イワンと父の哀しき別れ
章の概要
料亭≪みやこ≫でアリョーシャと「神はあるのか、ないのか」について深く語り合った後、イワンは安らかな気持ちになりますが、父の家に帰り着くと、途端に憂鬱な気持ちになります。明日、旅立つべきか、否か、思い倦ねるイワンは、偶然、スメルジャコフに出くわし、兄ドミートリイと父フョードルが一触即発であることを聞かされます。
フョードルは3000ルーブリを餌にグルーシェンカの気を引こうとし、3000ルーブリの札束の入った封筒を首から提げて持ち歩いていました。グルーシェンカが訪れたら、スメルジャコフがドアか窓を叩いて報せる手はずです。
スメルジャコフは不幸が起きると示唆し、「わたしがあなたの立場でしたら、こんなことにかかわり合いになるより、何もかもほうり出して、さっさと行ってしまうところです」とイワンに旅立ちを促します。
イワンは「明日の朝早く、モスクワに発つ」と告げ、父の家に戻ります。
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映画『カラマーゾフの兄弟』(1968年)より。1分クリップ。
映画版では、金の工面が立たず、疲れた顔で戻ってくるドミートリイと、イワンの乗った馬車がすれ違う演出になっています。(原作では、イワンは御者付きの馬車でヴォロヴィヤ駅に到着しますが、突然、気が変わって、チェルマンシニャ行きを取りやめ、モスクワ行きの汽車に乗ります)
原作とはシチュエーションが異なりますが、これはこれで印象的です。
これから起こる悲劇を予感しながら、一人、町に戻るドミートリイに声をかけることもなく、馬車の中で姿を隠したまま、「おれは卑怯者だ」とつぶやく。
1968年度の映画だけに、ロシアの田舎道の雰囲気も、原作に近いです。
御者(農民)との衣装の対比も、当時の貴族制度を知る上で、参考になるのではないでしょうか。
イワンの『肯定と否定』
イワンは父の家に戻ってからも激しく葛藤し、父も、アリョーシャさえも、憎らしく感じます。
悪魔は迷う心にささやく ~スメルジャコフとイワンの破滅にもあるように、秘めた憎悪と願望をスメルジャコフに見透かされ、あれこれ、そそのかされたのが原因ですね。
心底では、父を守りたい気持ちもある。
しかし、素直にそうできない気持ちの方が強く、わざと憎悪を装って、自分で自分を追い詰めているように感じます。
それに口のきき方もそうだった。家へ入って、広間でばったりフョードルと顔を合わせると、彼は父親の鼻先に両手を押し立てて、いきなり、「二階のぼくの部屋へ行くところで、お父さんのところへじゃありません、さよなら」と大声で言い、父親のほうは顔も見ないようにして、脇をすり抜けた。
この瞬間、彼が老人に異常な憎悪を抱いていたことは大いにありうることだが、それにしてもこれほど無遠慮に敵意を見せつけられようとは、さすがにフョードルにとっても思いがけぬことであった。
老人にしてみれば、確かに何か至急に伝えたいことがあったようで、だからこそわざわざ広間まで彼を出迎えもしたのだった。そこへこういうご挨拶なので、老人は二の句もつげずその場に突っ立って、中二階に通ずる階段をのぼって行く息子の姿を、見えなくなるまで、小馬鹿にしたような顔つきで見送っていた。
イワンのキャラクターをひと言で表せば、第Ⅴ編のタイトルにもあるように「ProとContra(肯定と否定)」です。
アリョーシャも、「心と頭にそんな地獄を抱いて、そんなことができるものでしょうか?」と指摘しているように、イワンの中には信じる気持ちと否定する考えが同居していて、激しいコンフリクト(衝突)を引き起こしています。
かつてゾシマ長老が「お赦しくだされ! 何もかもお赦しくだされ!」とドミートリイの足元に叩頭したように、イワンもまた自分や父や兄を許せば、楽になれたでしょうに、プライドが邪魔をして、そうはならないんですね。
もうかなり遅かったが、イワンはまだ眠らずに、いろいろと物思いにふけっていた。この夜、彼が床についたのはずいぶん遅くて、夜中の二時ごろだった。
彼は自分でも、気持の整理がまったくつかなくなっているのを感じていた。彼はまた、ほとんど意外とも言える、さまざまの奇妙な欲望にもさいなまれていた。
たとえば、もう深夜を過ぎてから、突然矢も楯もたまらず階下へ降りて行って、ドアの鍵をあけて別棟に押し入り、スメルジャコフをぶちのめしてやりたくなったりするのである。そのくせ、何のために? と彼に聞いてみたところで、おそらく自分の口からも何一つ正確にその理由を説明することはできず、せいぜい、おれはあの従僕が憎らしくてたまらなくなったのだ、あれはこの世にあらんかぎりのもっとも無礼きわまる男だと言うぐらいが関の山だっただろう。
その一方で、この夜、彼の心は何か説明のつかない屈辱的な臆病風(おくびょうかぜ)に何度となくとりつかれ、そのために――自分の実感としても――何かこうふいに肉体的な力まで失ってしまったような感じになった。頭がずきずきして、目まいがした。まるでこれからだれかに復讐しようとしてでもいるように、憎悪に胸が締めつけられた。
先ほどアリョーシャと交わした会話を思い出すと、彼までが憎らしくなり、ときには自分自身さえも憎らしくてならなかった。カチェリーナのことは頭にも浮かばず、このことが後になって彼にはひどく不思議に思えたものである。まして、ついきのうの朝カチェリーナの前で、あすモスクワへ発つつもりだと大見栄を切ったときには、すぐさま心の中で、『出まかせを言うなよ、どうせ発てるわけはない、いまのは大言壮語で、そうやすやすと手を切れるものか』とつぶやいたことを、あまりにはっきりと覚えていただけに、それはなおさらのことであった。
こうしたコンフリクトは、若い人なら、一度や二度は経験したことがあるのではないでしょうか。
たとえば、親と喧嘩した時、まるで無関係なきょうだいや隣人に当たり散らしたくなったり。
親友に悩みを打ち明けたものの、突然、後悔の念が突き上げ、相手の顔を見るのも億劫になったり。
イワンも心が狭いというよりは、あまりにもいろんなことを感じすぎるが為に、自分で自分の心の整理がつかなくなり、自家中毒を起こすタイプなのだと思います。
三人の中でも、特に生きづらいタイプですね。
父への嫌悪と意地
それでも、父の家に戻れば、父と顔を合わさないわけにいきません。
イワンは合いそうよく挨拶をかわしながらも、父親の返事の終わるのも待たず、一時間したらモスクワへ発って、返ってこないつもりだから、馬車を恃んでほしいと、一気に言い切ります。
フョードルは、土地の所有権をめぐるマースロフ親子との争いを決着する為に、イワンにぜひチェルマンシニャに行ってくれと懇願しますが、イワンは「暇がないんです、勘弁してください」と拒み、フョードルも何かを察して、妙に自制した態度になります。
「父さんは自分からぼくをそのいまいましいチェルマシニャに追い立てるわけですか、え?」憎々しげな笑いを浮かべて、イワンは叫んだ。
フョードルはその憎しみのほうには気づかず、というより気づこうともせず、笑い顔にとりすがった。
「じゃ、行くんだな、行ってくれるんだな? いますぐ一筆書くよ」
「わかりませんよ、行くかどうか、途中で決めましょう」
「途中でなんぞと言わずに、いま決めてくれ。頼むから、決めてくれ! 話がついたら、二行だけ書いて、坊主に渡してくれないか、そうすればあいつがさっそくおまえの手紙をこっちへ送ってよこすから。あとはもうおまえに手間はかけんよ、ヴェニスへでもどこへでも行くがいい。ヴォロヴィヤ駅までの戻り道は坊主が自分の馬車で送ってれるぜ……」
老人はただもう有頂天でいそいそと手紙を書き終えると、馬車を呼びにやり、コニャックとつまみものの用意をさせた。老人はうれしいときはいつも羽目をはずすのがつねだが、きょうは何か自制している感じだった。たとえば、ドミートリイのことはひと言も口にしなかった。もっとも息子と別れを惜しむといったふうはまったく見せなかった。むしろ何を話せばよいか話題が見当らないという感じで、イワンはいやでもそれに気づかされた。
『それにしても、さぞおれにうんざりしたんだろうよ』と彼は腹の中で思った。昇降口から息子を送り出す段になって、さすがに老人もいくぶんそわつきはじめ、別れの接吻をしようと近寄って行った。ところがイワンのほうは、おそらく接吻をしたくなかったのだろう、先手を打って握手の手を差しのべた。老人はすぐさま了解して、とっさに自分を抑えた。
「じゃ、達者でな、達者でな!」彼は昇降口からくり返した。「生きとるうちにまたいつかは来るだろう? まあ、やって来いや、いつでも歓迎するぞ、じゃ、元気でな!」
イワンは旅行馬車に乗り込んだ。
「さようなら、イワン、まあ、あまり悪く思うなよ!」父親は最後にこう叫んだ。
息子に嫌われていると感じとったフョードルが、妙に落ち着きをなくして、最後は愛想を振りまく点や、イワンが父との接吻をさけて、握手の手を差しのべるあたりは、心理描写が非常に巧みですね。
こうした感情の行き違い、コンフリクトの態度は、現代人も共通ではないでしょうか。
現代の読者は結末を知っているので、「さようなら、イワン、まあ、あまり悪く思うなよ!」父親は最後にこう叫んだ。の一文が妙に心に迫りますね。
当サイトでも繰り返し述べていますが、フョードルはただの田舎オヤジで、殺されるべき悪人ではありません。
若い頃はともかく、年老いてからは、妙にしおらしくなり、息子の愛を求めるようになります。自分でも、その厚かましさに気付いているので、余計で態度がぎくしゃくする、その繰り返しです。
そんなフョードルが、唯一、頼れるのが心優しいアリョーシャで、イワンのことは、「アリョーシャ、おれのたった一人のかわいい子、おれはイワンが怖いんだ。あいつより、イワンのほうが怖い、おれが怖くないのはおまえだけだよ……(第Ⅲ編 第9章 好色な人たち)」と言っています。イワンは潔癖ですから、ひと度、「イヤ」と思ったら、パシンと扉を閉ざしてしまうタイプだからです。
それを分かった上で、チェルマンシニャ行きを必死ですすめて、どうにか自分の思い通りに運ぼうとしている心理が、いかにもフョードルらしいです。
賢い人とはちょっと話すだけでも面白い
そうして旅支度が整うと、老僕グリゴーリイ、妻マルファ、スメルジャコフがイワンを見送りますが、イワンはふと「チェルマンシニャへ行くぞ」とスメルジャコフに告げます。
すると、スメルジャコフは、わが意を得たように、「そういたしますと、賢い人とはちょっと話すだけでも面白いと言いますのも、ほんとうのことでございますね」と答えます。
イワンはしばらく、もやもやしていましたが、ヴォロヴィヤ駅に到着すると、突然、チェルマンシニャ行きを取りやめ、モスクワ行きの汽車に乗りこみます。
そうして、夜が明け、モスクワに差し掛かる頃、彼はふっと我に帰り、「おれは卑劣漢だ!」と心の中で独りごちます。
なぜ「賢い人とはちょっと話すだけでも面白い」のでしょうか。
それはイワンが並より利口で、先の先まで見通す力があるけども、それゆえに自家中毒を起こして、本音とは違う方向に突っ走るタイプと分かっているからです。
鈍感で、思考力の無い人間にあれこれ囁きかけても、そもそも相手の言っていることが分からないので、手応えがありません。カエルに嫌味を言っても、ケロケロ笑っているだけで、何も面白くないのと同じです。
ところが利口な人は、すぐにその意味を察し、考え過ぎたり、警戒したり、反応も様々です。
イワンも、自分の真心に素直に従うよりは、「いや、それは賢明じゃない」「あいつの思い通りになってたまるものか」等々、あれこれ考え過ぎて、自爆するタイプなので、何を言っても面白いです。
一見、スメルジャコフを凌いだようで、まんまと悪魔の罠にはまってしまいます。
父と兄を思う気持ちに従えばよかったのに、わざと逆らうようにモスクワ行き、明け方と共に後悔するわけですね。
そこで引き返す度量があれば、イワンももっと幸福になれたかもしれませんが、イワンはそういうタイプではありません。
結局、これが良心の楔となり、後々まで、イワンを苦しめることになります。
*
この後、スメルジャコフは、前日にイワンに予言していた通り、癇癪の発作を起こし、グリゴーリイも腰痛で寝こんでしまいます。
フョードルは、「今夜にもグルーシェンカが来る」というスメルジャコフの嘘を信じ、そわそわしながら到来を待ちます。
悲劇は、この後、すぐ……。
動画で確認 その2
TVドラマ『カラマーゾフの兄弟』(2007年)より。
アリョーシャと別れて、家に戻ってきたイワンが、父の姿を廊下から覗き見、幻滅して、「やっぱり、アカン!」と嫌悪感に憑かれる場面です。
金勘定するフョードルの姿に幻滅するイワンの表情が胸に迫ります。
https://youtu.be/-YcFzj5MyMo?t=11286
こんな姿を見たら、息子でなくても、いやーな気持ちになりますね。。。
父の姿を覗き見るイワンさまの切なげな表情がたまらん・・気持ちは分かります。
江川卓の注解
リャガーヴィイ
土地の所有権を有利に進めるために、フョードルはイワンに「ゴルストキン」という男に会うよう促す。
“やつの目を見るんじゃないぞ、目からは何も読めん、水の暗きと空の黒雲(旧約聖書「詩編」 第18章11節より。不分明の意)とかいうやつさ、なにしろペテン師だからな、――顎ひげを見るにかぎる。おまえにあいつ宛ての手紙を持たせるから、それを見せるがいい。あいつはゴルストキンという名だが、実はゴルストキンどころかリャガーヴイなのさ”