江川卓『カラマーゾフの兄弟』は滋賀県立図書館にあります詳細を見る

    【32-2】 論理以前に生を愛する「ぼくは生きたい、論理に逆らってでも生きたい」

    大審問官 料亭みやこで語らうイワンとアリョーシャ
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    ぼくは生きたい、論理に逆らってでも生きたい

    章の概要

    父フョードルの悲劇を予感したアリョーシャは、長男ドミートリイと話をするために、姿を探し回りますが、どこにも見当たりません。偶然、スメルジャコフと出くわしたアリョーシャは、「ドミートリイとイワンが料亭≪みやこ≫で一緒に居る」と聞き、そこに向かいます。

    料亭≪みやこ≫には、イワンだけが居て、ドミートリイの姿はありませんでした。

    イワンは、アリョーシャを快く迎え、兄弟らしく食事を楽しみます。

    イワンは、カチェリーナのことはすっぱり忘れ、すがすがしい気持ちでモスクワに旅立つところでした。その心境を、イワンは「若葉」に喩え、「ぼくは生きたい、論理に逆らってでも」と未来への抱負を語ります。

    そして、旅立つ前に、イワンがアリョーシャとじっくり話したいと願ったのは、「神はあるのか、ないのか」でした。

    『第Ⅴ編 ProとContra / 第3章 兄弟相識(し)る』では、イワンとアリョーシャの兄弟らしい情愛と、イワンの純粋な心根、大抒情詩『大審問官』に連なる宗教談義の前段階が描かれています。

    ● 【27】カチェリーナとうわずりの愛 ~気位の高い女とイワンの別れ
    心ではイワンを愛しながらも、自分の意地と誇りからドミートリイと結婚しようとしているカチェリーナの本性を知ったイワンが別れを告げる場面。

    動画で確認

    料亭≪みやこ≫って、どんな所? 想像もつかない方に朗報です。

    映画『カラマーゾフの兄弟』(1968年)より、1分動画。

    1968年の映画なので、19世紀後半のロシアの料亭はもっと質素と思いますが、庶民でも金銭的に余裕のある層がゆっくり食事を楽しむ場所なのは確かでしょう。原作の雰囲気をよく表していると思います。

    もっとも、イワンがいたのは個室ではなかった。それは窓ぎわを衝立で仕切っただけの席にすぎなかったが、それでも衝立のかげに坐っていると、ほかの人からは見えないようになっていた。この部屋は入ってすぐとっつきの部屋で、横手の壁ぎわがビュッフェになっていた。ボーイたちがひっきりなしに部屋の中を往(ゆ)き来していた。客は、退役軍人らしい老人がただ一人、隅のほうでお茶を飲んでいるだけだった。その代り料亭のほかの部屋部屋からは、こういう料亭につきものの騒音が聞え、ボーイを呼ぶ声、ビールの栓を抜く音、ビリヤードの玉の触れ合う音などがひびき、オルガンががなり立てていた。アリョーシャは、イワンがこの料亭にはほとんど一度も来たことがなく、元来が料亭のたぐいを好んでいないことを知っていた。してみると、ドミートリイとの約束で、ここで落ち合うためだけにわざわざ足を運んだものらしい。けれど、そのドミートリイの姿は見えなかった。

    ポーランドには今でもこういう作りの店が残っています。Karczma(カルチュマ)と言います。

    ポットに入ってるのは、多分、魚汁(ウハー)ですね。

    料亭みやこで食事する人々

    料亭≪みやこ≫

    「個室ではなく、窓ぎわを衝立で仕切っただけの席」が忠実に再現されています。

    料亭≪みやこ≫で話すイワンとアリョーシャ

    料亭≪みやこ≫での場面を見たい方は、YouTubeからどうぞ(67分より)
    https://youtu.be/z_U-juAzXik?t=4063

    ちなみに、原卓也訳(新潮文庫)では『都』と漢字表記になっています。

    愛する前に、遠くから観察する

    アリョーシャが席に着くと、イワンは兄らしく食事をすすめ、子供時代の思い出を語ります。

    「魚汁(ウハー)か何か注文しようか。おまえだってお茶だけで生きてるわけじゃないだろう」アリョーシャを呼び込んだことがうれしくてならないらしく、イワンは大声で言った。そういう彼はもう食事をすませて、お茶を飲んでいるところだった。

    「魚汁(ウハー)をもらいます、そのあとでお茶も、お腹がぺこぺこなんです」アリョーシャは快活に答えた。

    桜んぼのジャムはどうだい? この店には置いてあるぜ。覚えてるかな、おまえ、小さい時分、ポレーノフのとこにいたころ、桜んぼのジャムが大好きだったじゃないか」「よく覚えてますね。じゃ、桜んぼのジャムももらいます、いまでも好きですよ」

    イワンはボーイを呼んで、魚汁(ウハー)とお茶とジャムを注文した。

    「ぼくはなんでも覚えてるよ、アリョーシャ、おまえが十一の年まではね、ぼくは十五だった。十五と十一、この年の差の兄弟というのは、どうしても友だちになれないものなんだな。ぼくは、おまえが好きだったかどうかも覚えていないくらいさ。モスクワへ出てから何年かは、おまえのことなんか思い出しもしなかった。それから、おまえがモスクワに出て来てからも、確か、一度だけどこかで会ったきりだった。それでいま、ここへ来てからだって、もう四カ月目になるけれど、まだ落ちついて話したこともない。ぼくはあす発つんだけど、いまもここに坐って、なんとかおなごりにおまえに会いたいなあ、と思っていたんだ、するとそこへおまえが通りかかるじゃないか」

    訳者の江川卓氏は、「桜んぼのジャム」に大変感銘を受けられたようで、その感動を下記のように述べられています。

    この会話は、『カラマーゾフの兄弟』でももっとも抒情的な一説だと思う。ここには兄弟の愛情がなんのけれんもなく、きわめて純粋に、みごとに表現されている。

    詳しくは、イワンとアリョーシャの兄弟愛 江川卓の『謎とき カラマーゾフの兄弟』より ~桜んぼのジャムのエピソードを参照して下さい。

    イワンは、アリョーシャに会いたかった気持ちを素直に打ち明け、その理由を次のように述べます。

    「なんとか一度おまえという人間をとっくりと知って、ぼくのことも知ってもらいたかったんだ。そのうえで別れるのさ。

    ぼくの考えでは、別れのすぐ前に知り合うのがいちばんいいんだよ。ぼくはこの三ヶ月の間、おまえがどんな目でぼくを見ているかに気がついていた、おまえの目には何かこう絶えざる期待のようなものがあってさ、それがぼくには耐えられないものだから、それでおまえにも近づかなかったんだよ。

    ところが、そのうちにぼくはおまえを尊敬するようになった、こいつ、しっかりと足を地につけているなってね。断わっておくけど、ぼくはいま笑っちゃいるが、言っていることはまじめなんだぜ。だっておまえはしっかりと足を地につけてるじゃないか、そうだろう? 

    ぼくはそういうしっかりした人間が好きなんだよ、たとえその立場がどうであろうと、またその人間がおまえみたいなほんの小僧っ子であろうとね。

    で、おまえの期待するような眼差も、最後にはすこしもいやでなくなってね、それどころか、逆に好きになってしまったんだよ、おまえのその期待にあふれた眼差がさ……」

    あえて「近づかない」というところに、イワンの繊細な性格が表れています。「人間は近づきすぎると愛せない」の名言だけありますね。

    イワンはアリョーシャが好きだから、失望したくない。

    その人間性がはっきり分かるまで、距離を置いて観察し、確信が持てたら、愛する。

    それがイワンの愛し方です。

    ところが、カチェリーナに対してはそうではなかった。本当に一目惚れだったのでしょう。訳もわからず夢中になって、後々に本性がわかって傷ついた。そのショックゆえの、旅立ちです。

    その心情を、イワンは次のように述べます。

    「まさかおまえは、ぼくがドミートリイに嫉(しっ)妬(と)しているとか、この三ヶ月間、あの美人のカチェリーナを横取りしようとしていたとか考えているわけじゃあるまいな。ええ、ばかばかしい、ぼくには自分の仕事があったんだよ。その仕事が終ったから発つんだ。仕事はさっき終ったんだ、おまえも見ていたとおりさ」

    「すると、さっきカチェリーナさんのところで?」

    「そう、あそこに行って、それで、きっぱり手を切ってきたのさ。それがどうだって言うんだ? このぼくがドミートリイになんの用事がある? ドミートリイはこのさい関係ないよ。ぼくはカチェリーナさんに自分の用があっただけなんだ。 ≪中略≫

    アリョーシャ、いまぼくがどんなにさばさばした気持でいるかわかってくれたらなあ! いまもここで食事をしながら、いいかい、ぼくの自由の最初の一時間のために、シャンパンを注文して祝杯をあげようかと思ったくらいなんだ。ちえっ、半年近くもずるずる引っぱられていたのが、一挙に、一挙にけりがついたんだものな。ついきのうまで、は、その気になればこうも簡単にけりがつけられるだなん夢にも思わなかったよ!」

    好きになる時は一気に好きになるけど、「これまで」と見切ったら、すぱっと断ってしまう。これがイワンの潔さであり、悪く言えば、冷徹さですね。父フョードルが「イワンが怖い」と恐れる所以です。ドミートリイのような懐の深さもなければ、アリョーシャみたいな天使の優しさもなく、Yesか、Noか。二つに一つです。

    それはまた、現実の不条理に耐えられず、「天国への入場券をつつしんで神さまにお返しする」、イワンの潔癖さに繋がります。

    ぼくの若さがすべてに打ち勝つよ ~イワンの青年らしい心情

    そんなイワンに対して、アリョーシャは、「兄さんもやはり、ほかの二十三歳の青年とそっくり同じような青年だってことなんです、同じように若くて、若々しくって、元気溌(はつ)剌(らつ)とした男の子、そう、言ってみれば、まだ嘴(くちばし)の黄色い男の子だってことなんです!」と嬉しそうに語ります。

    いつもシニカルで、理屈っぽいイワンを見ていたら、偏屈屋の先入観を持ちますが、実像は、そこいらの青年と同じ、希望と向上心に満ちあふれた二十代の若者ということです。(作中ではとても23歳に見えませんが(^_^;

    そんなイワンは、普段とはうって変わって、明るい表情で未来の抱負を語ります。

    たとえおれが人生を信じられなくなり、愛する女性に幻滅し、事物の秩序に疑念がきざしたとしてもだ、いや、その反対に、いっさいは無秩序な、呪わしい、ひょっとしたら、悪夢そのものの混沌(カオス)だという確信をもつにいたって、人間の幻滅の無残な結果に震撼させられるとしてもだ――

    それでもおれは生きていきたい、いったんこの杯に口をつけたからには、それを底まで飲みほさぬかぎり、てこでも離れてやるものか! というわけなんだ。

    もっとも、三十になったら、たぶん、まだ底まで飲みほしていなくても、杯なんかほったらかして、どこへ行くことになるか……さっさとどこかへ行ってしまうだろうがね。

    しかしぼくが三十歳になるまでは、確信があるんだが、ぼくの若さがすべてに打ち勝つよ――

    どんな幻滅にも、人生に対するどんな嫌悪感にもね。ぼくは何度も自分にこう問いかけてみたんだ――

    いったいこの世界に、ぼくの内部のこの狂おしいばかりの、おそらくはあさましいまでの生への渇望をたたきつぶせるほどの絶望があるものだろうかってね、

    そして、どうやらそんな絶望はないらしいと結論を出してしまったんだ。といっても、やはりこれも三十歳までの話で、それを過ぎたらもうそんな意欲も起きなくなるだろうがね、

    「ぼくの若さがすべてに打ち勝つよ」

    なんと美しい言葉でしょう。

    青年の溢れるような希望をひと言で表したようです。

    「生きたい」というイワンの言葉は、ただ単に肉体が生きるだけでなく、自分という全存在が、精神的にも、社会的にも、世界と調和し、心の底から生き甲斐を感じるような、素晴らしい充実感を指します。こういう気持ちは、みな、同じですね。

    イワンは、そんな情熱を「カラマーゾフ的」と表現します。本作で、しばしば登場する、地の底から湧き上がるような渇望、情欲、エナジー……を表す言葉です。

    この生への渇望は、そこらの肺病やみのモラリストどもから、とりわけ詩人連中から、よくあさましいものと呼ばれている。

    ところでこいつは、この生への渇望というやつは、ある意味ではカラマーゾフ的な特質でね、だれがなんと言おうとこれは確かさ、こいつはおまえの中にもちゃんとひそんでいるよ、

    しかし、どうしてそれがあさましいんだい? 求心力ってやつは、このわれわれの惑星にはまだしこたま残っているんだよ、アリョーシャ。

    ぼくは生きたい、だから、論理に逆らってでも生きるんだ。

    たとえぼくが事物の秩序を信じていないとしても、ぼくには春に芽を出すあの粘っこい若葉が貴重なんだ、青い空が貴重なんだ、どうかすると、どこがどうというのじゃなく、ふっと好きになってしまう人間がいるね、そういう人間が貴重なんだ、それから、人間の成しとげるある種の偉業もぼくには貴重なんだよ、 ≪中略≫

    ぼくはね、アリョーシャ、ヨーロッパへ行きたいんだ、ここからまっすぐ行くつもりさ。そりゃぼくは、自分の行先が墓場にすぎないことは百も承知さ、しかしこれは何よりも、何よりも貴重な墓場なんだ、そうなんだよ! そこには貴重な人たちが眠っていて、その上に置かれている墓石はどれも、過ぎし日々、熱烈に生きた人生を語っている、おのれの偉業、おのれの真理、おのれの闘い、おのれの学問に対する情熱的な信念を語っているんだ、だとしたら、ぼくは、いまからもうわかっているんだが、きっと地べたに突っ伏して、この墓石に口づけ、一掬の涙をそそぐにちがいないよ、――そのくせ、そうした一切がもうとっくにただの墓場でしかなくなっているというぼくの心底からの信念は小ゆるぎもしないだろうがね。

    だから、ぼくが涙をそそぐのも絶望の気持からじゃない、自分の流した涙で幸福感を味わいたいからにすぎないんだ。自分の感情に酔いたいだけなんだ。ぼくが愛するのは粘っこい春の若葉なんだ、青空なんだ、そうなんだよ! ここには知性もなければ、論理もない、ただもう身内からつきあげてくるように、腹の底から愛するんだ、自分の若々しい青春の力を愛するんだ……

    世の中には、生そのものを否定する人もありますね。

    現代でも、SNSなどで、「生きても無駄」みたいなネガティブな事を延々とつぶやいている匿名アカもあります。

    イワン曰く、「そこらの肺病やみのモラリストどもから、とりわけ詩人連中から」と喩えるクラストは、現在も確実に存在し、一所懸命な人や青臭い理想を唱える人を嘲笑います。

    本作においては、スメルジャコフが似たような立ち位置でしょうか。

    彼らは、実際に生きて、経験する前に、「人生とは」「生きるとは」を定義し、屁理屈をこねるだけで、実際の人生に飛び込もうとしません。

    それが、イワンの言う「論理以前に」の『論理』です。

    現代風に喩えれば、「屁理屈を言う前に、生きろ」ですね。

    イワンも、もちろん理屈は好きですが、それ以上に、人生を肌で体験することを願っています。

    だから、「ぼくは生きたい、だから、論理に逆らってでも生きるんだ」という気持ちになります。

    たとえ、誰かが生きることを否定し、人生に意味など無いとうそぶいても、また自分でそう感じることがあったとしても、「ぼくは生きる」と願う。イワンらしい美しい言葉です。

    今は「墓場」でも、それは生まれ変わるために必要な空白と捉え、前に踏み出そうとしているイワンの気概が伝わってきます。

    「ヨーロッパに行きたい」と希望していますが、私も、イワンはロシアにいるより、西欧に行った方が幸せになれると思います。ロシアの田舎の土民的な世界に、イワンの繊細かつ高貴な精神は合いません。

    この世の人はだれしも、何よりもまず生を愛さなければいけない ~アョーシャの励まし

    兄のまばゆい希望を知って、アリョーシャは次のように励まします。

    「わかりすぎるくらいわかりますよ、イワン。身内からつきあげてくるように、腹の底から愛したい――実にすばらしい言葉じゃないですか。兄さんがそんなに生きたいと思っているなんて、すごくうれしいですよ」アリョーシャも感動をこめて叫んだ。「ぼくは思うんです、この世の人はだれしも、何よりもまず生を愛さなければいけないって」「生の意味よりも生そのものを愛するのかい?」

    「絶対そうですよ、兄さんの言うとおり、論理以前に愛するんです、絶対に論理以前にです、そうなってはじめて、意味も会得できるんです。これはもうずっと前からぼくの頭に浮かんでいたことなんですよ。イワン、兄さんの仕事の半分はもう成就して、兄さんのものになりましたね、兄さんは生きることを愛しているんですもの。これからは残りの半分について努力しなければいいな、そうすれば兄さんは救われますよ」

    アリョーシャの言う「兄さんは救われますよ」は、ゾシマ長老がイワンの「神がなければ、すべてが許される」理論を知って、「なにとぞ神のお恵みで、まだ地上におられるうちに、あなたの心の苦しみの解決があなたを訪れ、神があなたの行路を祝福されますように」と励ます言葉に繋がります。
    (参考→ 神がなければすべてが許される? イワンの苦悩とゾシマ長老の励まし

    ゾシマ長老は、イワンの無神論(実際には無神論ではない)が、スメルジャコフのような冷笑系ではなく、現実の不条理に対する怒りと失望から来ていることを理解しています。ゆえに、イワンの高貴な知性がいつか内的な問題を解決するだろうと慰めています。

    その気持ちは、アリョーシャも同じ。

    アリョーシャの言う「救い」「死者たちをよみがえらせる」というのは、苦悩を突き抜けて、再び神を見いだすことでしょう。『罪と罰』の「ラザロの心臓」に似ています。一度、キリスト教的に死んだ者が、悟りを開いて、再び生命を得る奇跡です。

    「おまえは救う、救うと言うが、ぼくは、たぶん、まだ破滅したわけじゃないんだぜ! ところで、おまえの言うその残りの半分ってなんのことだい?」

    「兄さんの言うその死者たちをよみがえらせる仕事ですよ、もっとも、その死者たるや、まだ一度も死んでいないのかもしれませんがね。まあ、お茶を一杯もらいますよ。ぼくはうれしいんですよ、イワン、兄さんと話ができて」

    私は身内じゃないですが、ニコニコ顔で抱負を語るイワン兄さんを見ていると、こちらまで晴れ晴れとした気持ちになりますね。(カチェリーナのことも、ヤケクソではない)
    それゆえに、アリョーシャもすっかり打ち解け、神はあるのか、ないのか論争でも、忌憚なく意見できたのだでしょう。

    また、希望に満ちた兄の姿を知るからこそ、父を見捨てた良心の呵責から正気を失う兄の姿に痛ましさを感じるのです。

    松本零士の名言「鉄郎、生きろ。理屈は後から考えればいい」

    『カラマーゾフの兄弟』では、イワンが「論理に逆らってでも生きるんだ」と言い、アリョーシャが「絶対そうですよ。兄さんの言うとおり、論理以前に愛するんです」と励ましますが、それと同じことをゲーテも言ってるし、漫画家・松本零士も言っています。

    鉄郎、生きろ。理屈は後から考えればいい

    私がこの台詞を目にしたのは、90年代半ば、バブルが崩壊して、若者のメンタルも崩れ、にわかに癒しブームが到来した頃でした。

    「わたしは何ものか」「何のために生きているのか」といった『自分探し』は、不当解雇や賃金カットに喘ぎ、行く先々で不採用を突きつけられる若者にフィットし、それまで店頭を埋め尽くしていた遊び歩きの本に代わって、癒し系エッセイや自己啓発本が並ぶようになったのを今でも記憶しています。

    思えば、あれも90年代、イワンやアリョーシャが生きた時代も90年代でした。

    それから20年後、ロシアでは革命が起き、皇帝は退位、貴族制度をはじめ、社会構造も大きく変化したことを考えると、イワンも西洋から入ってくる科学万能主義や自由平等に翻弄され、何が真実か分からなくなったのでしょう。

    そんなイワンに対し、あれこれ考える以前に、まず生きようと呼びかけるアリョーシャの提言はまったく正しいし、生きるための理由が逆転して、「理由のために生きる」となったら、意味がありません。理由が破綻すれば、生きる意味もなくなるからです。

    ちなみに、ゲーテは『生き続けて行け。きっとわかって来るだろう』と語っています。

    いつの時代も、大事なことは、みな同じです。

    江川卓の注解

    この杯

    イワンの台詞、「人間の幻滅の無残な結果に震撼させられるとしてもだ――それでもおれは生きていきたい、いったんこの杯に口をつけたからには、それを底まで飲みほさぬかぎり」より。

    シラーの『歓喜の歌』にある「生命の杯」を指すものと考えられる。ドミートリイが引用していた詩の中に見える(一三六ページ上段)。ただ二九三ページ上段のイワンの論調にも見られるように、この「杯」という言葉には肉欲的なニュアンスもかかわっている。

    春に芽を出すあの粘っこい若葉

    イワンの台詞、「ぼくには春に芽を出すあの粘っこい若葉が貴重なんだ、青い空が貴重なんだ」より。

    プーシキンの詩『吹く風はまだ冷たくて』に出てくる言葉。かぐわしい蜜の庵から飛び立った蜜蜂が、花々にたずねてまわる。「ちぢれ髪の白樺に、粘っこい若葉が芽を吹いて、みざくらがかぐわしい花を咲かすのは、もう間近なのか」
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    第Ⅴ編 ProとContra 兄弟相識る / 反逆 / 大審問官 (Googleドライブ)
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