イエスの沈黙とアリョーシャの抱擁
神はなぜ沈黙を貫いておられるのか?!
イワンがアリョーシャに語って聞かせる『大審問官』は、「カラマーゾフの兄弟」の中でも特に難解で、それ一つが宗教短編に匹敵するほどのボリュームです。
大審問官とイエス・キリストの対論を通して(実際には、イエスは大審問官の問いにひと言も応えないのですが)、肯定と否定(ProとContra)が激突するスリリングな物語でもあります。
なぜ、このパートが重視されるかといえば、現実社会の葛藤が如実に描かれているからでしょう。
イエス・キリストの教えは、まったくもって正論で、その通りに実践されれば、この世はパラダイスです。
皆が分かち合い、愛し合って、争いや貧しさとは無縁の世界です。(昔、我々が暮らしていた、エデンの園そのもの)
しかしながら、現実社会はそう単純ではありません。
『人はパンのみにて生くるものにあらず*』といっても、現実にパンがなければ人間は死んでしまいますし、パンを買うにはお金も要ります。お金を得るには労働が不可欠ですし、長く働き続けるには、安定した仕事が必要です。どれか一つでも失えば、たちまち貧困層に転落し、住まいどころか、パンを買うことすらできません。三つ星レストランの裏通りでは、ホームレスがゴミ箱をあさる、それが現実社会です。どれほど夢があっても、優しい心の持主でも、飢えて死んでしまえば意味がありません。
かといって、高級パンに囲まれても、人は幸せにはなれません。人が幸福に感じるには、温かい家族、素敵なパートナー、夢や生き甲斐が不可欠だからです。
そんな複雑な社会において、『人はパンのみにて生くるものにあらず』と言われても、「じゃあ、どうすればいいの??」というのが現代人の率直な感想ではないでしょうか。
どんな人も、精神的充足と物質的満足を同時に追いかけることは不可能だし、多少のズルはしないと成り立たないのが世の中です。
それが適度に抑えられているうちはいいですが、キリストの縛りがなくなり、自由になればなるほど、人は傲慢になり、暴走を始めます。
強い者や優れた者が富を独り占めし、そうでない者は虐げられ、正直者がバカを見る世界を目の当たりにすれば、誰だって、夢見る心も、信じる気持ちもなくしてしまいますね。
「ぼくは神を認めないんじゃない、アリョーシャ。ぼくには神の創った世界、いわゆる神の世界ってやつが認められないんだ。ぼくはただ入場券をつつしんで神さまにお返しするだけなんだ」というイワンの言葉は、決して無神論者ではなく、現代人の失望そのものです。
(参考→ 【33】神さまに天国への入場券をお返しする ~子供たちの涙の上に幸福を築けるか?)
それに対して、神やイエス・キリストは、どう答えてくれるのか。
残念ながら、何も答えてくれません。
遠藤周作の『沈黙』がそうであるように、『大審問官』のイエスもずっと黙ったままです。
人間である大審問官が一人でカッカと怒りをぶつけて、何だか馬鹿みたいです。
それは多くの人の祈りも同様ではないでしょうか。
マーティン・スコセッシ監督の映画『沈黙』では、キリスト教徒がこれほど苛酷な目に遭っているのに、神はなぜ沈黙を貫いておられるのかと、神父が神に問いかける場面がある
アリョーシャと神の愛
一人でわめき立てる『大審問官』に対し、イエスは黙って唇に接吻を、
大審問官を通して現実社会に対する恨み辛みを並べるイワンに対し、アリョーシャは「大審問官のエンディング」を真似て接吻をします。
イワンは「盗作だぞ!」と言いながらも、「もしほんとうにぼくに粘っこい若葉を愛するだけの力があるとしても、おまえを思い出すことによってだけ、ぼくはその愛を持ちつづけていけるんだ。おまえがこの世界のどこかにいると思うだけで、ぼくは生きて行く気力をまだなくさずにすむんだ」と浮き浮きした口調で言います。この「おまえ」が何を意味しているかは、一目瞭然ですね。つまり、神やイエス・キリストとはそういう存在です。
この地上が「うまく分配できない」世界であり、互いの利害や欲望のために、永久に救われないことも分かっている。
でも、そうした弱い一面もひっくるめて、神も、アリョーシャも、イワンを愛します。
そして、それ以外に救いがないことは、当のイワンも無意識に認めているのではないでしょうか。
愛と否定は両立しない
ところで、大審問官の恨み言を聞かされたアリョーシャは、「兄さんの審問官は神を信じていない、それが秘密のすべてですよ!」と指摘します。
「心と頭にそんな地獄を抱いて、そんなことができるものでしょうか? いいえ、兄さんはきっとその連中の仲間に入りに行くにきまっている……もしそうじゃなければ、自殺するほかありませんよ、堪えきれずにね!」と精神的破滅まで予言しています。
(ここでいう群れとは、悪魔のこと)
そして、その通り、スメルジャコフによるフョードル殺しの後、父を見捨てて旅立ったことがイワンの良心の咎となり、しまいには悪魔の幻影に悩まされ、正気を失ってしまいます。
つまり「人類への愛という病を吹っ切れなかった善心」と、神などないというニヒリズムは、一つの心の中で共存しえないということ。
愛しながら、否定の気持ちが両立するはずがありません。
そんな精神的破滅に対し、イワンは、「どんなことにでも堪えぬける力があるじゃないか! カラマーゾフ的な低俗の力だよ」とイワンは答えます。『カラマーゾフ的』とは、ドミートリイの告白 ~3000ルーブリをめぐるカチェリーナの愛憎とフョードルの金銭問題でも言及しているように、地の底から湧き上がるような欲望と情熱のエナジーです。それが良い方に働けば、創造、友愛、協調など、プラスのものを生み出しますが、悪い方に傾けば、フョードルのように、強欲、淫蕩、破壊に走ります。
アリョーシャも、「それは放蕩に身を沈めて、堕落の中で魂を圧殺することですね」と指摘しているように、イワンは良心の苦しみから逃れるために、カラマーゾフ的な陰の力に委ねることを仄めかしているわけですね。
それに対して、アリョーシャは、「じゃあ、粘っこい若葉は! 大事な墓所は、青い空は、愛する女性は! いったい兄さんはどうやって生きていくんです。何によってそれらのものを愛していくんです?」とイワンに詰め寄ります。
すると、イワンは、「俺はね、ここを去るにあたって、世界じゅうでせめてお前くらいは味方かと思っていたんだよ」と≪思いがけぬ感情をこめて≫イワンがつぶやきます。
「だが、今こうして見ていると、お前の心の中にも俺の入り込む場所はなさそうだな、隠遁者の坊や、≪すべては許される≫という公式を俺は否定しない。だからどうだと言うんだね、そのためにお前は俺を否定するのか、そうなのかい、そうだろう?」
それに対して、アリョーシャは立ちあがり、兄に歩みよると、無言のままそっと兄の唇にキスするわけです。
なぜなら、兄を愛しているから。
悩むイワンも、毒づくイワンも、イワンという兄に変わりないから。
それ以上の答えはないですね。
イエスが黙って大審問官の唇に接吻する所以です。
そして、このキスは、生涯イワンの心を支え、たとえ悪魔の誘惑にかられても、イワンを正しい方向に引き戻します。
「もし本当に俺が粘っこい若葉に心ひかれることがあるとしたら、俺はお前のことだけを思いだしながら、若葉を愛するだろうよ。お前がどこかにいるということだけで俺には十分だし、生きてゆくことにもまだ飽きずにいられるだろう。お前だってそれで十分だろう? なんだったら、愛情の告白ととってくれたっていい。 さ、それじゃお前は→、俺は左へ行こう。これでもういいんだ、そうだろう、十分だよ、つまり、もし明日俺がここを発たずに(きっと発つだろうけどな)、またどこかで出会うことがあるとしても、こういう話題ではもう一言も話さないでほしい。 ≪中略≫ その代り、俺の方からも一つ約束しておくよ。三十近くなって俺が≪杯を床にたたきつけ≫たくなったら、お前がどこにいようと、もう一度お前と話すために返って来る」
ちなみに、江川訳では、「もしほんとうにぼくに粘っこい若葉を愛するだけの力があるとしても、おまえを思い出すことによってだけ、ぼくはその愛を持ちつづけていけるんだ。おまえがこの世界のどこかにいると思うだけで、ぼくは生きて行く気力をまだなくさずにすむんだ。」となっていて、イワンがどれほどアリョーシャを恃みにしているか、ひしひしと伝わってきます。
『杯を床にたたきつけ』というのは、『人生』あるいは『良心』のことです。
『ゲッセマネの祈り』で、イエスは「父(神を指す)よ、できることならこの杯(苦難と死を意味する)を過ぎ去らせてください。でも、わたしの望みどおりではなく、お望みどおりになさいますように」と祈りを捧げます。
イエスにとって『杯』は苦難と死の象徴ですが、イワンにとっては、「苦難に打ち勝つこと」、若葉のように開けていく未来そのものです。
でも、苦難に打ち負かされ、人生を投げ捨てたくなった時でも、アリョーシャが世界のどこかにいると思うだけで、生きていける――という意味です。
これほど愛と信頼が感じられる言葉もなく、ある意味、アリョーシャ(神)の完全勝利ではないでしょうか。
スメルジャコフと悪魔のささやき
ところが、イワンは、スメルジャコフにばったり出くわし、フョードルとグルーシェンカの秘密の合図、フョードルが首に提げている3000ルーブリのことなどを聞かされます。
スメルジャコフは、フョードルとドミートリイの間に悲劇が起きると示唆し、「もし私があなたの立場でしたら、こんなことにかかり合いになるより……何もかもほうり出して、さっさと行ってしまうところです」とささやきます。モスクワに出かけて、父親を見殺しにしろ、という訳です。
アリョーシャと別れた時点では、「モスクワに発つ」ことは明確に定めていませんでしたが、スメルジャコフとの会話でイワンの心に疑念と嫌悪が芽生え、父親を見捨てる結果になりました。
そして、そのことが後々までイワンを苦しめることを考えると、スメルジャコフこそ本物の悪魔と言わざるを得ません。
ちなみに、悪魔(Devil)とは「誘惑するもの」「否定するもの」。
邪悪を表す Evil とはまた別です。
悪魔は人を堕落させれば、させるほど、地位が向上する地底の霊なので、スメルジャコフにとっては、高貴なカラマーゾフの兄弟を堕落させることが勲章なんですね。
神の御心のために苦しむ
カラマーゾフ三兄弟の中で、誰が一番、神の御心の為に苦しんだかといえば、イワンでしょう。
イワンはまた、我々、一般人の代弁者でもあります。
現実社会に対する彼の嘆きは我々の嘆き、神への疑問は、我々が日頃感じていることです。
パンを独り占めして、楽しく暮らせる人はいいですが、そこまで卑しくなれないのが、我々、庶民の良心というものでしょう。
その苦悩を、いつ、誰が、解決してくれるのかは分かりません。
しかし、我々の側には、いつもイエスさまがいらっしゃいます。
神はあなたを見守り、いつか善行に報いて下さいます。
どれほどの苦難を経験しようと、天に召される時は、イエスさまのお側で、永遠の安らぎに包まれます・・・
というのがキリスト教で、「神もない、不死もない」と屁理屈をごねたところで、その絶対的な愛は変わらないし、この世の中を生きていくにはアリョーシャのような人間が必要です。
『【19】 「神はあるのか」「いいえ、ありません」「イワンのほうが正しいらしいな」』や『【11】 神がなければすべてが許される? イワンの苦悩とゾシマ長老の励まし』などで、激論を戦わせたイワンですが、その答えは、大審問官のパートで出ているのではないでしょうか。
第Ⅴ編 ProとContra 兄弟相識る / 反逆 / 大審問官 (Googleドライブ)
動画で確認
映画『カラマーゾフの兄弟』(1968年)より。1分クリップ。
料亭≪みやこ≫の前で別れるイワンとアリョーシャ。原作では、アリョーシャはイワンの唇に接吻しますが、映画では頬チューです。
注釈
人はパンのみにて生くるものにあらず
洗礼を受けたばかりのイエスに悪魔が三つの問いをする。『荒野の誘惑』にちなむ。
さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」(マタイ4:1〜4)
カラマーゾフ的な力
『カラマーゾフ的』の意味は下記の記事もご参照下さい
● 『カラマーゾフ的好色とは』(ラキーチンは裏切り者のユダ? 嫉妬と野心が結びつく時)
● これがカラマーゾフ ~好色の血筋とは(ドミートリイの告白 ~3000ルーブリをめぐるカチェリーナの愛憎とフョードルの金銭問題)
● 「カラマーゾフ」の姓が意味するもの(イリューシャと少年たち ~未来の12人の使徒とカラマーゾフ姓の由来)
記:2018/06/22
アイキャッチ画像 : The Grand Inquisitor by bobangeba