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真理は人間を自由にするはずだった → 自惚れから悪魔の側へ

真理は人間を自由にするはずだった → 自惚れから悪魔の側へ
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カラマーゾフの兄弟(江川卓訳) 第五編 第五節より

殺した者と殺された者が互いに抱き合い、『主よ、汝は正し、汝の道の開けたればなり』と言うことができるのか。
現実的な視点から教えの矛盾を説き、「神の国への入場券を慎んでお返しする」というイワンとアリョーシャの対話は、叙情詩『大審問官』でクライマックスを迎える。

江川氏の注釈によると、大審問官とは「中世スペインで異端糾問のために設けられた国家機関の長さをさす職名。このタイプは、作家の兄が翻訳したシラーの『ドン・カルロス』にも登場する」とのこと。 

キリストがみずからの王国に再臨すると約束してから、すでに十五世紀の歳月が過ぎていた。彼の予言者が、『見よ、われ速やかに来たる(「ヨハネ黙示録 第二十二章第七節)』と記してから十五世紀だ。『その日その時は子も知らず、ただ天にあるわが父のみこれを知る(『マタイ福音書』第二十四章三十六節)と、キリスト自身もまだ地上におられたとき、言われたことがある。

しかし人類は以前に変わらぬ信仰と以前に変わらぬ感激を抱いて、その到来をまちわびている。

信ぜよ 胸のささやきを
天のしるしのいまはなれば

つまり、ただ胸のささやきを信ずるしか手がないんだよ! 

≪中略≫

こうして幾世紀もの間キリストを呼び求めつづけたので、とうとうキリストもはかり知れない同情心の持ち主であるだけに、そうやって祈っている人たちのところへ降りてみようという気を起こされたわけだ。
(317P)

江川氏の注釈によると、

信ぜよ……いまなければ

シラーの叙情詩『願い』からの引用、ジュコフスキー訳による、この詩は『霧の谷間』にいる詩人が、翼を得て「うるわしい山々」へ飛んで行きたいと願うが、そこへの道は閉ざされており、「このうるわしい魔法の国への / 道を指し示すのは奇跡のみ」と結ばれている。

ロシアでは、自分の言葉の真実を深く信じていたチュッチェフ」が、こんなふうに告げている。

十字架の重荷に苦しみながら
天上の王(キリスト)は奴隷の姿に身をやつして
生みの大地なる汝が上をくまなく
祝福を与えつつめぐりたまいぬ

ところでキリストは、ほんの一瞬でもよいから民衆の前にも姿を現そうと思い立たれた。――苦しみ、悩み、罪の悪臭を放ってはいるが、それでも赤子のように自分を慕ってくれる民衆の前にだ。

ぼくの物語の舞台はスペインのセヴィリアの町で、あの恐ろしい宗教裁判のたけなわのころだった。国内では、日々、神を讃えるために焚木の山が燃えさかり、

壮麗なる火刑の庭で、
邪な異端な者ら焼かれたり(ボレジャーエツの詩より)

という時代なんだ。

ああ、もちろんこの降臨は、彼がかつて約束したような、この世の週末に天上の栄光に包まれて再来するというあの降臨じゃない、『東から西までひらめきわたる稲妻(『マタイ福音書』 第二十四章二十七節)のように、突如として現れるというあの再来ではなかった。

ではなくて、キリストはほんの一瞬だけでもいいから、わが子らを訪れてみたい、それもちょうど異端者を焼く焚木の火がぱちぱちとはぜている土地にたずねてみたい、とこう思ったんだよ」

こうしてキリストは、大審問官たる枢機卿によって、百人近い異教徒が焼き殺される広場に姿を現す。

目立たぬように現れたつもりだが、たちまち皆がキリストと気付き、祝福を求めるが、たまたま通りかかった大審問官の枢機卿と護衛兵によって捕らえられ、神聖裁判所の中にある牢の中に閉じ込めてしまう。

この大審問官は、江川氏の描写によると、「年はもう九十歳近い老人だが、背が高く、腰はまっすぐに伸びて、頬はこけ、落ちくぼんだ目には、なお火花のように輝く眼光をひそめている。このときの彼は古い粗末な修道僧の法会を身に付けていただけだ」。

大審問官は、燭台をテーブルの上に置いて、イエス・キリストに宣告する。お前が真のイエスであろうと、いつわりのイエスであろうと、明日には裁判にかけて火刑に処す、と。

「それで囚われ人(イエス・キリスト)はやはり黙っているんですか? 黙って相手(大審問官)を見ているだけで、一言も言わないんですか?」
とアリョーシャ。

「そうさ、しかもどんな事態になってもそうでなくっちゃならないんだ」 イワンはふたたび笑った。

老人自身(大審問官)が、キリストは以前に語ったことに何一つつけ加える権利を持っていないと指摘しているほどだからね。なんなら言うけど、この点にローマ・カトリックのもっとも根本的な特徴が含まれているといってもいいんだ。すくなくともぼくの意見ではね。
おまえは一切を法王に譲り渡した。したがって、一切はいまや法王の手中にある。だからおまえはいまさら顔を出してくる必要はないし、すくなくともある時間が来るまではこちらのじゃまをしないでくれ』というわけなんだ。

こういった意味のことを連中は口にしているばかりじゃなく、ちゃんとものの本にも書いているよ。すくなくともイエズス会の連中はね。

大審問官の前にも、イワンは繰り返し言っている。「ぼくは神を認めないんじゃないぜ、ぼくには神の創った世界、いわゆる神の世界ってやつが認められないんだ」「ぼくは神を認めないんじゃない、アリョーシャ。ぼくはただ入場券をつつしんで神さまにお返しするだけなんだ」

つまり『神』という概念(存在)、それ自体が非なのではなく、それゆえに生じる地上の矛盾――子供が虐げられたり、信心深い者が報われなかったり、本来救いであるはずの信仰が、逆に、誠実な人間を追い詰めている現実に対するエクスキューズである。

なぜなら、現実社会に、そうした矛盾を生みだしている原因の一端は、「こうあるべき」を説くローマ・カトリック教会=法王にあるからだ。

現行の教会制度や説教の中身が、本当にイエス・キリストの望んだものか……といえば、そうとも言い切れず、過度な忠誠や、天国に入る為に常に善であろうとする強迫めいた観念や、真面目な信仰心がかえって心の負荷を増大している部分もあるだろう。

だから、大審問官は主張する。

いったいおまえは、いまそこから おまえがやって来たあの世の秘密を一つでもわしらに伝える権利をもっているだろうか?

いやもっていはしない。

それは、すでに以前に言われたことに何もつけ加えないためであり、おまえが地上におった時分、あれほど強く主張した自由を人間から奪わぬためでもある。

いまおまえが新たに伝えようとしていることは、それが奇跡として現れる以上、すべて人間の信仰の自由を犯さないではいないが、彼らの信仰の自由は、千五百年前のあの当時にあっても、おまえには何よりも貴重なものではなかったか。

「わたしはあなた方を自由にしたい」と、あのころ口癖のように行っていたのはおまえではないか。ところで いま おまえはその≪自由な≫人間たちを自分の目で見たわけだ。」

老人は、急に物思わしげな薄笑いを浮かべて言い添える。

「いや、この仕事はわしらにとっては高価についたぞ。

だが、わしらはとうとうこの仕事をおまえの名においてやりとげた。十五世紀もの間、わしらはこの自由に手こずらせてきたが、しかしいまやそれにもきりがついた。みごとに決着がついた。

ほかでもない、 いまこそこの人間たちは、かつてのいかなるときにもまして、自分たちが完全に自由であると信じ切っておるのだ。そのくせ彼らは自分からすすんでその自由をわしらに捧げ、うやうやしくわしらの足もとに献呈してしまっておるのだがな。もっとも、これをしとげたのはわしらなのだ。おまえが望んだのはこれではあるまいな、このような自由では?」

江川氏の注釈によると、


「わたしは……自由にしたい」 

ヨハネ福音書第八章三十一――三十二節「わたしの言葉にいつも聞き従うならば、あなた方はほんとうにわたしの弟子である。あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にする」のパラフレーズ。ルカ福音書第四章十八節にも「捕らわれ人の解放のために来た」の言葉がある。

この箇所を、もう少し詳しく。

真理は君たちを自由にする

イエススは、自分を信じたユダヤ人たちに言った。

「わたしの言葉にいつも聞き従うならば、君たちはほんとうにわたしの弟子である。君たちは真理を知り、真理は君たちを自由にする」

すると彼らは尋ねた

「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『君たちは自由になる』とどうして言われるのですか」

イエスは答えた。

「はっきり言っておきたい。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は、その家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子が君たちを自由にすれば、君たちはほんとうに自由になる。君たちがアブラハムの思想だということは、わかっている。だが、君たちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れる気がないからである。わたしは父(神)のところで見たことを話している。ところが君たちは父(悪魔を指す)から聞いたことを実行している。

新約聖書 共同訳全注 (講談社学術文庫)

この箇所、わしら=大審問官を『悪魔(悪霊=否定や反逆の側)』に置き換えると分かりやすい。

「人間たちは、かつてのいかなるときにもまして、自分たちが完全に自由であると信じ切っておるのだ。そのくせ彼らは自分からすすんでその自由をわしらに捧げ、うやうやしくわしらの足もとに献呈してしまっておるのだがな」

ここでいう『自由』というのは、「束縛されない」ではなく、「何でも好きなことができる選択の自由」の意味だ。

人間が様々な知恵をもち、あれもできる、これもできる、選択の自由を手に入れたが為に、逆に、迷い、強欲、懊悩など、負の面にも苦しむようになった。

それは即ち、『原罪』の延長でもある。

アダムとイブは、「神のように賢くなれる」という蛇の言葉にそそのかされ、禁断の実を口にしたが為に楽園を追放された。神の教えから離れ、自分たちで勝手に判断するようになったことが人類の過ちの始まりなのだ。

だから、大審問官も言う。「自分からすすんでその自由をわしらに捧げた」、すなわち、利口になったと自惚れて、悪魔の側=否定や反逆の側に流れた、と。

イエスの言う「真理は君たちを自由にする」と、禁断の実の「神のように賢くなれる」は、まったく似て非なるものだ。

イエスが布教を始めてから15世紀の間、人は真理を極めて幸福になるどころか、神のように賢くなったと自惚れて、悪魔と結託するようになった……という流れである。

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