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    作品に罪はあるのか。非凡人は法律を超える権利を有するのだろうか。

    作品に罪はあるのか。非凡人は法律を超える権利を有するのだろうか。
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    https://rollingstonejapan.com/articles/detail/30246 (リンク先は削除されています)

    物議を醸しているHBO製作の『Leaving Neverland』の公開を受け、米インディアナポリス子供博物館はマイケル・ジャクソン関連の展示品2点の撤去に踏み切った。「新事実が明るみに出る、あるいは歴史的な出来事を別の角度で見るとき、私たちはその展示品が来場者にお見せするのにふさわしいものかどうかを再評価しなければならない場合があります」とコメントを発表した。

    「展示を企画する際、私たちは展示品と著名人とのつながりを重視します。当然ながら、私たちはご来場いただく皆様のためにモラルの高い人物に関するストーリーを紹介したいと考えています」とコレクション・ディレクターを務めるクリス・キャロン氏が同紙に語った。

    「新事実が明るみに出る、あるいは歴史的な出来事を別の角度で見るとき、私たちはその展示品が来場者にお見せするのにふさわしいものかどうかを再評価しなければならない場合があります」

    『Leaving Neverland』公開以降、マイケルは、性的暴行容疑で話題のR・ケリーほど厳しい避難の的とはなっていないにせよ、米HBOが手がけた2部構成のドキュメンタリー作品はいくらかの余波を呼んでいる。ウェイド・ロブソン氏とジェームズ・セーフチャック氏による告発を受け、アニメ『ザ・シンプソンズ』はマイケルが声優を務めたキャラクターが登場するエピソードの放送と配給を取り下げた。

    マイケルの未成年者に対する性的虐待疑惑なら、生前より何度も取り沙汰されてきたし、地球上でマイケルの曲が流れる限り、「ボクも、私も」なんて話はいくらでも出てくるだろうと思う。自称隠し子、自称愛人、なんて話もあるだろう。そして、死人に口なし。音声や映像など、決定的証拠でもない限り、法的に立証するのは非常に難しいと思う。

    しかし、昨今の#me too運動をはじめ、人種差別的発言や動物虐待(狩りの写真をSNSにアップして、ロレアルの専属モデルの話をキャンセルされた女の子もありました)など、世間の目がどんどん厳しくなっている今、「有名人だから」「偉大な功績を残したから」という言い訳はもう通用しない。

    マイケル・ジャクソンでさえ――自称・被害者の訴えが真実であるなら――一部地域においては、『スリラー』『Beat it』『BAD』といった音楽史に残る世界的ヒット曲さえも、「人道的理由」により、永久的に撤去されるかもしれない事を思うと、果たして『作品の罪にあるのか』ということをしみじみ考えずにいない。

    80年代、どのラジオ局でも一日一度は再生され、TVをつけても、ショップに行っても、地方の喫茶店や雑貨店でさえも、スリラー、スリラー、スリラーと、町中にマイケル・ジャクソンが流れていた頃には、こんな時代が来るとは夢にも思わなかったけれど。(おじいさんでさえ、アォ!という合いの手を知ってたからね)

    奇しくも、日本でも有名タレントが薬物使用で逮捕され、出演していたDVDが回収されたり、TVドラマの差し替えが決まったり、「いくら何でも行き過ぎではないか」「作品に罪はない」という声が上がっているが、どうだろう。本当に作品に罪はないのだろうか。

    『作品』かどうかは別として、周囲が「全く気付きませんでした」は通用しないだろうに。

    安普請に暮らす、天涯孤独の中年男性(無職・住所不定)ならともかく、相手は日本中の誰もが知ってる有名人で、仕事のオファーもひっきりなし。一般の勤め人と異なり、朝も夜もなくスタッフや業界関係者に囲まれ、同じ宿舎に一緒に寝泊まりすることも一度は二度ではなかったはずだ。サラリーマン社会でさえ、上司と不倫してるとか、誰某と喧嘩したとか、最近顔色が悪いとか、「もしかして彼氏と上手くいってないんじゃないの」「あ、やっぱり」みたいに、何かしら異変に気付くものなのに、今の今まで、誰も、何も気付かないなど、有り得るのだろうか。“ヤバい人”と知りながら、利益のため、あるいは保身の為、使い続けてきたとしたら、そっちの方がよほどたちが悪いような気がする。

    作品そのものに罪はなくても、一緒に仕事をすれば、組織としての社会的責任は問われるだろうし、周囲も知らぬ存ぜぬでは済まされない。その一応のケジメとして、音源やDVDの回収という措置がなされたとしても、それはそれで意味のあることだと私は思う。(一緒に名前を連ねていたら、自分にまで嫌疑が及ぶと警戒する人もあるだろうし)

    永久的に回収するか、折を見て再リリースするかは、それぞれが世評を考慮して決めればいいことだし、『作品に罪はない』と言えば、全くその通り。
    しかし、社会的に製作に関わった以上は、何らかの意思表示が必要であり、今回は『回収』という形で対応したまでのこと。白黒はっきりするまでは、ファンも焦らず、騒がず、作品の価値を今まで通りに伝えていくのが賢明ではないだろうか。今はマイケル・ジャクソンでさえ、展示物が撤去される時代なのだから。

    それにしても、天涯孤独の中年男(住所不定・無職)が薬物で逮捕されれば、「自業自得」「社会のゴミ」で一刀両断されるのに、こと相手が有名人になると「可哀想」「ヤクもオンナも芸の肥やし」みたいな論調になるのは何故だろう。

    そこで思い出すのが、ドストエフスキーの名作『罪と罰』の「非凡人と凡人の喩え」。

    『19世紀の夜神ライト』こと、ロシアの貧乏学生ラスコーリニコフが、「非凡人は一線を越える権利を有する」という身勝手な論理から金貸しの老婆とその義妹を斧で打ち殺し、良心の呵責に苛まれて、最後は信心深い聖なる娼婦ソーニャの導きで自首したのは有名な話だ。

    特に「法を踏み越える権利」を振りかざすラスコーリニコフに対し、切れ者のポルフィーリィ予審判事が人間の身勝手と傲慢を説く場面は圧巻だ。(文学史に残る名文)

    米川正夫先生の翻訳いわく・・ (一部省略してます)

    ポルフィーリィ 「いや、今までもずっと興味を持っていたんですが、あなたの書かれたちょっとした論文なんです。犯罪に就ついて……とか何とかいいましたね」

    ラスコーリニコフ 「たしか僕は、犯罪遂行の全過程における、犯罪者の心理状態を検討したように覚えていますが」

    ポルフィーリィ 「そうです。そして犯罪遂行の行為は、常に疫病を伴うものだと、主張していらっしゃる。しかし――わたしが興味を抱かされたのは、あなたの論文のこの部分じゃなくて。結末のほうにちょっと洩らしてあった感想なんです。……つまり世の中には、あらゆる不法や犯罪を行い得る人……いや、行い得るどころか、それに対する絶対の権利を持ったある種の人が存在していて、彼らのためには法律などないに等しい――とこういう事実に対する暗示なのです。 ≪中略≫ この人の論文によると、あらゆる人間が『凡人』と『非凡人』に分かれるという点なのさ。凡人は常に服従をこれ事として、法律を踏み越す権利なんか持っていない。だって、その、彼らは凡人なんだからね。ところが非凡人は、特にその非凡人なるがために、あらゆる犯罪を行い、いかなる法律をも踏み越す権利を持っている。たしかそうでしたね」

    ラスコーリニコフ 「即ち『非凡人』は、ある種の障害を踏み越えることを自己の良心に許す権利を持っている……といって、つまり公の権利というわけじゃありませんがね、ただし、それは自分の思想――時には全人類のために救世的意義を有する思想の実行が、それを要求する場合にのみ限るのです。 ≪中略≫ 僕の考えによると、もしケプレルやニュートンの発見が、ある事情のコンビネーションによって、一人なり、十人なり、百人なり、㦯いはそれ以上の妨害者の生命を犠牲にしなければ、どうしても世に認めさせることが出来ないとすれば、その場合にはニュートンは、自分の発見を全人類に普及するため、その十人なり百人なりの人間を除く権利がある筈です。いや、そうしなければならぬ義務があるくらいです……

    しかし、それかといって、ニュートンが誰彼なしに手当たり次第の人を殺したり、毎日市場で泥棒したりする、そんな権利を持っていたという結論は、決して出て来やしません。それから、僕の記憶しているところでは、こんなふうに論旨を発展さしたように思います。

    つまりあらゆる……まあ例えば、全人類的な立法者なり建設者なりは、太古の英雄を初めとして、引き続きリカルガス、ソロン、マホメット、ナポレオンなどといったような人たちは、皆ひとり残らず、新しい法律を布いては、その行為によって、従来世人から神聖視されて来た父祖伝来の古い法令を破棄した。その一事だけでも立派な犯罪人です。従ってむろん彼等は、おのれを救い得るものはただ血あるのみという場合になると(たといその血が時として、ぜんぜん無享なものであろうと、古い法令のために勇ましく流されたものであろうと)、流血の惨にすら躊躇しなかったのです。これらの人類の恩恵者、建設者の大部分が、とりわけ恐ろしい流血者であったということは、刮目に値するくらいじゃありませんか。

    一口にいえば、人は誰でも、単に偉人のみならず わずかでも凡俗の軌道を脱した人は、ちょっと何か目新しいことをいうだけの才能に過ぎなくとも、本来の天性によって必ず犯罪人たらざるを得ないのです。

    ところで、凡人、非凡人の分類については、それが少し気まぐれだってことに僕も異存はありません。

    僕はただ根本思想を信じるだけです。

    その根本思想というのはこうなんです。

    人は自然の法則によって、概略 二つの範疇にわかれている。つまり自分と同様なものを生殖する以外に何の能力もない。いわば単なる素材に過ぎない低級種族(凡人)と、いま一つ真の人間、即ち自分のサークルの中で新しい言葉を発する天稟なり、才能なりを持っている人々なのです。

    この二つの範疇を区別する特質はかなり截然としています。

    第一の範疇すなわち材料は、概括的にいって保守的で、行儀がよく、服従をこれこととして、服従的であることを好む人々です。僕にいわせれば、彼等は服従的であるえき義務すら持っているのです。なぜなら、それが彼等の使命なのですからね。そこには、彼等にとって断じてなんら屈辱的なものはありません。

    第二の範疇はすべてみな、法律を踏み越す破壊者か、㦯はそれに傾いている陽とたちです。それは才能に応じて多少の相違があります。この種の人間の犯罪はもちろん相対的であり、多種多様であるけれど、多くは極めてさまざまな声明によって、よりよきものの名において、現存せるものの破壊を要求しています。

    で、もし己の思想のために、死骸や血潮を踏み越えねばならぬような場合には、彼等は自己の内部において、良心の判断によって、血潮を踏み越える許可を自ら与えることが出来ると思います――もっとも、それは思想の性質により、思想のスケールによって程度の差があります。

    群集はほとんどいつの時代にも、彼等にこうした権利を認めないで、彼等を罰し、彼等を絞殺してしまいますから。そして、その行為によって極めて、公明正大に、自分の保守的使命を果たしているのです。

    が、ただし次の時代になると、この同じ群集が前に罰せられた犯罪人を台座に載せて、彼等に跪拝するのです。

    第一の範疇(凡人)は現在の支配者であり、第二の範疇(非凡人)は未来の支配者であります」

    ポルフィーリィ 「ところで、一つ伺いますが――またさっきの話に戻りますよ――非凡人はいつも必ず罰せられるとは限りますまい。中にはかえって……」

    ラスコーリニコフ 「生きながら凱歌を奏する、とおっしゃるのですか? そりゃそうですとも。中には生存中に目的を達するものがあります。その時は……」

    ポルフィーリィ 「自分で人を罰し始める、ですか?」

    ラスコーリニコフ 「必要があれば。いや、なに、大部分そうなるでしょう」

    ポルフィーリィ 「一体どういうところで、その非凡人と凡人を区別するんです? 生まれる時に何かしるしでもついてるんですか? わたしのいう意味は、そこにもう少し正確さがほしいと思うんです。そこに例えば、なにか特別な制服でも決めるとか。何か身につけるとか。それとも刻印のようなものでも捺すとか。そんなわけに行かないものでしょうかね……さもないと、もしそこに混乱が起こって、一方の範疇の人間が、自分はほかの範疇に属しているなどと妄想を起こして、あなたの巧い表現を借りると、『あらゆる障害を除き』始めたら、その時はそれこそ……」

    『あらゆる障害を除き』始めたら、その時はそれこそ……DEATH NOTEの世界。「僕が選んだ、真面目で、心優しい人たちだけが幸せに暮らせる世界」を作ろうとして、一方的に“悪人”を裁き、無差別大量殺人犯と化した夜神ライトそのものだ。いかにライトが秀でた高校生とはいえ、彼一人が人間の良し悪しを判別する権利を有するものだろうか。

    ポルフィーリィが問題視しているのは、非凡人なら何をしても許されるのか――そもそも、何をもって「非凡人(真面目で、心優しい人)」とみなし、何をもって「凡人(悪人)」と断じるのか――人が人を振るいにかける危うさと傲慢さである。

    現代では、その為に『法』がある。もちろん、その内容は絶対ではなく、時と場合に応じて書き換えられることもあるが、一番肝心なのは『法の下に平等であること』。法の下には、有名人とか、大統領とか、天才とかの区別はない。相手が何ものであろうと、過去にどんな偉業を成し遂げようと、平等に機能するから、法治国家というのだ。その前提が崩れたら、たちまち大勢が不幸になるし、それこそ「法を踏み越える権利を有する自称・非凡人」によって、社会はメチャクチャになってしまうだろう。

    有名人の悪事が露見した時、優れた業績や才能を理由に庇う人も多いけど、それは突き詰めれば「踏み越える権利」を肯定しているのも同じだと思う。人殺しとまではいかなくても、非凡人は何をしても納得できる、と。それは見方を変えれば、自分にも許しているわけで、その発想がある限り、傲慢や独善の病から抜け出すことはできないだろう。

    ちなみに、ラスコーリニコフに対するポルフィーリィ(ドストエフスキー)の回答は次の通り。

    ところで、その男の良心はどうなります?

    中には完全に開き直って、良心の痛みの欠片も感じてないような人もあるけれど、その実、自分の良心と向き合うのが怖いから、意地を針通している部分もあるのではないか。ラスコーリニコフが屁理屈をこねて、良心の痛みを誤魔化し続けたように。

    果たして、マイケル・ジャクソンの歌曲は、十年後も、二十年後も、残っているだろうか。

    『作品』としては、もちろん、YES。

    でも、真偽によっては、人々の認識や社会の評価は、20世紀とは大きく違ったものになるかもしれない。

    誰かにこっそり教えたい 👂
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