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    『罪と罰』 名言と解説(米川正夫訳) ~ラスコーリニコフの非凡人思想

    罪と罰 TVドラマ
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    目次 🏃‍♂️

    作品の概要

    ドストエフスキーの代表作『罪と罰』(Преступленіе и наказаніе)は、「非凡な人間は法を超える権利をもつ(=殺人すら許される)』という理論の元、貧乏な大学生ロジオン・ラスコーリニコフは、悪辣な高利貸しアリョーナ・イワーノヴナを殺害し、彼女の溜め込んだ金を有効に使おうと目論みます。

    ところが、偶然、その場に居合わせたアリョーナの妹、リザヴェータまで殺害したことから、良心の呵責に苛まれ、半病人のようになってしまいます。

    ラスコーリニコフの身を案じて、田舎の母や妹ドゥーネチカ、親友ラズミーヒンらが彼の下宿を訪れ、力づけようとしますが、何をそんなに苦悩しているのか、周りには理解できません。

    そんな中、老婆殺しを担当する予審判事ポルフィーリーは、ラスコーリニコフが書いた「あらゆる人間は『凡人』と『非凡人』に分けられ、非凡人は法律を踏み越す権利さえもつ」という論文に目をつけ、じわじわとラスコーリニコフを追い詰めていきます。

    一方、ラスコーリニコフは、酔っぱらいの退職官吏マルメラードフの事故死を通して、娘ソーニャと知り合いになります。ソーニャは一家の困窮を救うため、売春婦に身を落としますが、家族を心から愛し、堅い信仰心を持ち続けていました。ラスコーリニコフも、最初はソーニャの信仰を揶揄しますが、やがてソーニャの慈愛に心を打たれ、自ら犯人であると名乗り出ます。

    ラスコーリニコフは殺人犯としてシベリアに送られますが、そこでも自身の間違いを認めようとせず、周りの囚人から蔑まれ、身も心も病んでいきます。そんなラスコーリニコフをソーニャが優しく見舞い、その手を取った時、突如、ラスコーリニコフの心に改悛の情悔が訪れ、魂も救われる――という話です。

    動画で確認

    本作は、ロシアでも何度も映画化されています。イメージが掴めない方は、動画を参考にすれば分かりやすいです。

    下記、2007年に制作されたTVドラマ版のクリップです。現代的な演出で、初めての方でも視聴しやすいです。

    配信側の都合で、ウェブに埋め込みできないので、興味のある方はYouTubeで確認して下さい。

    ■ 老婆アリョーナの殺害
    https://youtu.be/cPwnXUMoMqA?t=174

    ■ 妹リザヴェータの殺害
    https://youtu.be/cPwnXUMoMqA?t=401

    『罪と罰』を読むべき理由 ~現代に続く超人思想とモラル崩壊

    漫画『DEATH NOTE』 なぜ人を殺してはいけないのか』や『オレオレ詐欺と現代のラスコーリニコフ ~金持ちの高齢者から騙し取るのは罪なのか?』でも述べているように、ラスコーリニコフの超法規の思想は現代にも続いています。

    社会に害を為す者を粛清することも、貧しい若者が裕福な高齢者から金銭を奪い取ることも、一部では当然のように受け止められ、それに対する反論も説得力を持ちません。

    世の中が困窮すればするほど、格差が拡がれば拡がるほど、正義は綺麗事として片付けられ、超法規的な思想が跋扈します。

    しかし、そんな混迷の中にも、ドストエフスキーは一つの道筋を示しました。キリスト教に馴染みのない人には、ラスコーリニコフの胸に去来する改悛の意味が今ひとつ理解できないかもしれませんが、彼が何ゆえに苦しみ、何ゆえに目覚めたのか理解すれば、獣性の抑止力も見えてくると思います。

    現代はラスコーリニコフの時代です。彼の超法規的な思想に、我々は何と回答するべきなのか。

    それが、現代において、『罪と罰』を読む最大の意義だと思います。

    『罪と罰』 名言集 ~米川正夫・訳より

    米川正夫・訳(旧・新潮文庫)より、『罪と罰』の名言を紹介します。(書籍の詳細は記事後方を参照のこと)

    絵画は当方がセレクトしたイメージ画。新約聖書のエピソードに併せてピックアップしています。

    神様! どうかわたくしに自分の行くべき道を示してください

    ところで、一たい人間は 何をもっとも恐れているんだろう?
    新しい一歩、新しい自分自身の言葉、これを何よりも恐れているんだ。
    一体、“あれ”が俺に出来るのだろうか?
    そもそも“あれ”が真面目な話だろうか?

    『神様!』と彼は祈った。
    『どうかわたくしに自分の行くべき道を示してください。
    わたくしはこの呪わしい……妄想を振り捨ててしまいます!』

    ペテルブルグの屋根裏部屋に下宿する大学生、路地音・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフは、貧困のどん底で、一つの考えに囚われています。悪辣な高利貸しの老婆、アリョーナ・イヴァーノヴナ(イワーノヴナ)を殺害し、その金を善事に役立てる、というものです。

    無知で何の価値も無いような意地悪な婆”は生きていても仕方が無い――そんな婆はいっそ殺して、その金を万人の福祉に役立てた方がよっぽど有効ではないか?

    殺人は絶対悪ですが、もし、そのお金が貧しい人の救済などに有効に活用されるなら、正当化されます。

    すべての人間は『凡人』と『非凡人』に分かれ、ナポレオンやニュートンのような『非凡人』は、一線を踏み越えて、新しい法律を作る権利を有する――というのがラスコーリニコフの理路でした。

    そんなラスコーリニコフも、一度は誘惑を断ち切ろうとします。

    しかし、翌日の夜七時、金貸しのアリョーナが部屋に一人きりになるなることを聞きつけると、さながら蛇の誘惑のように、ラスコーリニコフの心を揺さぶります。
    (町人のおかみさんと妹リザヴェータが店先で立ち話をしているのを偶然耳にする)

    【楽園追放 】~ The Fall from Grace ~ ミケランジェロ・ブオナローティ Michelangelo Buonaroti

    【楽園追放 】~ The Fall from Grace ~ ミケランジェロ・ブオナローティ Michelangelo Buonaroti

    一つの生命のために、数千の生命が堕落と腐敗から救われる

    しかも、その後、安料理屋の隣のテーブルで、彼と同じ考えを口にする大学生と将校の会話を耳にします。(一部、省略しています)

    そこで、僕は君に一つ真面目な問題を提供したいと思うんだ。

    一方には無智で無意味な、何の価値もない、意地悪で、病身な婆めがいる――誰にも揚のない、むしろ万人に有害な、自分でも何のために生きているかわからない、おまけに明日にもひとりでに死んで行く婆がいる。 

    すると一方には、財力の援助がないばかりに空しく挫折する、若々しい新鮮な力がある。僧院へ寄付ときまった婆の金さえあれば、百千の立派な事業や計画を成就したり、復活したりすることが出来るんだ。それによって、数百数千の家族が救われるかもしれない――それが、皆あいつの金で出来るんだ。やつを殺して、やつの金を奪う、ただしそれは後でその金を利用して、全人類への奉仕、共同の事業への奉仕に身を捧げるという条件つきなのさ。

    どうだね、一個の些細な犯罪は、数千の善事で償えないものかね? 

    たった一つの生命のために、数千の生命が堕落と腐敗から救われるんだぜ。

    一つの死が百の性にかわるんだ――

    現代において、この言葉に反応しない若者はないでしょう。

    ラスコーリニコフも貧苦にあえぎ、ろくに食べるものさえありません。お金さえあれば、勉学に打ちこみ、どれほど立派な仕事を成し遂げるか知れないのに、誰の援助もなく、社会の底辺に捨て置かれています。

    一方、性格の悪い、何のために生きているのかも分からない婆は、高利貸しで荒稼ぎ、何に役立てるわけでもなく、自宅の衣装箱にがっぽり貯め込んでいます。

    ラスコーリニコフや料理屋の大学生が憤りを感じるのももっともで、現代も同じですね。

    参考 一つの生命を代償に、数千の生命を堕落と腐敗から救う ~ドストエフスキーから永遠の問いかけ(江川卓・訳)

    非凡人は自己の良心を踏み越える権利を有する

    かくして、ラスコーリニコフは高利貸しアリョーナを斧で撲殺し、思いがけず帰宅した妹リザヴェータまで殺害してしまいます。

    この第二の殺人がラスコーリニコフの心に重くのしかかり、半病人のようになってしまいます。

    一方、老婆殺しを担当する予審判事ポルフィーリイは、三ヶ月前、新聞に掲載されたラスコーリニコフの論文に目を付け、質問をぶつけます。(一部、省略しています)

    「わたしが興味を抱かされたのは、あなたの論文のこの部分じゃなくて、結末のほうにちょっと洩らしてあった一つの感想なんです。……一口にいえば、世の中には、あらゆる不法や犯罪を行ない得る人……いや、行い得るどころか、それに対する絶対の権利を持ったある種の人が存在していて、彼らのためには法律などないに等しい――という事実に対する暗示なのです ≪中略≫ あらゆる人間が『凡人』と『非凡人』に分かれるという点なのさ。凡人は常に服従をこれ事として、法律を踏み越す権利なんか持っていない。だって、彼らは凡人なんだからね。ところが非凡人は、特にその非凡人なるがために、あらゆる犯罪を行ない、いかなる法律をも踏み越す権利を持っている、たしかそうでしたね」

    「僕は決してあなたがおっしゃったように、非凡な人は常に是が非でも、あらゆる不法を行なわなければならぬ、必ずそうすべきものだと主張したのじゃありません。僕はただ次のようなことを暗示しただけなんです。即ち『非凡人』は、ある種の障害を踏み越えることを自己の良心に許す権利を持っている……ただし、それは自分の思想――時には全人類のために救世的意義を有する思想の実行が、それを要求する場合にのみ限るのです」

    ラスコーリニコフの言う「非凡人」は、必ずしも「優秀な人」という意味ではなく、「ある種の勇気をもった人」と解釈すると分かりやすいです。

    たとえば、ナポレオンは、覇権を拡大する為に戦争を繰り返し、多数の犠牲を生み出しました。平素であれば、いかなる理由があろうと、人を殺すことは許されないはずです。しかし、戦争という大義においては、大量殺人も正当化され、武力で征服することが良しとされます。ナポレオンのように、「非合法」「背徳」とされることも、大義の為なら、法も踏み越える勇気と実行力をもつ、またそれが許される人間を「非凡人」と言います。普通の人なら、「鉄砲で人を撃ち殺すことなど、とんでもない。話し合いで解決すべきだ」と考えますが、非凡人は法や道徳に束縛されません。それが、万人の役に立つなら、武力による大量虐殺も許される――というのが、ラスコーリニコフ理論の行き着く先です。

    ラスコーリニコフは、『凡人』と『非凡人』の違いを次のように定義します。

    人は自然の法則によって、概略二つの範疇にわかれている。つまり自分と同様なものを生殖する意外に何の能力もない、いわば単なる素材に過ぎない低級種族(凡人)と、いま一つ真の人間、即ち自分のサークルの中で新しい言葉を発する天稟なり、才能なりを持っている人々なのです。

    第一の範疇、すなわち材料は、概括的にいって保守的で、行儀がよく、服従をこれこととして、服従的であることを好む人々です。僕にいわせれば、彼らは服従的であるべき義務すら持っているのです。

    第二の範疇は、すべてみな、法律を踏み越す破壊者が、或いはそれに傾いている人たちです。それは才能に応じて多少の相違があります。この種の人間の犯罪はもちろん相対的であり、多種多様であるけれど、多くは極めてさまざまな声明によって、よりよきものの名において、現存せるものの破壊を要求しています。もし己の思想のために、死骸や血潮を踏み越えねばならぬような場合には、彼らは自己の内部において、良心の判断によって、血潮を踏み越える許可を自ら与えることが出来ると思います。

    第一の範疇は現在の支配者であり、第二の範疇は未来の支配者であります。

    第一の範疇は世界を保持して、それを量的に拡大して行く。第二の範疇は世界を動かして、目的に導いて行く。だから両方とも同じように、完全な存在県を持っているのです。

    要するに僕の考えとしては、誰でもみな同等の権利を持っているんです。そして、新しきエルサレムの来現までですがね」

    一口で言えば、善良で、模範的な人々が、彼らが支持する「特に非凡な人」に導かれ、「新しきエルサレム(真の理想郷)」を作るためなら、死骸や血潮を踏み越えても構わない、ということです。

    しかし、そんな権利が認められたら、「自称・良い人」が、いくらでも湧いてきて、何をするか分かりませんね。そもそも、その人が「良い人か、悪い人か」は誰が決めるのでしょうか?

    ポルフィーリイは、その矛盾を突いているのです。

    動画で確認

    ■ ポルフィーリイとの会話

    この場面は長いので、上記に該当する場面をピックアップしています。
    興味のある方は10分ほど巻き戻して、視聴して下さい。

    https://youtu.be/0uqYJAGScmw?t=2119

    予審判事 ポルフィーリイ 罪と罰

    非凡人があらゆる障害を除き始めたら、その時は……

    予審判事ポルフィーリイは、ラスコーリニコフ理論の利己主義を次のように指摘します。

    一体どういうところで、その非凡人と凡人を区別するんです? 生れる時に何かしるしでもついてるんですか? 
    もしそこに混乱が起って、一方の範疇の人間が、自分はほかの範疇に属しているなどと妄想を起して、あなたの巧い表現をかりると、『あらゆる障害を除き』始めたら、その時はそれこそ……

    「その時はそれこそ……」の続きは、「殺人さえも容認されますよ」ですね。

    日本でも、19990年代半ば、新興宗教による無差別殺人が相次ぎ、日本中が彼らの身勝手な理屈に唖然とするとともに、激しい憤りを感じました。彼らの理論では、「自分たちは霊力の高い人間で、それ以外の人たちは霊的に低い、悪いカルマ(業)が付いているから、死んでもかまわない、いや、いっそ殺してあげた方が親切だ」いうものでした。

    そして、それに似た考え方は、現在でもあちこちにはびこっています。

    「反●●運動」や「●●主義」もそうですね。

    自分たちが絶対的に正しい。理解しない人は、社会に害悪をまき散らしている。だから、私たちが正してあげるのだ……と匿名で攻撃したり、実際に施設や職場を襲撃したり。

    人間的に正しいか、正しくないかを、どちらか片方の「範疇(グループ)」が一方的に裁いていいのでしょうか。

    確かに、「金銭を奪い取る」「他人を傷害する」といった行為は、誰がどう見ても悪です。それについて法的に裁くことは正義かもしれません。しかし、それがエスカレートすれば、『DEATH NOTE』の夜神ライトのようになります。

    成績優秀で、周囲の信望も厚い模範生の夜神ライトは、死神が落としたDEATH NOTEを手に入れて、名前を書くだけで人を殺せる力を手に入れます。最初は、世に害悪な犯罪者だけを削除(抹殺)していましたが、捜査が身近に及ぶと、自分自身を守るために、邪魔者を片っ端から削除する大量殺人犯と化します。

    そんなライト君の理論は、「僕が選んだ、心優しくて、優秀な人ばかりが平和に暮らす、理想の社会を作る」でした。本当にそんな社会があれば、誰でも住んでみたいですね。

    しかし、心が優しいとか、優秀とか、誰が決めるのでしょうか。ライト君が勝手に「この人は優秀、この人はダメ」などとラベル付けしていいのでしょうか。もし、ライト君に認められず、「この人は生きる価値もない」と一方的に削除されたら、その人の人権はどうなりますか? こんなことが許されたら、いずれライト君に都合のいい独裁帝国が出来上がりますね。

    これこそ、ラスコーリニコフ理論の矛盾です。

    確かに、性格の悪い高利貸しの婆は、存在しても、何の役にも立たないどころか、周りの人間を傷つけるだけです。それより、婆の貯め込んだ大金を、貧しい学生や、病気の子供に使った方が、はるかの社会の為になりそうです。

    それでも、そうした判断(DEATH NOTEでは『裁き』)を、我々の中の一人が、一方的に行なっていいものでしょうか。たとえ、その人が、ライト君のように、心正しく、優秀で、可能性に満ちた青年であっても、です。

    ラスコーリニコフは、一方的に老婆を殺害し(巻き添えで、妹リザヴェータも)、ライト君は『神』に成り代わろうとして、自分の裁きを邪魔する者を一方的に削除(殺害)しました。

    もし、それが『非凡人』の範疇において許されるとしたら、行き着く先は、もっと凶悪な独裁帝国なんですね。何故なら、人の世がある限り、万人が一人の意思に従うとは限らないし、また、いかなる理由があろうと、人が人を殺めていい理由にはならないからです。

    ところで、その男の良心はどうなります?

    さらにポルフィーリイは鋭い指摘をします。

    ところで、その男の良心はどうなります?

    「良心のある人間なら、自分の過失を自覚した以上、自分で勝手に苦しむがいい。これがその男に対する罰ですよ――懲役以外のね」

    「じゃ、本当に天才的な人間は……つまり、その殺人の権利を与えられてる人間は、自分の流した血に対しても、全然苦しんじゃならないのかい?」(親友ラズミーヒンの質問)

    「なぜこの場合”ならない”なんて言葉を使うんだ? そこには許可も禁止もありゃしない。もし犠牲を不憫だと思ったら、勝手に苦しむがいいのさ……全体に苦悶と悩みは、遠大な自覚と深い心情の持主にとって、常に必然的なものなんだ。ぼく思うに、真の偉大なる人間はこの世において、大いなる哀愁を感じなければならないのだ」と彼(ラスコーリニコフ)は急にもの思わしげな、この場の話に不似合いな調子でいい足した。

    人間というものは、どれほど理屈でごねても、心を誤魔化すことはできません。

    たとえば、後輩が仕事でミスして、ついつい叱り過ぎた時、頭では「正当な理由」と分かっていても、どこかモヤモヤするように、人間の良心や罪悪感というものは、理屈より強烈です。健全な社会で、真っ当に育てられた人間であれば、ほとんど本能と言ってもいいほど、深く心に刻みつけられているはずです。(中には、凶悪な集団の中で育って、物心ついた時から、何の罪悪感も感じない人間もいますが)

    罪悪感とは社会性でもあり、多くの人は、幼少時より、周りの大人に「人に迷惑をかけてはいけません」「盗んだり、殴ってはいけません」ということを教えられて育ちます。その根拠が、コミュニティのモラルの場合もあれば、キリスト教の場合もあり、何が指針となるかは、時代や生まれ育った場所によって大きく異なります。だとしても、「やってはいけないこと」は、どこの世界でもほぼ共通であり、それを破れば、罰せられたり、村八分にされたり、何らかのペナルティを受けます。宗教の場合、「そんな事をしたら、地獄に落ちるぞ」「不死を得られないぞ」と言われることもあるでしょう。そうして、誤っては学習し、社会性や罪悪感が身についていきます。

    いわば、我々が罪悪感を覚えるのは、幼少時から繰り返された学習の結果とも言えますね。

    ラスコーリニコフも、人格的には立派な親から、真っ当に育てられたので、社会のルールも、キリスト教の善悪も身に染みて知っています。

    ゆえに、理屈で無理矢理、法を超越しようとしても、社会のルールや経験が骨の髄まで刻み込まれているので、それには逆らえず、心の底では、「悪いことをした」と苦しむことになります。そうした呵責を乗り越える、あるいは、最初から、何も感じない人の方が珍しいし、多くの人は、そこから逃れることはできないのではないでしょうか。

    ポルフィーリイは、そうした感情を「良心」と呼び、ラスコーリニコフが心の底では懊悩していることを見抜きます。

    言い換えれば、我々の多くは、そうした「良心」によって、社会性を保っているのです。

    生きたい、生きたい、ただ生きてさえいられればいい!

    ラスコーリニコフは、超法規の思想に取り憑かれながらも、一方で、良心の呵責に苦しみます。

    老婆殺しを決行するには、彼はあまりに優しく、真面目な青年だからです。(財力に物を言わせて、少女をひざまずかせる、ルージンのような恥知らずにはなれない)

    一人の死刑を宣告された男が、処刑される一時間前にこんなことをいうか、考えるかしたって話だ。
    もし自分がどこか高い山の頂上の岩の上で、やっと二本の足を置くに足るだけの狭い場所に生きるような羽目になったら、どうだろう?
    周りは底知れぬ深淵、大洋、永久の闇、そして永久の孤独と永久の嵐、この万尺の地に百年も千年も、永劫立っていなければならぬとしても、今すぐ死ぬよりは、こうして生きている方がましだ。
    ただ生きたい、生きたい、生きて行きたい!
    どんな生き方にしろ、ただ生きてさえいられればいい!
    この感想は何という真実だろう! ああ、全く真実の声だ!
    人間は卑劣漢にできている!
    またそういった男を卑劣漢よばわりするやつも、やっぱり卑劣漢なのだ。

    犯行前のラスコーリニコフの独白は、神から離れ、心の拠り所をなくした人間の心情を物語っています。

    彼の中で象徴的なのが、「父の死」です。

    ラスコーリニコフの父は、子供の頃に亡くなり、母も妹も貧困にあえいできました。

    作中においては、単なる「父親不在」ではなく、彼の人生から「神なるもの」が失われたことを意味します。

    神の教えに立ち返れば、それがいかに間違っているか、分かりそうなものなのに、ラスコーリニコフは理屈で良心の痛みを乗り越えようとします。

    ここに神なき時代の苦悩、『原罪』があります。

    アダムとイブが、神のように賢くなろうと知恵の実を取って食べ、その結果、エデンの園から追放されて、精神的には断絶してしまったように、「生きたい」という叫びは、魂の復活を意味します。悪い誘惑を断ち切って、心の平安や人間らしさを取り戻すことです。

    ところが、偶然、リザヴェータの不在や、同じ考えをもつ大学生の会話を知ってしまった為に、半ば衝動的に老婆殺しを決行してします。

    ラスコーリニコフのように真面目な青年が、まるで取り憑かれたように、罪を犯してしまうところに、本作の意義があります。

    洗うがごとき赤貧となると、自分で自分を侮辱するようになる

    懊悩するラスコーリニコフは、ふと立ち寄った酒場で、退職官吏のマルメラードフに出会います。

    マルメラードフは、せっかく得た生活費も、みな酒代に使い込んでしまうような、最低の人間です。家族が食いつなぐために、娘のソーニャに身売りまでさせ、そのわずかな稼ぎもすべて飲み代に費やしてしまうような父親です。

    そんなマルメラードフは、ラスコーリニコフを相手にしみじみと言います。

    貧は悪徳ならずというのは、真理ですなあ。
    ところで、洗うがごとき赤貧となるとね、書生さん、洗うがごとき赤貧となるとこれは不徳ですな。
    素寒貧となると、第一自分のほうで自分を侮辱する気になりますからな。

    この言葉は「貧しさ」の本質を突いています。「自分で自分を侮辱する気になる」というのは、本当にその通りで、貧しさは自尊心の低下にも繋がります。物質的にも、精神的にも、どんどん失っていくのが、貧困の恐ろしいところです。

    動画で確認

    マルメラードフとの出会いの場面(居酒屋にて)
    https://youtu.be/RXwXF68TRZM?t=552

    マルメラードフ 罪と罰

    どんな人間にしろ、行くところが必要

    マルメラードフは続けて言います。

    どんな人間にしろ、せめてどこかしら行くところがなくちゃ、やり切れませんから。

    これは社会や家族から切り離された人の、切実な思いではないでしょうか。

    人は誰でも社会的な存在です。所属や帰属は、アイデンティティの根幹を成すものです。

    しかし、失業や家庭崩壊などで、行き場も、所属する場所もなくしてしまえば、死ぬほど惨めです。

    それは精神的にも同じです。

    「神なるもの」から切り離された人間は、ラスコーリニコフのように、思想的にも、心理的にも、道に迷って、ひたすら消耗します。

    マルメラードフの最大の不幸は、貧困と信頼の喪失によって、身の置き所も、心の拠り所も、なくしてしまったことではないでしょうか。

    人は労働を通して社会的存在になる ~カール・マルクスの哲学

    神様だけが、われわれを憐れんでくださる

    救いのないマルメラードフは、「神様だけが、われわれを憐れんでくださる」と嘆きます。

    ただ万人を哀れみ、万人万物を解する神様ばかりが、われわれを憐れんでくださる。
    最後の日にやって来て、こう訊ねて下さるだろう。
    『意地の悪い肺病やみの継母のために、他人の小さい子供らのために、われと我が身を売った娘はどこじゃ?
    さあ来い! わたしはもう前に一度お前を赦した……
    もう一度お前を赦してやったが……今度はお前の犯した多くの罪も赦されるぞ……』
    こうして、娘のソーニャは赦されるのだ。

    飲んだくれのマルメラードフも、最愛の娘ソーニャを娼婦にしてしまったことに心を痛めていました。

    最後は馬車に轢かれて、命を落としますが、ソーニャの腕の中で息を引き取ります。(この一件が、ラスコーリニコフとソーニャを引き合わせるきっかけになります)

    子の場面は、物語の公判、ラスコーリニコフの「良心の回帰」の伏線になっており、本作の重要なキーワードである『赦し』が初めて登場します。

    『赦し』は、「許す」とは大きくニュアンスが異なり、神の慈愛に繋がるものです。

    ラスコーリニコフもまた、ソーニャの赦しによって、魂の平安を得ます。

    【マグダラのマリア】- Mary Magdalene - ティツィアーノ Tiziano Vecelio

    【マグダラのマリア】- Mary Magdalene - ティツィアーノ Tiziano Vecelio

    ソーニャとラスコーリニコフ

    ソーニャは信心深い娘です。高利貸しの妹リザヴェータとも親しく、神の教えを心の支えとしています。

    ソーニャがやむなく身売りしたのも、継母に促されたからです。

    『じゃ、なんですの、カチェリーナ・イヴァーノヴナ(ソーニャの継母)、私どうしてもあんなことをしなくちゃなりませんの』
    『それがどうしたのさ。何を大切がることがあるものかね? 大した宝物じゃあるまいし!』
    ソーニャは立ち上がりましてな、ショールをかぶって、マントを引っかけ、そのまま家を出て行きましたが、八時過ぎに戻ってきました。
    はいるといきなり、カチェリーナのところへ行って、黙って三十ルーブリの銀貨をその前のテーブルにならべました。
    やがてカチェリーナが、これもやはり無言で、ソーニャの寝台の傍に寄りましてな、一晩じゅうその足元に膝をついて、足に接吻しながら、やがて二人はそのまま一緒に寝てしまいました…

    動画で確認

    ■ ソーニャとラスコーリニコフの出会い
    父マルメラードフが馬車にひかれて、住まいに担ぎ込まれ、ラスコーリニコフが付き添っていると、派手に着飾ったソーニャが戻って来ます。
    ソーニャは父を優しく介抱し、その姿に心惹かれたラスコーリニコフは、幾ばくかの金をマルメラードフの妻に与え、それがきっかけで交流が始まります。

    https://youtu.be/sa3sE-qS1Sk?t=2720

    ソーニャ 罪と罰

    破壊すべきものを一思いに破壊してしまう、それだけのことさ。

    しかし、そんなソーニャの犠牲と献身も、ラスコーリニコフの目には次のように映ります。

    ああ、えらいぞ、ソーニャ!
    だが何といういい井戸を掘りあてたものだ!
    しかも、ぬくぬくとそれを利用している!
    平気で利用してるんだからな!
    そして、ちょっとばかり涙をこぼしただけで、すっかり慣れてしまったんだ。
    人間て卑劣なもので、何にでも慣れてしまうものだ。

    ラスコーリニコフは、ソーニャも自分と同じ、一線を越えた罪人とみなし、下記のように叫びます。

    「今の僕にはお前という人間があるばかりだ。
    僕らはお互いに詛(のろ)われた人間なのだ。
    だから一緒に行こうじゃないか!
    お前もやっぱり踏み越えたんだよ……どうしたらいいかって?
    破壊すべきものを一思いに破壊してしまう、それだけのことさ。
    そして苦痛を一身に負うのだ!」

    「一緒に行こう」というのは、共に神から離れて、己が心の命じるままに生きよう、ということですね。

    もしかすると、その神様さえ、まるでないのかもしれませんよ

    しかし、ソーニャの信仰心は揺るぎません。たとえ娼婦に身を落としても、「神様が守ってくださいます!」と力強く答えます。

    それに対して、ラスコーリニコフは、

    だが、もしかすると、その神様さえ、まるでないのかもしれませんよ。

    神はあるのか、ないのかという問答は、『カラマーゾフの兄弟』でも幾度となく繰り返されます。
    (参考 【19】 「神はあるのか」「いいえ、ありません」「イワンのほうが正しいらしいな」

    人間、絶え間ないストレスに晒されると、救いも恵みも信じなくなるし、そもそも『神』などあるのか、という気持ちにもなります。これだけ、悲惨な現実を目にすれば、ラスコーリニコフの時代でなくても、神の存在を疑うと思います。

    しかし、それは神というものに救いや恵みを期待するからであり、「神なるもの」はもっと違う形で人の目の前に現われるのではないでしょうか。

    信仰とは、「祈れば願いが叶う壺」と違います。

    本作の場合、ソーニャの慈しみの心こそが、神そのものであり、その慈しみは何所から来るのかと言えば、キリストの神様です。

    そう考えると、そもそも、ラスコーリニコフ「神の定義」からして間違っているのではないでしょうか。

    【 トマスの疑い 】- Doubting Thomas - ルカ・シニョーリ Luca Signorelli

    【 トマスの疑い 】- Doubting Thomas - ルカ・シニョーリ Luca Signorelli

    『トマスの疑い』は、十二人の使徒の一人である聖トマスが、イエスの復活を信じず、掌の傷と脇腹の傷に指を入れてみるまでは信じない、と言った新約聖書のエピソードに基づく。詳しくは、使徒トマスの疑いの絵画15点。キリストの復活が信じられず、傷口に指を入れてしまう

    どうして賤しいことと神聖な感情が両立できるのか?

    ソーニャの清い心と慈悲の心を目の当たりにして、ラスコーリニコフはこう考えます。

    どうしてそんなけがらわしい賤しいことと、
    それに正反対な神聖な感情が、ちゃんと両立していられるんだろう?

    しかし、ソーニャは自ら淫蕩を求めたのではなく、家族を救済する為、仕方なく身を捧げた娘です。もしかしたら、身売りの過程で、淫欲に溺れる機会もあったかもしれませんが、ラスコーリニコフの中で殺意と迷いが同居するように、ソーニャの中でも賤しいことと神聖な感情が同居しても不思議はありません。

    そもそも最初からソーニャの中に賤しいことは存在しません。ラスコーリニコフの疑問は、ちょっとばかり的外れと言えましょう。あるいは、自分と同じであって欲しい願望が、現し身みたいに見えるのかもしれませんね。

    ラザロの復活と良心の回帰

    ソーニャの神聖な感情に心を打たれたラスコーリニコフは、彼女のタンスの上にある新約聖書の『ラザロの復活』を読んでくれるよう、頼みます。

    『ラザロの復活』は「ヨハンネスによる福音」の第十一章に記されています。

    マリアとマルタの兄弟ラザロが、病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、それを知らせた。
    イエスはマリア、マルタ、ラザロを愛していた。
    イエスが行くと、四日前にラザロは亡くなっていた。
    イエスは涙を流し、どこに葬ったか訊ねた。
    墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスはその石を取りのけるよう言った。
    マリアは「四日もたっていますから、もうにおいます。」と言った。
    イエスは、信じるなら神の栄光がみられる、と言った。
    人々が石を取りのけると、イエスは天をあおいで言った。
    「父よ、わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。
    あなたがわたしの願いを聞き入れてくれるのは、周りの人々に信じさせるためです。」
    こう言ってから、「ラザロ、出てきなさい」と叫んだ。
    するとラザロが、手と足を布で巻かれたまま出てきた。
    顔は覆いで包まれていた。
    イエスは周りの人々に「ほどいてやって、行かせなさい」と言った。

    これは、キリストによる心の目覚めを描いた寓話とされています。

    死んだラザロとは、信心をなくした人間であり、「信じるなら神の栄光が見られる」というのは、「あなたが再び神を信じるなら、迷いや苦しみから解き放たれ、真の心の平和を得ることができる。生き返ったような気になる」という喩えです。

    ラスコーリニコフも、二度のの殺人によって、良心が死んだラザロであり、ソーニャが彼の良心を蘇らせることを示唆しています。

    ちなみに、ソーニャがラスコーリニコフに『ラザロの復活』を読んで聞かせるのは、小説の第Ⅳ篇――死んだラザロが、イエスの呼びかけによって、墓の中から蘇る「四日目」になぞらえています。

    【ラザロの復活 】- Raising of Lazarus - レンブラント・ファン・レイン Rembrandt van Rijn

    【ラザロの復活 】- Raising of Lazarus - レンブラント・ファン・レイン Rembrandt van Rijn

    ラザロの復活に関するコラムは記事後方にあります

    僕はお前に頭を下げたのじゃない。人類全体の苦痛の前に頭を下げたのだ

    ソーニャの持つ聖書は、ラスコーリニコフが殺したリザヴェータがソーニャに与えたものでした。

    その感動の余韻を、ドストエフスキーは次のように著しています。

    歪んだ燭台に立っている蝋燭の燃えさしは、
    奇しくもこの貧しい部屋の中に落ち合って、
    永遠な書物をともに読んだ殺人者と淫売婦を、
    ぼんやり照らし出しながら、もうだいぶ前から消えそうになった。

    そうして、ソーニャの美しい心に打たれたラスコーリニコフは、彼女の前で全身をかがめ、涙する彼女の足に接吻する。

    僕はお前に頭を下げたのじゃない。
    僕は人類全体の苦痛の前に頭を下げたのだ。

    これも文学史に残る名台詞ですね。

    ちなみに、この描写について、ロシア文学者の江川卓氏は、「謎とき『罪と罰』 (新潮選書)」で次のように解説しています。

    ちなみに、「僕は人類全体の苦痛の前に頭を下げたのだ」というのはドストエフスキーの切実な心の声だろう。
    人類普遍の問題について、何が救済となるか。神が与えた命題に、どう答えるか。
    徹底的に考え抜いたドストエフスキーの答えが、この一文に凝縮されていると思う。
    これはまた、『大審問官』におけるアリョーシャのキスに通じるものがある。(カラマーゾフの兄弟)
    神でさえ救いきれない地上の葛藤に対して、神ができることといえば、その葛藤も含めて愛すること、そして、人間にできることといえば、ただただその不幸に頭を下げる以外にない……という意味で。

    いま世界中であなたより不幸な人は、一人もありませんわ!

    そうして、ラスコーリニコフは、自分が犯人であることをソーニャに告白し、ソーニャは次のように答える。

    「何だってあなたはご自分に対して、そんなことをなすったんです!」
    「お前はなんて妙な女だろう。僕がこんなことをいったのに、抱いて接吻するなんて。お前、自分でも夢中なんだろう」
    「いいえ、いま世界中であなたより不幸な人は、一人もありませんわ!」
    「じゃ、お前は僕を見捨てないんだね、ソーニャ?」
    「わたしはあなたについて行く、何処へでもついて行く!
    わたし懲役へだってあなたと一緒に行く!

    僕は永久に自分を殺してしまったんだ!

    ソーニャに罪を告白することで、ラスコーリニコフはようやく真理を悟ります。

    「いったい僕はあの婆を殺したんだろうか?
    いや、僕は自分を殺したんだ、婆を殺したんじゃない!
    僕はいきなり一思いに、永久に自分を殺してしまったんだ!

    「お立ちなさい! 今すぐ行って、四辻にお立ちなさい。
    そして身を屈めて、まずあなたが汚した大地に接吻なさい。
    それから、世界じゅう四方八方に頭を下げて、はっきり聞こえるように大きな声で、
    『私は人を殺しました!』とおっしゃい!
    そうすれば神様がまたあなたに命を授けてくださいます。
    行きますか? 行きますか?」

    ここに老婆殺しの本質と「復活」の主題が集約されています。

    殺人によって失われた良心が、『ラザロの復活』のように蘇る訳ですね。

    実際、老婆殺しの後、ラスコーリニコフは死んだようになって、自信も、活力も、なくしてしまいます。

    しかし、罪を告白し、過ちを認めることで、生きる気力も戻ってくるのですから、まさに心と身体の復活です。

    よく言われることですが、ラスコーリニコフは、一度目の老婆殺しは、峰打ちしています。刃の切っ先は自分自身に向けて、峰の方でアリョーシャの額を殴打しているんですね。

    しかし、リザヴェータに対しては、刃を向けて、額を割っています。

    これが意味するところは、一度目の斧は、自分自身を、二度目の斧は、他人の命を奪ったということです。

    イメージが掴めない方は、動画クリップを参考にして下さい。

    動画で確認

    ■ 大地に接吻しなさい

    TVドラマでは、ソーニャとの会話は、回想シーンとして描かれます。
    https://youtu.be/LvoawZRqwD4?t=2180

    大地に接吻するラスコーリニコフ 罪と罰

    『カラマーゾフの兄弟』より

    大地に頭を下げる表現は、『カラマーゾフの兄弟』でも、ゾシマ長老がドミートリイに対して行ない、ゾシマ長老の死後、アリョーシャが大地に伏して神の道を悟る場面でも繰り返されます。以下、ロシア文学者・江川卓氏の解説。

    この表現はドストエフスキーの好んで用いるものであり、『悪霊』では、ある老婆がマリヤ・レビャートキナに次のように告げる。「聖母さまは大いなる母、うるおえる大地でね、それがまた人間にとっての大きな喜びでもあるんだよ。だからこの地上のどんな憂いも、この地上のどんな涙も、わたしたちにとっては喜びなのさ。自分の涙で足もとの土を半アルシンもの深さにうるおせば、どんなことにも喜びを感ずることができるようになる。そしてもうどんな、どんな悲しみもなくなるのさ。これがわたしの予言だよ」「大地への接吻」という設定は、すでに『罪と罰』でもラスコーリニコフに対するソーニャの言葉に出てくるし、この長編のクライマックスの一つである第七編の「ガリラヤのカナ」の章では、アリョーシャがこれを実践する。

    興味のある方は、ゾシマ長老の最後の訓戒、『たとえ一人になっても、たゆみなく努めよ』をご参照下さい。

    七年、たった七年! でも愛してる

    ついに警察に自首したラスコーリニコフは、シベリア流刑になり、ソーニャも彼に付いてシベリアに旅立ちます。

    しかし、受刑中も、ラスコーリニコフは一向に罪を悔いることなく、他の受刑者たちから「この不信心者め!」と反感をかうようになります。

    やがてラスコーリニコフとソーニャは二人して病に伏せり、しばらく会えない日が続きます。

    そして、ようやく再会したある日、彼の心に劇的に改悛の情が訪れ、二人は互いの愛を確信します。

    それは新しい人生の始まりであり、まさに魂の『復活』です。

    どうしてそんなことが出来たか、彼は自身ながらわからなかったけれど、不意になにものかが彼を引っ掴んで、彼女の足元へ投げつけたような具合だった。
    彼は泣いて、彼女の膝を抱きしめた。
    彼女はさとった。
    男が自分を愛している、
    しかもかぎりなく愛しているということは、彼女にとってもう何の疑いも無かった。

    ついにこの瞬間が到来したのである。
    二人の目には涙が浮かんでいた。

    彼らは二人とも蒼白くやせていた。
    しかし、この病み疲れた蒼白い顔には、新生活に向かう近い未来の更正、完全な復活の曙光が、もはや輝いているのであった。
    愛が彼らを復活させたのである。
    二人の心はお互い同士にとって、生の絶えざる泉を蔵していた。

    七年、たった七年!
    こうした幸福の初めのあいだ、彼らはどうかした瞬間に、この七年を七日とみなすほどの心持ちになった。

    ちなみに、本作は神が天地創造にかけた「七日間」に合わせて、『七篇』の構成になっており、二人の復活も最終章の『第七篇』に訪れます。

    江川氏によると、ドストエフスキーは、数や綴りを利用した、ダヴィンチ・コードのような謎ときを全作品に散りばめているそうです。

    「7」「3」「12」といったキーナンバーにピンとくる人は、ドストエフスキーと相性がいいと思います。

    江川卓の『謎とき 罪と罰』 (新潮選書)

    『罪と罰』の愛読者から初心者まで、幅広くおすすめしたいのが、江川卓氏の『謎とき『罪と罰』 (新潮選書)』です。

    ご自身も、『悪霊』や『カラマーゾフの兄弟』など、代表作の翻訳を手掛けておられるだけあって、作品に関する理解や知識はもちろん、ドストエフスキーに対する熱い思いが随所に感じられる、ファン必携の文芸読本です。

    執筆の経緯をはじめ、ロシア文化、近代詩、作中に登場する雑学、ネーミング、キリスト教の象徴など、専門家ならではの分析が盛りだくさん。ドストエフスキーが随所に盛り込んだ暗号を一つ一つ解き明かす、ダヴィンチ・コードのような面白さがあります。

    たとえば、

    小説の冒頭、ラスコーリニコフの窮乏ぶりと異常な精神状態が語られるくだりに、次のような一説がある。

    「彼は貧乏に押しひしがれていた。だが近頃では、この窮迫した状態ですらいっこう苦にならなくなった。自分のナスーシチヌイな仕事もすっかりやめてしまい、どだいその気がなかった」

    わざわざロシア語で書いた「ナスーシチヌイ」という形容詞は、ふつう「その日その日の」とか、「しなければならない当面の」といったふうに翻訳される。辞書にも「緊要な」「日々の」といった語義が出ており、当然、これを誤訳ときめつけるわけにはいかない。

    ただ、どうしても引っかかるのは、この「ナスーシチヌイ」という形容詞が、日常にはめったに使われない、ほとんど文語的な語感をもった言葉だということである。すこし先まで読めばわかるように、内容的には、これは家庭教師のアルバイトを指している。

    それでは、なぜドストエフスキーは、「アルバイトもやめてしまい」とはっきり書かないで、意味もあいまいな、文体的にも不釣り合いな「ナスーシチヌイ」などという言葉を選んだのだろうか。いまの私の考えでは、ここには意味論のレベルを超えたある考慮が働いているように思われる。

    当時のロシアの子供たちが、ほとんど三歳の頃から、意味も分からずに暗誦させられていたポピュラーなお祈りに、マタイ福音書六章の「天にましますわれらの父よ」がある。その一節に、「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」の一句があることは、キリスト教信者ならずとも知っているだろう。ところが、ここに出てくる「日用の」という言葉が、ロシア語ではやはり「ナスシーチヌイ」なのである。

    上記の「ナスシーチヌイ」をはじめ、小説のキーワードとも言うべき「ペレストゥーピチ(踏み越える、またぐ)」、「ラスコーリキ(ロシア正教会から分裂した分離派)」になぞらえた「ラスコーリニコフ」というネーミング、等々。ロシア文学は初めての方でも、ダヴィンチ・コードのように楽しめる内容に仕上がっています。

    ちなみに、江川先生の解説によると、「ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ」のロシア語綴りの頭文字をつなげるとPPPになり、これはキリスト教『黙示録』に登場する悪魔の象徴『666』を示唆するそうです。

    『ヨハネの黙示録』ですね。

    ──「この刻印はかの獣の名、あるいはその名を表す数字である。ここにそれを解く鍵がある。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。この数字は人間の名を指している。その数字は666である」──

    「666」と言えば、オカルト映画の金字塔『オーメン』で、悪魔の子ダミアンが頭髪の中に隠し持っていました。

    興味のある方はYouTubeでどうぞ。父親(グレゴリー・ペック)が、息子ダミアンの頭髪を刈り、「666」の刻印があるかどうか調べる場面です。
    https://youtu.be/qxoob_XD7Ik?t=5973

    『罪と罰』に「ヨハネの黙示録」とくれば、これはもう、読むしかない!!

    ちなみに目次は次の通りです。

    「謎とき」とは? / 精巧なからくり装置 / 666の秘密
    パロディとダブル・イメージ
    ペテルブルグは地獄の都市
    ロジオン・ラスコーリニコフ=割崎英雄
    「ノアの方舟」の行方
    「罰」とは何か / ロシアの魔女 / 性の生贄
    ソーニャの愛と肉体 / 万人が滅び去る夢
    人間と神と祈り/13の数と「復活」

    書籍の紹介

    この記事は、米川正夫・訳から抜粋しています。

    全体に緻密で、格調高い文体が特徴。

    私が購入したのは、『新潮文庫』ですが、現在は角川文庫より再版されています。

    新潮文庫の表紙。私の世代は、この装幀で「悪霊」や「カラマーゾフの兄弟」など、ドストエフスキー作品を読破した人が多いのではないでしょうか。

    新潮文庫 米川正夫 罪と罰

    米川正夫 訳 新潮文庫

    ラザロの復活について

    ヨハンネスによる福音(ヨハネの福音書)

    テーマの鍵となるラザロ(ラザロス)の復活について、簡単に紹介しておきます。

    ラザロの死と復活までのエピソードは、ヨハンネスによる福音・第十一章に掲載されています。

    マリアと姉のマルタのいた村に、ラザロという病人がいました。このマリアは、イエスに香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐった「罪深い女」です。ラザロは姉妹の兄であり、深い愛情で結ばれていました。

    ところが、イエスが弟子たちと共にラザロを訪ねると、すでにラザロは息を引き取り、埋葬されてから四日も経っていました。

    イエスはマリアに言います。「わたしは復活であり、生命である。わたしを信じる人は皆、けっして死ぬことはない」

    ラザロの墓は、洞穴で、石でふさがれていました。

    イエスが「その石を取りのけなさい」と言うと、マルタは「主よ、四日もたっていますから、もう臭くなっています」と答えます。

    しかし、イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言い、人々が石を取りのけると、天を仰いで言います。「父よ、わたしの願いに耳を傾けてくださったことを感謝します。あなたがわたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、あなたがわたしをお遣わしになったことを、周りにいる群衆に信じさせるためです」

    こう言ってから、「ラザロよ、出てきなさい」と大声で叫ぶと、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出てきました。

    イエスの行なったことを目的したユダヤ人の多くは、イエスを信じますが、中には、脅威を感じ、「このままにしておけば、ローマ人が来て、我々の聖所も国民も滅ぼしてしまうだろう」と案じます。

    ヨハンネスの福音書では、この日から、イエスを殺そうという計画したとあります。

    ラザロの復活が意味するもの

    『ラザロの復活』には、二つの意味があります。

    一つは、磔刑後のイエスの復活を示唆するもの。

    もう一つは、信仰の本質と魂の復活です。

    信仰とは、「奇跡を見たから、信じてあげる」という取引ではなく、魂の底から湧き上がるような希望と信頼の気持ちです。恋愛関係でも、「ダイヤモンドを買ってくれたから、信じてあげる」とは言いませんね。ドジだろうが、貧乏だろうが、無条件に信じて、慈しむ気持ちです。信仰もそれと同じ、奇跡がそこにあろうと、無かろうと、心の底から恃みにし、聖書の一言一句を自分の血肉として、真っ直ぐ歩んでいく気持ちではないでしょうか。

    ゆえに、ラザロが生き返ろうが、墓の中で腐ろうが、真の信仰は変わりません。そして、そのように信じられる人こそ幸福である、というのがイエスの主張ですね。

    そして、それほどの信仰に支えられたら、今まで死んだように生きていた人も、魂が息を吹き返し、まるで墓の中から蘇ったように朝日を眩しく感じるでしょう。心は喜びに満ち、再び人を愛する気持ちになるはずです。

    これこそ真の復活であり、ゾンビのように蘇るか否かの問題ではありません。

    ラスコーリニコフも、非凡人思想に取り憑かれてから、人を殺めて、死んだように苦しみました。しかし、ソーニャの慈愛によって、再び良心を取り戻します。

    ドストエフスキーの『罪と罰』は、いかに罰するかではなく、神なるものを見失った男が、再び命の道を見いだすまでの物語です。

    参考サイト

    『ラザロの復活』について詳しく紹介されているサイトです。

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