか、目にできることでありましょう」

    「なるほど身長さを欠く、向こう見ずな行為であったかもしれませんが、なんといってもやはり高潔な、心おおらかな衝動から発したものに相違ないあの行為に対して……」

    しかし、そのかわり、ドストエフスキーは、全編のほとんど結末ともいえる、イリューシャの「石」の傍らでのアリョーシャの演説の中にこの言葉をちりばめ、強烈な印象を醸し出しています。

    「みなさん、ぼくの愛らしいみなさん、ぼくたちはみんなイリューシェチカのように、心の大きな、大胆な人間になりましょう。コーリャのように聡明な、大胆な、心の大きな人間になりましょう……」

    ここには「心の大きな」(ヴェリコドゥーシヌイ)という形容詞が二度使われています。

    それは、ドストエフスキーが、自分自身にとっても大切な「ヴェリコドゥーシェ」という言葉を、この最後の場面まで大事に温めておいた、というだけではない、空間的な広がりを感じさせる「心の広さ」という言葉に対して、ともすれば拡散しそうになる心をひとつに凝縮させ、急進的な中心を求める言葉として機能している――と江川氏は解説します。

    その点、「ドミートリイの心の広さ」とは、少しニュアンスが異なりますね。

    ドミートリイの心の広さは、天に向かって飛翔するような「広さ」ではなく、汚れたものも、貧しいものも、等しく受け入れる、度量の大きさを表しているように感じます。

    ゆえに、アリョーシャはこの後、少年たちの社会運動のリーダー格となり、ドミートリイは、いっそう人間的に深みを増して、酸いも甘いも噛み分けた、「社会の兄貴」として周りに頼りにされるのではないでしょうか。

    いずれにせよ、「個」という枠から抜け出して、各々の力を社会に還元していく、その時、初めて、「天の人」「人間界の人」「地の人」である三兄弟の特性が生きてくるように思います。ドストエフスキーが急逝して、そこまで居届けることができなかったのが本当に残念です。

    ドミートリイ名言集

    読者なかせの『熱き心の告白』ですが、最後に、ドミートリイの名言を紹介します。

    惚れるのは、相手と憎みながらでもできる

    廃屋でアリョーシャと再会したドミートリイは、喜びの気持ちを次のように表します。

    おれはさ、アリョーシャ、おまえをぐいと抱き寄せて、つぶれるくらいこの胸に押しつけてやりたいんだ、だって世界中じゅうで……おれがほんとうに……ほ・ん・と・う・に、だぞ……(いいか! わかるな!) 愛しているのは、おまえひとりだけなんだものな!」

    この最後の一行を言うときの彼は、ほとんど恍惚状態におちいっていた。

    「おまえひとりだよ、それから、もうひとり、おれが惚れこんだ《下司女》がいるがな、そのおかげでおれは身の破滅さ。しかし、惚れるというのは、愛するのとはちがうな。惚れるのは、相手と憎みながらでもできる。覚えておけよ!」

    熱き心の告白――詩に托して

    ドミートリイの「おれがほんとうに愛しているのは、おまえひとりだけ」は、「神さま」に置き換えると分かりやすいですね。

    一見、神も仏も信じない無法者に見えますが、ドミートリイにも「信仰心」はあり、罰を恐れてもいます。(それを理屈で否定するイワンとは対照的です)

    この後に続く、「おれはさ、どうしてもだれかいと高く神聖な人に赦してもらう必要があるんだ」という台詞でも分かります。

    アリョーシャは、天界の代表。

    フョードルもそうでしたが、どんな無頼な人間も神(真理と正義)を求めずにいないのかもしれません。

    ちなみに、ここで語られている「下司女」とはグルーシェンカのこと。

    「惚れるのは、相手を憎みながらでもできる」というのは、男女の色恋沙汰を見ていれば、納得がいく話です。互いに相手のことをボロカスにこき下ろしながらも、不思議と別れない、理解不能なカップルも多いです。憎悪の気持ちと異性に惚れ込む気持ちは、また別、ということですね。アリョーシャには難しそうですが(^_^;

    アリョーシャ ドミートリイ カラマーゾフの兄弟

    汚辱の底 ~自分を恥じる心

    地上の天使にも話しておかなくっちゃいけない。すっかり聞いて、判断して、それでおまえは赦してくれるんだ……」という前提で、ドミートリイは今までの出来事を全てアリョーシャに打ち明ける決心をします。

    「いいかい、いいかい、アリョーシャ、汚辱の底なんだよ、いまだって汚辱の底に沈んでいるんだ。人間はこの地上で恐ろしいほど多くのことを耐え忍ばなくちゃならない、恐ろしいほど多くの不幸に耐えなくちゃならないんだ! おれのことを、将校の肩書をもって、ただコニャックを飲み、放蕩三昧の生活を送ってる下司野郎だなんて思わないでくれ。おれはな、兄弟、ほとんどこのことばかり、この汚辱に沈んだ人間のことばかり考えて生きているんだ、出まかせを言っているときは別だけれどな。ああ、もうこれからは出まかせなんて言いたくない、空威張りなんかしたくない。おれがこの人間のことを考えるのは、おれ自身がそういう人間だからなんだ。

    熱き心の告白――詩に托して

    上記にもあるように、ドミートリイは、静と動、愚かさと賢さ、憤怒と慈愛のように、相対する要素を併せ持つ、多重構造の人間です。

    物語の冒頭、放蕩三昧の伝聞や、「どうしてこんな人間が生きているんだ」という家族会議の経緯を見れば、ドミートリイは金・酒・色気が全ての愚かな長男に見えますが、そうでないことは、上記の台詞でも明らかです。ドミートリイは恥を知る人間であり、改悛の情も持ちあわせています。一切、自省せず、「これが現実だ」のニヒリズムで孤独も葛藤もねじ伏せようとするイワンとは大違いですね。

    これがカラマーゾフ ~好色の血筋とは

    3000ルーブリの金銭問題と、カチェリーナ、グルーシェンカとの三角関係で崖っぷちのドミートリイは、現在の心境を次のように語ります。

    おれはやみくもに突き進んじゃいるが、自分が悪臭と汚辱の中にはまりこんだのか、それとも光明と歓喜の世界に踏み入ったのか、さっぱりわからないんだ。なにしろこの世はすべて謎なんで、そこが困りものなんだな! 

    だからおれは、深い、底なしの堕落の淵に惑溺するようなときには(もっとも、おれはそんなことばかりしてきたがね)、いつもこのケレースと人間についての詩を読んだものなんだ。

    それでおれが正直に返されたかだって? 

    そんなことは一度もなかったよ! なぜっておれはカラマーゾフだからだ。なぜって、どうせ奈落の底に落ちるのなら、いっそひと思いに、頭からまっさかさまに跳びこんでやれと思うからだし、ほかでもないそういう汚辱にまみれた形で堕ちていくことに満足をさえ覚えて、自分じゃそれを美とも感じるからなんだ。

    『おれはカラマーゾフ』(カラマーゾフ的な力)という喩えは、イワンも、アリョーシャも口にします。

    カラマーゾフの語原については、『ドストエフスキー解説 江川卓『カラマーゾフの兄弟』巻末より』の「5. 「カラマーゾフ」の名前の由来 -イエスの贖罪とアリョーシャの運命」でも言及されているように、「チェルノ」はロシア語で「黒」、「カラ」もまたチュルク語で「黒」を意味しており、「マーゾフ」のもとになったのは、ロシア語の動詞「マーザチ」(塗る)であることから、直訳すれば『黒塗り』という姓になります。

    また、この「カラ」には、ロシア語で「罰」を意味する、「カーラ」も含むという見解もあり(『謎とき『カラマーゾフの兄弟』 (新潮選書) )、名前からして、どす黒い情熱や欲望を感じさせます。

    一方、情熱や欲望は、「行動」「改革」に繋がるものであり、これらを欠いて、人生の劇的な変化はあり得ません。受験も、起業も、結婚も、心に強いモチベーションがあればこそ、です。そして、その全てが「清い情熱」とは限らず、時には、「いじめっ子を見返してやりたい」「何が何でも彼女をモノにしたい」「有名になって、億稼ぐ」といった欲望が強烈な動機になることもあります。

    カラマーゾフ一家であれば、フョードルが財テクに成功したのも、ドミートリイが美女を手に入れたのも、イワンが勉学や理論武装で心の問題を乗り越えようとしたのも、情熱と欲望があればこそです。アリョーシャもいずれ自分の血筋に目覚め、社会運動に突き進むでしょう。

    こうしたモチベーションの源になるもの、カラマーゾフ一家に特有の「力(パワー)」を『カラマーゾフ的』と呼びます。そこには良い力も悪い力も含まれます。

    ただ、こうした力は扱いが難しく、ドミートリイの場合、放蕩や色情、独占欲といった、悪い方に向きがちです。

    そして今は、恥ずかしい金銭問題を抱えているので、「いっそひと思いに、頭からまっさかさまに跳びこんでやれと思う」という自暴自棄に陥っているんですね。

    それに続く台詞が、ドミートリイの真の人間性を物語っています。彼は心の中まで腐ってはいないのです(フョードルがそうであるように)

    そしてこの穢(けが)れのまっただなかで、おれはいきなり讃歌をうたい出すんだ。おれは呪(のろ)われた人間、下劣であさましい人間であってかまわない、けれどそのおれにも、せめておれの神さまがまとっておられる衣の端*78になりと接吻させてほしい。そう言いながらも、おれは悪魔のあとについて行ってしまうかもしれないが、それでもおれは、主よ、あなたの息子なんです、あなたを愛してもいるし、それなしには世界が立ちゆかない、あの喜びも実感しているのです。

    熱き心の告白――詩に托して

    心の戦場 ~神と悪魔が戦っている

    地の底で煮えたぎるような『カラマーゾフ的な力』をコントロールしようと、ドミートリイは日々、心の中の悪魔と戦っています。

    ここでは、川の両方の岸がまじわってしまう、ここでは、あらゆる矛盾が共存している。

    おれはね、兄弟、ひどく教養のない男だが、このことについちゃずいぶん考えたよ。解きえない秘密が恐ろしくたくさんある。あまりにも多くの謎が地上の人間にはのしかかっているんだ。この謎を解いてけろりとしてるやつがいたらお目にかかりたいぜ。美ね! 

    それからもう一つおれに我慢がならないのは、高潔な心をもち、知性もすぐれた人間が、はじめはマドンナ聖母マリヤの理想を抱きながら、往々にして、ソドム淫乱のため天の火に焼かれた古代パレスチナの町の理想に終るということなんだ。

    いや、もっと恐ろしいのは、すでにソドムの理想を胸にかかえている人間が、同時にマドンナの理想をも否定しない、その理想ゆえに心が燃えたつ、しかもほんとうに、ほんとうに、無垢(むく)な少年時代のように燃えたつことなんだ。

    いや、人間の心は広いよ、あまりに広すぎるくらいだよ、おれは狭めたいくらいだ。

    まったく、何がなんだかわかりゃしない、そこなんだよ! 

    理性には汚辱と映ることが、心には美そのものと思える。

    美はソドムの中にあるんだろうか? 

    いや、ほんとうだぞ、大多数の人間にとっちゃ、美はソドムの中にこそひそんでいるんだ、――おまえはこの秘密に気づいていたかい、どうだい? 

    どうにもたまらないのは、美の恐ろしいものであるばかりか、神秘なものでもあることなんだ。ここでは悪魔と神が戦っている。で、その戦場は――人間の心なんだ。

    熱き心の告白――詩に托して

    「ここでは悪魔と神が戦っている。で、その戦場は――人間の心なんだ」も有名な一節ですね。

    善と悪が心の中でせめぎ合うのは、誰もが一度は経験すること。ドミートリイも、父フョードルに対する憎悪と殺意、グルーシェンカへの狂おしいまでの恋情、カチェリーナへの複雑な思い、等々、様々な葛藤と戦っています。

    高潔な心をもち、知性もすぐれた人間であっても、金銭的に追いつめられれば、「盗み、殺してでも、大金を手に入れたい」と妄想するし、恋をすれば、理性も善徳も吹っ飛んで、愛欲の虜となります。

    それを、ドミートリイは、「マドンナ(善)」「ソドム(欲望と背徳)」という言葉で表し、時には、ソドムのような退廃的な価値観の中にも、燃えるような恋情やほとばしるような生への憧れ=すなわち「美」が存在する――と言っているわけです。

    ここでも「人間の心は広いよ」と、心の広さについて言及していますが、これは寛容や慈愛の広さではなく、多面+多重構造の人の性質を述べているのでしょう。100%、善徳からできた人間もなければ、悪意と憎悪だけの人間もなく、多くの人は、その半分ずつを心にもち、悩み苦しんでいるわけですね。

    ちなみに、仏教では、「煩悩を捨てよ」と『無』になることを教え、キリスト教では、こうした欲望は「悪魔」として追い払われます。どちらも似たような印象ですが、微妙に違います。

    下の段に足をかけたものは、いずれ上の段までのぼることになる

    女性も買いまくり……に見えるドミートリイですが、色恋に関しては、彼は堂々たるナンパ師で、商売女にしか相手にしてもらえないフョードルとは大きく異なります。「おれは向うではういぶん遊んだものさ。さっき親父が、娘たちを誘惑するのに何千ルーブリという金を使ったって言ってたな。あれは豚野郎の空想で、そんなことは一度もなかったし、実を言えば、《あれ》そのものには金なんかかからなかったんだ。」という性の武勇伝に始まって、人妻にも、貴婦人にもモテモテだったことを告白します。

    純情な娘の操も奪って(ドミートリイいわく「暗闇のなかでいろいろと許してくれた」らしい)、とうとう結婚しなかった……というくだりで、アリョーシャはとうとう顔を赤らめます。そのことについて、ドミートリイがアリョーシャの気遣うと、次のような意味深な答えがかえってきます。

    「ぼくが顔を赤らめたから、そんなことを言うんですね」

    ふいにアリョーシャが口をはさんだ。「ぼくは兄さんの話で顔を赤らめたんじゃないし、兄さんのしたことを恥じてでもない、ぼくも兄さんとまったく同じだからなんです」

    「おまえか? いや、それはすこし言いすぎだよ」

    「いえ、言いすぎじゃありません」アリョーシャは熱っぽく言った。(どうやら、この考えはかなり前から彼のうちにあったものらしい。)立っている階段はまるで同じなんです。ぼくはいちばん下の段にいるけど、兄さんは上のほう、十三段めあたりにいるんですよ。ぼくはこの問題をそう見ているんです。でも、結局は同じことで、本質はまるで変らないんです。下の段に足をかけたものは、いずれはかならず上の段までのぼることになるんです」

    「じゃ、全然足をかけないことだな?」

    「それができる人は――全然足をかけないことですね」

    「じゃ、おまえは――できるのかい?」

    「たぶん、できないでしょう」

    熱き心の告白――逸話に託して

    アリョーシャとラキーチンの語らい「好色こそ人生のモチベーション」にもあるように、アリョーシャは自分の中にもフョードルやドミートリイと同じような好色の血が流れていることを自覚しています。(江川氏に言わせれば、天使のようなアリョーシャが、いつ、"そんなこと"を知ったのだろう??と)

    だから、「立っている階段はまるで同じなんです」「下の段に足をかけたものは、いずれはかならず上の段までのぼることになるんです」と際どい回答をしています。

    アリョーシャがドミートリイのような女好きになるとは思いませんが、将来、リーズと結婚した後、他の女性と深い関係になるのではないでしょうか。(一説によると、グルーシェンカらしいです。ドミートリイが死んだ後、互いに慰め合っているうちに、男女として結ばれる)

    ちなみに、ウブなアリョーシャは、「カチェリーナさんはすっかりわかってくれますよ。この不幸な出来事を底の底まで理解して、こらえてくれますよ」と暢気なことを言いますが、女というものを知りつくしているドミートリイは「あれは、なんでもこらえられるという女じゃない」とばっさり。こうした本性が分かるからこそ、情の深いグルーシェンカに乗り換えたのでしょうね。

    抑えきれない衝動

    一通り、話し終えたドミートリイは、現在の心境を次のように語ります。

    「ことによると、殺さないかもしれないが、ひょっとしたら、殺すかもしれない。心配なのは、そのいよいよの瞬間にやつの顔が急に憎らしくてたまらなくなりゃしないかってことだ。おれはやつの喉仏が、やつの鼻が、やつの目が、あの恥知らずな薄ら笑いが憎らしくてならない。生理的な嫌悪を感じるんだ。それがこわいよ。そうなったらもう自分を抑えられなくなる……

    熱き心の告白――まっ逆さま

    ドミートリイも罪は十分に意識しています。できるなら、そうならないことを神に願っています。

    それでも、そうはらない自信はない。

    「もう自分を抑えられなくなる」のひと言が真に迫っています。

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