江川卓による注解
このパートは、注解も多いです。
訳者によってニュアンスも異なるので、余計で意味が分からなくなるんですよね。
特にドミートリイの自作の詩は、何が言いたいのか、さっぱり分かりません (゚Д゚)
ここでは江川卓氏の注釈を紹介しています。読解の参考にどうぞ。
この世のいと高きものをたたえん
ドミートリイの自作の詩より。
わが内なるいと高きものをたたえん!……
おのれの疑いは、これを忘れよ
ドミートリイの自作の詩より。
おのれの疑いは、これを忘れよ……
人よ、心を高くもて
シラーの喜びの讃歌ではじめたいんだ
トミートリイが全ての経緯を告白するにあたって、「おれは、おれの懺悔を、シラーの喜びの讃歌ではじめたいんだ」より。
ベートーヴェン第九交響曲≪合唱付き≫の歌詞はこちらで紹介しています。
騾馬に乗り
ドミートリイの自作の詩より。
足定まらぬ騾馬に乗り、――
朗誦をはじめた
ドミートリイが口ずさむ、『エレウシースの祭り』からの引用
岩山の洞(どう)窟(くつ)におずおずと身をひそめ、
遊牧の民は野をさすらい
緑の原に一草をさえとどめない。
槍をもち弓矢手にした狩猟の民は、
おどろしく森を駆けめぐ……
身を隠すところとてない岸辺に
波に打ちあげられし者こそ哀れなれ!
オリンポスの山をくだって、
母なるケレースはいとしきわが娘(こ)、
のどわかされたプロセルピナを追い求める、
けれど、行手に拡がるは荒涼たる世界
女神ケレースが身を寄せる家とてなく、
こころよくもてなす人もいない、
どの神殿に立ち寄っても、
神々を祀るさまはさらに見えない。
野の実り、甘きぶどうの房が
うたげの席をにぎわすことはなく、
血にまみれた祭壇には
燔祭の家畜の遺体が煙るばかり。
悲しみにくもる眼差をあげて
女神ケレースがいずこを見ても――
いたるところ恥辱の底に沈む
人の子のすがたを見るかぎり!」
シラーの詩(バラード)も、この話を主題にしているが、娘捜しのテーマよりも、むしろケレースが狩猟民、遊牧民であった人間に農耕を教え、神(ゼウス)への捧げものには、血にまみれたいけにえよりも、農耕の実りがふさわしいことを説いて、人間の団結をもたらしたテーマが強調されている。バラードの最後は次のように終っている。
エレウシースの祭より
黄金の麦穂で冠を編むがよい、
その冠を青い矢車菊で飾るがよい、
草原の敷物の上にあつまり、いざ、
踊り歌って、恵みふかきケレースを迎えよう。
女神の来臨がこの地を一変させた。
女神の導きのままに、
もろ人は団結のちぎりを結び、
生の崇高さを会得した。
--- ここまで ---
ケレースのギリシャ姪であるデーメーテールが、ドミートリイの名の起源であることを考えると、ミーチャがまずこの詩を引用したことの意味はきわめて大きい。とくにケレースが、野蛮な原始の人間たちの「汚辱に沈む」さまを目にして、いったい神が人間を創ったのは、「牢獄に投ぜられた囚人のようにこの世界で苦しませるためだったか?」と自問するくだりや、さらには、「神々は人間への同情心を持ちあわせていないのか、不幸の底から人間を救ってやろうとする神は一人としていないのか?」と訴えて、「人間の不幸を悲しい心で理解できるのはわたし一人なのか?」と嘆くくだりは、イワンがアリョーシャに語って聞かせるロシアの聖母伝説(三一六ページ上段)とも呼応して、全編の最重要な主題の一つを構成している趣すらある。シラーの詩には、このほか、ケレースが自身の冠から「生きた一粒の麦)を取って、「大地のふところ」に投ずるくだりもあり、これはエピグラフに掲げられているヨハネの福音書の一節「一粒の麦もし死なずば……」とも呼応している。
結ぶがよい
ドミートリイの自作の詩より。
もし魂の目ざめを果そうとするなら、
万古かわらぬ母なる大地と
とこしえの契りを結ぶがよい。
衣の端
ドミートリイの告白、「おれは呪われた人間、下劣であさましい人間であってかまわない、けれどそのおれにも、せめておれの神さまがまとっておられる衣の端になりと接吻させてほしい」
神の御前に
はぐくみうるおすは永遠(とわ)なる喜び、
その醗酵の神秘なる力をもて
生命(せいめい)の杯(さかずき)に火をともし、
一茎の小草をも光の方へ招き寄せ、
混沌の闇をすら数千の太陽に変えて、
星占い師さえ手にあまる
涯もない空間を光明にみたす。
恵みゆたかなる自然の胸より
生あるいっさいは喜びを吸い、
生きとし生けるもの、もろもろの民も
その喜びにのみあくがれる、
そは不幸に鎮める人に友を、
ぶどうの酒と美の神の冠をさずけ、
虫けらにすら――情欲を与える……
かくて天使は神の御前に
国境守備大隊
カチェリーナと知り合った頃、ドミートリイは国境守備大隊で、見習士官を務めていた。
モークロエ
ドミートリイがグルーシェンカを誘って、豪遊に出かけた村の名前
魂を地獄から引っぱり出して
フョードルの守銭奴に対して、「だいたい親父は、おふくろの二万八千の金からはじめて、十万の金をこしらえたんだ。だから、その二万八千のうちからわずか三千ルーブリをおれによこしたってよさそうなものじゃないか、たったの三千だぜ、そうしておれの魂を地獄から引っぱり出してくれりゃ、親父にとっちゃ、こりゃたいそうな罪ほろぼしになるはずだ!」という台詞から。
フョードルが3000ルーブリ都合をつけてくれたら、ドミートリイも不幸から救われ、それが父親としての償いにもなる、というニュアンスで。
チェルマシニャ
執筆の背景は、「江川卓の作品解説『カラマーゾフの兄弟』 / ドストエフスキーとアリョーシャの運命」を参照のこと。
まんがで読破 『カラマーゾフの兄弟』
『カラマーゾフの兄弟』が分かりにくいのは、一般に「昔のロシアをビジュアルとして知る機会が少ない」「男女の相関がイメージしにくい」「抽象的な一人語りが多くて、キリスト教やロシア史の知識がなければ理解できない」からだと思います。
同じ大作でも、マーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』は、映画が非常に有名で、タイトルに興味のない人でも、一度はスカーレット・オハラ(ヴィヴィアン・リー)やレット・バトラー(クラーク・ゲーブル)のビジュアルを目にしたことがあるでしょう。また、昔のアメリカなら、ハリウッド映画を通して目にする機会が多いですし、同様に、「昔のパリ」「昔のウィーン」など、欧州系もイメージしやすいです。
ところが、ロシアに関しては、よほどのマニアでない限り、映画も、絵画も、見る機会がありません。TVドキュメンタリーも少ないですし、どちらかといえば、ロシア革命~ソ連崩壊~ロシア現政権の映像の方がインパクトが強いのではないでしょうか。
中東もそうですが、ロシアも文化的にはかなりマニアックな領域になりますし、カトリック教会とロシア正教会の違いも知らない人の方が圧倒多数と思います。
そうした、読者側の無知もあって、余計で話が分かりずらいんですね。
その点、「バラエティ・ワークス」の『まんがで読破 カラマーゾフの兄弟』は、物語の大要を劇画化しており、誰と誰が、どういう関係で、どんなイベントが起きたか、把握しやすいです。シナリオは、一冊の劇画に収まるよう、かなり改変されていますが、一読すれば、「あれが、こうか」と納得いくのではないでしょうか。
Kindle Unlimited 読み放題の対象商品なので、メンバーなら手軽に読めます。興味のある方はぜひ。