2023年8月25日 追記
江川卓の『カラマーゾフの兄弟』が収録されている「世界文学全集」(集英社)は、滋賀県立図書館(瀬田市)にあります。傷みもありますが、通読に問題ありません。興味のある方は、問い合わせてみて下さい。2023年8月現地で確認。
ホームページにアクセスすると、資料検索のフォームがあるので、「江川卓 カラマーゾフの兄弟」で検索してみて下さい。
集英社世界文学全集 45 & 46 ドストエフスキーが、この記事で紹介している書籍です。
「配架場所 一般資料室」は、資料室の書架に置かれていて、すぐに閲覧可能という意味です。
私も実際に海外文学のコーナーで確認しました。
滋賀県民以外は貸し出しカードが作れないので、資料室で読むことになりますが、どうしても読みたい方は、ぜひ。
ちなみに、集英社世界文学全集のラインナップは凄いです。すでに廃刊になった昭和の名訳が多数収録されています。
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江川卓『カラマーゾフの兄弟』(集英社 1979年)について
江川訳 絶版の経緯
『カラマーゾフの兄弟』を読破しようと、既存の邦訳を手に取ったものの、『大審問官』のあたりで躓き、途中で投げ出した人も少なくないと思います。
私の場合、原卓也・訳(新潮文庫)がそうでした。
原先生の訳文も決して悪くないのですが、註釈が乏しい上、「Kindle版」という媒体の問題もあり、大審問官の喩え話で訳が分からなくなりました。
(Kindle番は軽い読み物には便利ですが、構成の入り組んだ長編小説には向かないと思います。特に難解な海外文学)
そんな時、助けになったのが、ロシア文学者・江川卓氏の著書『謎とき『カラマーゾフの兄弟』 (新潮選書)』です。
そこに掲載されている江川氏自身の訳文に目を見張り、「これならいける!」と、購入を決めた次第です。
↓ カラマーゾフ読みにとって、なくてはならないテキスト
ところが、『カラマーゾフの兄弟 江川卓訳』で検索しても、どこにも見当たりません。
かろうじて、amazonストアの『世界文学全集〈45〉ドストエフスキー カラマーゾフの兄弟1(1979年) 』にヒットしましたが、まさかの絶版に茫然自失とした人は私だけではないはずです。
しかもマーケットプレイスの相場は、3000円から1万円台 (2018年)
2021年9月には、29,942円まで高騰。
現在も価格上昇を続け、ファンには手の届かない幻のコレクターズ・アイテムと化しています。
スクショは2018年、私が検索した時点の記録です。(2020年7月、マーケットプレイスからも消えました)
2018年の時点で、既に「3749円」の高値が付いており、どうしたものか、一瞬、迷ったのですが、有限会社シーズ スマイル書房 『世界文学全集〈19〉カラマーゾフの兄弟(全)』 の記事を見て、購入を決めました。
担当の佐藤さんが「謎解き」から引用されていた訳文が素晴らしかったからです。
ネットで江川卓訳の情報を出しているサイトも希有なので、本当に有り難かったです。
この場を借りて、改めて御礼致します。どうもありがとうございました
江川訳(集英社)の魅力
江川訳(集英社)の最大の魅力は、モダンで、読みやすい訳文に加えて、『注解』が非常に充実している点です。
原訳にも注釈はありますが、江川訳ほど詳細ではありません。
たとえば、フョードルがロシアの人民を評して言う、「ロシアの大地は白樺のおかげでしっかりしている(原訳)」みたいな表現も、ロシア文化に疎い読者が見れば、「白樺並木のおかげでロシアの大地が豊穣だ。森を刈り尽くしたら、土地が痩せてしまう」みたいなイメージしか湧かないでしょう。しかし、江川訳では、白樺の意味するところは、「白樺の枝は笞刑のさいによく使用された。そのため「白樺は知恵をつける」「馬鹿を創られた代りに、神は白樺も創られた」などの諺が生れた。「白樺の粥(かゆ)」という表現もあり、「白樺の粥に皮帯のバターを入れてご馳走する」といったどぎつい言い方がされる」と注解が添えられ、「懲罰によって、どうにかこうにか、秩序が保たれている」というニュアンスであることが分かります。つまり、ロシアの農民はバカだから、懲罰に使う白樺がなくなったら、国が崩壊すると言いたいわけですね。同時に、カラマーゾフ家が農民・庶民の上に立つ、アッパークラスである証しです。
他にも、「コニャックの入った戸棚」や「インクを塗りたくったイリューシャのズボン」の意味など、ありとあらゆるところに、作品を読み解くためのメタファが盛り込まれているのがよく分かります。
原訳も決して悪くはないのですが、「白樺」の喩えのように、注解を知らなければ、誤読してしまうような個所がたくさんあるんですね。
その点、江川訳は、「こんな細かな所まで」というくらい、注解が充実しており、ロシア雑学としても楽しめる内容になっています。
江川先生ご自身が、「読者の知りたいこと」「読者の分からないこと」を十分に理解した上での、ガイドブックだと思います。
なので、集英社版が復刊されないのは、初心者にとっても、上級者にとっても、大変な損失なんですね。
訳文に関しては、原先生は文学的、江川先生は読み物という印象です。
ゾシマ長老の台詞など、文章によっては、原先生の方が日本人の感性にフィットする個所もあります。
興味のある方は、下記のPDFを参照して下さい。特に難解、かつ作品の中核となるパートです。
いずれも縦書きPDFで、閲覧のみです。(PC・タブレット推奨)
● かくあらせたまえ、アーメン (第Ⅱ章 場ちがいな会合)
イワンが僧院の神父らと宗教論を戦わせる「キリスト教徒の社会主義者は無神論者の社会主義より恐ろしい」より
● どうしてこんな人間が生きているんだ! (第Ⅱ編 場ちがいな会合)
ドミートリイとフョードルの確執、「神がなければ、すべてが許される」で有名なイワンの理屈とゾシマ長老の励ましが描かれた名場面
● 兄弟相識る / 反逆 / 大審問官(第Ⅴ編 ProとContra)
料亭≪みやこ≫でイワンとアリョーシャが神について語り合う場面。ドストエフスキーの思想が炸裂する、本作の要のようなパートです。
訳文の比較 (江川卓 VS 原卓也)
なぜ江川訳は分かりやすいのか
いやな臭いのリザヴェータと聖痴愚(ユロージヴァヤ)でも言及していますが、原卓也と江川卓の決定的な違いは、「わかりやすさ」です。
原先生は文学優先で、原文重視のスタイルですが、江川先生は、「読み物」としてのカラマーゾフの魅力を前面に打ち出し、「分かりやすさ」を優先しているように感じます。
喩えるなら、芥川龍之介と山崎豊子の違い、ですね。
芥川龍之介は日本文学の表現者であり、その作品は「芸術」として受け止められます。心情、言動、世界観などが、言葉の芸術によって紡ぎ出されます。その解釈も様々で、読後も映画を鑑賞したような余韻が残ります。
一方、山崎豊子は医療や銀行など社会問題を題材とする小説家であり、芸術よりはむしろ問題提起に主眼を置いています。文学的表現よりも、「わかりやすさ」「正確さ」「娯楽性」が優先されるので、文芸というよりは、ビジネス系の読み物に近いです。かといって文学性皆無というわけではなく、言葉の端々に「山崎らしさ」が感じられます。
文学的表現と、読み物としての文体は大きく異なり、どちらが上とかいう話ではなく、目的やスタイルの違いです。
江川氏の場合、「カラマーゾフの兄弟」を文学として翻訳するのではなく、歴史、宗教、ロシア文化、民族性、当時の社会問題など、あらゆる要素を盛り込んだ「読み物」に仕上げているので、日頃、ニュース、コラム、社会派小説などに親しんでいる人には、非常に親和性が高いんですね。
また、江川氏による注解も、それだけで一冊の本になるほどのボリュームがあります。
ドミートリイが口ずさむ詩の意味や、聖書や外国文学からの引用など、よほど詳しい人でもない限り、理解できないと思います。
そうして、訳が分からないまま読み進めるので、余計で辛くなって、投げ出してしまう。これは読者にとっても、作者にとっても、大変な損失です。
「長い」「暗い」「まわりくどい」という印象だけが残って、ドストエフスキー嫌いになる人もあるかもしれません。
その点、江川訳は、「謎とき本」と併せて読み進めることができるので、初心者にとっても心強いです。
一日も早く復刊が望まれる、現代の名訳です。
※ ちなみに他の訳はKindle版で冒頭を試し読みしましたが、私には合いませんでした。
ギャラリー
第Ⅴ章 ProとContraの中程
フョードル「神はあるのか」イワン「ありません」アリョーシャ「あります」の名場面
充実した巻末の注解
私が使っているブックスタンドに興味のある方は「ブックスタンドを活用しよう ~資料を閲覧しながら、PC入力作業を楽にする」をご参照下さい
縦書きPDFで読む
特に難解で、作品の核となっているパートです。
PC・タブレット推奨。閲覧のみです。
● かくあらせたまえ、アーメン (第Ⅱ章 場ちがいな会合) かくあらせたまえ、アーメン (第Ⅱ編 場ちがいな会合)
イワンと僧院の神父らが宗教論を交える「キリスト教徒の社会主義者は無神論者の社会主義より恐ろしい」のパートです。
● どうしてこんな人間が生きているんだ! (第Ⅱ編 場ちがいな会合)
ドミートリイとフョードルの確執、イワンの「神がなければ、すべてが許される」論に対して、ゾシマ長老が「まだ地上におられるうちに、あなたの心の苦しみの解決があなたを訪れ、神があなたの行路を祝福されますように!」と励ます場面です。
● 第Ⅴ編 ProとContra 兄弟相識る / 反逆 / 大審問官
作品の要となるイワンとアリョーシャの「神はあるや、なしや」。ドストエフスキーの思想が炸裂する、集大成みたいなパートです。
江川訳と原訳の比較
江川訳と原訳の違いについて、簡単に紹介します。
原卓也訳(黒文字) 江川卓訳(赤文字)
わが主人公アレクセイ・フョードロヴィチ・カラマーゾフの一代記をはじめるにあたって、私はある種のこだわりを覚えている。ほかでもない、なるほど私はアレクセイ・フョードロヴィチをわが主人公と呼んではいるが、実をいうと、およそ彼が大人物などといえた柄ではないのは当の私がよく承知していることで、となれば、当然、次のような種類の質問を避けるわけにいくあみと覚悟するからである。いったいそのアレクセイ・フョードロヴィチにどんな見どころがあって、あなたは彼を主人公に選ばれたのか? そもそも彼は何をした男なのか? どういう人に、どんなことで知られているのか? 一読者たる自分が、彼の生涯の諸事件の究明などに時間をつぶさなければならないのはどういうわけか?
第五の質問はいちばん決定的だ。なぜなら、これに対しては『たぶん、小説を読めばおのずとわかるはずです』としか、答えようがないからである。だが、もし、読み終わってもわかってもらえず、わがアレクセイ・フョードロウィチのすぐれた点に同意してもらえないとしたら? わたしがこんなことを言うのも、悲しいことにそれが予想できるからだ。わたしにとって彼はすぐれた人物であるが、はたして読者にうまくそれを証明できるかどうか、まったく自信がない。要するに、彼はおそらく活動家ではあっても、いっこうにはっきりせぬ、つかみどころのない活動家である、という点が問題なのだ。もっとも、現代のような時代に、人々に明快さを求めるほうがおかしいのかもしれぬ。
この最後の質問はわけても致命的である。というのもそれに対しては、『小説を読まれれば、たぶん、ご自分でおわかりだろう』と答えるしか手がないからである。だが、もし万一、小説を終わりまで読んでもやはりわかってもらえず、わがアレクセイ・フョードロヴィチの注目すべきゆえんを納得していただけないなどということになったら? いや、こんなことを言うのも、悲しいかな、そうなることがいまからもう見えすいているからである。私にとってこそ確かに注目すべき人物に相違ないのだが、そこのところをうまく読者に証明できるものかどうか、私にはまったく自信がない。問題は、おそらくこの男もいわゆる活動家の部類に属する人間なのだろうが、それがなんともあいまいな、明確さを欠いた活動家だという点にある。もっとも、現代のような時代に、人間に対して明確さを求めるのが、そもそもおかしいのかもしれない。
勘のいい読者なら、もうおわかりですね。
ここではっきり、アリョーシャが聖職者ではなく『活動家』と明言されていること。
さて、皆さんの印象はいかがでしょうか。
私は江川訳の方が分かりやすいです。
翻訳技術うんぬんではなく、塩ラーメンが好きか、味噌ラーメンが好きか、というレベルの話です。
こちらは『謎とき カラマーゾフ』でもお馴染みの、さくらんぼのジャムの場面。
原卓也訳(黒文字) 江川卓訳(赤文字)
「兄さんはそんなことをおぼえてるんですか? じゃ、ジャムも下さい、今でも大好物なんです」
イワンはボーイをよんで、魚スープと紅茶とジャムを注文した。
「何でもおぼえてるさ、アリョーシャ、お前が十一になるまではおぼえているよ、あのときこっちは数えで十五だった。十五と十一というのは、たいへんな違いで、その年ごろの兄弟は決して兄弟になれないもんだよ。お前を好きだったかどうか、それさえわからんね。俺はモスクワへ行っちまって、最初の何年かはお前のことなんぞ全然思いだしさえしなかったもの。そのあと、今度はお前がモスクワへ来てからも、たしかどこかで一度会っただけだったな。それに、今度だってこの町で暮らしてもう足かけ四ヶ月になるけれど、今までお前とは口もきかなかったし、俺は明日発つんだが、今ここに坐って、なんとかお前に会って別れを告げたいものだと思っていたところなんだ、そしたらお前がわきを通りかかるじゃないか」
「桜んぼのジャムはどうだい? この店には置いてあるぜ。覚えてるかな。おまえ、小さい時分、ボレーノフのとこにいたころ、桜んぼのジャムが大好きだったじゃないか」
「よく覚えてますね。じゃ、桜んぼのジャムももらいます、いまでも好きですよ」
イワンはボーイを呼んで、魚汁(ウハー)とお茶とジャムを注文した。
「ぼくはなんでも覚えてるよ、アリョーシャ、おまえが十一の年まではね、ぼくは十五だった。十五と十一、この年の差の兄弟というのは、どうしても友だちになれないものなんだな。ぼくは、おまえが好きだったかどうかも覚えてないくらいさ。モスクワへ出てから何年かは、おまえのことなんか思い出しもしなかった。それから、おまえがモスクワに出て来てからも、確か、一度だけどこかで会ったきりだった。それでいま、ここへ来てからだって、もう四ヶ月目になるけれど、まだ落ちついて話したこともない。ぼくはあす発つんだけど、いまもここに坐って、なんとかおなごりにおまえに会いたいなあ、と思っていたんだ、するとそこへお前が通りかかるじゃないか」
前半のクライマックス、大審問官。
原卓也訳(黒文字) 江川卓訳(赤文字)
正しかったのはどちらか、自分で答を出すがよい。おまえか、それともあのときおまえに問いを発した者か? 第一の問いを思い出してみるがよい。言葉はちがうかもしれないが、確かにそれはこういう意味であった。
≪お前は世の中に出て行こうと望んで、自由の約束とやらを土産に、手ぶらで行こうとしている。ところが人間たちはもともと単純で、生まれつき無作法なため、その約束の意味を理解することもできず、もっぱら恐れ、こわがっている始末だ。なぜなら、人間と人間社会にとって、自由ほど堪えがたいものは、いまだかつて何一つなかったからなのだ。この裸の焼け野原の石ことが見えるか? この石ころをパンに変えてみるがいい、そうすれば人類は感謝にみちた従順な羊の群れのように、お前のあとについて走りだすことだろう。もっともお前が手を引っ込めて、彼らにパンを与えるのはやめはせぬかと、永久に震えおののきながらではあるがね≫
≪おまえは世の中へ出て行こうとしている。しかも自由とやらの約束を持ったきりで、空手で行こうとしている。だが生まれつき愚かでふしだらな人間どもは、その自由の約束の意味もわからず、かえってそれを恐れ、おびえきっている、――なぜなら人間と人間の社会にとって自由ほど耐えがたいものもかつてあったためしがないからだ! ところで、草ひとつないこの炎熱の荒野にころがっているこれらの石が見えるな? ひとつこれらの石をパンに変えてみるがよい、そうすれば人間どもは恩義に感じて、従順な羊の群れのようにおまえの後を追い慕ってくるだろう。もっとも、いつお前が手をひっこめて、自分たちにパンをよこすのをやめはせぬかと、永久に恐れおののいていることになるだろうがな≫
ところがお前は人間から自由を奪うことを望まず、この提案をしりぞけた。服従がパンで買われたものなら、何の自由があろうか、と判断したからだ。
ところがおまえは、人間から自由を奪うことも望まぬあまり、この申し出をしりぞけてしまった。もし服従がパンで買われたものであるならば、どんな自由がありえよう、というのがおまえの考えだったのだ。
お前は人はパンのみにて生きるにあらず、と反駁した。だが、お前にはわかっているのか。ほかならぬこの地上のパンのために、地上の霊がお前に反乱を起こし、お前とたたかって、勝利をおさめる、そして人間どもはみな、≪この獣に似たものこそ、われらに天の火を与えてくれたのだ!≫と絶叫しながら、地上の霊のあとについて行くのだ。
おまえは、人の生きるはパンのみにあらず、と反駁した。しかし、よいかな、ほかでもないこの地上のパンの名においてこそ地上の悪魔はおまえに反旗をひるがえし、おまえと戦って、おまえを打ち負かすのだぞ。そしてすべての人間が、≪この獣に似たものこそ、天上の火を盗んでわれらに与えてくれたのだ!≫
お前にはわかっているのか。何世紀も過ぎると、人類はおのれの英知と科学との口をかりて、≪犯罪はないし、したがって罪もない。あるのは飢えた者だけだ≫と公言するようになるだろう。≪食を与えよ、しかるのち善行を求めよ!≫
お前は知っておるのかな、これから何世紀かが経つと、人類は自分たちの英知と科学との口を借りて、犯罪はない、したがって罪もない、あるのはただ飢えた者たちだけだ、と公言するようになる。≪まず食を与えよ、しかるのち善行を求めよ!≫
要所、要所が微妙に異なりますね。
「地上の霊」と訳すか、「地上の悪魔」とするかで、印象も大きく異なりますし、「お前とたたかって、勝利をおさめる」と「おまえと戦って、おまえを打ち負かすのだぞ」も、ずいぶんニュアンスが違います。
(大きな声では言えないが)江川訳の方が分かりやすいのではないでしょうか。
原先生の訳は、歌舞伎みたいに、ちょっと構えた印象です。
↓ 大審問官の続き
『カラマーゾフの兄弟』一巻の巻末には、江川卓先生の作品解説が掲載されています。
『謎ときカラマーゾフ』にも掲載されていないので、この世界名作文学集の為に書き下ろされた文章だと思います。
それだけでも非常に稀少です。
こちらは、ラストの感動的なアリョーシャのメッセージ。
原卓也訳(黒文字) 江川卓訳(赤文字)
でも、それでもぼくの言葉をしっかりと覚えこんで、将来いつかその言葉に同意してください。いいですか、これからの人生にとっては、何かの美しい思い出、なかでも子供のころ、両親の家で過ごしているころに胸に刻まれた思い出こそが、何よりも尊い、力強い、健康な、有益なものになるのです、それ以上のものはありません。
君たちは教育に関していろいろ話してもらうでしょうが、少年時代から大切に保たれた、何かそういう美しい神聖な思い出こそ、おそらく最良の教育にほかならないのです。そういう思い出をたくさん集めて人生を作りあげるなら、その人はその後一生、救われるでしょう。
きみたちは教育についていろいろ聞かされるでしょう。けれど、子供のころから持ちつづけられる、何かすばらしく美しい、神聖な思い出、それこそが、おそらく、何よりもすばらしい教育なのです。もしそのような思い出をたくさん身につけて人生に踏み出せるなら、その人は一生を通じて救われるでしょう。
そして、たった一つしかすばらしい思い出が心に残らなかったとしても、それがいつの日か僕たちの救いに役立ちうるのです。
そして、そういう美しい思い出がぼくたちの心にはたった一つしか残らなくなるとしても、それでもいつかはそれがぼくたちの救いに役立つのです。
これも「そのうちいつか同意してくれるはずです」と「将来いつかその言葉に同意してください」では全くニュアンスが異なります。
私はロシア語の専門家ではないので、どちらが翻訳として正しいかは分かりません。
でも、私のアリョーシャのイメージは「同意してください」と呼びかける方なので、江川訳の方がしっくりきます。
他にも見てみたい方は、#原卓也の『カラマーゾフの兄弟』のタイトル一覧をご参照下さい。
江川卓の後記と注解
巻末には、非常に詳細な注解と後記が掲載されています。
その趣旨について、江川氏は次のように改姓されています。
翻訳テキストについて ~江川卓による後記
この翻訳テキストとしては、1976年発行のソ連「ナウカ」版ドストエフスキー三十巻全集十四、十五巻に収録されているものを用い、1911~18年発行の『プロスヴェシチェーニエ』社版二十三巻を全集を参照した。
注解は全集に付せられているものを参考にしたほか、訳者において各種の資料により作成した。なお新旧約聖書の引用は、日本聖書協会版、日本正教会版などを参照の上、ロシア語の原義を重んじて、訳者において独自の翻訳を試みたところが多い。なお教会用語になるべく正教会の定訳を用いるように努めたが、たとえば「聖霊」を正教会ふうに「聖神」と訳すと誤解を生ずる恐れがあるので、『懺(ざん)悔(げ)」など、日常語化しているものと同様、慣用に従ったものも多い。
こちらは二巻に付属する登場人物のしおり。
『次回配本』は、「若きヴェルテルの悩み」と「イタリア物語」その他、です。
工藤幸雄、原卓也、文学界のお歴々が綺羅星の如く名前を連ねています。
説明文の「インテリゲンチア」というカタカナにも痺れます。
江川卓・訳と、原卓也・訳については、それぞれシリーズで解説しています。
(江川卓・訳は途中、原卓也・訳は大審問官まで)
復刊リクエストにご協力下さい
江川卓・訳に興味をもたれた方は、復刊リクエストにご協力下さい。
シーズ社の佐藤さん曰く、2021年はドストエフスキーの生誕200年のアニバーサリーイヤーなので、私も集英社の復刊・文庫化に期待しいます。→実現しませんでした。
『カラマーゾフの兄弟(江川卓)』 投票ページ(復刊ドットコム)
実物の写真(箱入り+帯付き)
中古のランク『可』とは思えぬクオリティ。
上巻はカバー+帯付きでレアものです。
帯のイラストは、ドミートリイ兄。どことなくアイアンマン(ロバート・ダウニー・Jr)=に似てますね。
表紙の装幀は無地。
上巻の中扉。ドストエフスキーの肖像。写真の品質が非常にいいです。
現行の刊行物でも、ここまで鮮明な写真を掲載しているものは珍しいのでは?
しかも編集には原卓也先生も名前を連ねておられるのですね。ダブルで気合いが入っています。
下巻の中扉も有名なポートレートです。こちらもトーンが鮮明で、昭和期の刊行物とは思えないほどクオリティも良好です。
上巻には、『次回配本』のチラシとして、カラマーゾフの兄弟Ⅱ の広告が入っています。
第22回配本ということは、第1回から購入している読者がそろそろ息切れする頃ですね^^;
中扉。
目次。
ちなみに原卓也版は、第○編に併せて、「遠ざけられた長男」「修道院に到着」「アーメン、アーメン」など、小見出しが入っています。
第一編 ある家族の歴史
第二編 場違いな会合
第三編 好色な男たち
第四編 病的な興奮
第五篇 プロとコントラ
第六編 ロシアの修道僧
第七編 アリョーシャ
第八編 ミーチャ
大作の一ページ目。『作者より』
江川卓のドストエフスキー解説
最後に、世界文学全集『カラマーゾフの兄弟』の上巻・巻末に収録されている『解説』の一部をご紹介します。
特に、「アリョーシャの運命」「自身のカラマーゾフを」は江川先生の見識の深さと温かいお人柄が感じられるので、読解の参考にどうぞ。
アリョーシャの運命
あえて言うなら、これこそ晩年のドストエフスキーが生涯の探究と苦悩のはてに発しえた(と考えた)「新しい言葉」にほかならなかった。おそらく、この自信が、エピローグの最終章のイリューシャの葬儀の場面、とりわけ石の上でのアリョーシャの演説の場面を、あれほどまで象徴的に、いくぶん非現実的にさえ構成する一種のゆとりを作者に与えたのだと思われる。まず、石の上という設定からして、すでに第四編のパイーシイ神父の言葉にもちらと現われているように、マタイ福音書の「岩の上に教会を建てる」を踏まえて、今後のアリョーシャの使命を暗示したものであるように思われる。そこに集まった少年の数が十二人であることは、これまた「十二使徒」を連想させる。しかも、最近ソ連の研究者ヴェトロフスカヤも指摘しているとおり、この章の最後にリフレインのようにくり返される「永遠(とわ)の記憶」という言葉、「死者の復活」「来世の生命」という思想は、ロシア正教の信教十二条の最後の二条「われ望む、死者の復活ならびに来世の生命を、アミン」のほとんどそのままのパラフレーズとなっている。「アミン」(正教会では「アーメン」をこう発音する)が「カラマーゾフ万歳!」に変っているだけなのである。
アリョーシャは、この演説を最後に少年たちと別れて、《俗界》のただなかへ出て行こうとしている。《俗界》で彼がその信条「行動の愛」をもって何をすることになるか、それは続編が書かれなかった以上、私たちには知るべくもない。
十三年後のアリョーシャについては、彼が少年園の園長になるはずだったという説と、重大な政治犯罪のゆえに処刑されるはずだったという説の二つが流布している。前者は『大いなる罪人(つみびと)の生涯』のノートを根拠にしたものだが、この推測は、少年たちのテーマがすでに『カラマーゾフの兄弟』である程度まで汲みつくされてしまっていることから見て、あまり首肯できるものではない。
むしろ私としては、第二説を取りたい気持が強い。十三年という数字が、いかにも不吉な予感を誘うことが理由の第一であり、第二には、この作品に盛られた父親殺しのテーマが、当然に、ロシア国民の「父」(ドストエフスキー自身の言葉)である皇帝暗殺にまで発展する可能性を秘めていると思われるからである。グロスマンはカラマーゾフとカラコーゾフの姓の類似から、一八六六年に皇帝暗殺をはかって未遂に終った革命家ドミートリイ・カラコーゾフをアリョーシャのモデルと推論しているが、それよりはむしろ、父親殺しのテーマの内的発展を重視すべきではないかと思われる。
カラマーゾフの姓そのものについては、注解でもふれたが、むしろキリストのテーマとの関連に重要な意味が隠されているように思えてならない。ともあれ、少年たちでさえ火製造に夢中になっている物騒な世の中であり(第十一編「少年たち」を参照のこと)、アリョーシャが爆弾テロリストの思想的指導者になったところで(『悪霊』のスタヴロギンもシャートフとキリーロフを生み出した)、すこしも不思議ではない状況が現存していた。現実にも、皇帝アレクサンドル二世は、ドストエフスキーの語られざる予言が的中したのか、作家の死のちょうど一ヶ月後に《人民の意志》派執行委員会の指令のもと、グリネヴィツキーの投じた爆弾によって暗殺された。
おそらく暗殺事件の後、アリョーシャは、十二使徒の一人たるユダによって、影の思想的指導者として官憲に売り渡され、ドストエフスキー自身がかつて体験した死刑を、今度は「お芝居」ではなく、実地に体験することになるのだろう。この作品でも、刑場に引かれて行く死刑囚の心象風景が二度にわたって描かれているが、死刑執行の瞬間までの死刑囚の心理を克明に記録することは、一八七六年の中編『おとなしい女』のまえがきにも書かれているように、ドストエフスキーの積年の芸術的野心にほかならなかった。
そして、問題のユダは、ひょっとすると、「トロイの発見者」カルタショフであったのではあるまいかと推察される。姓名占いでいくと、この姓は、タタール語起原のカルダショフ(「親友」の意味をもつ)に酷似しながら、その実、「見せかけだけの仕事をする」「嘘(うそ)をつく」の意味をもったロシア語の動詞カルターヴィチから派生しているように見えるからである。もっとも、これはもう完全に私の想像の領域であって、本来の作者ドストエフスキーにはまったく責任のないことである。
自身の≪カラマーゾフ≫を
『カラマーゾフの兄弟』について語るべきことはあまりに多いが、ここではこの作品をつらぬく二つの中心主題、――キリストの主題と父親殺しの主題のみにかぎって解説めいたことを書いた。もともとこの作品は、いわゆる過不足ない解説がほとんど不可能に近い小説である。というより、なまじっかな解説など超越したところに、この小説のまさしくユニークな世界が存在し、だからこそ、一度この小説の毒にとりつかれた読者は、何度となく小説そのものに立ち戻って、そこに自分自身の《カラマーゾフ》を見出したくなるのである。
つまり、この小説の世界には、あたかもそれが時空を超えてじかに読者自身の世界につながっているかのように予感ないし錯覚させる何かがあり、一度その何かの存在に気づかされてしまうと、さあ今度は、それをしかと確かめるまでは、まるで自身の存在が宙づりにされでもしたように、なんとも落ちつけなくなってしまうのである。
私自身の読書経験からいうと、この何かは、中学生のころ、はじめてこの小説を無邪気に、いわば推理小説的な興味で読みとばしたときから(むろん、「大審問官」だの「ロシアの修道僧」だのというこむずかしいところは斜めに目を通しただけだが)、私の意識だか意識下だかに、まるで澱(おり)のように残った記憶がある。二度目に読み返して、アリョーシャの美しさに感傷的なあこがれを覚えたときも、やはりそうだった。そして、とうとう自分で翻訳をする羽目になり、こうして訳し終えたいまも、おそらく、その化学的組成はいくぶんかは変化したのだろうけれど、やはり以前と変らず、まぎれもない澱が心の底によどみ、現に私を不安にかりたてていることを感ずる。そして、それでいいのだろうと考えている。
私としては、はじめてこの作品に取り組まれる読者にも、興味が持続し、時間さえあるなら、何年間をへだててでもよい、何度かまたこの作品に立ち戻り、読み返していただけたらと願っている。これは、何度読み返しても、そのたびに新しい発見を贈ってくれる珍しい本、世界文学の真の古典なのである。