江川卓『カラマーゾフの兄弟』は滋賀県立図書館にあります詳細を見る

    【8】 ゾシマ長老とロシアの農婦 ~神は罪を犯した者を、罪のままに愛してくださる

    信仰篤い農婦たち
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    目次 🏃‍♂️

    ゾシマ長老と《わめき女》

    章の概要

    僧院には連日、大勢の信者が訪れ、高徳の僧、ゾシマ長老のお出ましを今か今かと待ちわびています。

    その多くは、貧しい農家の女性たちであり、家庭や社会で虐げられる人たちにとって、ゾシマ長老の優しい声かけはまさに神の癒やしの声でした。

    父フョードルと長男ドミートリイの金銭問題を解決する為に、ゾシマ長老の仲裁の元、一同に会したカラマーゾフ一家が僧院の招きで食事をしている間、ゾシマ長老は、信徒に会うために回廊に姿を現します。そこには、足の不自由な少女リーズを伴った、富裕な貴婦人のホフラコワ夫人の姿もありました。(リーズは後にアリョーシャと婚約する)

    女性信徒の中には、《わめき女》と呼ばれるヒステリー症状を呈する人もあります。彼女たちは、ゾシマ長老に悩みを打ち明け、慰めの言葉をかけられます。当時のロシアにとって、僧院はカウンセリング的な役割を果たしていたことが窺えます。

    『第Ⅱ編 場ちがいな会合 / 第3章 信仰篤い農婦たち』では、女性信徒の熱狂(?)、息子を亡くした母親の嘆き、暴力的な伴侶を亡くした女性の懺悔、乳呑み児を抱いた農婦と施しのエピソードが綴られています。

    動画で確認

    僧院の様子は、1968年版『カラマーゾフの兄弟』がより原作に近いです。
    ロシア正教会と大勢の信徒が描かれます。
    急ぎ足で僧院に向かうのはドミートリイですね。

    女性信徒の熱狂

    長老が姿を現わすと、農婦たちは熱狂し、中にはわけのわからぬ悲鳴をあげて、全身を激しく震わせる女性信徒もあります。

    長老はいちばん上の段に立って、肩帯をかけると、自分のほうへ押し寄せる女たちに祝福を与えはじめた。

    一人の《わめき女》が両手を引かれて長老のもとへ連れてこられた。

    その女はちらと長老を目にしたとたん、なにやらわけのわからぬ悲鳴をあげてしゃくりあげながら、子供のひきつけのように全身をはげしくふるわせ始めた。長老が彼女の頭の上に肩帯をのせて、短い祈祷の文句をとなえると、女はたちまち静まって、おとなしくなった。

    いまはどうか知らないが、私の子供のころには、よくあちこちの村や僧院でこういうわめき女を目にし、その声を聞いたものである。女たちは、礼拝室につれてこられると、それこそ教会じゅうにひびき渡るほどの声で、金切り声をあげたり、犬のように吠えたりするのだったが、やがて聖体(注解を参照)が出され、そのそばに連れて行かれると、それこそ教会じゅうにひびき渡るほどの声で、金切り声をあげたり、犬のように吠えたりするのだったが、やがて聖体が出され、そのそばに連れて行かれると、たちまち《憑きもの》が落ちて、病人はきまってしばらくの間、平静に返るのである。

    まだ子供であった私は、この光景にショックを受け、驚きの目を見張ったものであった。けれど、やはりその当時、私が何人かの地主たちから聞いたところでは、また町にいる私の先生たちにわざわざたずねてみたところでは、これは仕事を怠けるためにわざとあんな芝居をしているので、しかるべき厳格な手段によって根絶できるのだということだったし、それを裏づけるさまざまなエピソードも聞かされた。しかし後年、専門の医師たちの話を聞いて驚かされたのだが、実はこれは芝居でもなんでもなく、どうやらロシア特有ともいえる恐ろしい婦人病の一種で、わがロシアの農村婦人の悲惨な運命を証明するものだということであった。つまり、なんら医術の手もかりずに、誤ったやり方で、ひどい難産を経験したあと、あまりに早くから過激な労働につくことから起る病気だというのである。

    そのほか、一般的な例からいって、かよわい女性にはとうてい耐えきれないような、救われようのない悲しみとか、夫の打擲なども原因になるそうである。

    それまで暴れ狂い、もがきまわっていた女が、聖体の前へ連れて行かれると、たちどころにぴたりとなおってしまうという不思議な現象も、あれは芝居だとか、ひどいのになると、《坊主ども》自身が演出してみせる手品だとか説明されたものだが、おそらく、これもきわめて自然な現象なのだろう。

    つまり、病人を聖体の前へ連れて行って、それに頭を下げさえすれば、病人にとりついている悪霊はけっしてもちこたえられなくなると、確固とした真理のように信じこんでいる。

    そういうわけで、神経症を起こし、また、むろんのこと、精神的な病人でもある女性の体内には、聖体に向かって頭を下げた瞬間、もうきまって、いわば全オルガニズムの震撼とでもいった現象が起こることになる(いや、起らないではいない)のである。

    この震撼は、必然的な治癒の奇跡を期待する心と、その奇跡の実現をあくまで信じてやまない心とによって惹き起され、事実、奇跡は、たとえわずかの間にもせよ、実現するのである。いまもまったくそのとおりで、長老が病人を肩帯でおおうた瞬間、奇跡が実現したのだった。

    この場面は、ロシアの貧しい農家の実態を如実に描いています。人権意識も、社会福祉もない時代、絶え間ない心身の虐待によって、深刻な神経症に陥り、《わめき女》になるのも頷けます。そもそも、一家の長である男性(父や夫)自身が社会の底辺なのですから、彼らのストレスが、肉体的に弱い女性に向かうのも納得です。

    作中では、『それまで暴れ狂い、もがきまわっていた女が、聖体の前へ連れて行かれると、たちどころにぴたりとなおってしまうという不思議な現象』を奇跡と呼んでいますが、現代カルトにも似たような事例はたくさんありますね。集団催眠にかかった信者らが、教祖の言葉に心酔して、神のように崇めたり、病気が治ったと吹聴したり。時には自分たちを否定する者を激しく攻撃し、カルト仲間で団結して、反社会的な行動を取るケースも少なくありません。

    その点、ゾシマ長老は、イエス・キリストのように、癒やしの効果があったのでしょう。現代医療でも、信頼するお医者さんのひと言で、ぱーっと気持ちが明るくなったり、マッサージで悩み相談してもらってるうちに、歩けないほどの腰痛がどこかへ消えてしまったり。心理的効果は計り知れないものがあります。

    ちなみに、ちなみに、19世紀末の医学レベルがどの程度かといえば、「イギリスで全身麻酔と開腹手術による手術方法が開発された(1875年)」「北里柴三郎が破傷風、ジフテリアのワクチンを開発(1890年)」「レントゲンがX線を発見。放射線診断、放射線療法の始まり(1895年)」といったレベルです。

    だが、それは西欧の話であり、ロシアの寒村まで遠く及びません。農奴と呼ばれる貧しい人々は、最新の知識や技術に触れる機会もなく、教会や僧侶がそれに代わる役割を果たしてきました。「アルプスの少女ハイジ」のクララみたいに、心理的効果で、思わず立ちあがったり、ストレス性の胃炎や湿疹が快癒したことを「奇跡」と受け止めても不思議はありません。

    幼子を亡くした女性と神の慰め

    一人目の女性は、三歳になる男の子亡くした母親の嘆きです。彼女はすでに三人の子供を亡くしており、その子は四人目でした。彼女にはニキートゥシカという連れ合い(夫)がいますが、ニキートゥシカはだらしない大酒飲みで、頼りにもなりません。それでとうとう、彼女は家を出て、「わたしはもう自分の家も、自分の身上も見たくはございません。なにひとつ見ないですむものでしたら!」と辛い気持ちを打ち明けます。

    それに対して、ゾシマ長老は、

    むかし、ある偉い聖人さまが、やはりおまえのように聖堂に来て泣いておる母親を目にとめられた。やはり神さまに召された、たったひとりの幼な児のことお思うて泣いておったのじゃ。すると聖人さまは言われた。

    『いったいおまえは、そういう幼い子供たちが神さまの前でどれほどあがままいっぱいにしておるか知らんのか? 天国には幼い子供ほどわがまま者もほかにはいないくらいじゃ。子供たちは神さまに向かって、せっかく生命をさずけてくだすったのに、ちらと人生をのぞいたばかりで、また取りあげてしまわれたなどと言いおる。それで、すぐにも天使の位をさずけてくだされと、それはもう駄々をこねてきかないのじゃ。だからな』と聖人さまはおっしゃられた。『女よ、おまえも、泣くのでなく、喜ぶがよいぞ。おまえの子供もいまは神さまのおそばで天使になっておるのだからな』

    これが大むかしの聖人さまが泣いている母親に言われたお言葉じゃ。その方は偉い聖人さまじゃったから、嘘など言われるわけもない。だから、おまえの子供も、きっといま時分は、神さまのおそばで喜びたわむれながら、おまえのことを神さまに祈っておるじゃろう、そのことおしっかりと心得ることじゃ。してみれば、おまえも泣かずに、喜んでやらねばな」

    死んだ男の子は天使になって、天国で神様と幸せに過ごしているのだから、そんなに嘆いてはいけないよ……というニュアンスです。

    ゾシマ長老は、「いつか嘆きも喜びになる」というニュアンスで女性を励まし、ニキートゥシカの所に戻るよう促します。

    「そのむかし『ラケルその子らを思いて泣くも慰めをえられず、その子らのすでになければなり』とあるのと同じことじゃ。おまえのような母親にとっては、それがこの地上における定めなのじゃ。慰められぬがよい。おまえは慰めを求めることはない、慰められぬままに泣くがよい。ただな、泣くたびにかならず思い出すのじゃ、おまえの子は神さまの天使のひとりとなって、天国からおまえを見おろし、おまえの涙を見て喜んでおるし、その涙を神さまに指さしてもおるということをな。おまえの母親としての大きななげきは今後もまだ長くつづくだろうが、やがてはそれが静かな喜びとなる日が来て、その苦い涙も、静かな感動の涙、心を浄め、もろもろの罪からおまえを救ってくれる涙になるのじゃ。

    「ラケルその子らを思いて泣くも慰めをえられず、その子らのすでになければなり」について、江川氏の注解。

    なお「なげきが喜びとなる(注解を参照)」の個所は記事後方で紹介しています。

    息子アリョーシャの死後、悲嘆にくれていたドストエフスキーは、アンナ夫人の気づかいで、一八七八年六月、哲学者ソロヴィヨフとともに、カルガ県にあるオプチナ修道院を訪れ、同修道院のアンプローシイ長老と三度にわたって差し向かいで会見した。その折、アンプローシイ長老はこの言葉を引いてドストエフスキーを慰めたという。なお、このオプチナ行きの直前、作家は『ロシア報知』誌と長編の連載契約を結んでおり、旅行の道中ではソロヴィヨフに長編の構想を熱心に物語って聞かせた。なお、この聖句は旧約エレミヤ記第三十一章十五節に出てくるが、新約マタイ福音書第二章十八節にも旧約の引用として出てくる。次に述べられている「なげきが喜びとなる」という言葉も聖書が出典となっている(エレミヤ記第三十一章十三節、新約ヨハネ福音書第十六賞二十説)。

    作中で、女性の子供が「3つになる男の子」と設定されているのは、次のような意味があります。

    『アンナ夫人注』――「1878年に死んだ私たちの息子アリョーシャの死後のドストエフスキーの気持を反映している。そのときアリョーシャはあと三月で三歳だった。この年に『カラマーゾフの兄弟』が書きはじめられている」。ドストエフスキーはこのアリョーシャを「病的と思われるほど」特別にかわいがっていたが、その死因は、おそらく遺伝によると思われる長時間の展観の発作だった。息子の死にあたって、作家は三度遺体に接吻すると、声をあげて泣き伏してしまったという。遺体は花で覆われた白い柩に収められて墓地へ運ばれたが、道中、一同は柩を撫でまわして泣きどおしだったらしい。この模様は長編のエピローグのイリューシャの葬儀の場面にもかなり近い形で生かされている。長編の主人公をアレクセイ(アリョーシャ)と命名したことにも、亡くした息子の記憶を「永遠」にとどめようとする気持が働かなかったとは言いきれない。

    ソ連のドストエフスキー研究家ヴェトロフスカヤ女史は、この長編で「三」という数字が特殊な象徴的意味をこめて使われていると指摘し、これをキリスト教の「父と子と精霊」の三位一体説、およびロシア・フォークロアに多出する「三つの間」「三つの岐れ路」などとの関連で論じている。女史によると、カラマーゾフが三人兄弟であること、アレクセイが三番目の息子であることなどのほか、次の諸点で「三」という数字はきわめて意識的に使われている。第四部まである各部が、いずれも三篇に分けられており、最初の高僧では全三部の予定になっていた。第三編のミーチャの告白、第四編の「うわずり」第九編のミーチャの「苦難めぐり」第十一編のイワンのスメルジャコフとの面談などが、いずれも三部構成になっている。そのほか運命の三千ルーブリなど、その例は枚挙にいとまがない……

    この所論は、たとえば、このエピソードでの「三」という数字の使われ方などを見ると、確かに首肯されるべきものと思われる。なお、はじめ「ロシア報知」誌に連載されたときには、この部分は「あとほんの二ヶ月で満三歳」となっていた。

    行方不明の息子を嘆く下士官の未亡人

    二番目の女性は、下士官の未亡人で、ワーセンカという息子がシベリアのイルクーツクに行ってから、まる一年、便りがないと嘆いています。しかも、お金持ちの商人の奥さんから、「息子さんの名前を過去帳に書き込んで、教会へ持って行って、供養してもらったら、息子さんの魂が悩みだして、きっと手紙をよこすようになる」とアドバイスされて、混乱しています。

    ゾシマ長老は、「そんなことは、考えてもなりませんぞ。たずねるだけでも恥ずかしいことじゃ。だいたい、生きておる魂を、しかも実の母親が供養するなどということがあってよいものか! それはもう、妖術(ようじゅつ)にもひとしいたいそうな罪で、おまえの無知に免じてやっと許されるほどのものじゃ。」と厳しく窘めた上で、次のように励まします。

    おまえの無知に免じてやっと許されるほどのものじゃ。それより聖母さまに、すぐにも助けにきてくださる守り神さまにお祈りして、息子がぶじでおりますように、また、まちがった心を起したことをお許しくださるようにと、お願いするがよい。ただ、ひとつだけはおまえに言っておこう、プローホロヴナさん、おまえの息子だが、近いうちに自分が帰ってくるか、でなければ、かならず手紙をよこしなさる。そう思っていて大丈夫じゃ。さ、安心して帰りなさい。言っておくが、おまえの息子は達者でおるからの

    当時から、怪しげな療法や祈祷法が存在したということですね。またそれに惑わされる人の心理も現代と同じです。「おまえの無知に免じてやっと許される」という言葉が印象的です。

    ちなみに、この言葉は的中し、ホフラコワ夫人を大いに喜ばせます。

    『第Ⅳ編 うわずり / 第1章 フェラポント神父』より

    『予言は文字どおりにどころか、それ以上にぴったり実現いたしましたの』老婆は家へ帰るとさっそく、すでにとどいていたシベリアからの手紙を渡された。しかもそればかりではない。道中のエカテリンブルグ現在のスヴェルドロフスク、ウラルの町 からよこしたこの手紙で、ワーシャは母親に、いまある役人といっしょにロシア本国へ帰る途中だから、この手紙がとどいて三週間もしたら、『母上を抱きしめることができるでしょう」とまで知らせてきていたのだ。ホフラコワ夫人はこの新たに実現された《予言の奇跡》のことをすぐにも僧院長はじめ修道僧のみなさまに伝えてほしいと、切々とした調子でアリョーシャに訴えていた。

    つれあいの死を願う罪深い女性

    三番目の女性は、まだ若いけれど、一見して肺病やみとわかる、いかにも疲れきったような農婦です。

    女性は、「わたくしの魂を救ってくださいまし」と訴え、長老の足もとにひれ伏します。

    「嫁に行ってから、つらくてなりませんでした。つれあいが年寄りで、ひどくわたくしおぶつのでございます。それが病気で寝ましたとき、わたくしはその顔を見ながら、もしこの人がまたよくなって起きだしたらどうしよう、と考えました。そのときでございます、わたくしがあの考えを起しましたのは……」

    いわゆるDVですね。年輩のDV夫が眠っている時、死を願う女性の気持ちは痛いほど分かります。そして、そのことで、自分を責めて、苦しんでいることも。

    「なにも恐れることはない、けっして恐れることはないし、くよくよすることもない。ただ悔恨の心が薄くならぬようにしさえすれば――神さまはすべてを許してくださる。いや、本心から悔いている者に対して神さまが許してくださらぬような罪はこの地上にはないし、あるわけもない。というより、神さまの限りもない愛を涸らしつくすようなたいそうな罪を、人間が犯せるはずもないのじゃ。それとも、神の愛をしのぐほどの罪があるとでもお思いか? 

    ただ悔恨だけを、不断の悔恨だけを心がけて、恐れはすっかり追いはらってしまうがよい。神さまは、おまえが想像もつかぬような愛をもっておられて、おまえに罪があればあるで、その罪のままに愛してくださるのじゃ、そのことを信ずるがよい。十人の心義しきものよりも、一人の悔いる者を天は喜ぶ(「ルカ福音書」第十五章七節)と昔から言われておるではないか。

    さ、行きなさい、恐れるでないぞ。他人に腹を立て、辱しめを受けたからとて怒るでない。死んだつれあいからいじめられたことを、心のなかですべて許して、心から仲直りをするがよい。おまえが悔やんでおるとしたら、それはおまえが愛しておるからじゃ。そして愛するならば、おまえはもう神の子じゃ……愛はすべてをあがない、すべてを救う。

    その点、「他人の死を希望する権利はある」と言いきってしまうイワンは、女性よりはるかに進歩的なのかもしれません。
    (参考→ 【20】 蛇が蛇を食い殺すだけ ~他人の死を希望する権利はあるのか?

    一方、死を願って、その先、何があるかと言えば、実は何もなく、たとえ、望み通りに相手が死んでも、「他人の死を願った自分」は永久に残ります。

    そう考えると、ゾシマ長老の回答の方が、まだ救いがありますね。

    要は、神が存在する、しないの問題ではなく、最後にセーフティネットとなる概念があるかどうかでしょう。神から自由になれば、何でも許されますが、その結果生じる、咎も、不幸も、自分が背負わなければなりません。逆に、神の教えに基づけば、欲望も生き方も制約されますが、最後は「神に委ねる」というセーフティネットがあるので、際限なく落ちることはありません。

    イワンが途中で行き詰まり、悪魔の妄想に振り回されるのも、そういう事だと思います。

    「神のように賢くなれる」と蛇にそそのかされ、知恵の実を口にすることが『原罪』と呼ばれる所以です。

    19世紀 最も暗い時代のロシアの農婦

    ドストエフスキーの生きた時代は、『最も暗い時代』と言われています。

    なぜ、19世紀のロシアの農婦は凄まじい虐待と貧困に喘いでいたのか、ドストエフスキーのような文化人や知識人は言論を弾圧されたのか、図解『ロシアの歴史』(粟生沢猛夫)から、背景を紹介します。

    ピョートル大帝の娘エリザヴェータは、父の知性への復帰を旗印に揚げていた。彼女は「聡明で善良」であったが、あまり教養はなく、派手好きで、観劇、舞踏会に明け暮れ、国務を見ることは少なかった。アンナ時代の内園制を廃止して元老院を復活させたが、それはあまり機能せず、事実上政治を指導したのは、抜擢された「能力あるロシア人たち」であった。

    エリザヴェータ時代の政府の施策やそこに現われた諸傾向は、エカチェリーナ二世の時代にも引き継がれたといわれるが、二人の女帝の、合わせて半世紀以上にわたる統治が、皇帝と貴族らによって繰り広げられるサンクト・ペテルブルクの華やかな宮廷文化を産みだしたのであった。

    しかし他方では、この宮廷文化を可能にした莫大な費用を負担したのが国民の大部分を占めた農民、とりわけ農奴たちであったことを忘れてはならないであろう。農奴制は西欧諸国では中世末から近代にかけて消滅したり、廃止されたりしていたが、これがロシアでは十七世紀に法的に完成し、十八世紀にはさらに強化されようとしていた。

    すでにアンナ治世に、農奴は土地所有権や法的契約関係を結ぶ権利を否定され、出稼ぎに際しては領主の許可を義務づけられていたが、エリザヴェータ治世の1754年には、農奴は領主の私有財産として扱われるにいたった。

    1760年には領主に農奴をシベリアに送る権利が与えられる。こうした傾向はエカチェリーナ二世期にも続いた。彼女は即位当初は農奴制に懐疑的な態度をみせていたが、やがて寵臣らへ広大な国有地を賜与し、訳100万といわれる国有地農民を農奴に変えた。

    62年には農奴購入券を帰属だけに限定し、65年には領主に農奴を無期限に懲役に送る権利を与え、67年には農奴に領主を告訴する権利を否認しさえした。

    世紀後半には、農奴は土地および家族と切り離されて売買されるまでにいたった。

    こうして帰属の農奴支配権が著しく強化されたが、その間、農奴の領主に対する年貢や不易などの直接的負担も増大し、農奴制はこの段階にいたって奴隷制と変わらぬものとなったといってよい。

    あまり鮮明な写真は掲載できないので(^_^; 一つの参考として。

    ロシアの農奴

    ロシアの農奴

    その後、アレクサンドル1世、ニコライ1世と続き、1825年に、『デカブリストの乱』が勃発します。デカブリストとは、専制打倒と農奴制廃止を目的として、アレクサンドルの死後、急激に反乱に立ちあがった帰属や将校らのことを指します。(決起したのが12月、ロシア語でデカーブリであることから)

    しかし、デカブリストの乱は、準備不足や組織化の未熟などから、簡単に鎮圧され、五人の首謀者が絞首刑、121名がシベリア流刑になります。

    ニコライ1世は、「革命がロシアの門口に迫っている。しかし予の目の黒いうちは、それがロシアに入ることはない」と断固とした姿勢をとり、思想、文化の取り締まりを強化します。

    ニコライ1世の治世が「最も暗い時代」と言われるのは、こうした抑圧的体制が知識人や文化人を厳しく管理しようとしたからです。

    ドストエフスキーは、「最も暗い時代」に生きた一人で、1949年には、外務省翻訳官ペトラシェウフスキーのサロンに加わっていたことから逮捕・投獄され、一時、死刑判決を受けました。作品は厳しい検閲下に置かれ、後に国民的作家になるドストエフスキーも例外ではありません。ちなみに、同時代を生きた作家に、トルストイ、プーシキン、ツルゲーネフがいます。皮肉にも、弾圧の時代に、文化が花開いたわけですね。

    本書では、

    ニコライ治世が「最も暗い時代」であったにせよ、それはのちの20世紀になって人類が敬虔するような徹底した全体主義的統制とは全く次元の異なるものであった。

    実際、この時代、作家たちはいわゆる「イソップの言葉」を用いるなどさまざまな工夫をして、検閲の網を何とかかいくぐろうと苦闘し、またある程度それに成功したのである。

    検閲当局もそれなりに厳格に職務を遂行したが、作家たちはむしろそれゆえに自らの思索を深化させ、永続的な価値の創造のために苦闘したのであった。

    やがてニコライ1世が没し、アレクサンドル2世が即位すると、抜本的な改革に着手します。

    1861年2月19日、農奴解放令が発令され、「すべての農奴は、二年間の準備期間を経て人格的に解放される」と定められます。

    しかし、それは「全面解放」とは程遠いものであり、農民たちは不満を募らせます。

    19世紀後半には、世論が活溌になり、いわゆる「インテリゲンツァ(人生の意味を問い、理想に献身する批判的な知識人)」に加えて、小領主、官吏、聖職者、商人層など、雑多な階級出身の人々も議論に加わるようになります。マルクスの共産党宣言がリリースされたのが、1848年ですから、改革と革命の機運がロシアにも押し寄せてきた様子が窺えますね。「西欧かぶれのミウーソフ」が、知的なイワンと張り合おうとするのも、大きな思想のうねりがあればこそでしょう。

    そして、富裕な人々やインテリ層があれこれ議論している間にも、農村は疲弊し、農民たちの不満は爆発寸前まで高まっていきます。

    それに追い打ちをかけるような日露戦争に、第一次世界大戦。

    いよいよ国民が食い詰めると、労働者や農民の抗議行動もクライマックスに達し、ニコライ二世を退位に追い込んで、ロマノフ王朝が終焉します。

    後は、皆さん、知っての通りです。

    『カラマーゾフの兄弟』が書かれたのは、まだ地方に貴族文化があった頃、イワンやミウーソフのような上流の知識人がロシアの行方を占うように、議論を交わしていた時代です。

    その中で、一気に自由主義と個人主義に舵を切るのではなく、キリスト教を主軸とした人道主義を説いたドストエフスキーの考えも分かるような気がします。

    図説 ロシアの歴史 (ふくろうの本) 栗生沢 猛夫
    図説 ロシアの歴史 (ふくろうの本) 栗生沢 猛夫

    江川卓による注解

    聖体

    ヨハネ福音書第六章五十六節に出てくるイエスの言葉「わが身体をくらい、わが血を飲む者は、我に居り、我もまた彼に居るなり」および、マタイ福音書第二十六章二十六節の最後の晩餐のときのイエスの言葉にもとづいて制定されたもので、「聖餐」というのはプロテスタント系の言葉。発酵パンと葡萄酒でイエスの身体と血をあらわす。

    『ラケルその子らを思いて泣くも慰めをえられず・・・』

    江川氏の注解で、「なげきが喜びとなる」という新約聖書の出典は次の通り。

    『マタイオスによる福音』第二章十八説

    ヘロデス、子供を皆殺しにする

    さて、ヘロデス(ヘロデ王)は学者たちにだまされたとわかり、非常に怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベトレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者イルメヤを通して言われていたことが実現した。

    ラマで声が聞こえた。
    激しく嘆き悲しむ声だ。
    ラヘルは子供たちのことで泣き、
    慰めてもらおうともしない。
    子供たちがもういないから

    『ヨハンネスによる福音』第十六章

    悲しみが喜びに変わる

    「しばらくすると、お前たちはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。

    そこで、弟子たちは互いに言った。

    「『しばらくすると、お前たちはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか行っておられるのは、いったい、なんのことだろうか」。

    また言った。

    「『しばらくすると』と言っておられるのは、いったい、なんのことだろうか。何を話しておられるのか、さっぱりわからない」。

    イエススは、彼らが訪ねたがっているのを知って言った。

    「『しばらくすると、お待てたいはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じあっているのか。はっきり言っておきたい。お前たちは泣いて悲嘆にくれる(イエススの誌を暗示)が、この世は喜ぶ。お前たちは悲しむが、その悲しみは喜びに変わるのだ(イエススの復活と精霊の降臨を暗示)。

    女は子供を産むとき、悲しくなるものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間がこの世に生まれ出たという喜びのために、もはやその苦しみを思い出さない。ところで、今はお前たちも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びお前たちと会い、お前たちは心から喜ぶことになる。その喜びをお前たちから奪い去る者はいない。

    その日には、お前たちはも、何もわたしに尋ねない。

    はっきり言っておきたい。

    お前たちがわたしの何よって何かを父(神を指す)に願うならば、父はお与えになる。

    今までは、お前たちはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすればいただいて、お前たちの心は喜びで満たされる」。

    神の人アレクセイ

    子供を亡くした女性の「三歳になる息子」の名前が『アレクセイ』であるのにちなむ。

    4-5世紀のローマに住んだと伝えられる苦行者の一人。富裕な名門の貴族の家に生れ、妻のアデライーダと暮らしていたが、思い立って荒野で隠遁生活を送り、再び帰って来て見ると、家族の者は変り果てた彼の姿に気づかず、馬鹿にしたりする。しかしアレクセイは屈辱に耐えて、この家に暮らして善行にはげみ、死ぬ直前になって、ようやく名を明かす。

    このアレクセイ伝説は「ラザロと金持」のたとえ話と同様、中世に巡礼歌などの形で広く伝えられ、ロシアでも民衆の間に非常な人気を博していた。

    ヴェトロフスカヤ女史は、このアレクセイ伝説とアリョーシャ・カラマーゾフの「一代記」との間に内的な関連を指摘しており、注目される。ロシアの巡礼歌のあるヴァリエーションでは、アレクセイがたいへん若いときに(十七歳で)エリザヴェータは、作中のアリョーシャの恋人「リーザ」(フランス語ふうの愛称は「リーズ」の正式の名前である。ヴェトロフスカヤは、父親フョードルの顔立ちが「頽廃期の古代ローマ貴族の典型的顔立ち」で、「正真正銘のローマ鼻」が自慢だったことも、この伝説との内的関連を示しているのではないかと論じている。

    きっと回向をして進ぜるでな

    亡くなったアレクセイ坊やに対して。

    アンナ夫人注――「夫は1878年オプチナ修道院を訪れ、そこでアンヴローシイ長老と会って、最近亡くなった男の子のことを思って一家が嘆き悲しんでいることを話してきたが、この言葉は修道院から帰って後、夫が私に伝えてくれたものである」

    回向(えこう)とは、

    ①自己が行なった修行や造塔・布施などの善行の結果を,自己や他者の成仏や利益 (りやく)などのために差し向けること。
    ②死者の成仏を祈って供養を行うこと。「親戚一同で―する」
    ③浄土真宗で,阿弥陀仏の本願の力によって浄土に往生し,またこの世に戻って人々を救済すること。前者を往相廻向,後者を還相 (げんそう)廻向という。
    ④寺へ寄進すること。
    ⑤回向文 (えこうもん)を唱えること。また,その文。

    「大辞林4.0」より。

    ワーセンカ

    三番目の「下士官の未亡人」が訴える、シベリアのイルクーツクに行ってから便りが途絶えた息子の名前。

    アンナ夫人注――「わが家の乳母プロホロヴナにワーセンカという息子がいて、シベリアに行っていた、というより、粒径されていた。一年間もその息子から頼りがないので、乳母はドストエフスキーに、息子の供養をしてみたらどうだろうかと相談をもちかけた。ドストエフスキーは乳母に供養を思いとどまらせ、そのうちにきっと手紙がくるからと説得した。事実、一、二週間で手紙がきた」

    聖母さま

    息子ワーセンカの行方を案じる未亡人に対し、ゾシマ長老は「聖母さまにお祈りしなさい」と答える。

    ロシア正教会、とくにロシアの民衆の間では、聖母マリヤがその憐れみと慈悲心の大きさで特別の崇拝と敬愛の対象になってきた。このことはイワンが語る物語詩『聖母の責苦めぐり』伝説で神の怒りにふれて地獄に落ちた罪人たちのために聖母が赦しを乞う場面などからもよく知られる。

    六四ページ上段の注に出てくる「神の人アレクセイ」伝説をうたったロシアの巡礼歌にも、聖母マリヤのことは頻出しており、あるヴァリエーションでは、荒野で神に祈るアレクセイのもとに聖母マリヤが現われ」、「神に祈るのはもうよいから、もう家に帰りなさい」とすすめる設定になっている。

    誰かにこっそり教えたい 👂
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