私は熱心なドストエフスキー読者でもなければ、研究者でもない。
「そろそろ読むか」と手に取った『カラマーゾフの兄弟(原卓也・訳)』が存外に面白かったので、思い付いたことをメモ書きしようと始めたのが 『カラマーゾフ随想(ドストエフスキー・マラソン』だ。ちなみに、現在のテキストは、原卓也から江川卓・訳に変わっている。特に深い意味はなく、単純に江川訳の方が読みやすかったからである。
これだけ歴史的な作品となれば、論評も事欠かず、私などが解説する必要もないのだが、意外と、人気があるので、このまま最後まで続けることにした。
とにかく量が膨大なので、完走するまで何ヶ月かかるか分からないが、江川訳の復刊を待望している方もあるので、リクエスト推進の意味でも、頑張って継続したい。
ところで、何故、今、カラマーゾフなのか。
それは、やはり『大審問官』に代表されるイワンの問いかけが、現代において、いっそう重みを増してきたからだろう。
イワンの問いかけとは、「人はパンのみに生きるにあらず。だが、現実に、パンが無ければ、人は死ぬしかない」。この矛盾である。
多くの庶民は、祈っても、善行を積んでも、どこにも救いはなく、現実的な話、収入が途絶えれば、ガスも電気も止められて、あとは死ぬだけだ。
幼い頃から教えられた、努力や善徳の価値はどこへ消えたのか?
逆に悪魔みたいな利己主義が幅を利かせ、多くの庶民を踏み台に、ぶくぶくと肥え太っていく。
本当に神が真理で、万能なら、こうした奴らこそ最初に裁かれ、飢えに苦しむべきではないか?
でも、現実はそうではない。
世界的に経済格差や教育格差が拡大中の21世紀において、イワンの問いかけは、もはや個人の生き方論にとどまらず、国際社会の緊要の課題となりつつある。
今ほど理想が虚しい時代もなく、私たちは、「それが間違い」と分かっても、我が子には処世術を教えなければならない。
信じるな、負けるな、許すな、与えるな、etc。
善徳で世間を渡れるなら、これほど容易いこともなく、私たちは現実社会で見聞きする矛盾を、どのように受け止め、次代に伝えればいいのか。
そういう意味で、現代の良心的な庶民は、イワンの兄弟で、答えを探している。
中には、イワンが「つつしんで天国への入場券をお返しした」ように、とうに理想は諦めて、白も黒と言いくるめる世界に身を置いている人もあるかもしれない。
そして、それを卑怯と断罪する権利のある人はひとりもない。
何故なら、それに代わる答えを、いまだ誰も見出せずにいるからだ。
それに対して、アリョーシャは一貫して神の子羊で、そうした迷いや矛盾もひっくるめて人と世界を愛することが救済になると信じている。
この世は、答えを得る場所ではなく、答えを探し求める、そのこと自体に生きる意味があるのだと。
だが、そのように諭されたところで、誰の救いになるだろう?
多くの人は、目に見えない神の愛よりも、一つでも多くのパン、多くの金貨を必要としているのに。
恐らく、『カラマーゾフの兄弟』の読者の多くは、善人であるアリョーシャよりも、天と地の狭間にいるイワンに共感するだろうし、「それが正しい答え」と頭では理解しても、結局、どこか救われない、もやもやした気持ちを抱きながら、本を閉じることになるだろう。
最後まで読めば、実に美しい話なのだが、それでも、それでも、現代は、アリョーシャ的な善心で乗り切るには、あまりに複雑、かつ不安定で、「読書」という行為さえ、金と時間を持て余した貴族の趣味と化しているからだ。
そんな時代の最中で、現代の読者は、この長大な作品から何を読み取ればいいのか。
現代の私たちは、ドストエフスキーさえ予想だにしなかった、格差と混沌の中に在る。
バーチャル僧侶が死者の為に読経し、教会のミサもオンラインでシェアされる時代、アリョーシャの言葉は誰の心に響くのか。
あるいは、そうした時代を超えた問いかけそのものが、本作の最大の主題なのかもしれない。