江川卓『カラマーゾフの兄弟』は滋賀県立図書館にあります詳細を見る

    【40-2】 『キリストを拒否すれば、血の海を見るだけである』 ~ロシア革命とキリスト教弾圧

    レーニン統治時代の教会財産の接収 Ivan Vladimirov
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    あらすじ

    【39】 世界を変えるのは人の心から ~告解と改悛と赦しの意義の続きです。

    ゾシマ長老は死を前にして、アリョーシャや神父らに最後の訓諭を与えます。前章では、ゾシマ長老の人格形成に大きな影響を与えた兄マルセルの死と変容、青年時代の愚かな決闘と悔悟、入信への決意、謎の訪問者の罪の告白と改悛が描かれ、後半部となる『第Ⅵ編 ロシアの修道僧 / 第3章 ゾシマ長老の談話と説教より』では、ドストエフスキーの遺言ともいうべき「願い」が綴られています。

    章内の構成は次の通りです。

    動画で確認

    映画『カラマーゾフの兄弟』(1968年)より。1分クリップ。

    最後の訓諭を与えるゾシマ長老と神父たち。兄たちの面倒に耐えられず、泣きつくアリョーシャが可愛い・・・

    子供たちに必要なのは明るい太陽

    社会が悪いのは、民衆にも非がある、という話。

    悲しいことに、人も言うとおり、民衆にも罪がある。堕落の炎は刻々目に見えて勢いを増し、上から下へと広まっている。民衆の中にも孤立化が入り込み、富農や搾取者が現われてきた。

    すでに商人たちがますます自身への尊敬を求めるようになり、なんの教養も持たぬくせに、いかにも教養があるごとく見せかけようと努め、しかも、そのために古くからのしきたりをみだりにないがしろにし、父祖の信仰をさえ恥じるようになった。公爵家などへ出入りしているが、その実、当人は堕落した百姓でしかないのだ。

    民衆は飲酒のために腐敗しきっているが、もはやそれを捨て去ることができない。そして家族に対し、妻に対し、子供たちに対してさえ、なんと残忍な仕打ちに及んでいることか、それもこれも飲酒のせいである。私は工場で十歳くらいの子供たちをよく見かけたが、彼らは痩せ細って、弱々しく、背が曲って、すでに悪徳に染まっている。息苦しい工場の建物、騒音を立てる機械、終日の労働、猥褻な言葉、酒、酒、いったいこういうものが、まだあんなにも幼い子供たちの魂に必要なのだろうか? 

    子供たちに必要なのは太陽であり、子供らしい遊戯であり、いたるところに見出される明るい手本であり、一滴でもよい、彼らへの愛である。

    これも現代そのままですね。

    「商人たちがますます自身への尊敬を求めるようになり、なんの教養も持たぬくせに、いかにも教養があるごとく見せかけようと努め」も、まんまかと。

    社会の近代化や工業化は、莫大な富も生みだしたけど、人間を傲慢にもするし、傲慢になれば、他人の意見にも耳を傾けなくなって、どんどん自己肥大していくのは今も同じです。

    そして、子供に必要なのは眩い自然の光であり、子供らしい遊びという点も。

    ロシアに神の救いはあるのか

    ドストエフスキーは次のように願いましたが・・

    だがロシアは、これまでも何度もそうであったように、神の救いを受けるにちがいない。救いは民衆から来る、民衆の信仰と謙虚さから来る。神父のみなさん方、民衆の信仰を大切になされ、そしてこれは夢ではないのだ。 ≪中略≫

    しかし神は自身の子らを救い給うであろう、なぜならロシアはその謙虚さによって偉大だからである。

    私はロシアの未来を見たいと願い、すでにそれをはっきりと目にしていると言ってもよい。すなわち、堕落しきった富者もついには貧者に対して自身の富を恥じるようになり、一方、貧者はそのような富者の謙虚さを見て、その心根を理解し、富者のそのような恥じらいに喜びと愛をもって応え、富者に譲歩するのである。

    最後にはこうなること、事態がその方向へ進んでいることを信じていただきたい。平等とは人間の精神的尊敬のうちにのみあるものであり、このことが理解されるのはわが国においてだけであろう。人間同士が兄弟の関係になるならば、兄弟愛の世が実現するが、この兄弟愛の実現までは、人は公平な分配を行ないえない。キリストの御姿を守りとおしていくならば、やがてそれは高価なダイアモンドのように全世界に輝きわたるに相違ない……かくならせたまえ、アーメン! 

    そうはなりませんでしたね。

    可能性はあったけど、その機会も逸して、再び暗黒期。

    ドストエフスキーが見たら、さぞか落胆するでしょう。

    あれだけ優れた音楽家や舞踊家を輩出して、こうなるのか、本当に不思議~

    見方を変えれば、芸術を理解できる人の方が圧倒少数ということでしょうね。

    ちなみに、ゾシマ長老は、かつての従者アフィナーシイとの再会について、「かつて私は彼の主人であり、彼は私の召使だったが、いま、二人が愛と感動にふるえて接吻し合ったとき、私たちの間には偉大な人間的結合が生じたのだ。私はこのことについてはいろいろと考えたが、いまは次のような見解を抱いている。このように偉大で純(じゅん)朴(ぼく)な結合がやがてはわがロシア人の間にいたるところで実現するだろうと考えるのは、果して人智を越えたことだろうか? 私はそれが実現するものと信じている、しかもその時は近い」と述べていますが、それも儚い夢に終わりそうです。

    ロシアに地上の楽園は訪れるのか?

    ゾシマ彫鏤=ドストエフスキーの願いはさらに続く・・

    (ゾシマ長老と従者アフィナーシイとの関係のように)。そのときには、間は召使を探し求めたり、いまのように、自分と同じ人間を召使にしようと望んだりすることをやめ、そればかりか、自分自身が福音書の教えにしたがってすべての人の召使となることを心から望むようになろう。

    果してこれは夢だろうか――ついには人間が啓蒙と慈愛の偉業にのみ喜びを見出すようになり、現在のように、飽食、放蕩、傲慢、大言壮語、ねたみがましい競い合いなどの酷薄な快楽には喜びを感じなくなるというのは? そんなことはないし、その時は近いと私は確信している。

    人は笑ってたずねるかもしれない――いったいその時はいつ来るのですか、どうもそ.んな時が来るようには思えないが? と。けれどわれわれはキリストとともにこの偉大な事業を成就させるだろうと、私は考えている。

    笑いはしない。

    でも、現状を鑑みるに、それは無理ゲーです。

    キリストを拒否すれば、血の海を見るだけである

    人は笑ってたずねるかもしれない――いったいその時はいつ来るのですか、どうもそ.んな時が来るようには思えないが? と。

    けれどわれわれはキリストとともにこの偉大な事業を成就させるだろうと、私は考えている。

    だいたいこの地上の人間の歴史には、十年前までは考えられもしなかった思想が、それに約束された神秘な時代の到来とともに突如として世に現われ、全世界に広まった例が無数にあるではないか。

    わが国においてもそのとおりのことが起り、わが国の民衆は全世界に輝きわたり、みなは口をそろえて、《建築家の捨てた石が要(かなめ)の石となった》(注解参照)と言うにちがいない。われわれを嘲笑する者にはこう聞き返してやりたい。われわれの考えが夢だと言うのなら、それではあなた方は、キリストの助けを借りず、自分たちの知力だけで、いつ自分の建物を建てるのか、公正な社会を作られるのか、と。

    かりに彼ら自身が、いや、そうではない、自分たちこそが人間の結合をめざしているのだと主張するとしても、心からそう信じているのは彼らの中でももっとも単純な者だけであり、その単純さにはただもう驚くばかりである。

    まことに彼らの夢想と空想は、われわれよりも上だと言わなければならない。

    彼らは公正な社会を作ろうと夢見ているが、キリストを拒否すれば、結局は世界を血の海と化するだけである。

    なぜと言って、血は血を呼び、剣を抜く者は剣によって滅びるからである。もしキリストの約束がなかったなら、地上の人間は最後の二人になるまで互いに滅し合うことになるだろう。しかもこの最後の二人が自身の傲慢さのゆえに相手をつなぎとめることができず、あげくは最後の一人が相手を滅し、つづいて自分をも滅すことになろう。謙虚にして柔和なるものにはかかることなし(注解参照)、というキリストの約束がなかったならば、そのとおりになったであろう。

    私はまだ将校の軍服をつけていたころ、決闘の後、社交界でこの召使の話をはじめたことがあるが、みなが私の言葉に目をむいて、「では、召使をソファに坐らせて、お茶を運ばねばならないのですか?」と言ったことを憶えている。そこで私は答えた。「そうしてはいけませんか、せめてたまには」すると一同はどっと笑った。彼らの質問は軽はずみなものだったし、私の答もあいまいであったが、そこにも一半の真理があったと考えている。

    後述『ロシア革命とキリスト教弾圧』でも紹介していますが、「キリストを拒否すれば、結局は世界を血の海と化するだけである」というのはドストエフスキーの預言のままになっていますね。

    キリスト教会そのものでなくても、キリスト教的な愛と思いやり、調和と助け合いの精神を欠けば、血みどろの権力闘争になるのは目に見えています。

    ドストエフスキーも、そうした空気を感じとって、こうした言葉を遺したのでしょう。

    当時の読者が、彼の言葉をどのように受け止めていたのか、「その声は届かず」という印象です。

    ロシア革命とキリスト教弾圧

    ロシア革命によってソヴィエト政権が成立すると、多数の聖堂や修道院が閉鎖され、財産が接収されました。

    また、聖職者や信者が外国のスパイなどの嫌疑で逮捕され、多数が処刑されています。

    土肥恒之氏の著書『興亡の世界史 ロシア・ロマノフ王朝の大地 (講談社学術文庫) Kindle版』では、ロシア革命の経緯が紹介されていますが、解放のための社会運動が、権力維持のための内戦や弾圧に傾き、宗教弾圧や粛清に繋がっていったのは、非常に残念ですね。

    ■ 教育の普及と無神論

    社会主義の理念と工業化の要請に応じて、さまざまなレヴェルでの教育の普及がみられた。新政府の識学運動によって、革命後の人びとの識字率は著しく向上した。 ≪中略≫

    大学教育は根本的な改革を余儀なくされた。モスクワとペテルブルグの帝国大学の伝統ある「歴史・文献学部」は廃止され、「社会科学部」の一学科に格上げとなった。「ブルジョア的」教授たちは歴史教育から排除され、新しいマルクス主義理論に立つ教授の養成のために「赤色教授学院」が設立された。 ≪中略≫

    革命はロシアの教会を窮地に立たせた。「宗教はアヘンである」というのがマルクス主義の原則で、レーニンもスターリンも「無神論者」であった。ボリシェビキはいちはやく「蜂起」への呼びかけの可能性を絶つために、特別の日を除いて「鐘をつく」ことを禁止した。また教会からは法人格を奪い、教会財産を「人民の財産」と宣言した。

    こうして教会財産の国有化のキャンペーンが繰り広げられた。聖職者と信者たちはこれに抵抗したが、教会の閉鎖の動きは、二十年半ばに、その財産の40パーセントを地方の歳入とするという「力強い刺戟」によって加速された。

    破壊のあと教会のなかの宝石や貴金属が集められ、イコンの「覆い」は溶かされ、銀だけが取り出された。イコン画そのものは薪代わりに燃やされた。こうした粗野な手法によって全国各地で教会が破壊されたのだが、コルホーズの設立も破壊から始まったのである。

    記事について

    江川卓の注釈

    福音書の教え

    「自分と同じ人間を召使にしようと望んだりすることをやめ、そればかりか、自分自身が福音書の教えにしたがってすべての人の召使となることを心から望むようになろう」に基づく。

    マタイ福音書第二十章二十七節「汝らのうち首たらんとする者は僕たるべし」、ルカ福音書第二十二章二十七節「われは汝らのうちにありて使うわるる者のごとし」などを踏まえている。

    マタイ福音書では「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。 それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。https://www.bible.com/ja/bible/81/MAT.20.JA1955

    ルカ福音書では、「食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている」 https://www.bible.com/ja/bible/81/LUK.22.JA1955

    《建築家の捨てた石が要(かなめ)の石となった》

    ロシアがキリストの愛に基づいて、真の平和と平等を実現したら、「わが国の民衆は全世界に輝きわたり、みなは口をそろえて、《建築家の捨てた石が要(かなめ)の石となった》と言うにちがいない」という文脈で。現実は真逆です(^_^;

    もとは旧約聖書の詩編第百十八歌二十二節に出てくる言葉だが、ルカ福音書第二十章十七節その他で引用されている。キリストの事業がユダヤ人から見捨てられた後に要の石となり、その上に教会が発展することの寓意とされる。

    柔和なるものにはかかることなし

    「キリストを拒否すれば、結局は世界を血の海と化するだけである」「血は血を呼び、剣を抜く者は剣によって滅びる」の箇所について。

    旧約聖書の詩篇第三十七歌十一節に「柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁栄を楽しめる」とあり、この言葉がマタイ福音書第五章のいわゆる山上の垂訓の中でキリストによって「約束」として確認されている。なお、人間が最後の一人まで殺し合う話は、、『罪と罰』のエピローグにも語られている。

    人間の殺し合いについて、ここで[「滅す」という訳語を用いたのは、ふつうに用いられる「ウビーチ」というロシア語でなく、「イストレビーチ」という特殊な語が用いられているからである。この語は、聖書では創世記第六章のノアの洪(こう)水(ずい)のくだりで、神が人を造ったことを悔いて、「わが創造(つく)りし人を地面より拭い去らん」と決意するところや、同第十八、十九章でソドムの町を「滅す」ときなどに使われ、「根絶する」といったニュアンスが強い。スメルジャコフが自殺にさいして書き残した遺書にもこの言葉が使われており(下巻三五七ページ上段)、ゾシマがスメルジャコフの自殺と遺書を予言したようにもとれるが、これがアリョーシャの書きとめた記録であることを考えると、時間の前後はむしろ逆である可能性が強い。

    ロシア革命の参考図書

    中世のロシア(キエフ国家と「受洗」)から、ソ連崩壊まで、ざっくり読ませる歴史本。堅苦しい表現はなく、要所を抑えながら、ロシア史の本流を教えてくれる。読みやすく、おすすめです。

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    ロシア革命の経緯を見るにつけ、ロマノフ一家は暗殺されなければならなかったのか疑問に感じますが、それがソヴィエト政権の本質と思えば納得もいきます。この一件を通して、「恐れ知らずになった」のかもしれません。

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    アイキャッチ画像: Ivan Vladimirov 画 『レーニン統治時代の教会財産の接収』


    『カラマーゾフの兄弟』を読んでいると、ドストエフスキーの必死の願いがひしひしと胸に伝わってくるね。その声が届かなかったのは非常に残念だ。ソヴィエト政権樹立の前に彼が逝去したのは、あるいは神の救いかも。
    誰かにこっそり教えたい 👂
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