江川卓『カラマーゾフの兄弟』は滋賀県立図書館にあります詳細を見る

    【15】 忠僕グリゴーリイ『好色な人々』の真摯な生き様 / 性も含めて一人の人間

    カラマーゾフの兄弟 スメルジャコフ グリゴーリイ
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    目次 🏃‍♂️

    好色な人々の真摯な生き様</h2>

    章の概要

    ゾシマ長老の仲裁の元、長男ドミートリイと淫蕩父フョードルの金銭問題を解決する為、家族の会合が行われますが、フョードルは息子や神父を愚弄するだけで、物別れに終わり、フョードルとイワンは連れ立って家に戻ります。

    カラマーゾフ家のダイニングでは、忠僕グリゴーリイと彼の義理の息子で、カラマーゾフ家の料理人でもあるスメルジャコフが、フョードルとイワンの為にジャムとコーヒー、コニャックなどを用意し、続いて家に帰って来たアリョーシャをもてなします。

    『第Ⅲ編 好色な人たち / 第1章 召使部屋にて』では、本作の重要なキーパーソンであるスメルジャコフと、育ての親である忠僕グリゴーリイ、妻マルファ、そして一家の主であるフョードルとの関係が描かれます。

    動画で確認

    映画『カラマーゾフの兄弟』(1968年)より。

    カラマーゾフ家のダイニングでくつろぐフョードルとイワン、給仕をする忠僕グリゴーリイとスメルジャコフが描かれます。(1分動画)
    ロシアの地主の暮らしがどの程度のものか、日本人にはいまいちピンと来ませんが、この動画を見れば、フョードルも田舎の淫蕩オヤジとはいえ、立派な地方の名士だし、グリゴーリイも召使いとはいえ、お仕立ての忠僕で、奴隷とは180度異なる様子が窺えます。19世紀後半のロシアの農奴の暮らしに比べれば、カラマーゾフ家は確かに裕福ですし、ロシア革命の後は、彼らも財産を没収されて、一気に社会主義に突っ走っていったのかと思うと、ロシア版「風と共に去りぬ」という印象です。

    忠僕グリゴーリイ カラマーゾフの兄弟

    忠僕グリーゴリイと淋しい老人フョードル

    第Ⅱ篇『場ちがいな会合』での、金と女をめぐる父子の争いはいったん終結し、第Ⅲ編では、影の主役とも言うべき料理人スメルジャコフと、その育ての親であるグリゴーリイ&マルファ夫妻、カラマーゾフ三兄弟との関わりが描かれます。

    無神論といえば、次男イワンの「不死がなければ、善行もありません(神がなければ、すべてが許される)」「神はありません」が有名ですが、イワンは単純に「いい人」で、潔癖過ぎて現実の不条理に耐えられなくなったタイプなので、真性のニヒリストでもなければ、アンチクリストでもありません。それは、賤しい生まれと格差ゆえに心を歪ませたスメルジャコフとは似て非なるものです。むしろ、イワンこそ、スメルジャコフに惑わされ、正気をなくした被害者です。

    スメルジャコフの生い立ちについて、詳しく記述されているのも、スメルジャコフが本作の影の主役だからで、利口な人なら、イワンとのやり取りを見ただけで、フョードル殺しの犯人が誰か分かるのではないでしょうか。もっとも、「カラ兄」は本格ミステリーではないので、途中で展開が読めても、ドストエフスキー的には痛くも痒くもないのですが。

    また、スメルジャコフの養父母となる、グリゴーリイとマルファについても、かなりのページをさいて、気質や夫婦生活が描かれています。この善良な夫婦が、図らずも、フョードル殺しに巻き込まれ、忠僕グリゴーリイも証言台に立つことを考えると、納得です。

    一方、グリゴーリイとフョードルの心理的関係も興味深く、最後まで忠義を尽くすグリゴーリイと、淋しい老人の一面を物語っています。

    長編が苦手な読者には、一つ一つが冗長に感じられるかもしれませんが、後半、フョードル殺しから裁判に至るまでを見れば、こうした描写の必要性を実感すると思います。

    小説は、主要な登場人物だけでは成り立ちません。

    作品の隅々まで、細密に仕上げるのが、ドストエフスキーらしさではないでしょうか。

    そんな忠僕グリゴーリイとフョードルの関係について、本作では次のように描写しています。

    抜け目がなくて意地ずくの道化者であったフョードルは、彼自身の言いぐさを借りれば、《世の中のある種のことがらにかけては》きわめて芯(しん)の強いところがあったが、世の中のそのほかの《ことがら》にかけては、われながらあきれるくらい、いくじなしだった。彼は、それがどんなことがらであるかを自分でも知っていて、知っているだけに、いろいろなことをこわがっていた。世の中のある種のことがらについては、おさおさ警戒を怠らぬ必要があったし、そういう場合にはだれか忠実な人間がいないと心細かったが、その点グリゴーリイは、まさしく忠実そのもののような男だったのである。

    ≪中略≫

    淫蕩のかぎりをつくし、肉欲の満足のためには、しばしば性の悪い昆虫のように残忍になるフョードルであったが、そんな彼が、酔っぱらった折など、内心、にわかに精神的な恐怖と道徳的な戦慄をおぼえて、それが彼の魂にいわば肉体的な反応をさえ呼び起すのだった。≪中略≫

    彼が自分のそばに、できるだけ身近に、なにも同じ部屋にではなくてもよいから、せめて別棟のあたりに、自分に忠実なしっかりした男にいてほしいと思うのは、ほかでもないそういう瞬間であった。それは、自分とはまるでちがって、淫蕩な男ではなく、自分がしでかす乱交を逐一目にして、あらゆる秘密を知りつくしていながら、それでも忠誠心からそういういっさいを大目に見て、楯ついたりしない、いや、それより何より、この世でも先の世でも、いっさい非難めいたことや、脅しじみたことを言わない男であり、いざとなれば、しっかり自分を守ってくれる、そういう男でなければならなかった。

    自分の欠点を自覚した上で、自分とは正反対の人間を抑止力として側に置くのは、現代の政治家や社長も同じではないでしょうか。

    むしろ、並より賢いからこそ、正反対タイプの重要性を理解できると言えます。

    グリゴーリイのように、信心深い老僕を側に置くことで、フョードルは心のバランスを保ちます。あるいは、淫蕩の悪癖を止めて欲しいのは、他ならぬ、フョードル自身かもしれません。

    またそれが結果的に息子ドミートリイの抑止力になることを思うと(逆上したドミートリイは誤ってグリゴーリイを杵で殴りつけ、その大量の血が、父親殺しを思い止まらせる)、グリゴーリイこそ神が遣わした天使と感じます。

    フョードルは神を求めている

    一方、フョードルがアリョーシャを求める気持ちも、これによく似ています。

    アリョーシャが帰郷したときにも、これと似たようなことがフョードルに起った。

    アリョーシャは『いっしょに暮して、何もかも見ながら、けっして責めようとしない』ことで、『彼の心をぐさりとやった』のだった。

    そればかりでなく、アリョーシャは、老人がかつて知らなかったものをもたらした。ほかでもない、老人に対していささかも軽蔑の色を見せないばかりか、むしろ反対に、この老人にはそれこそもったいないくらい、つねにかわらぬ優しさと、まったく自然ですなおな愛情を見せるのだった。

    こうしたことは、家庭を持ったことのない年老いた道楽者には、思いもかけぬ贈りものであったし、これまでもっぱら《淫奔(いんぽん)》狂いに明け暮れてきた彼にとっては、予想もつかないことであった。

    いっしょに暮らして、何もかも見ながら、けっして責めようとしない」というのは、現代の夫婦も同じですね。

    なかなかそれを通すのは難しいですが(^_^;

    六つ指の赤ん坊と龍 ~グリゴーリイの失われた赤ん坊

    そんなグリゴーリイの本質は、「子供好き」の真面目な田舎民です。

    マルファとの夫婦関係も、『田舎のおやじさん&おかみさん』そのもので、無口で頑固だが、真面目な夫と、夫の振舞に疑問を感じても、下手に騒ぎ立てたりせず、むしろ黙ってる方が夫婦関係も上手くいくと考えるタイプで、かなり日本的です。

    グリゴーリイはマルファの出産を楽しみにしていましたが、生まれた子供は「六つ指」の奇形で、すぐに死んでしまいます。

    自分の実の子供のときには、その子がまだマルファの腹の中にいる間しか、楽しみを味わうことができなかった。いざその子が生れてみると、彼の心は悲しみと恐怖につぶれんばかりだった。生ま落ちた子には指が六本あったのである。これを見ると、グリゴーリイはすっかり気落ちしてしまって、洗礼の日までずっと押し黙ったままでいたばかりか、沈黙を守ろうためにわざわざ裏庭へ出掛けて行ったりもした。

    (赤ん坊に洗礼する必要などない、と言うグリゴーリイに対して)
    「これはまたどうして?」司祭が派手に驚いてみせた。
    「なぜかちゅうに……ありゃ……龍だからで……」グリゴーリイはつぶやいた。
    「龍だと? なにか龍じゃ?」
     グリゴーリイはしばらく黙っていた。
    「自然の乱れが起きましたんで……」いたって不明瞭だが、たいそう芯の強い調子で彼はつぶやいた。どうやらそれ以上は言葉を並べたてたくはないようだった。

    この点について、江川卓氏は、著書『謎解きカラマーゾフの兄弟』で次のように述べている。

    「好色な人たち」ということであれば、カラマーゾフ家の従僕のグリゴーリイとマルファもその例外ではない。なるほどこの二人はまことに正常な夫婦関係をいとなんでいたように見える。

    「一目見ただけでは、グリゴーリイが、口答えひとつしない従順な自分の妻を愛しているのかいないのか、さっぱり見当がつかなかったが、その実、彼は妻を心から愛していたし、彼女のほうでも、むろん、そのことをよく心得ていたのだった」と書かれている。

    ≪中略>

    しかしグリゴーリイが「好色な」人間であり、そのことにある種のこだわりを覚えていたことは、六本指の息子の誕生の経緯によく現われている。グリゴーリイはこの息子の洗礼を拒否して、「なぜかちゅうに……ありゃ……龍だからで」と口走る。

    この点を明らかにするためには、当時のロシアに広くひろまっていた民間宗派の実態にすこし踏みこんでみる必要がある。

    十七世紀に分離派の一派として生まれた宗派(セクト)に鞭身派というのがある。1700年1月1日に生きながら天に召されたダニイロ・フィリッポフが開祖とされており、この点では作中に登場する聖痴愚フェラポント神父にその面影が映されている。鞭身派の教義の特質は、教会や僧を否定し、直接にキリスト、聖霊との交わりを求める点にあり、そのための手段として、男女の信徒が一部屋に集まり、祈祷、歌、踊りのあげく、最後には手や鞭でおたがいの全身を打って、集団的な恍惚状態に達する独特の儀礼が行われた。この瞬間にキリストないし聖霊が信徒たちの胎内に入ると信じられたのである。 ≪中略≫

    ところでこの鞭身派は「性」の問題については、もともと「霊は善、肉体は悪」の立場をとり、開祖フィリッポフの十二戒にも次のように言われていた。

    「娶るなかれ、すでに娶れる者は、その妻と姉妹のごとく暮らすべし。いまだに嫁がざる者は嫁ぐなかれ。すでに嫁げる者は離別すべし」

    要するに、性についてははっきりと否定的な態度をとっていたわけである。

    ところが、時が経つにつれて、この開祖の戒律はしだいにゆがめられ、新と同時の性の交わりは「鳩と鳩とがむつむごとき愛」とか、さらには「キリストの愛」とか美化されるよになった。しかも、半裸の男女が一室に集まって、集団的な恍惚状態に達する独特の儀礼となれば、本来は聖霊と交わる神聖な集まりであるはずのものが、おのずと乱交パーティに変質していく場合もしばしばあったわけで、そのことが、「あそこはおもろいで」と鞭身派の人気を集め、急速に信徒の数を増加させた一因であるとする説もあるほどである。

    (こうした鞭身派の堕落を受けて) セリワーノフによって開かれた新しい宗派が「去勢派」であり、信徒は「ペチャーチ」(刻印)と呼ばれる術を受けることになった。

    女性の場合は、乳首だけを切除するのが「小ペチャーチ」、乳房までえぐりとるのが「大ペチャーチ」と呼ばれた。男性の場合の「小ペチャーチ」は睾丸を切除するわけだが、「大ペチャーチ」については手術を終えたあと、術者が切除部分を被術者の目の前に突きつけ、「見よ、蛇の頭は挫かれたり、キリストはよみがえりたまえり」と唱える、のだという。

    このことと関連してとくに指摘しておきたいのは、去勢派の間に龍退治で有名なエゴーリイ聖者の崇拝が広まって、馬にまたがったエゴーリイ聖者が槍で龍を仕留めているさまを描いた画像(イコン)が、去勢派の儀礼の場所としてよく使用された風呂場にしばしば掲げられていたということである。

    つまり、去勢派の間では「龍」も「蛇」の同類とみなされていたわけで、ここではじめて、グリゴーリイがもらした謎めいた言葉「龍」の意蜜が明らかになるのである。

    おそらくグリゴーリイは自身の「性」への一種の恐怖意識からこういう言葉を使ったのではないか、と推測される。 マルファとの性生活がどのようなものであったかは憶測する以外にないが、六本指の赤ん坊を目にした瞬間、グリゴーリイの脳裏には、それが自身の肉欲=蛇のみにくい化身と映ったのではないかと考えられる。

    現代は、ポルノもキャバクラも市民権を得て、性の在り方も、公共の場で堂々と議論されますが、グリゴーリイの時代は、性の自由もなく、医学的にも無知で、多くの人は激しい性欲をもてあまし、自分や相手を罰したり、過度に抑制したり、おかしな儀式に走ったり、苦悩もひとしおだったと想像します。

    ドストエフスキーが、『好色な人たち』をテーマにしたのも、フョードルの淫蕩や、ドミートリイの欲望を揶揄する為ではなく、江川氏の言う通り、「それも含めて一人の人間」だと理解していたからでしょう。また、「英雄色を好む」の喩えもあるように、そうした激しい情動が世界を動かす原動力にもなるのも確かです。

    わたしたちは、「豊かな性」というと、「いつでも、どこでも、だれとでも」を想像しがちですが、真に豊かな性とは、自身の性を肯定し、愛する人との性行為を通じて、思いやりや責任感を学ぶことです。その中には、快楽やロマンスも含まれ、それゆえに人生も刺激的になります。

    この後、「龍の子」をなくした「神さまの本」を耽読するようになり、その結果として、聖痴愚リザヴェータ・スメルジャーシチャヤ(いやな臭いのリザヴェータ)がカラマーゾフ家の風呂場で生みおとした赤ん坊を「スメルジャコフ」と名づけ、我が子として育てるようになります。

    それは生来の優しさと信仰心のなせる技ですが、「龍の子」の生まれ変わりと考えれば、グリゴーリイは、そうとは知らず、「悪魔の子」を引き取った――と言えるかもしれません。

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    動画で確認

    TVドラマ(2007年)。グリゴーリイと妻のマルファが馬小屋に忍び込んだ聖痴愚リザヴェータが赤ん坊を産み落としたことに気付く場面です。(1分動画)

    江川卓による注解

    一種神聖なもの

    「グリゴーリイの心中で、この不幸な女性に対する同情の念は、一種神聖なものにまで高まっていたのであり」の一文に対して。

    グリゴーリイは、長男ドミートリイの母親アデライーダ・イワーノヴナを憎んでいたが、二度目の妻で、わめき女の、ソフィヤ・イワーノヴナ(イワンとアリョーシャの母親)のことはかばって、彼女のことで悪口や軽はずみな言葉を口にする不心得者に対しては、それが自分の主人(フョードル)であろうと、だれであろうと、楯突いた。

    グリゴーリイの心の中で、ソフィヤに対する同情の念は、江川氏の注釈によると、

    「この表現にはグリゴーリイがアリョーシャの母ソフィヤを「聖痴愚」として尊敬していたらしいことが読みとれる。「わめき女」の多くは預言などを口走ることもあり、分離派系の宗派でしばしば聖化されることがあった」

    草場歌

    マルファが若かった頃、いきなりコーラスの前へ飛び出して、ロシア踊りを披露する。しかし、百姓の女たちが踊る田舎ふうではなく、「裕福なミウーソフ家で御勤めしていた頃、モスクワから招かれた踊りの教師か、地主屋敷の家庭劇団の役者たちに教えられたとおりの踊り方だった」ことから、グリゴーリイは腹を立て、マルファを家に連れて帰ると、ちょっぴり髪の毛を引っぱって、いましめた……というエピソードにまつわる。女房を殴ったのは後にも先にもこれ一度きりで、二度とくり返されることはなかった。グリゴーリイは良い旦那(?)であったらしい

    ロシアの踊り歌の一つ。若い娘が老人のもとへ嫁にやらないでくれ、同年輩の若者と結婚させてくれ、と父親に哀願する内容。

    龍だ

    鞭身派が112ページ下段の注に見るように性的に堕落していったことに反発して、その中から新しい宗派として去勢派(きょせいは)が生れた。この派は女性にも男性にも去勢術をほどこしたが、とくに男性の場合には睾丸だけでなく陰茎をも切除することが行なわれ、手術が終ると、術者が切除部分を被術者の目の前に突きつけて、「見よ、蛇の頭は挫かれたり、キリストはよみがえりたまえり」と唱える儀礼が行なわれた。

    蛇は龍に通じ、去勢派の間には龍退治で有名なエゴーリイ聖者への崇拝が広まっていて、その画像がしばしば儀礼の場にかかげられたという。

    このように見てくると、122ページ上段にも述べられているように、鞭身派の教えに「はげしい感動を受けたらしいが、宗派を変えることは思いとどまった」というグリゴーリイは「娶(めと)るなかれ、すでに娶れる者は、その妻と姉妹のごとく暮らすべし」と教えている鞭身派の開祖ダニイロ・フィリッポフの十二戒に感動して、自身の性的欲求を罪悪視し、その肉欲=蛇のみにくい化身としての六本指の赤ん坊を「龍」と名づけたのではないかと考えられる。

    ヨブ記

    ドストエフスキーの幼年時代の愛読書で、1875年、『未成年』執筆中にエムスから妻アンナへ送った手紙には次のような一節がある。「『ヨブ記』を読んでいるが、これは私を病的なくらいに狂喜させている。読むのを中断しては、ほとんど泣きださんばかりになりながら、何時間も部屋を歩きまわっている。翻訳者の低俗きわまる注解さえなければ、私はおそらくとても幸福だと思う。この本は、アーニャ、不思議なことに、私が生涯で感動を受けた最初の本の一つなのだ。当時、私はまだほんの赤ん坊といってもよいくらいだった!」この本はまたゾシマ長老の幼児の愛読書でもある。

    イサーク・シーリン

    七世紀のニネヴェの隠者で、エジプトの砂漠に隠栖して幾多の著作を残した。その著作は、人間の義(ただ)しい生活と罪とについての考察を主としており、キリスト教的自己完成の方法を説いている。「シリヤ人イサーク」とも呼ばれ、ドストエフスキーの蔵書にもこの本のロシア語訳(一八五八年版)が入っていた。死の前のスメルジャコフの部屋にあったのも、このグリゴーリイの本ではないかと思われる(下巻323ページ参照)。なお、去勢派にとっては一種の「聖典」となっていた。

    刻印

    六本指の子どもが生まれたことは、グリゴーリイの心に『刻印』を押すことになった、という解説。

    ロシア語で《ペチャーチ》というこの言葉は、ドストエフスキー自身によって引用符でくくられている。単純にグリゴーリイの言葉の引用符でくくられている。単純にグリゴーリイの言葉の引用ととも考えられるが、去勢派で121ページ下段の注で述べた術を「ペチャーチ」と呼んでいた。これには大小の別があり、女性の場合は乳首だけを切除するのが「小ペチャーチ」、乳房を抉(えぐ)りとるのが「大ペチャーチ」、男性の場合は前述のものが「大ペチャーチ」、睾丸の切除だけを「小ペチャーチ」と呼んだ。グリゴーリイがこの言葉を念頭に置いていたことは、前後の関係から見て確実と思われる。
    誰かにこっそり教えたい 👂
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