アリョーシャが敬愛するゾシマ長老は、老衰のために息を引き取ります。高徳の僧の死に、誰もがイエス・キリストのような奇跡期待しますが、現実には、腐臭(注解参照)が漂い、奇跡らしい事は何一つ起こりません。そこへ清貧の修道僧、フェラポント神父がやって来て、「悪霊退散!」とゾシマ長老を貶めるような振舞をします。それに続いて、長老制度に批判的な人や惑わされやすい人が悪口を言い始めます。パイーシイ神父はそうした人々を窘めますが、若いアリョーシャもショックを受けます。
『第Ⅶ編 アリョーシャ / 第1章 腐臭』では、いとも簡単に掌を返す民衆の愚かさや、ロシア独特の信仰、若いアリョーシャの動揺を描いています。
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映画『カラマーゾフの兄弟』(1968年)より。1分クリップ。
ゾシマ長老の庵室に乱入するフェポラント神父。粗末な法衣やはだけた胸元など、原作に忠実に描いています。
腐臭とフェポラント神父の言動に衝撃を受け、思わず僧院を飛び出すアリョーシャも可愛い。
BGMがいかにもロシアっぽくていいですね。ちょっとチャイコフスキー調で、「アレクセイの湖」という感じ。
腐臭のエピソードやアリョーシャの嘆きを通して見たい方はYouTubeでどうぞ。
https://youtu.be/I4arxS-jvJc?t=1173
人心の腐臭 ロシアの腐臭
裏切り者のラキーチン
ドストエフスキーが幻の続編「第二の小説」を意識しながら、「第一の小説」である本編を執筆したのは周知の意実ですが、その中でも、繰り返し、密に描かれているのが、ラキーチンの為人です。
振舞、性格、交友関係、先々の展開を考えて、注意深く描写されているのが見て取れます。
ゾシマ長老の死後も同様。
柩が置かれた庵室には、「うさん臭い遠来のオブドルスクの客層」をはじめ、冷やかし半分の弔問客が多数訪れています。冷やかし半分というのは、果たしてイエス・キリストの復活のような奇跡が起こり、ゾシマ長老が本物の聖人かどうか、この目で確かめようというものです。
そして、その中には、ラキーチンの姿もあり、その様子を、英邁なパイーシイ神父は次のように表しています。
一方、ラキーチンのほうは、後にわかったことだが、彼がそんなに早くから庵室に姿を見せていたのは、ホフラコワ夫人の特別な依頼によるものであった。この善良な、しかし無定見な婦人は、自分は庵室に入れてもらえる立場ではなかったが、目をさまして長老死去の知らせを聞いたとたん、急に矢も楯(たて)もたまらない好奇心にとりつかれ、さっそく自分の代りにラキーチンを庵室へ送り込んで、そこの模様を逐一観察させ、そこで起る一切のことを、時を移さず、ほぼ三十分おきに手紙で報告させることにしたのである。
ラキーチン自身については、これはいたって敬(けい)虔(けん)な、信仰あつい青年だというのが夫人の考えであった――つまり、彼はそれほど巧みにだれにでも取り入り、少しでも自分の利益になると見れば、さっそく相手の望みどおりの人間になって見せる才能をそなえていたのである。
「自分の利益になると見れば、さっそく相手の望みどおりの人間になって見せる」というのは、日頃はアリョーシャの「良き友人」として振る舞っても、もし、情報を売ることが自身の儲けや出世に繋がるのであれば、いつでも裏切る用意がある、ということです。
予告された皇帝暗殺 ~江川卓のドストエフスキー解説よりでも言及されていますが、「少年たち」の反体制的な行動について、当局に密告するのがカルタショフ君(トロイの建設者がだれか知っていると発言した少年)なら、手引きをするのはラキーチンでしょう。
ドミートリイの裁判でも、衆目の前で、「グルーシェンカの親戚」と暴露され、恥をかかされた恨みもありますし、本作での手の込んだ描写を見ても、疑いがないんですね。
一方、アリョーシャは、「いちばんはずれの堀のそばで、ずっと昔に世を去った、数々の苦行で有名な修道僧の墓石に腰をおろして」「アリョーシャは顔を両手で覆い、声こそ立てないが、嗚咽に全身を震わせて、さめざめと泣いていた。
パイーシイ神父は、次のように慰めますが、激しく動揺するアリョーシャに、野次馬弔問客やラキーチンの不敬な態度が影響するのではないかと気が気でありません。
「どうしたのだ? 泣かずに喜ぶがよい。きょうこそあの方にとってもっとも偉大な日であることを知らぬのか? いま、この瞬間、あの方がどこにおられるか、そのことだけを思うがよい!」
アリョーシャは、幼い子供のように泣きはらした顔から手をはなして、ちらと彼を見あげたが、そのまま、ものも言わずに顔をそむけると、ふたたび両手で顔を覆ってしまった。
「いや、そのほうがよいかもしれぬ」とパイーシイ神父は物思わしげに言った。「泣くのもよかろう、それはキリストさまがおまえに贈ってくだされた涙なのだからな」――『おまえの感動の涙は魂の休息でしかないとしても、愛らしいおまえの心を晴れやかにする役には立とう』――
立ちこめる腐臭
そして、パイーシイ神父の不安は的中します。
以前より批判的だったフェラポント神父が姿を現わし、ゾシマ長老の遺体から腐臭が漂うのを指摘して、「悪霊退散!」などと喚き始めます。
当時は、「聖人の遺体は腐らない」という期待と思い込みがありました。
ところが、実際には、「柩の中から、徐々にではあったが、時とともにしだいにはっきりそれと知れる腐臭*113がただよいはじめて、午後の三時ごろにはそれがもうまぎれもない悪臭となり、なおも刻々と強さを増してきたことであった」とかなり強烈に臭い始めます。
最初は修道僧らも不謹慎と考え、口を慎んでいましたが、やがて堪え難い悪臭となって、皆の信仰心を揺るがせます。
それに対し、英邁なパイーシイ神父やヨシフ神父は、「正教の聖地であるアトスにおいては、腐臭などはさほど問題にもされず、かの地で魂の救いを得た者のもっとも大きな栄光のしるしとみなされているのは、肉体が腐敗しないということではなくて、骨の色である、死体が何年もの間土中にあって、そこで腐ってしまった後に、「もしその骨が蝋(ろう)のように黄色くなっておるならば、これこそ神が永眠した心義しき者を祝福し給うたもっとも大きなしるしであり、逆に骨が黄色くならず、黒くなるならば、これは神がそのような祝福を授けられなかったしるしである――これこそ、いにしえよりもっとも純粋な形で厳として正教を保持している聖地アトスの定め(注解参照)である」と言い聞かせますが、懐疑的な修道僧らは「あれは学を衒う新奇の説じゃ、耳をかすまでもない」のように心の中で反発します。
それどころか、「あの人のは当世風の信仰だった。地獄の物質的な火を認めんのだから」」さくらんぼのジャムでお茶を飲むのが大好きで、奥さん方に届けてもらっていた。苦行僧がお茶を飲んでいいものだろうか?」「恐ろしく威張りくさっていたではないか。自分から聖人を気取っておった。人が自分の前にひざまずいても、当然のことのような顔をしてな」などと、掌を返したような発言が人々の間から漏れ始めます。
人心の脆さと妬み
そこに乗りこんで来たのが、フェラポント神父です。
フェラポント神父は、まるでゾシマ長老が悪魔憑きであるかのように振舞い、亡き人を侮辱します。
「お出なさい、神父どの!」パイーシイ神父は命令するような口調で言った。「裁きをなさるのは神であって、人間ではありませんぞ。いまここに現われた《啓示》は、あなたも、わたしも、いや、何びとも理解しえぬものかもしれぬ。さ、お出なさい、神父どの、羊の群を迷わしてはなりませぬ!」彼は執拗にくり返した。
「苦行僧の位にふさわしい精進を守らなんだために、このような啓示が現われたのじゃ。はっきりしておる。隠し立ては罪なことじゃ!」もう前後の見境もつかぬほど夢中になっていた狂信者はいっこうに静まろうとはしなかった。「菓子に目がくらんで、奥さん方にこっそり運ばせたり、お茶にうつつを抜かしたりして、腹には存分に甘いものを供え、頭は高慢心でいっぱいじゃった……そのためにこんな恥をさらしたのじゃ……」
そればかりか、パイーシイ神父に退室を求められたフェラポント神父は、わざと神がかりのように振舞い、野次馬らを圧倒します。
二十歩ほど行ったところで、彼はふいに沈み行く夕日のほうを向いて立ちどまり、両手を高く頭上に差しあげると、急にだれかに足をすくわれでもしたように、がばと地上に倒れ伏し、大音声を発した。
「わが主は勝ちたまえり! キリストは落日に勝ちたまえり!」太陽のほうに両手を差しのべて、彼は狂気のように叫び立て、顔を地べたにすりつけんばかりにして、幼な児のように声あげて泣きはじめた。そして両手を地べたに拡げて、全身を慟(どう)哭(こく)に震わせた。一同はいっせいに彼のほうへ殺到し、感嘆の声と共感の慟(どう)哭(こく)がひびきわたった……ある種の狂気にも似た興奮が一同を押し包んだ。
すると、あれほどゾシマ長老に敬意を払っていた人々までもが、フェラポント神父のパフォーマンスに感化され、こんな事を言いだします。
「この方こそ聖者だ、この方こそ義人だ!」こんな声々が、もう恐れげもなく発せられた。「この方こそ長老の座につかれるべき方だ」別の声がもう敵意をこめてつけ加えた。「この方が長老の座になどつかれるものか……ご自分で断わられるわ……あんな呪(のろ)わしい新制度にお仕えになるものか……外来のたわけたしきたりの猿(さる)真(ま)似(ね)なんぞなさるお方か」すぐさま別の声々が引き取った。このまま進んだらどうなるか、もう想像もつかないほどであった。
人心の脆さと妬みが如実に現われていますね。
世間の評価が高ければ高いほど、それが落ちた時の、世間の掌返しは酷いものです。
言い換えれば、彼らの信心は偽物であり、単に権威にすがっていたに過ぎません。
自分の信じた権威が地に落ちることは、自分自身の価値も地に落ちることであり、それゆえ、人は恨み、あいつに欺されたと憤慨します。
信じた自分が間違いだったとは絶対に認めたくないタイプですね。
そして、それに気付くことなく、新たな権威を探し求めます。
フェラポント神父のエピソードは、ロシア民衆の体質と未来の象徴に感じます。ロマノフ王朝が失墜した後、全体主義のボリシェビキ政権を支持するに至った経緯を思わせます(というより、血の粛清を重ね、強引に政権を掌握したのですが)。
そして、ソ連崩壊の後は、独裁政権と金権政治に突っ走り、偉大な思想と可能性を自らぶち壊した次第。
あるいは、権力側も、そうしたロシア国民の性根を理解した上で、そのように導いているのかもしれませんが。
アリョーシャの慟哭
こうした一連の出来事は、激しく動揺するアリョーシャの心に楔を打ちます。
パイーシイ神父は一連の出来事を注意深く見守っていましたが、興奮にかられる人々の中に若いアリョーシャの姿を認めて愕然とします。
いましがた庵室の入口につめかけた群衆の中に、興奮にかられている人たちにまじって、彼はアリョーシャの姿を目にとめたのだった。そして、彼を目にしたとたん、一種無言の痛みのようなものを心に感じたことが思い出されたのだった。『いったいこの若者がいまのわたしの心にそれほど大きな意味を持っているのだろうか?』――一瞬、彼は驚きを覚えて自分の胸にたずねてみた。
だが、ちょうどそのときアリョーシャがそばを通りかかった。どこかへ急いでいる様子だったが、聖堂の方角ではなかった。二人の目が合った。アリョーシャはすばやく目をそらして、眼差を伏せた。そのそぶりを見ただけでパイーシイ神父は、いまこの瞬間、青年の心にどんなはげしい転換が生じているかを推察できた。「おまえまで心を惑わされたのか?」パイーシィ神父は思わず大声で叫んだ。「おまえまでが信仰の薄い者と同じ仲間なのか!」彼は悲しげにつけ加えた。
アリョーシャは立ちどまって、妙にとらえどころのない目でパイーシイ神父を見返したが、すぐまた視線をそらし、目を伏せてしまった。横向きに立ったままで、質問者に顔を向けようともしなかった。パイーシイ神父は注意深く彼を見守っていた。
「どこへ急ぐのじゃ? 礼拝の鐘が鳴っているではないか」彼はもう一度たずねたが、アリョーシャは今度も答えなかった。「それとも僧庵を出て行くつもりなのか? それにしても、許しも乞わず、祝福も受けずに行くのか?」
アリョーシャはふいに引きつったような笑いを浮かべ、奇妙な、実に奇妙な目つきで、そう問いかける神父をふり仰いだ。それは、これまで自分の導き手であり、心と知性の支配者であった最愛の長老が、死に臨んで後事を托(たく)したその人であった。だが青年は相変らず返事をしないまま、まるで敬意を表わすことさえけろりと忘れたように、突然片手を一振りすると、僧庵から外へ通ずる出口のほうへ、足早に歩きだした。
「いずれまた戻って来ようぞ!」悲しい驚きの面持でその後姿を見送りながら、パイーシイ神父はこうつぶやいた。
こういう心理は、現代の若者も同じですね。
応援していたアイドルや経営者など、メンター的な存在が実はインチキであったのが露呈し、信心から一転、攻撃に走るパターンです。
突き詰めれば、彼らは相手を愛していたのではなく、彼らを信じる自分自身を崇拝していただけで、自分しか見てないんですね。
ただ、アリョーシャには、揺るぎない愛があり、何が正しいかも識っています。
それがパイーシイ神父にも分かるから、「いずれまた戻って来ようぞ!」という台詞になります。
一時期、自分を見失うことがあっても、きちんと教育を受けた学生や愛を注がれた子供は悪の道から戻ってくるのと同じです。
*
フェラポント神父の詳細な描写と、旅立ちを前にしたアリョーシャとパイーシイ神父の会話は下記パートでも詳しく紹介しています。
【23】 だれにも愛されない人の為に祈りなさい ~ゾシマ長老の遺言とパイーシイ神父の訓諭

【コラム】 『腐臭』は何を意味するのか
この章に描かれる腐臭には様々な意味があります。
不信、猜疑、浅はか、妬み、迷い、etc.。
遺体が臭うのはあくまで事象であり、「人々がそれをどう感じるか」にこの章の本質があります。
パイーシイ神父やヨシフ神父のように、「それはそれ」と科学的に捉え、変わらぬ信仰を持ち続ける人もあれば、「裏切られた!」と騒ぎ出す人もあり、人々の反応の中に人間の本質が凝縮されているような気がします。
また、この腐臭は、偉大な存在が没した後に訪れる不穏な空気でもあり、ロシアにとっては、ロマノフ王朝の没落を象徴しているように感じます。
ロシア革命の二十年前に亡くなったドストエフスキーがどこまでそれを予感していたかは分かりませんが、『カラマーゾフの兄弟』も、本当に描きたかったのは(反体制的な)社会運動の方と思えば、遅かれ早かれ、淫蕩父フョードルに象徴されるような貴族社会は打ち倒され、その後、帝政からもキリスト教からも切り離された民衆が、現実に失望するどころか、かつての主君や政府に憤りさえ覚え、新たな信仰の対象を求めて狂乱する姿が目に見えていたと思います。
それを見越してのイワンの宗教談義「キリスト教徒の社会主義者は無神論者の社会主義者より恐ろしい」であり、「大審問官と悪魔の三つの問い」でしょう。
ゾシマ長老の遺体から立ち上る腐臭は、民衆を迷わせ、ロマノフ王朝という絶対的な存在から、「神」に代わる強い政府へと信仰の対象をシフトさせました。
科学より迷信、自主性より聖なる存在への追従を好む国民性は、21世紀になっても変わらず、今も多くの悲劇を生み出しているような気がします。(それもプロパガンダの勝利かもしれませんが、彼らは「信じるべきもの」ではなく、「自分が信じたいもの」を信じているように感じます)
江川卓の注解
腐臭
『事の次第はつまり、柩の中から、徐々にではあったが、時とともにしだいにはっきりそれと知れる腐臭がただよいはじめて、午後の三時ごろにはそれがもうまぎれもない悪臭となり』
江川氏の注解からも、「腐臭」が、人心や信仰問題の喩えであることが窺えます。
アトスの定めである
「もしその骨が蝋(ろう)のように黄色くなっておるならば、これこそ神が永眠した心義しき者を祝福し給うたもっとも大きなしるしであり、逆に骨が黄色くならず、黒くなるならば、これは神がそのような祝福を授けられなかったしるしである――これこそ、いにしえよりもっとも純粋な形で厳として正教を保持している聖地アトスの定めである」というとヨシフ神父の言葉より。
だいいち、あちらには鐘もない
ヨシフ神父の論に対して、「われわれは昔からの流儀に従う。いろいろと新奇なことが出てくる当節、いちいちそれを真似ていられるものか?」――他の人たちがこうつけ加えた。「わが国にもかの地におとらず聖者たちが出ている。あちらはトルコに支配されているうちに、何もかもけろりと忘れてしまったのじゃ。連中の正教はとうからもう濁っておる、だいいち、あちらには鐘もないではないか」――もっとも嘲笑的な人たちはこう言って同調した。
何でも自分の都合よく解釈する人心の現われですね。見たくないものは見ない、聞きたくないことは聞かない。現代のプロパガンダも同様です。
《わが助力者にして守護者》
庵室に乱入したフェラポント神父が、長老の柩を見遣りながら言う。
「この男はあした《わが助力者にして守護者》を歌ってもらえる――ありがたい聖歌じゃ。ところが、わしがくたばったところで、せいぜい《この世の喜び》を歌ってもらえるだけじゃ――あのつまらん歌をな」彼は涙ぐんだような哀れっぽい声で言った。「ふんぞり返って威張っておったが、内実はなんと空しいことか!」
フェラポント神父がゾシマ長老を貶めるのも、信義の違いというよりは嫉妬半分ですね。
参考図書
ロシア革命前後の動乱、ロマノフ王朝とニコライ二世の生き様、ロシア民衆の暮らしと価値観など、カラマーゾフの時代を知る上で参考になります。
退位後、なぜイギリスやオランダのような立憲君主制に移行しなかったのか、ソ連は極端な全体主義や粛清に走ったのか、いろいろ勧化させられます。