江川卓『カラマーゾフの兄弟』は滋賀県立図書館にあります詳細を見る

    【19】「神はあるのか」「いいえ、ありません」「イワンのほうが正しいらしいな」

    カラマーゾフの兄弟 アリョーシャ
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    「神はあるのか」「いいえ、ありません」「イワンのほうが正しいらしいな」

    章の概要

    3000ルーブリの使い込みで、絶体絶命に陥った兄ドミートリイを救うため、アリョーシャは父フョードルが暮らす家を訪ねます。フョードルは歓喜してアリョーシャを迎え、そこには冷ややかな表情でコーヒーをすするイワンの姿がありました。

    カラマーゾフ一家に仕える忠僕グリゴーリイと義理の息子スメルジャコフは、カラマーゾフ父子の後ろに控えていましたが、不意にフョードルがスメルジャコフに声をかけ、信仰心をめぐる争論になります。

    争論が一段落すると、フョードルは、信心深いアリョーシャと、シニカルなイワンに対し、「神はいるのか」という質問を投げかけます。

    「神はあるのか」「いいえ、ありません」「イワンのほうが正しいらしいな」という、文学史に残る問答が繰り広げられる屈指の名場面です。

    動画で確認

    映画『カラマーゾフの兄弟』(1968年)。

    私はロシア語は分かりませんが、「神はあるのか、ないのか」の場面は、これだと思います(身ぶり手ぶりから)

    ↓ カラマーゾフの兄弟+オヤジ
    コニャックをやりながら カラマーゾフの兄弟 フョードル イワン アリョーシャ

    続きを見たい方は、YouTubeのページでどうぞ。
    https://youtu.be/z_U-juAzXik?t=1554

    扇動されやすい民衆とドストエフスキーの予言

    スメルジャコフと悪魔 ~ 無神論と反キリストの違い』からの続きです。

    グリゴーリイとスメルジャコフが下がった後も、カラマーゾフ父子、とりわけイワンは不快感が収まりません。

    フョードルにスメルジャコフの印象を尋ねられたイワンは次のように答えます。

    「スメルジャコフのやつは、このところ食事のたびにここへ入りこんでくるぞ、よほどおまえに興味があるらしいな。どうやってあんなに手なずけた?」イワンに向かって、こう言いだした。

    「べつに何も」イワンは答えた。「気まぐれでぼくを尊敬しだしただけですよ。あれはただの下司野郎ですね。ただし、その時が来たら、最前線の肉弾ですがね」

    「最前線?」

    「ほかの、もっとましなのも出てきますがね、ああいうのも出てくるんです。最初がああいうので、それがいくらかましなのが出てくる」

    「時が来るっていうのは、いつのことだ?」

    「のろしがあがりますよ、もっとも、あがりきるまでもいかないでしょうがね。民衆はこういうコックふぜいの言うことには、いまのところまだたいして耳をかしたがりませんからね」

    後のロシア革命を考えれば、非常に含蓄のある言葉です。

    スメルジャコフの本質は、冷笑、冷淡、反キリストであり、篤い信仰心を持ちながらも、現実の不条理に耐えられなくなり、「天国への切符をつつしんでお返しする」というイワンとは似て非なるものです。

    ところが、世間では、スメルジャコフのように聖書を冷笑し、「神などない」と逆張りする人間の方がもてはやされます。現代のSNSもそうですね。わざと「正しい事」に逆らい、笑い物にして、思想の先端を気取る人はたくさんいます。

    ああいうのも出てくるんです。最初がああいうので、それがいくらかましなのが出てくる」というイワンの指摘はまったくその通りで、最初に誰かがそのスタイルでウケると、我も、我もと、後に続きます。でも、その過程で、いろんな亜種が誕生し、またそれに批判的なポジションも現われるため、少しマイルドになっていく……というわけですね。

    のろしがあがりますよ、もっとも、あがりきるまでもいかないでしょうがね。民衆はこういうコックふぜいの言うことには、いまのところまだたいして耳をかしたがりませんからね」という一文も、その後のロシア革命を思えば納得がいきます。今は民衆も貧苦に耐え忍んでいるが、いずれ誰かの声に触発され、堰を切ったように動き出すのは間違いない。今は、コックふぜいの言うことには反応しないけども、学者とか、有名人とか、大物政治家らが、声高々に叫ぶようになれば、民衆も、(何だかよく分からないけども)、「そうだ、そうだ」と同調し、大きなうねりになります。

    近年も、元大統領の発信に反応し、支持者が政府の重要施設を襲撃する事件がありましたが、彼らの一人一人がどこまで政治的信条を持っているかは分かりません。中には、(何だかよく分からないけども)、過激な主張に同調し、祭だ、ワッショイとばかり襲撃に参加した人もあるでしょう。

    「最前線の肉弾になる」というのは、まさに、そうした浅はかな民衆が実行部隊となり、とんでもないことをやらかす、という暗示です。

    最前線の肉弾について、江川卓氏は次のように解説します。

    この言葉は「進歩的人種」とか「一級品」とか訳すことも可能だが、革命運動のさいに弾除け代りに突進する連中をイワンが侮蔑的に言った言葉として解することが適当だと思われる。事実、スメルジャコフは、イワンの意思の実行者として「肉弾」の役割をはたすことになる。

    世界を破壊したい人間にとって、冷笑系ほど扇動しやすいものはありません。なぜなら、彼らの物の考えは、『思想』とは似て非なるものであり、ファッションとして、「否定」を気取っているに過ぎないからです。考え抜いた末に、否定に至ったイワンとは根本から異なります。

    イワンが軽蔑するのも、彼らのやり方では、人も社会も救えないと分かっているからでしょう。

    そういう面でも、イワンは根本的には「正しい人」であり、現実に幻滅して、キリスト教の存在意義も疑ってかかっている、ということです。

    世はすべて豚小屋の汚辱なり

    さらにフョードルは、スメルジャコフについてイワンに尋ねます。

    「それにしても、あんなやつのことを話す値打があるものかな?」

    「むろん、そんな値打はありませんよ」

    「ところで、あいつがひそかに何かを考えているかということになるとだな、ロシアの百姓というやつは、一般的に言って、鞭で引っぱたいてやるべきものなんだ。これはおれの持論でな。わが国の百姓というやつはペテン師だからな、憐れんでやる値打もないんだ。いまでもときおり引っぱたかれているから、まだいいのさ。ロシアの国は白樺でもっているんだ(注解を見る) 森を伐りつくしたら、ロシアの国もおしまいなのさね。おれは賢い人たちの味方だよ。おれたちは、賢い分別から、百姓どもを引っぱたくのをやめたわけだが、連中はいまだに自分で自分を引っぱたいている。まあ、それでいいのさ、量られると同じ升にて量られん。だったかどうだったか、……要するに、因果はめぐるというやつさ。

    それにしてもロシアは豚小屋だな。おお友よ、われのいかにロシアを憎むかを、きみ知るならばだ……ということは、つまり、ロシアをじゃなくって、こういういっさいの悪徳をだが……ロシアもということにもなりかねないな。

    Tout cela c'est de cochonnerie(世はすべて豚小屋の汚濁なり)さ。じゃ、おれが好きなのはなんだ? おれの好きなのは警句だよ」

    当時のロシアはまだ貴族社会で、庶民も、百姓も、下の下の方だったことを考えると、フョードルをはじめカラマーゾフ一家が庶民から妬まれ、憎まれるのも頷ける話です。言う事を聞かない、働かない百姓を鞭で叩いたりするのも一般的で(家庭においては、妻や娘に対する懲罰も普通に行なわれていたことは他のパートでも窺えます)、それが社会的に咎められない時代でもありました。

    それでも、じわじわと西洋の自由主義的な考えがじわじわと庶民の間に浸透し、上流階級においても、思想ファッションのようになっていた事実は、フョードルの最初の妻、アデライーダ・ミウーソフとその親戚筋を通して描かれています。

    参考: 【1】淫蕩父 フョードル・カラマーゾフ 指針を欠いたロシア的でたらめさ

    フョードルも、三人の息子たちも、まだ「こちら側」の人であり、何を考えているか分からない、底辺の「無敵の人」とは一線を画しています。

    ゆえに、ロシア革命という時代の移り変わりを前に、彼らの悲運がいっそうリアルに感じられるわけですね。

    もちろん、ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』連載終了の24年後にロシア第一革命「血の日曜日事件」が起きるとは知りません。(1881年没)

    しかし、時代の空気をヒリヒリと感じとっていたのは確かでしょう。

    ロシア革命の後、ソ連がどうなったか、今、ウクライナで何が起きているか、歴史を振り返れば、スメルジャコフ的なものが災いした部分も見えてくるのではないでしょうか。

    「ロシアは豚小屋」に関する江川卓氏の注解は次の通りです。

    ロシアの諺に、「貧は悪徳ならず」とあるが、この後を「ただし悪徳より悪し」とつづける場合と、「ただしひどい豚小屋生活なり」とつづける場合がある。ここはすぐ後に「悪徳」の言葉が出てくるので、この諺を踏まえていることは明らかだろう。ドストエフスキーは『罪と罰』のマルメラードフにもこの諺をしゃべらせ、後を「ただし赤貧は悪徳なり」とつづけさせている。

    「神はあるのか」「いいえ、ありません」

    一通り、スメルジャコフの話で盛り上がると、フョードルはふと我に返り、「アリョーシカ、さっきおまえの僧院長に恥をかかせて悪かったな」と殊勝な顔で誤ります。

    フョードルいわく、

    「おれはな、つい意地になったんだよ。だって、もし神さまがいるものなら、神が存在するなら、そりゃ、むろん、おれが悪いんだから、責任をとるよ、しかし、もし神がまるっきりいないのだとしたら、あの連中、おまえの神父さんどもは、あんなことじゃまだまだすまされんだろうか? そうなれば、首をちょん切るくらいじゃすまないぞ、なぜって連中は進歩のさまたげになっとるんだからな。

    神が存在しなければ、僧たちも、あのように凝り固まった考えにはならないし、その為に、社会の進歩が妨げられることにもならないだろう、という話です。

    宗教における様々な禁則や、「こうあるべき」という価値観が、学術の発展や自由主義の妨げになっているのは、キリスト教に限った話ではありません。今、世界各地で起きている、宗教問題にしても、女性が「一人で出歩いてはいけない」「肌を見せてはいけない」「読み書き以上の事を学んではならない」、等々、現代にそぐわない事はたくさんあります。ロシア正教にしても、人類を幸せに導くための教えが、かえって合理化や技術化の妨げとなり、豊かな暮らしや発展のチャンスを奪っています。なんだかんだで先進的、かつ現実的なフョードルは、その点に、もどかしさを感じているわけですね。

    そこで、フョードルはイワンとアリョーシャ、それぞれに訴えます。

    おまえはほんとうにしてくれるかな、イワン。おれの心を苦しめとるのはこのことなんだぞ。いや、ほんとうにしていないな、おまえの目をみればわかるぞ。おまえは、おれがただの道化でしかないという世間の噂を本気にしているんだ。アリョーシャ、信じてくれるのか、おれがただの道化ではないってことを?」

    「信じますとも、ただの道化じゃありません」

    「おれも信じるよ、おまえがそう信じて、心からそう言ってくれるんだとな。おまえの目にも言葉にも真実があふれとる。だが、イワンはちがう。イワンは傲慢なやつだ……
    それはそれとして、やはりおまえの僧院とは縁を切ってしまいたいな。ロシア全土のああいう神秘主義の巣窟をすっぱりと全廃して、馬鹿者どもの目をはっきり醒ましてやればいいんだ。銀だの、金だのが、ごっそり造幣局に流れこんでくることだろうよ!」

    フョードルは、イワンが心の底では、父親を「道化」と軽蔑していることを肌で感じ取っています。

    一方、アリョーシャは、父の本性を正しく見抜き、本当は知性的な人だと理解もしています。だから、「おれも信じるよ、おまえがそう信じて、心からそう言ってくれるんだとな」と真心から愛の言葉を返します。そもそも、父親の知能が高いから、三人の息子も知性的なのですが。

    ↓ ニュースキャスターのようなフョードル
    カラマーゾフの兄弟 フョードル コニャック

    その後、有名な問答が繰り広げられます。

    少し長いですが、この一場面に本作のエッセンスがぎゅっと凝縮されています。

    人類社会の根源的な問題と、父子の情愛を表した、屈指の名場面です。

    「でも、どうして全廃するんです?」イワンが言った。

    「真理が一刻も早く輝きわたるようにするのさ、そのためだよ」

    「でも、その真理が輝きわたるときには、まずまっさきにあなたがまる裸にされて、それから……全廃されてしまいますね」

    「おやおや! でも、ひょっとすると、おまえの言うとおりかもしらん。ああ、おれも驢馬だったか」(スメルジャコフの「パラムの驢馬」のたとえにちなむ)

    フョードルは自分の額を軽く叩いて、ふいに身をのけぞらせた。

    「よし、そういうことなら、アリョーシカ、おまえの僧院はあのままにしておくさ。で、おれたち、賢い人間は、ぬくぬくと暖かい部屋にこもって、コニャックでもきこしめしているんだな。どうだろう、イワン、こいつは神さまご自身がわざとこういうふうに仕組んだことじゃないかな? イワン、言ってみろ、神はあるのかないのか? 待て、はっきり言うんだぞ、まじめに言うんだぞ! なんでまた笑う?」

    「ぼくが笑ったのは、さっきお父さんが、山を動かすことのできる長老が二人はいるというスメルジャコフの信仰のことで、なかなか適切な感想をもらされたからですよ」

    「すると、いまの話が似ているというのか?」

    「大いにね」

    「だとすると、おれもロシア人で、ロシア的特色をもっているというわけだな、すると、哲学者のおまえにしたところで、やはりそれに類した何かの特色をもっているわけだ。なんなら、尻尾(しっぽ)をつかまえてやろうか。賭(か)けてもいい、あすにもつかまえてやるから、それはそうと、言ってみろ、神はあるのか、ないのか? ただし、まじめにだぞ! いまはまじめな話がしたいんだ」

    ありません。神はいませんよ

    アリョーシカ、神はあるか?

    神はあります

    「イワン、じゃ不死はあるのか、まあ、どんなのでもいい、ちょっぴり、ほんのちょっぴりでもいいんだが?」

    「不死もありません」

    「どんなのもか?」

    「どんなのもです」

    「とすると、まったくのゼロか、何かがあるか、どちらかということだな。もしかすると、何かはあるんじゃないのか? やはりまったくの無ということはなかろうが!」

    「まったくのゼロです」

    「アリョーシカ、不死はあるのか?」

    「あります」

    「すると、神も不死もか?」

    「神も不死もあります。神の中に不死もあるのです」

    ふむ、どうやらイワンのほうが正しいらしいな。ああ、考えるだけでも恐ろしい、人間ってやつは、こんな夢物語にどれほどの信仰を、どれほどの精力をむだに注ぎんできたことか、しかもそれが何千年にもわたってだ! いったいだれがこんなふうに人間を愚弄していやがるのだ、イワン? 最後にもう一度、はっきりと聞こう、神はあるのか、ないのか? これが最後だぞ!」

    最後だろうとなんだろうと、ありません

    「じゃ、だれが人間を愚弄しているんだ、イワン」

    「悪魔でしょうよ、きっと」イワンはにやりとした。

    「じゃ悪魔はいるんだな?」

    「いや、悪魔もいません」

    「それは残念だ。畜生め、それじゃ最初に神なんぞ考えだしたやつをどうしてやったらいい! 不吉なやまならしの木ユダが首を吊った木として知られるにも吊(つる)してしばり首にしてもまだ足りんわ」

    もし神を考え出さなかったら、文明というものもまったくなかったでしょうよ

    「なかったでしょうだと? 神がなかったらか?」

    「ええ。それにコニャックもなかったでしょうね。それにしてもそろそろコニャックを取りあげないと」

    「待て、待て、待てったら、あと一杯だけだ。アリョーシャに悪いことをしてしまったからな。おまえ、怒っちゃいないか、アレクセイ? おれのかわいいアレクセイチック、だいじなアレクセイチック!」

    「いいえ、怒ってなんかいません。お父さんの考えることはわかっているんです。頭より心がいい人なんですよ

    「おれの心が頭よりいいだと? ああ、おまけにおまえにそう言ってもらえるとはなあ! イワン、おまえはアリョーシャが好きか?」

    「好きです」

    「愛してやってくれ(フョードルはすっかり酔がまわっていた)。なあ、アリョーシャ、おまえの長老さんにさっきは不作法なことをしてしまったなあ。だけどおれは興奮していたんだ。それにしてもあの長老さんはなかなか機智があるな、どう思う、イワン」

    「どうもそのようですね」

    「神はあるのか、ないのか」という質問に対し、

    「神はいません」ときっぱり否定するイワン。

    カラマーゾフの兄弟 イワン 神はいません

    アリョーシャは全力で「います」と肯定します。
    カラマーゾフの兄弟 アリョーシャ

    不死とは何か ~『復活』が意味するもの

    「不死はあるのか」という質問に対しても同様です。

    キリスト教における「不死」とは、妖精みたいに「永遠に若く生きる」という意味ではありません。

    また、死者がゾンビのように墓の中から蘇るわけでもないです。

    『復活』によって永遠の生命を得る=天国に迎えられ、永遠にイエスと共にある――という考え方です。

    ● 「キリスト教では、死は忌むべきものではなく、復活への期待を秘めた旅立ちだ
    出典: キリスト教の本 下 聖母・天使・聖人と全宗派の儀礼)

    ● 新約聖書では、魂は死後も存在するとの前提で、天国や地獄、そのための裁きを多く述べています。それは、イエス・キリストの復活によって実例と保証を与えられました。キリストの復活を信じるなら、安らぎのパラダイスと喜びの天国を確信できます。(クリスチャン・トゥデイ)
    出典: なにゆえキリストの道なのか(168)死後に魂は絶滅する? 正木弥

    また、復活の解釈も様々で、単純に「天国に行く」という考え方もあれば、「今まで神の教えも知らず、不幸だった人が、神の愛を知り、新しい人生を生き直す」というような意味で語られることもあります。ドストエフスキーの『罪と罰』では、「ラザロの復活」を通して、ラスコーリニコフが老婆殺しをソーニャに打ち明ける場面がありますが、これも一種の「復活」、良心に立ち戻り、もう一度、人間らしい人生を取り戻す過程を描いています。

    一方、復活=不死の考え方は、人々を戒めるためにも使われ、一番分かりやすいのが「悪い事をしたら、地獄に落ちる」でしょう。神の教えに背き、恩恵を得られなかった罪人は、天国に迎えられることはなく、ダンテの『神曲』が描くような恐ろしい地獄で永遠に苦しむことになります。

    日本でも、しばしば金銭がらみの宗教問題が取り沙汰されますが、その元凶になっているのは、「地獄に落ちる」です。まったく信じない人には、どうでもいい話ですが、信仰している人にとって、これほど恐ろしいことはありません。多額のお布施をしたり、医療を拒否したり、教祖の言いなりになって、様々な問題を引き起こします。

    フョードルが指摘しているのは、まさにその点です。神の教えをおちょくっているわけではなく、「そんな事をしたら、地獄に落ちるぞ」みたいな『不死(復活)』の考えが人々に対する脅しになってないか? という問いかけですね。

    逆の見方をすれば、「不死」がなければ、人々は恐れる必要もないし、もっと自分らしく振る舞うことができます。

    ゆえに、イワンに「不死はあるのか」と問いかける。

    イワンは、「不死」がかえって人間を追いつめているように感じるので、「ありません」ときっぱり否定します。そもそも、「不死」という考え方がなければ、あるかどうかも分からない地獄の妄想に悩まされ、行動を制限されることもないからです。これを突き詰めれば、「不死(神)がなければ、すべてが許される」という考えになります。

    一方、アリョーシャは、「不死はあります」と肯定します。

    不死が意味するところは、単純に「天国に行ける」という話ではなく、神の愛を信じることによって、魂に平安が訪れることです。それこそが、本物の「天国」であり、その源である神を否定してしまったら、人は永遠に心の平原を彷徨うことになります。

    なぜ「イワンの方が正しい」のか

    息子二人の問答に対し、フョードルは、ふむ、どうやらイワンのほうが正しいらしいなと答えます。

    この解釈も様々で、「これが正解」というのは無いですね。

    当方の見解を申せば、アリョーシャは無理に「信じよう」としているのが分かるから、フョードルに言わせれば、「やっぱり、存在しない」という事になるのだと思います。

    例えば、「あなたは霊魂と霊界を信じますか?」という話になった時、最愛の人を亡くした経験があるなら、「あります!」と思うでしょう。その人は無になったのではなく、いつまでも心の中で生き続ける、あるいは、超常的な存在となり、私のことを見守ってくれている――と信じたいからです。それが心の救いであり、支えですね。

    でも、そう信じたい人だって、心の底から、霊魂や霊界の存在を肯定しているかと言えば、そうでもなく、「そう信じることで、救われる」が本音だと思うのです。

    アリョーシャも、「【5】リアリストは自分が信じたいものを信じる ~アリョーシャの信仰とゾシマ長老」で指摘されているように、どちらかといえば、現実主義者ですから、心の底では、神とか、天国とか、超常的なものは信じてないはずです。

    しかし、それを否定してしまったら、人はどこにも救いが見えなくなってしまいます。

    だから、信じないよりは、信じた方がいい、「あります」と言いきった方が、自分の為でもあり、人類の為でもある、という考え方です。

    その点、イワンは、「信じることで救われる」とは思っていないから、「存在しません」と言いきります。

    その考え方が、フョードル的には「正しい」のです。本当のことを、ずばり言ってのけたから。

    ちなみに、フョードルは、ゾシマ長老に対しても、否定的な見解をもっています。

    「ありゃイエズス会だよ、ただしロシア式のな。育ちのいい人間だものだから、胸の中には秘められた憤懣が煮えたぎっているぞ、なにしろ芝居を打たなきゃならんからな……むりにも聖人をよそおってさ」

    「でも、あの人は神を信じているじゃないですか」

    これっぽっちも信じちゃおらんよ。おまえ知らなかったのかい? あの男は異聞からみんなにそう言っておるんだぞ、もっとも、みんなといっても、よそからやって来る賢い人たちだけにだがな。知事のシュリツにずばりこう言ってのけたそうだぞ、credo(信じてはいる)、だが何を信じておるのかわからない、とな」

    ゾシマ長老も、アリョーシャと同じリアリストであり、常識人なのだと思います。どこぞの新興宗教みたいに、「天から聖霊が降りてきて~」みたいなことは絶対にない。現実は現実、教えは教えと割り切った上で、人々に「幸福に生きるための知恵」を授けているのです。ただ、その中にも、奇跡を信じる気持ちはあって、たとえば、極悪人が改悛したり、病人がみるみる回復したり、カラマーゾフ一家の和解が成立するような事になれば、「神が助けてくださった」と感謝します。キリストの教えにはそれだけの力があると信じています。ゾシマ長老にとっては、それこそが「奇跡」であり、信仰なんですね。そして、多くの聖職者は、長老タイプではないでしょうか。

    フョードルも、スメルジャコフのような冷笑系ではなく、イエス・キリストのありがたみはよく分かっています。実際、アリョーシャには慰めを求めているし、心の底では天罰を恐れてもいます。ただ、愛だの、正義だのが、気恥ずかしいだけで、根は真面目なんだと思いますよ。むしろ、野心家のラキーチンや、ゾシマ長老の死後、途端に神性を疑ってかかる民衆の方が罪深いのではないでしょうか。

    ちなみに、「これっぽっちも信じちゃおらんよ」は、ゾシマ長老の伝記資料『謎めいた訪問者』との会話でも繰り返されます。「天国はわたしたち一人ひとりの中に秘められていて、実際にそれがわたしに訪れる」と言う訪問者に対し、若き日のゾシマ自身が、「それはいつ実現されるのでしょう。そもそもいつの日か実現することがるのでしょうか」と返す。それについて、訪問者は「あなたご自身も信じておられないのですね。人にはそれを時ながら、母自分では信じておられない」と答えます。

    チェルマンシニャとイワンの深層心理

    さて、宗教談義も一段落したところで、フョードルはイワンにチェルマシニャ行きの話を改めて懇願します。

    ドミートリイの『熱き告白』のパートで、「爺さんはイワンを二、三日、チェルマシニャにやりたがっている。八千ルーブリで森の木を伐り出すとかいう買手がついたんだそうで、爺さんは、『ひとつ助けると思って、行ってきてくれ』、せいぜい二、三日のことだから、なんてイワンをくどいている。」という話をします。

    今風に言えば、事務手続きの代行ですね。

    それに対して、イワンは、「そんなに言うなら、あすにも出かけますよ」と生返事。

    しかし、フョードルはカッカしながら返します。

    「行くもんか、おまえはここでおれを見張っていたいんだ、それがおまえの本心なんだ、意地悪根性め、だからおまえは行こうとしないんだろう?」

    「見張っていたい」というのは、「グルーシェンカがフョードルの所にやって来て、揉め事を起こさないように」、あるいは「ドミートリイがフョードルの所に殴り込んで、強盗殺人が起きないように」、イワンが番人の役割を務めることです。

    そして、イワンも、その重要性を重々に承知しています。

    にもかかわらず、スメルジャコフにそそのかされ、イワンはモスクワへと旅立ちます。チェルマシニャにも行かず、フョードルを完全に見捨てます。そして、この事が、良心の呵責となって、後々までイワンを苦しめることになります。

    イワンにしてみれば、フョードルとドミートリイが派手にやり合って、どちらも破滅した方が、煩わしいのが消えて、せいせいするのだけども、一方で、情愛もあり、人間として正しくありたいという気持ちも人一倍強い。

    ここでは、まだどうすべきか、迷っている段階です。

    ……そこへ、ドミートリイが殴り込んでくる。

    まさしくその瞬間、玄関の間ですさまじい物音がとろどき、凶暴な叫び声が聞えたかと思うと、さっとドアが開け放たれて、ドミートリイが広間に飛びこんできた。老人はぎょっとなってイワンのほうへ駆け寄った。「殺される、殺される! おれを見捨てないでくれ、見捨てないで!」イワンのフロックコートの裾(すそ)にしがみついて、彼は大声でわめき立てた。

    カラマーゾフ一家の運命が大きく動き出します――。


    ちなみに、イワンは、「神はあるのか」の会話の理由を後日、アリョーシャに次のように話しています。(第Ⅴ編 ProとContra / 第3章 兄弟相識る

    「きのう親父のところで食事をしながらあんなことを言ったのは、わざとおまえを焚(た)きつけるつもりだったのさ、案の定、おまえは目をきらきらさせていたものな。でもいまは、おまえとじっくり話し合ってもいいつもりになっているし、これは非常にまじめな気持で言うんだ。ぼくはね、おまえと打ちとけたいんだよ、アリョーシャ、ぼくには友だちがないから、ひとつ試してみたいのさ。それに、びっくりするかもしれないが、ぼくだって神を認めるかもしれないんだぜ」イワンは笑った。「これは意外だったろう、え?」

    江川卓による注解

    ロシアの国は白樺でもっているんだ

    「笞刑」とは、「罪を犯した者の身体を笞(ムチ)で殴打する刑罰。(コトバンク

    白樺の枝は笞刑のさいによく使用された。そのため「白樺は知恵をつける」「馬鹿を創られた代りに、神は白樺も創られた」などの諺が生れた。「白樺の粥(かゆ)」という表現もあり、「白樺の粥に皮帯のバターを入れてご馳(ち)走(そう)する」といったどぎつい言い方がされる。

    アルベーニン

    フョードルがゾシマ長老を評して、あの男はこれっぽちを神を信じておらん、「あの男にはどこかメフィストフェレス的なところが、というより、『現代の英雄』に出てくる、アルベーニンとかなんとか言ったな……」という個所から。

    レールモントフの戯曲『仮面舞踏会』の登場人物。ここでフョードルは『現代の英雄』の主人公ペチョーリンと混同している。

    聖母マリアの祭日

    フョードルの回想「しかしな、アリョーシャ、誓って言うが、おれはあのわめき女(アリョーシャの母親ソフィヤのこと)を一度だって辱しめたことはないぞ! いや、一度だけあったな、結婚したその年のことだが、あれはそのころひどいお祈りきちがいでな、とりわけ聖母マリヤの祭日にはやかましくて、その日はおれを仕事部屋に追い立てて、そばへ寄せつけないほどだった」より。

    聖母の祭日には、
    聖母福音祭(マリヤの死去) ―― 8月28日、
    聖母誕生祭 ―― 9月21日
    聖母進殿祭(最初の神殿参拝) ―― 12月4日の四つが、十二大祭として祝われ、そのほかに10月1日のポクロフ祭が聖母祭として扱われる。
    誰かにこっそり教えたい 👂
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