江川卓『カラマーゾフの兄弟』は滋賀県立図書館にあります詳細を見る

    叙情詩『大審問官』 江川卓の注解(用語と引用)

    聖書
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    『大審問官』に登場する固有名詞や引用について、江川卓の注解を掲載しています。

    原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』(新潮文庫)とは異なる言い回しもありますが、参考にどうぞ。

    作品のイメージは、読み解くコラムの『動画で確認』をご参照下さい。

    目次 🏃‍♂️

    江川卓の注解

    大審問官

    表題『大審問官』について。

    中世スペインで異端糾問のために設けられた国家機関の長をさす職名。このタイプは、作家の兄が翻訳したシラーの『ドン/カルロス』にも登場する。

    《Notre Damede Paris》

    イワンの叙情詩『大審問官』の舞台は、十六世紀のセヴィリアである。
    当時は、フランスでは裁判所の書記だとか、僧院の坊さんたちまでが、いろんな芝居をやって見せて、その中でマドンナや、天使や、聖者や、キリストや、さらには神さままで舞台に登場させていたが、ユゴーの『ノートルダム・イン・パリ』では、パリ市政庁の大広間で上演された時には、聖母みずからが舞台に登場して「よき裁き」を行なった、、というイワンの弁。

    ヴィクトル・ユゴーの『パリ聖母寺院』。ドストエフスキーはこの作品を高く評価していた。ただし、ここでのドストエフスキーの説明にはいくぶんの誤りがあり、たとえば、皇太子の生誕が祝われたのではなく、実際にはその成婚式が祝われた。

    『聖母の責苦めぐり』

    劇中に聖者や、天使や、天上の諸力が登場する物語は、ロシアの僧院でも、タタール支配時代からオコ慣れていた。
    その中の一つ、物語詩『聖母の責苦めぐり』では、聖母が地獄を訪れて、大天使ミカエラの案内で、地獄の責苦めぐりをする話もあった。

    新旧約聖書の物語をもとに、文学的想像力を加えて潤色された説話の一種で、『アポクリフ』の名で呼ばれるが、いわゆる外典(『パルク書』『ソロモンの知恵』など)や偽典(『エノク書』『十二族長の遺勲』など)とはいくぶん性格を異にし、《偽経》とでも呼ばれるべきものである。これと類似のものに『アダムの嘆き』『アブラハムの死』『聖母の夢』といったものがあり、その多くは巡礼歌などの形でフォークロア的性格を帯びるようになった。この『聖母の責苦めぐり』は、ギリシャの説話『聖母の発見』をいくぶん改作した翻訳で、十二世紀の写本が残っている。1860年代に、ロシアではこれらの偽経が集成されて数種出版されており、ドストエフスキーはこれに大きな関心をもっていた。

    五旬祭

    「聖母の責苦めぐり」で、人々の苦しみに心を痛めた聖母マリアが、すべての聖者、すべての殉教者、すべての天使、大天使に向かって、すべての者にわけへだてのない慈悲の赦しが与えられるように懇願したら、願いが聞き届けられて、毎年、受難週間の金曜日から五旬祭までの間、地獄の責苦は中止されることになったと、イワンの弁。

    キリスト復活後五十日目に、使徒たちが集まっていると、にわかにはげしい風の音が聞え、室内にいる使徒たちの頭の上方に分かれた火の舌のようなものが現われ、使徒たちは教理を悟り、奇跡を行う力を授かったという(使徒行伝第二章)。これは聖霊が使徒たちにくだったものとされ、この日を記念して五旬祭(聖霊降臨祭ともいう)が祝われることになった。三位一体祭とも呼ばれる。

    信ぜよ胸のささやきを・・

    キリストがみずからの王国に再臨することを約束してから、すでに十五世紀の歳月が流れている。
    その間、人々は、キリストの到来を待ちわびている。その気持ちをシラーの詩に托して。

      信ぜよ胸のささやきを、
      天のしるしのいまはなければ

    シラーの抒情詩『願い』からの引用、ジュコフスキー訳による。この詩は「霧の谷間」にいる詩人が、翼を得て「うるわしい山々」へ飛んで行きたいと願うが、そこへの道は閉ざされており、「このうるわしい魔法の国への/道を指し示す奇跡のみ」と結ばれている。

    新しい邪教

    人々はキリストの王国の到来を待ちわびていたが、はやくも人類の間には、こうした奇跡の真実性を疑う気持ちがきざしはじめていた。
    北方のゲルマニヤでは、恐ろしい新しい邪教が現われた、とイワンの弁。

    プロテスタントの出現を指す。なお、このヨハネの黙示録の一節はドストエフスキーがしばしば引用する個所で、『白痴』では、この一節をめぐって作中人物の間に論議がかわされている。
    なお『作家の日記』一八七七年一月号によると、ドストエフスキーはプロテスタントをカトリックへの反動と見ており、カトリックが消滅すればプロテスタントも消滅するという見解をもっていた。

    『われらがもとに主よ来れなば』

    幾世紀もの間、人類は信仰の炎を燃え立たせて、『われらがもとに主よ来れなば』と呼び求め続けたので、キリストも、人々の願い同情して、祈っている人たちのところへ降りてみようという気になった。これが叙情詩『大審問官』の始まり。

    これはロシア正教会の聖体礼儀のさいに歌われる教会スラヴ語の聖詠(詩編百十七、二十七節)の引用だが、原典は「神、主はわれらに来られる」(現代語訳では「神、エホバはわれらに光を与えたまえり」)であって、ここでイワンは教会スラヴ語を誤用して、意味不明な句を作っている。フョードルが各所で福音書の聖句を歪めて引用するが、イワンの誤用もそれと似た意味づけを与えられている可能性がある。

    祝福を与えつつへめぐりたまいぬ

    ロシアでは、自分の言葉の真実を深く信じていたチュッチェフが、こんな風に告げている。

      十字架の重荷に苦しみながら
      天上の王(キリスト)は奴隷の姿に身をやつして
      生みの大地なる汝が上をくまなく
      祝福を与えつつへめぐりたまいぬ*

    ロシアの詩人チュッチェフ(1803―73)の詩『この貧しき村々、この乏しき自然』からの引用で、ドストエフスキーはチュッチェフを「プーシキン時代を受けついだもっともすぐれた、独自な詩人」と高く評価していた。

    十五世紀前に三年間

    大審問官より。

    キリストはほんの一瞬だけでもいいから、わが子らを訪れてみたい、それもちょうど異端者を焼く焚木の火がぱちぱちとはぜている土地にたずねてみたい、とこう思ったんだよ。キリストはそのはかり知れない慈愛心から、十五世紀前に三年間、人々の間を歩きまわったときとまったく同じ姿で、もう一度人々の間を歩いてみるのさ。

    キリストの生没年、布教期間等については正確な史料が存在していないが、誕生は紀元前七―四年で、布教の懐紙は三十歳のときとするのが定説のようである。布教期間は、短く計算すると一年足らず、長く計算すると二年余りとなるが、ヨハネ福音書にもとづく計算では、、ほぼ三年ということになる。ドストエフスキーはこの最後の節を採用しているらしい。

    ad majorem gloriam Dei(いやます神の栄光のために)

    前述の続き。

    彼(イエス)は南国の町の《炎熱の広場》へ降り立ったのだが、そこはちょうどあの《壮麗なる火刑の庭》で、その前夜、ほとんど百人に近い異教徒どもが、国王をはじめ、廷臣、騎士、枢機卿(すうききょう)、うるわしい女官たちの居並ぶ面前で、またセヴィリア全市の多数の住民を前に、大審問官たる枢機卿によってad majorem gloriam Dei(いやます神の栄光のために)一時に焼き殺されたところだった。

    十六世紀に創られたイエズス会の教団の銘文。

    『ホサナ!』神を讃える言葉と叫ぶ

    (イエスが姿を現わすと)民衆は涙を流しながら、大地に突っ伏して、キリストの踏んで行く土を接吻する。子供たちはキリストの前に花を投げ、讃(さん)美(び)歌(か)をうたって『ホサナ!』神を讃える言葉と叫ぶ。『イエスさまだ、これこそイエスさまだ』とみなが唱和する。

    マタイ福音書第二十一章十五節に「ダビデの子にホザナ」と言ってイエスを迎えている子供たちのことが語られている。ルナンの『イエス伝』では、子供らが棕櫚の枝をたずさえてイエスを歓迎したことになっており、ロシアの偽経にも同様の記述が見られる。

    「わたしはあなた方を自由にしたい」

    大審問官がイエスに問う。

    いったいおまえは、いまそこからおまえがやって来たあの世の秘密を一つでもわしらに伝える権利をもっているだろうか?
    いやもっていはしない。それは、すでに以前に言われたことに何もつけ加えないためであり、おまえが地上におった時分、あれほど強く主張した自由を人間から奪わぬためでもある。
    いまおまえが新たに伝えようとしていることは、それが奇跡として現われる以上、すべて人間の信仰の自由を犯さないではいないが、彼らの信仰の自由は、千五百年前のあの当時にあっても、おまえには何よりも貴重なものではなかったか。
    「わたしはあなた方を自由にしたい」と、あのころ口ぐせのように言っていたのはおまえではないか。

    ここで言う「自由」とは、自由意思、自由選択の freedom ではなく、神の教えから離れて、自分たちで好き勝手に善悪を判断する原罪的フリー。

    ヨハネ福音書第八章三十一―三十二節「わたしの言葉にいつも聞き従うならば、あなた方はほんとうにわたしの弟子である。あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にする」のパラフレーズ。ルカ福音書第四章十八節にも「捕らわれ人の解放のために来た」の言葉がある。

    おまえが約束したことなのだ

    イエス・キリストは地上における信仰活動をペテロを中心とする十二人の使徒に委ねます。
    マタイの福音・第十六章『ペトロス、信仰を宣言する』より、「お前はペトロス、つまり、『岩』である。この岩の上にわたしの教会を建てる」の個所。

    マタイ福音書第十六章十八節のイエスのペテロへの約束を指すと考えられる。二一五ページ上段の注参照。

    《誘惑した》

    悪魔が洗礼を受けたばかりのイエスに三つの問いをする『荒野の誘惑』のこと。
    詳しくは、『荒野の誘惑と悪魔の三つの問い』を参照。

    ロシア語のiskushat'という動詞は「試みる」の語義のほかに「誘惑する」の語義をもつことが、十九世紀中葉のロシア学士院編纂の辞典に記されており、後者の語義について「悪魔が荒野でイエス・キリストを誘惑した」の文例も引かれているので、聖書の日本語訳にもかかわらず、この訳語を用いた。

    この獣に似たものこそ、天上の火を盗んでわれらに与えてくれたのだ

    『荒野の誘惑』にちなむ。

    “もし服従がパンで買われたものであるならば、どんな自由がありえよう、というのがおまえの考えだったのだ。おまえは、人の生きるはパンのみによるにあらず、と反(はん)駁(ばく)した。しかし、よいかな、ほかでもないこの地上のパンの名においてこそ地上の悪魔はおまえに叛旗ひるがえし、おまえと戦って、おまえを打ち負かすのだぞ。そしてすべての人間が、「この獣に似たものこそ、天上の火を盗んでわれらに与えてくれたのだ!」と叫びながら、悪魔のあとについて行ってしまうのだ。”

    ヨハネの黙示録第十三章に出てくる獣を指すと見られ、同意十三節には「人々の前で天から地上へ火を振らせた」獣のことが語られている。ここではプロメテウス神話との連想も働いている。

    古代の掟

    大審問官の言葉。

    “人間の自由を支配するどころか、おまえはその自由をふやし、人間の精神の王国に自由の苦しみという永遠の重荷を負わせてしまったのだ。おまえが望んだのは人間の自由な愛であった、おまえに魅せられ、心惹かれて、人間が自由におまえに従ってくることであった。確固と定まった古代の掟に代って、それ以後人間は、何が善であり何が悪であるかを、ただおまえの姿だけを指針として仰ぎながら、自らの自由な心で決めることになるはずであった、”

    「何が善であり何が悪であるか」を人間が勝手に判断する、原罪にまつわるエピソード。

    ここでは旧約聖書を指す。新約の精神は、たとえばロマ書第十三章八―九節に見るように、「隣人への愛」であった。

    ローマとカエザルの剣を彼から受け取り

    大審問官の言葉。

    “ちょうど八世紀前、わしらはおまえが憤然としてはねつけたあの最後の贈物を彼から受け取ったのだ。彼が地上の全王国を指し示しながら、おまえにすすめたものをな。つまり、わしらはローマとカエザルの剣を彼から受け取り、わしらだけが唯一の地上の王者だと宣言したのだ。”

    西暦七五六年、フランスのピピン王が法王ステファノ2世にイタリア中部の領土を譲り、ローマ法王の世俗権力への端緒が開かれた。ドストエフスキーは十六世紀を舞台としたこの叙情詩で八世紀前と言っているので、この事件をさしていることは明らかである。

    その手に《神秘》を握る淫婦

    大審問官の言葉。

    “言いつたえと予言によると、おまえはふたたびこの世へやって来て、おまえの選ばれた者たち、誇り高く力ある者たちとともにこの世界を征服するそうだ。だが、わしらは言ってやろう、おまえの選ばれた者たちはただ自分自身を救ったにすぎなかったが、わしらは万人を救ったのだとな。野獣の上にまたがって、その手に《神秘》を握る淫婦は辱しめられるだろう、非力な者たちがふたたび謀反を起し、その淫婦の緋衣を裂き、その《けがらわしい》体を裸にするだろうとも言われている。”

    「おまえの選ばれた者たちはただ自分自身を救ったにすぎなかったが、わしらは万人を救った」とあるのは、イエスの心に適い、自分で自分を救えるのは少数だが、大審問官の側は、人間すべてを良心の咎から自由にし、楽にしてやると。

    ヨハネ黙示録第十七章以下に出てくる形象で、神の力によって焼かれ、彼女と姦淫を行なった地の王や商人たちも滅びることになっている。

    《数をみたし》

    大審問官の言葉。

    “わし自身、かつては荒野にあって、いなごと草の根で露命をつないだことがあり、わしもまた、おまえが人間を祝福して与えた自由を祝福したことがあり、わしもまた、かつてはおまえの選ばれた者、力あるたくましい者の仲間に加わり、その《数をみたし》たいと熱望したものだ。しかしわしは目がさめ、狂気に仕えるのがいやになったのだ。”

    大審問官も、かつてはイエスの側だったが、神に仕える仲間はいっこうに増えないので、馬鹿馬鹿しくなった、みたいなニュアンス。

    ヨハネ黙示録第六章十一節に「神に仕える仲間である者たちの数がみちるまで」の句がある。

    フリーメーソン

    イワンの言葉。

    ”ひょっとすると、あれほど強情に、あれほど自己流に人類を愛しているあの呪うべき老人(大審問官)は、数多くのそういう唯一者的老人の一大集団という形でいまも存在しているかもしれないんだ。しかもけっして偶然に存在するのじゃなくて、神秘を保持するためにとうの昔に結成された一宗派として、秘密結社として存在するのかもしれない、不幸で非力な人間たちから、彼らをしあわせにするために神秘を保持しようというわけなのだ。こういったものはかならず存在するし、それどころかそうあって当然なんだ。ちらとそんな気がするのだがね、ぼくはフリーメーソン*78にも、その根底にはこの種の秘密に似た何かがあるように思う”

    十八世紀にイギリスで石工ギルドをもとにして起った秘密結社で、会員は自己認識と自己完成を通して正義の王国の実現をめざす。十八世紀後半からロシアにもひろまり、エラーギンがその創始者とされている。その第一の信条は「太古から、最初の人間から伝わる重大な神秘をもち伝え、子孫に伝える」であるという。
    カトリック教会はこのフリーメーソンを最初から敵視し、十九世紀中葉にはピオ九世が再三にわたってはげしい攻撃を行なった。なお、ロシアの民間ではフリーメーソンは訛ってファルマゾーヌイとも呼ばれ、鞭身派や去勢派と同じく「秘密宗派」の一派と見られていた。一部には、「神を拒否し、一切の聖なる物を否定する妖術者」と見る向きもあったらしい。また事実、ロシアのフリーメーソンの何人かは鞭身派あたりとなんらかの交渉をもったとも伝えられている。イワンが「フリーメーソン」ではないかという疑問はドミートリイによってh、「イワンには神がない、その代りに思想がある」という文脈で述べられている。

    羊の群も一つなら、羊飼いも一人

    前述の続き。

    “カトリックの連中がフリーメーソンをあれほど敵視するのも、彼らを自分たちの競争者、理念の単一性の破壊者と見ていればこそじゃないのかな、”

    ヨハネ福音書第十章十六節の引用。マタイ福音書第十二章二十五節にも、「どんな国でも内輪もめすれば、荒れ果ててしまう」の言葉がある。

    《暗い町の広場》

    イエスが大審問官の唇に接吻すると、大審問官は動揺しながらも、戸口をあけ、イエスを暗い町の広場に解放する。イエスはそのまま立ち去る。

    プーシキンの詩『思い出』(一八二八)の最初の四行のパラフレーズ。原詩では「昼のざわめきが静まり、黙せる町の広場に、半透明な夜闇の降りるとき」となっている。

    『Pater Seraphicus ――こんな名前をどこから思いついたんだろう?』

    イワンはアリョーシャと料亭を出ると、「三十近くなって、《杯を床に叩きつけたくなったら、おまえがどこにいようと、ぼくはきっともう一度おまえと話をしに来るとね》……たとえアメリカからでもだ、覚えておいてくれ。わざわざそのためにやって来るんだ。でも、実際問題として、もしかしたら七年、いや、十年は会えないかもしれないのでね。さあ、もうおまえのPater Seraphicusのところへ行くがいい」と別れの言葉を口にします。

    イワンが行ってしまうと、アリョーシャは「どうしてPater Seraphicusなんてどこから思いついたんだろう、かわいそうなイワン……ああ、もう庵室だ、あの方がPater Seraphicusだ、あの方が僕を救って下さるのだ……」と心の中で祈る。

    ゲーテの「ファウストの第二部の最終場面に出てくる「天使に似た教父」のこと。この教父は、「法悦の教父」「瞑想の教父」につづいて登場し、幼くして天国に召された少年たちにさまざまな体験を教え、地上の恐ろしいものを見て身体を震わせる少年たちに、「それならだんだんと高い世界へのぼって行くがよい。いつも神がお側にいて、力をそえてくださることを信じ、ゲーテ自身がエッカーマンとの対話で語っているようにカトリックの教父であり、ロシアの正教を説くゾシマ長老を彼に擬している点に、ドストエフスキーの隠された意図があるようにも思われる。
    Pater Seraphicuは文字どおりには「セラピムの教父」の意味であり、十二―三世紀のカトリック教会の聖者アッシジのフランチェスコが、夢に主天使セラピムを見たのち信仰生活に入ったことから、彼の称号としても用いられる。フランチェスコは托鉢修道会フランシスコ会の創始者で、イタリアの富裕な商人の息子に生まれ、青年時には遊興にふけっていたが、セラピムの夢以後、「貧しさ」の徳を説き、乞食僧として生涯を送った。フランシスコ会の創立後、ローマ法皇インノセント三世に会の承認を求めに行ったときの話は、「キリストの代理者」と「キリストの追随者」との対決として有名であり、イワンは「代理者」としての大審問官に「追随者」としてのフランチェスコ(ゾシマ長老)を対置しているとも読める。
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