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    【17】ドミートリイの告白 ~3000ルーブリをめぐるカチェリーナの愛憎とフョードルの金銭問題

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    フョードル殺しの発端となる3000ルーブリの使い込みと、カチェリーナ&グルーシェンカをめぐる三角関係について、箇条書きで解説。随所に盛り込まれているギリシャ詩の意味も、江川卓氏の注解と併せて紹介しています。
    目次 🏃‍♂️
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    江川卓による注解

    このパートは、注解も多いです。

    訳者によってニュアンスも異なるので、余計で意味が分からなくなるんですよね。

    特にドミートリイの自作の詩は、何が言いたいのか、さっぱり分かりません (゚Д゚)

    ここでは江川卓氏の注釈を紹介しています。読解の参考にどうぞ。

    この世のいと高きものをたたえん

    ドミートリイの自作の詩より。

    この世のいと高きものをたたえん、
    わが内なるいと高きものをたたえん!……
    ミーチャの自作の詩で、これは第七編五章(下巻五六ページ下段)でもう一度引用される。ルカ福音書第二章十四節の「いと高きところにては神に栄光、地には平和、人には恵みを」との類似を指摘する説もある。

    おのれの疑いは、これを忘れよ

    ドミートリイの自作の詩より。

    いつわり多き衆愚を信ずるなかれ、
    おのれの疑いは、これを忘れよ……
    ネクラーソフの詩『迷いの闇の深い底から』よりの引用で、この詩は更生させたかつての娼婦に呼びかける形を取っている。そのフューマニスチックな思想性のため、当時の青年の間で広く知られていた。ドストエフスキーは『地下室の手記』第二章のエピグラフとしてもこの詩を使っている。

    人よ、心を高くもて

    人よ、心を高くもて!
    ゲーテの詩『神性』よりの引用。「……同情心をもち、親切であれ、誠実と善良さこそ、人を他の創造物と分けるしるし」とつづく。

    シラーの喜びの讃歌ではじめたいんだ

    トミートリイが全ての経緯を告白するにあたって、「おれは、おれの懺悔を、シラーの喜びの讃歌ではじめたいんだ」より。

    シラーの『歓喜の歌』はベートーヴェンの第九交響曲の最終楽章でも使われていて有名だが、一三四ページ下段の「はだか身の未開の民は……」から一三五ページ下段の「……契りを結ぶがよい」までは、同じシラーの『エレウシースの祭』からの引用、一三六ページ上段の「神の創りたまいし……」が『歓喜の歌』からの引用。「カラマーゾフの兄弟」の創作ノートによると、ミーチャは法廷で、「ぼくはシラーの愛好者です。ぼくは理想主義者です。ぼくを放蕩者と決めつける人は、まだぼくがわかっていないのです」と述べることになっていた。

    ベートーヴェン第九交響曲≪合唱付き≫の歌詞はこちらで紹介しています。

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    騾馬に乗り

    ドミートリイの自作の詩より。

    あから顔したシレーン酒神バッカスの従者シーレーノスは
    足定まらぬ騾馬に乗り、――
    ドストエフスキーの親しい友人であったアポロン・マイコフの詩『浮彫』からの引用。

    朗誦をはじめた

    ドミートリイが口ずさむ、『エレウシースの祭り』からの引用

    「はだかの身の未開の民は
    岩山の洞(どう)窟(くつ)におずおずと身をひそめ、
    遊牧の民は野をさすらい
    緑の原に一草をさえとどめない。
    槍をもち弓矢手にした狩猟の民は、
    おどろしく森を駆けめぐ……
    身を隠すところとてない岸辺に
    波に打ちあげられし者こそ哀れなれ!

    オリンポスの山をくだって、
    母なるケレースはいとしきわが娘(こ)、
    のどわかされたプロセルピナを追い求める、
    けれど、行手に拡がるは荒涼たる世界
    女神ケレースが身を寄せる家とてなく、
    こころよくもてなす人もいない、
    どの神殿に立ち寄っても、
    神々を祀るさまはさらに見えない。

    野の実り、甘きぶどうの房が
    うたげの席をにぎわすことはなく、
    血にまみれた祭壇には
    燔祭の家畜の遺体が煙るばかり。
    悲しみにくもる眼差をあげて
    女神ケレースがいずこを見ても――
    いたるところ恥辱の底に沈む
    人の子のすがたを見るかぎり!」

    以下の詩はシラーの『エレウシースの祭』からの引用で、この詩はジュコフスキーによってロシア語に訳され、ドストエフスキーの蔵書にも見られる。「エレウシースの祭」とは、古代ギリシャのエレウシースで行なわれたデーメーテール女神の祭で、後にはギリシャ全土で行なわれるようになったという。デーメーテールは農耕と豊穣の女神で、ローマ神話のケレースにかどわかされた自分の娘ペルセポネー(ローマ神話ではプロセルピナ)を探してエレウシースにやってくる話が、祭のさいに演ぜられる神話劇の中心的主題をなしていた。。

    シラーの詩(バラード)も、この話を主題にしているが、娘捜しのテーマよりも、むしろケレースが狩猟民、遊牧民であった人間に農耕を教え、神(ゼウス)への捧げものには、血にまみれたいけにえよりも、農耕の実りがふさわしいことを説いて、人間の団結をもたらしたテーマが強調されている。バラードの最後は次のように終っている。

    エレウシースの祭より

     黄金の麦穂で冠を編むがよい、
     その冠を青い矢車菊で飾るがよい、
     草原の敷物の上にあつまり、いざ、
     踊り歌って、恵みふかきケレースを迎えよう。
     女神の来臨がこの地を一変させた。
     女神の導きのままに、
     もろ人は団結のちぎりを結び、
     生の崇高さを会得した。

    --- ここまで ---

    ケレースのギリシャ姪であるデーメーテールが、ドミートリイの名の起源であることを考えると、ミーチャがまずこの詩を引用したことの意味はきわめて大きい。とくにケレースが、野蛮な原始の人間たちの「汚辱に沈む」さまを目にして、いったい神が人間を創ったのは、「牢獄に投ぜられた囚人のようにこの世界で苦しませるためだったか?」と自問するくだりや、さらには、「神々は人間への同情心を持ちあわせていないのか、不幸の底から人間を救ってやろうとする神は一人としていないのか?」と訴えて、「人間の不幸を悲しい心で理解できるのはわたし一人なのか?」と嘆くくだりは、イワンがアリョーシャに語って聞かせるロシアの聖母伝説(三一六ページ上段)とも呼応して、全編の最重要な主題の一つを構成している趣すらある。シラーの詩には、このほか、ケレースが自身の冠から「生きた一粒の麦)を取って、「大地のふところ」に投ずるくだりもあり、これはエピグラフに掲げられているヨハネの福音書の一節「一粒の麦もし死なずば……」とも呼応している。

    結ぶがよい

    ドミートリイの自作の詩より。

    汚辱の底に沈む人の子よ、
    もし魂の目ざめを果そうとするなら、
    万古かわらぬ母なる大地と
    とこしえの契りを結ぶがよい。
    同じくシラーの「エレウシースの祭」からの引用で、ケレース女神が未開の人間たちに、血なまぐさい首領、争いをやめて、「大地とのちぎり」すなわち農耕をすすめている言葉。

    衣の端

    ドミートリイの告白、「おれは呪われた人間、下劣であさましい人間であってかまわない、けれどそのおれにも、せめておれの神さまがまとっておられる衣の端になりと接吻させてほしい」

    ゲーテの詩「人間の限界」からの引用。「その衣の下の端に接吻する / 忠実な胸を幼児のようにおののかせながら」とつづく。

    神の御前に

    この詩がシラーの『歓喜の歌』で、ドストエフスキーは詩人チュッチェのロシア誤訳によって引用している。ただ前半が第七連、後半が第五連と順序が逆転している。
    神の創りたまいし人の子の魂を
    はぐくみうるおすは永遠(とわ)なる喜び、
    その醗酵の神秘なる力をもて
    生命(せいめい)の杯(さかずき)に火をともし、
    一茎の小草をも光の方へ招き寄せ、
    混沌の闇をすら数千の太陽に変えて、
    星占い師さえ手にあまる
    涯もない空間を光明にみたす。

    恵みゆたかなる自然の胸より
    生あるいっさいは喜びを吸い、
    生きとし生けるもの、もろもろの民も
    その喜びにのみあくがれる、
    そは不幸に鎮める人に友を、
    ぶどうの酒と美の神の冠をさずけ、
    虫けらにすら――情欲を与える……
    かくて天使は神の御前に

    国境守備大隊

    カチェリーナと知り合った頃、ドミートリイは国境守備大隊で、見習士官を務めていた。

    ドストエフスキー自身がオムスク監獄を出てからしばらくの間、中国国境に近いセミパラチンスクでこの種の大隊に勤務していた。ドミートリイのモデルとなったというイリインスキイ少尉(解説参照)もシベリア国境守備大隊に勤めていた。

    モークロエ

    ドミートリイがグルーシェンカを誘って、豪遊に出かけた村の名前

    「湿ったところ」の意味で、ロシアの町や村によくある地名。ドストエフスキーの徒刑地であったオムスクにもこの名の街があった。また、ドストエフスキーの父親の持村ダーロヴォエから二十五露理ほどのところにもモークルイ・コールという村があった。

    魂を地獄から引っぱり出して

    フョードルの守銭奴に対して、「だいたい親父は、おふくろの二万八千の金からはじめて、十万の金をこしらえたんだ。だから、その二万八千のうちからわずか三千ルーブリをおれによこしたってよさそうなものじゃないか、たったの三千だぜ、そうしておれの魂を地獄から引っぱり出してくれりゃ、親父にとっちゃ、こりゃたいそうな罪ほろぼしになるはずだ!」という台詞から。

    フョードルが3000ルーブリ都合をつけてくれたら、ドミートリイも不幸から救われ、それが父親としての償いにもなる、というニュアンスで。

    旧約ヨナ書第二章で、魚の腹の中からヨナが神に祈る言葉の中にこの表現が見られる。

    チェルマシニャ

    執筆の背景は、「江川卓の作品解説『カラマーゾフの兄弟』 / ドストエフスキーとアリョーシャの運命」を参照のこと。

    ドストエフスキーの父親の持村の一つがこの名で呼ばれていた(チェルモシニャ、チェレモシノとも呼ばれる)。ここで父親は農民に惨殺される。詳しくは解説参照。

    まんがで読破 『カラマーゾフの兄弟』

    『カラマーゾフの兄弟』が分かりにくいのは、一般に「昔のロシアをビジュアルとして知る機会が少ない」「男女の相関がイメージしにくい」「抽象的な一人語りが多くて、キリスト教やロシア史の知識がなければ理解できない」からだと思います。

    同じ大作でも、マーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』は、映画が非常に有名で、タイトルに興味のない人でも、一度はスカーレット・オハラ(ヴィヴィアン・リー)やレット・バトラー(クラーク・ゲーブル)のビジュアルを目にしたことがあるでしょう。また、昔のアメリカなら、ハリウッド映画を通して目にする機会が多いですし、同様に、「昔のパリ」「昔のウィーン」など、欧州系もイメージしやすいです。

    ところが、ロシアに関しては、よほどのマニアでない限り、映画も、絵画も、見る機会がありません。TVドキュメンタリーも少ないですし、どちらかといえば、ロシア革命~ソ連崩壊~ロシア現政権の映像の方がインパクトが強いのではないでしょうか。

    中東もそうですが、ロシアも文化的にはかなりマニアックな領域になりますし、カトリック教会とロシア正教会の違いも知らない人の方が圧倒多数と思います。

    そうした、読者側の無知もあって、余計で話が分かりずらいんですね。

    その点、「バラエティ・ワークス」の『まんがで読破 カラマーゾフの兄弟』は、物語の大要を劇画化しており、誰と誰が、どういう関係で、どんなイベントが起きたか、把握しやすいです。シナリオは、一冊の劇画に収まるよう、かなり改変されていますが、一読すれば、「あれが、こうか」と納得いくのではないでしょうか。

    Kindle Unlimited 読み放題の対象商品なので、メンバーなら手軽に読めます。興味のある方はぜひ。

    カラマーゾフの兄弟(まんがで読破) Kindle版
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