学生時代、繁華街から帰ってきた同級生が「駅前で面白いものを配ってたよ」と一冊のパンフレットを見せてくれました。
ページを開いてみると、
「君には人生の目的がありますか?」
「充実した毎日を過ごしていますか?」
「本当に親しい友だちはいますか?」
「対人関係で悩んでいませんか?」
青春真っ只中の人なら、誰もが胸を突かれるようなキャッチコピーがずらりと並んでいます。
その一つ一つに、漫画の先輩がやさしく答えてくれて、心の弱った人に染むような内容でした。
その多くは、「ネガティブ思考をポジティブに変えましょう」というありきたりの回答ばかりで、内容的には自己啓発セミナーや癒し系エッセーと同じ類いですが、唯一、異色だったのが、その導き手として『教祖』が紹介されていた点です。
頂点に君臨する絶対的教祖と、彼に使える修業者たち。
またその修業者も、悟りのレベルに応じて階層化され、白い装束をまとった上半身ポートレートには、「大悟師」「正大師」といった大層な肩書きも付けられています。
パンフレットの発行者は、後に東京の地下鉄車内で強力な毒性をもつ化学液体をまき、無差別テロを引き起こした宗教団体です。
事件が明るみになった時、多くの識者が、「なぜ一流大学出身の優秀な若者が、こんなカルト集団に易々と絡め取られたのか」と不思議がっていましたが、優秀であればこそ、人生や人間関係に深く悩み、一般的な回答では飽き足らず、「何やら高尚なもの」に惹きつけられたことは容易に想像がつきますし、また同じ志、同じ悩みをもつ者が、世間から隔絶された場所に集まり、共感を深めたからこそ、極端な思想を持つに至ったのでしょう。
彼らが一般的な回答で満足できなかった理由の一つには、「俺にはもっとふさわしい場所がある」「俺にはもっと偉大なことが出来るはず」という自惚れもあると思います。
彼らが「偉大なる自我」を実現するには、神のような人から特別な任務を与えられ、凡人には理解できない使命や動機も必要です。
その場所と手段を示してくれたのが、宗教団体の教祖であり、彼らにとっては、それこそ救い主だったのかもしれません。
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ドストエフスキーの『罪と罰』でも、貧苦から気持ちをこじらせたラスコーリニコフは、「『非凡人』は、ある種の障害を踏み越えることを自己の良心に許す権利を持っている」という思想に取り憑かれ、あくどい金貸しの老婆を殺害します。あんな性格の悪い婆は生きていても仕方ない、それより、婆の貯め込んだ金を貧者や病者に使った方がよほど有益ではないか……というのがラスコーリニコフの考えです。
ただ、ラスコーリニコフは、元々がキリスト教徒で、罪と罰の観念もありましたから、信心深いソーニャの導きにより、良心に立ち返ることができましたが、そうした核のない、新興宗教の若者たちは、詐欺師みたいな教祖に絡め取られ、教祖の賞讃や特別な使命を「我が神」として信仰するようになりました。大勢が傷つき、苦しんでも、反省もなく、洗脳が解けるまで、非常に長い時間を有したのも、そこに自己の全存在を懸けてしまったからでしょう。洗脳を解くことは自己否定に他ならず、それほどの勇気は誰もが持てるものではないです。
その点について、当時の産経新聞で、東工大講師 山崎行太郎氏は次のようにコメントしておられます。
平野は、デビュー作『日蝕』以来、宗教に関心の深い作家だが、この対談の冒頭で、こう宣言している。
「今回の対談は、なるべく現代の状況をふまえて、これからの日本にとって、あるいは世界にとって、宗教がどういう意味を持つのか、というような“大きな話”をしたいと思ってきました」
この新鋭作家が単なる一発屋ではなかったことを実証するような大胆不敵な発言である。平野は、オウム問題は一カルト宗教の問題ではなく、現代宗教の本質的な問題だと言う。オウムを甘く見るなかれ、というわけであろう。
そして、現代の宗教問題の本質を、「死後の生の不在」「許しの不可能性」「罰の欠如」等の問題としてとらえる。
たとえば、こう言う。
「神は、最早、罪をあがなってくれない。それは自分の身に引き受けなければならない、この認識こそが僕は近代の始まりだと思うんです。二十世紀の不幸の一つは『罰の欠如』ですね」
「罰」といえば、山口県光市の「妻子殺人事件」の被害者の夫が、犯人を自分の手で殺してやりたい(罰する)と発言したのに対し、日本人の「人権意識の欠如」「人権教育の後れ」を指摘して満足している文芸評論家・千葉一幹より、「現代人は本当に『許す』ことが出来るのか……」と問う平野啓一郎の方が、人間存在に対する認識が深いことは言うまでもない。
産経新聞 7月9日号 Book・本 斜断機より
文:東工大講師 山崎行太郎
『罰の欠如』というならば、「罰」という観念を生み出しているのは何なのか。
それは良心に他なりません。
では、良心とは何か。
それは、私たちが幼い頃から親の教えや学校のルール、社会の価値観に影響されて培っていくものです。
「お友だちを叩いてはいけません」
「お菓子を盗んではいけません」
「ブランコの順番は仲好く待ちましょう」
そうしたことを繰り返し教えられ、また自分で体感し、その結果として、思いやりや自制心を身に付けます。
しかし、その動機は、「お友だちを叩いたら、自分も倍ほど教師に殴られる」とか「お菓子を盗んだら、罰として手足を斬られる」みたいな恐怖政治に基づくものではありません。
「お友だちを叩いたら、痛い思いをして、可哀相だ」「お菓子を盗んだら、お店の人が悲しむ」といった、思いやりの結果です。
その思いやりを育てるのは、親や教師、近所のおじさん、おばさんなど、周りの大人に他なりませんが、キリスト教の場合、そこに聖書の教えや神の愛が加味されます。
いわば、親子関係や学校関係の中で体得する以外に、「神と人間」「神父と教徒」のような宗教的体験の中でも育まれていくわけですね。
ラスコーリニコフが罪の意識に苦しんだのも、元々、敬虔な信者であり、殺された人の痛みも、家族や友人の情愛も知っていたからでしょう。
「人を殺したら、シベリア流刑になる」という恐れから、罪を恐れ、自身の破滅を嘆いて、悶え苦しんだのではありません。
それに対して、神なき人たちの罪悪感は、自分の信じた教祖と、それを信じた自分に対する裏切りであり、突き詰めれば、自己中心です。
自分のために苦しみ、自分のために泣く――
突如、罪の意識に目覚め、金貸しの婆にも、義妹リザヴェータにも、本当に悪いことをした……と心の底から詫びるラスコーリニコフとは異なります。
その違いは何かと問われたら、心の核に、無条件の神がいるか、否かの違いでしょう。
新興宗教の若者も「自ら教祖を選んだ」かもしれませんが、その教祖は信者との取引によって愛と褒美を与える利己的な存在です。
無条件に人間を愛し、包み込むようにして赦してくれる、イエス・キリストの神や仏陀とは本質的に異なります。
その賞罰も自己中心的で、ラスコーリニコフのように、「他人の痛み」を感じることによって悔悟するのとは大違いです。
彼らが事件を起こした後も、被害者の気持ちに無頓着で、なかなか悔悟に至らなかったのも、その信仰が取引の上に成立していたからではないでしょうか。
罪と罰の観念を教えても、そこに自己中心の打算がある限り、「こんな事をしたら、相手が苦しむな」という想像力には至りませんし、想像力がなければ、抑止力も働きません。
平野氏が指摘する『罰の欠如』は、言い換えれば、「愛の欠如」であり、その思いやりを欠いて、罰則だけ設けても、恐怖政治にしかなりません。そして、恐怖政治がもたらすものは、無償の愛ではなく取引です。たとえ表面上は「いい人ばかり」でも、「自分のために、善いことをする」が前提にある限り、良心も、罪の意識も育たないんですね。
今も昔も『迷える小羊』は「神なるもの」を求めて、荒野を彷徨っています。
しかし、多くの似非教祖は、『取引』によって、小羊の欲しいものを与え、無償の愛とは程遠いものです。
もはや取引によってしか賞讃や慰めを得られないとしたら、社会が改めるべきは、「何を罪とするか(どんな罰を与えるか)」ではなく、いかに愛を実践するか、ではないでしょうか。