『カラマーゾフの兄弟』 第1部 第6編 『ロシアの修道僧』 より
『ゾシマ長老とその客たち』より
臨終のゾシマ長老は、最後の力を振り絞って、信者らに神の義を解く。
このパートは、ドストエフスキーから全人類への遺書のような内容で、キリスト教的人道主義の心髄が込められている。
ゾシマ長老の生い立ちと説教だけで、これだけのページを割り当てる馬力も凄いが、どうしても、これだけは書かずにいなかったのだな、とつくづく。
また副題も長い。
『神のもと永遠の生に就かれたる修道苦行司祭ゾシマ長老の一代記より、長老みずからの言葉をもとにアレクセイ・フョードロヴィチ・カラマーゾフこれを編む』
アリョーシャが編纂したとされるゾシマ長老の伝記は、
(a) ゾシマ長老の年若き兄
早世した兄の回想。悲運にもかかわらず、生と世界の美しさを愛でながら息を引き取る。
(b) ゾシマ長老の生涯における聖書の意義
陸軍幼年学校に入学したゾシマは、『新旧訳聖書から取った104の聖なる物語』の中でも神に試されたヨブ記に心を引かれ、神の義へと道を進めていく。
江川卓氏の注釈によると、これは実際にドストエフスキーが所持した愛読書で、アンナ夫人によると「夫はこの本で読み書きを習った。これはドストエフスキー博物館に保管されている」
(c) 俗界にありしゾシマ長老の青年時代の思い出。決闘
成長したゾシマは、女池の令嬢に心をひかれる。ところが、令嬢にはすでに若い地主の婚約者があり、嫉妬心からその人を侮辱してしまう。
この一件は決闘へと発展するが、直前で、ゾシマは改心し、「きのうは ぼくはまだ馬鹿だったのです、でも、きょうはすこし利口になったようです」と一同に謝罪して、赦しと愛を知る。
印象的な台詞は次の通り。
昨今の言論も上記の通り。「別の道」というのは、神の義から外れた、虚栄や、利己や、虚無主義など。
(d) 謎めいた訪問者
そんなゾシマの元に、町の名士が告白の為にやって来る。彼はよき家庭人でもあり、周囲の尊敬を一身に集めていたが、恋する女性を殺害した過去があった。その為に、十四年間も良心の呵責に苦しむが、ゾシマに話すことで、告白の勇気を得る。彼は力尽きるように死の床に就き、「ぼくの神さまは、ぼくの心中の悪魔を退治してくださった」という言葉を残して、静かに息を引き取る。
天国は わたしたち一人ひとりの中に秘められているのですからね。現にそれはいまわたしの中にもかくされていて、もしわたしがその気になれば、あすにも実際にそれがわたしに訪れて、もう生涯消えることはないはずです。
≪中略≫
世界を新しく改造するためには、人間自身が心理的に方向転換しなければならないんです。自分がだれに対しても兄弟のようにならないかぎりは、兄弟愛の時代はやって来ません。人間はどんな科学、どんな利益をもってしても、自分たちの財産や権利をなんのわだかまりもなく分け合うことはできないのです。だれもが自分の分け前は少ないと思い、たえず不平をこぼし、他をうらやみ、お互い殺し合うことになるのです。それがいつ実現するのかと、あなたはおたずねですね。実現することは間違いありませんが、その前にまず人間の孤立の時代が終わらなければなりませんね。
これはもう、現代でも繰り返し言われていることです。天国=幸福は、各自の心の中にある、と。
19世紀、あるいはそれ以前から、結局そこに辿り着くのは興味深い。
現にいたるところに支配しているような孤立ですよ。今世紀になって、それはとりわけひどくなりましたが、それはまだ終わっていないし、終わるべき時期も来ていないのです。
なぜなら、いまはだれもが自分の個をできるかぎり他から切り離し、自分自身の中で生の充実を味わおうとしています。けれど彼らの懸命の努力にもかかわらず、その結果は生の充実どころか、まったくの自殺行為になっています。なぜなら彼らは自身の存在を完全に位置づける代わりに、完全な孤立に陥っているからです。
なぜなら今世紀においては万人が個別に分裂して、だれもが自分の穴に閉じこもろうとし、だれもが他人から遠ざかって、自分の身も、自分の所有物も他から隠そうとし、あげくは自分が他の人々に背を向けられ、逆に自分も他の人々に背を向ける結果になっているからです。
一人でこっそり富を蓄えては、自分はもうこんなに強くなった、こんなに安定したと考えていますが、しかし、富を蓄えれば蓄えるほど自殺的な無力さにはまり込んでいることには、愚かにも気がつかないでいるのです。というのは、自分一人の力だけを恃むことに慣れ、子としての自分を全体から切り離し、他人の助力も、世の中の人間も、人類全体も信じないように自分の魂をならして、ただひたすら自分の金や、ようやく手に入れた自分の権利を失いはすまいかと、そればかりにおびえているからです。
今日いたるところで人間の知性は、個の真の安定は、個々人の孤立した努力にあるのではなく、人間全体の一体性の中にこそあるということを、一笑に付して顧みようともしなくなっています。しかしこの恐ろしい孤立状態にもかならず終わりがやって来て、お互いが離ればなれになってしまったのがどんなに不自然なことであるかを、みなが一時に会得するようになるでしょう。
時代の風潮そのものがそういうふうになって、よくもあれほど長いこと闇の中に座して、光明を見ないでいられたものだと、われながら驚く日が来るに相違ありません。そのときこそ人の子のしるしが天上に翻るのです……しかしそのときまではやはり理想の旗を大事にかかげていかなければならないし、ときにはたった一人であっても、完全と範を示して、人間の魂を孤立状態から同胞愛的な結合の偉業へと導かねばならないのです。たとえそれが聖痴愚のふるまいと見られようとも、これこそ偉大な思想を絶やさない道なのです……」
これも現代の預言書。
むしろこの傾向は強くなっているかもしれない。
「人類全体も信じないように自分の魂をならして」という表現が秀逸。
「個の真の安定は、個々人の孤立した努力にあるのではなく、人間全体の一体性の中にこそあるということを、一笑に付して顧みようともしなくなっています」
人は労働を通して社会的存在になる カール・マルクスの哲学でも繰り返し書いているが、人間は社会的存在であり、社会との関わりなくして、個の充実や安定は有り得ない。それは決して滅私奉公ではなく、労働や教育など有意義な社会活動を通して周囲の信頼を得、自尊心を育むプロセスでもある。
実際、社会から完全に孤立した人が、心の安定を得て、充実した人生を生きた試しはない。
個の自立を気取る人でさえ、周囲の承認に依存しており、誰にも見向きもされないとなれば、個が一番などと言っておれなくなるだろう。
人間全体の一体性とは、「私はこう思う」ではなく、他との関連の中に自身の存在価値や立ち位置を見出すものである。
その視点を無くして、私が、私が、と主張しても、誰にも聞き入れられないし、何をどう見せびらかしても、真の尊敬は得られないだろう。
今の時代、大事なことを真面目に語っても一笑に付されるだけで、心折れることもあるかもしれない。だが、偉大な思想を絶やさない為にも、語り継ぐことが大事とドストエフスキーは未来の人類に訴えている。たとえ聖痴愚=古くさいことを言っていると馬鹿にされても。
江川卓氏の注釈によると、
人の子のしるし = マタイ福音書第二十四章三十節に「天の雲に乗って」人の子、すなわちキリストが再来することが予言されている。
最後に印象的な台詞を。この箇所は、『罪と罰』のラスコーリニコフとソーニャの会話、「自分の罪を告白しなさい」と促す場面を彷彿とします。
「さあ、運命を決めてください!」と彼はまた叫ぶ。(殺人者の名士)
「行って、告白するのです」私はささやくような声で言った。私はもう声も出ないほどだったが、それでもきっぱりとこうささやいた。そして、テーブルの上からロシア語訳の福音書を取り上げて、彼に『ヨハネの福音書』の第十二章二十四節を開いて見せた。
「まことに、まことに汝らに告ぐ、一粒の麦、もし地に落ちて死なずば、一粒のままにてあらん、されどもし死なば、多くの実をもたらすべし」
「真理ですね」と彼は行ったが、その顔には痛ましげな薄笑いが浮かんだ。
「まったくこの書物では 実に恐ろしい言葉を見かけますな、それを他人の鼻先に突きつけるのは実にたやすいことです。それにしてもこういう言葉を書いたのは誰でしょう。まさか人間じゃないでしょうな?」
「聖霊が書いたのです」と私は言う。
”それにしてもこういう言葉を書いたのは誰でしょう”という一文がいい。
わかりきったこと……極めて現実的な見方をすれば、人間に違いないのだけれども、「聖霊が書いたのです」と。
人間の中にも、絶対的な善性があり、それを聖霊というなら、確かにその通りかもしれない。
以上、361P~398Pまで。