「ぼくは神を認めないんじゃない、神の創った世界認められないんだ」。イワンはアリョーシャに自作の叙情詩『大審問官』について語り聞かせます。
異端審問の時代、大審問官は火刑の場に現われたイエスを捕らえ、「人の生きるはパンのみによるにあらず」というイエスの教えがかえって人間を苦しめていると詰責します。それに対するイエスの回答は? アリョーシャの接吻が意味するものは? 動画や画像と併せて解説しています。
抒情詩『大審問官』について
創作の背景
『大審問官』は、三部作『第Ⅴ編 ProとContra 兄弟相識る / 反逆 / 大審問官』の最後に語られる、イワン作の叙情詩です。
イワンは、ドミートリイの婚約者カチェリーナを心秘かに愛していましたが、カチェリーナはその愛に応えず、自分の意地とプライドからドミートリイとの結婚を推し進めていました。その身勝手な心根を知ったイワンはカチェリーナと訣別し、希望を胸にモスクワに旅立つところです。
イワンとアリョーシャは、料亭≪みやこ≫で一緒に食事をしながら、「神はあるのか、ないのか」について語り合います。
「ぼくは神を認めないんじゃないぜ、ぼくには神の創った世界、いわゆる神の世界ってやつが認められないんだ」「ぼくはただ入場券をつつしんで神さまにお返しするだけなんだ」と主張するイワンが、アリョーシャに語って聞かせるのが、自作の叙情詩『大審問官』です。
本作の中でも特に難解なパートですが、現代人の苦悩と社会の矛盾が如実に描かれている名場面です。
『大審問官』のあらすじ
舞台は十六世紀のセヴィリア。聖職者によって宗教裁判(異端審問)が行なわれ、神と教会に叛いたものは、広場で火刑に処されます。
そこにイエス・キリストが現れ、群衆は感泣して、彼を取り囲みます。
影響を恐れた90歳近い『大審問官(枢機卿)』は、イエスを捕らえ、牢獄に閉じ込めます。
夜になると、大審問官は一人でイエスを訪ね、荒野で悪魔に誘惑された時、「なぜ地上のパンを拒否したのか。『人の生きるはパンのみによるにあらず』という教えが、かえって現代の人間を苦しめていると難詰します。
イエスは、大審問官の言い分に黙って耳を傾けていましたが、突然、大審問官に歩み寄ると、その唇に接吻します。
大審問官は激しく動揺しますが、イエスを解放すると、イエスは無言で去って行く――という物語です。
『大審問官』が意味するもの
三部作『第Ⅴ編 ProとContra 兄弟相識る / 反逆 / 大審問官』では、主にイワンのキリスト教観が語られます。
イワンと言えば、「神がなければ、すべてが許される」の無神論者というイメージがありますが、彼は神の否定者ではありません。第4章『反逆』で語られるように、子供に対する酷い虐待を見るうちに、この地上と信仰の在り方に失望し、「ぼくは神を認めないんじゃない、ぼくには神の創った世界、いわゆる神の世界ってやつが認められないんだ」「ぼくはただ入場券をつつしんで神さまにお返しするだけなんだ」と懐疑的になった現代人の一人です。
それに対して、アリョーシャは、「この世には、ありとあらゆるものに対して、一切の罪を赦すことができる人がいる(イエスのこと)」と主張し、地上の幸福は、この人を土台にしてこそ築かれると反論します。
そこで、イワンは、なぜ自分が神の世界を疑うに至ったかを、『大審問官』の口を借りて語ります。
大審問官の主張は、ざっくり言うと、イエスの説く愛や清貧を実践したところで、現代人は幸せにはなれない、ということです。
荒野で悪魔が「この石をパンになるように命令したらどうだ(パンを配れば、人々はお前に従う、という意味)」と誘惑した時、イエスは『人の生きるはパンのみによるにあらず』と退けます。
しかし、実際問題、パンがなければ、人は生きていく事はできません。
パンがなければ肉体は死ぬし、十分に行き渡らなければ、奪い合いや殺し合いになるでしょう。
かといって、パンだけ、豊富にあっても、人は幸せになれません。
お金持ちでも、人に裏切られ、大きな屋敷で一人ぼっちで死ぬとなれば、淋しい思いがするでしょう。
ここに現代人の苦悩があります。
金、金、金で、儲けだけ追いかけて、欺したり、傷つけたりする人生は、幸せではありません。
かといって、一文無しでは、幸福を感じる余裕もなく、人生に絶望して死んでしまうでしょう。
地上にパンは豊富にあるのに、上手く分配されることはなく、貧しい者はいつまでたっても貧しいまま、一方的に踏みつけられるだけです。
それならいっそ、拝金主義に徹底して、悪魔に身を任せた方が楽ですね。
最初から、「食べるために、奪え、殺せ」と教えてくれた方がよかったのです。
そうした矛盾をどう乗り越えるのか。答えがないなら、大審問官(地上の支配者)に一切を任せて、二度と地上に現れるなと詰責しますが、イエスはそんな大審問官の恨み辛みを理解した上で、その唇に接吻します。
そうした一面も含めて、人間というものを深く愛しているからです。
そして、アリョーシャも、イエスを真似て、イワンの唇に接吻します。
一人であれこれ思い悩み、消耗している兄のすべてを無条件で愛しているからです。
別れ際、イワンは言います。
「もしほんとうにぼくに粘っこい若葉を愛するだけの力があるとしても、おまえを思い出すことによってだけ、ぼくはその愛を持ちつづけていけるんだ。おまえがこの世界のどこかにいると思うだけで、ぼくは生きて行く気力をまだなくさずにすむんだ」
おまえを「神」や「イエス」に置き換えれば、答えは明白ですね。
この世には、人間の「地上的な頭脳」(イワンの弁)では解決できない問題が多数存在します。
その一つ一つに意味を求めていたら、とても生きていかれません(アリョーシャもイワンに「論理以前に愛するんです」と説いている)
あなたの側には、アリョーシャのような愛がある。辛い時も、淋しい時も、孤独な心を支えてくれる。
それが三部作『第Ⅴ編 ProとContra 兄弟相識る / 反逆 / 大審問官』の主旨です。
読解のヒント
『大審問官』に関しては、原卓也訳・上巻(新潮文庫)の方が平易で分かりやすいと思います。
元々、このパートは大審問官の一人語りで、段落のない文章が九ページにわたって延々と続きます。
「一段落する箇所(改段)」がない上、似たような言い回しが何度も繰り返されるので、誰が読んでもシンドイです。私も初回はここで挫折しました。
読解には、新約聖書の『荒野の誘惑』と悪魔の三つの問いに関する知識が必須です。
一度も聖書を読んだことのない方は、まずキリスト教の基礎から学ぶことをおすすめします。
基礎が分かれば、他の文学作品や、美術、映画の読解にも役に立つので、おすすめです。
(参考→ 初心者向け キリスト教の本 ~『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』を理解する為に)
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第Ⅴ編 ProとContra 兄弟相識る / 反逆 / 大審問官 (Googleドライブ)
動画で確認
TVドラマ『カラマーゾフの兄弟』(2007年)より。
大審問官の場面を劇中劇として描いています。
https://youtu.be/-YcFzj5MyMo?t=10698
町中で行なわれる火刑。
そこにイエスが現れ、群衆は熱狂するが、大審問官はイエスを捕らえる。
大審問官のイメージ。
美術と配役は、映画版『カラマーゾフの兄弟』(1968年)の方が原作に近いです。映画版では、大審問官の劇中劇はなく、アリョーシャとイワンの会話のみです。
「料亭みやこ」の語らい~イワンとアリョーシャの分かれまで視聴したい方は、YouTubeでどうぞ。(1時間7分より)
https://youtu.be/PDFz_U-juAzXik?t=4064
映画版のイワンとアリョーシャの方が雰囲気が出ていますよね。美術やインテリアも。
ちなみに、TVドラマも映画版も、キスほ「頬チュー」になっています。(原作は唇にキスする)
荒野の誘惑と悪魔の三つの問い
現代社会を予言する悪魔の誘惑
『大審問官』の問いかけは、『荒野の誘惑』を退けたイエスに対する反論です。
悪魔の誘惑は、『荒野の誘惑(Temptation of Jesus Christ)(Wikiで見る)』の名で知られ、新約聖書『ルカスによる福音・第四章』『マタイオスによる福音・第四章』『マルコスによる福音・第12章』に記述されています。
三つの誘惑とは、次の通りです。
ルカスによる福音 第四章
さて、イエスは聖霊(神の霊)に満ちて、ヨルダン川から返った。(ヨハンネスの洗礼)
そして、聖霊に導かれて荒れ野に行き、四十日間、悪魔から誘惑を受けた。
その間、何も食べなかったので、その期間が終わると飢えてしまった。
そこで、悪魔はイエススに言った。
悪魔「お前が神の子なら、この石をパンになるように命令しただどうだ」
イエス「人はパンだけで生きるものではないと聖書(旧約聖書)に書いてある」
そこで、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界中の国々を見せて言った。
悪魔「お前にこの国々のいっさいの権力と繁栄とをやろう。それはおれに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、お前がもしおれを拝むなら、みんなお前のものになる」
イエス「『お前の神である主を礼拝し、ただ主に仕えよ』と書いてある」
そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の上に立たせて言った。
悪魔「お前が神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神は天使たちに命じて、お前をしっかり守らせる』また、『お前の足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手でお前を支える』」
イエス「『お前の神である主を試してはならない』と言われている」
悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。
『山上の誘惑』ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ
第一の誘惑『パンか、信仰か』 苦悩は分配できない社会から生じる
大審問官いわく、
「この三つの間には、その後の人類の全歴史がいわば不可分の一体として総合され、予言されているし、また全地上にわたる人間の本性の解きえない歴史的矛盾のすべてが三つの比喩に集約されて示されている」
『パン』とは、現実社会を生きていく上で、絶対不可欠な物資と手段の象徴です。
食糧、住居、衣類、携帯電話、ガス、電気、etc。
科学技術の発達に伴い、生活が高度になればなるほど、暮らしに必要なものは増え、生産手段も多様化します。
そして、それらが上手く分配されればいいですが、現実にはそうはなりません。
一人でガツガツ貯め込む人もあれば、他人の困窮など見て見ぬ振りの人もあり、末端まで十分に行き渡らないのが現状です。
かといって、誰もが詐欺や窃盗を肯定しているわけではなく、真面目な人ほど美徳と現実の狭間で苦悩しています。
「人間の本性の解きえない歴史的矛盾』(原訳では、『解決しえない歴史的な矛盾』)とは、イエスの時代から現代に至るまで、こうした矛盾が解決されたことはなく、
これからも続く、という事です。
ゆえに、大審問官は言います。
これから何世紀かが経つと、人類は自分たちの英智と科学との口を借りて、犯罪はない、したがって罪もない、あるのはただ飢えた者たちだけだ、と公言するようになる。《まず食を与えよ、しかるのち善行を求めよ!》――こう書かれた旗がおまえに向かって押し立てられ、その旗でおまえの神殿が破壊されることになる。おまえの神殿のあとには新しい建物が建てられる、またしてもあの恐ろしいバベルの塔が建てられるのだ。 ≪中略≫
人間どもは、ふたたび地下のカタコム(ローマのキリスト教迫害時代の避難所となった地下墓地)にひそんでいるわしらを探し求め、わしらを見つけ出すや、こう泣きついてくることだろう。「どうか食をお与えください、わたくしどもに天上の火を約束した人が、それを与えてくれないのです」そこでようやくわしらが出て行って、塔を完成してやる。なぜなら、彼らに食を与える者こそ塔を完成できる者だが、おまえの名において食を与えてやれるのはわしらだけだからだ
「わしら」を、会社や政府に置き換えればわかりやすいですね。大審問官は地上の支配者なので。
いくらイエスが地上に楽園を築こうとしても、パンが与えられなければ、人々は不満に感じ、「まず食を与えよ、しかるのち善行を求めよ」と文句を言うでしょう。
現代の会社に置き換えれば、「まずは給料を寄越せ。生き甲斐だの、法令遵守などは、後からでいい」。
理念は一流、サラリーは薄給の会社より、たとえ、不正をしていても、たっぷり給料をくれる会社の方がいいはずです。
おお、わしらがいなければ、人間どもはけっして、けっして食にはありつけんのだ! 彼らが自由でいるかぎり、いかなる科学も彼らにパンを与えはしない、そこで結局、人間どもはわしらの足もとに自由を差し出して、こう言うことになる。「いっそわたくしどもを奴隷にしてくだすって結構ですから、どうぞ食をお与えください」こうして彼らは、自由と万人にとって存分な地上のパンとはけっして両立しえないことを、ようやく自分で悟るようになるのだ、なぜといって彼らは、自分たち同士ではけっしてそれをうまく分配することができないからだ!
会社がなければ、庶民はけっして食にはありつけんのだ、と大審問官は言います。
なぜなら、人間は、神の教えから離れて、自由に振る舞うことを選びました。その結果として、地上には、強欲や欺瞞がはびこり、強者に媚びる以外、食べる手段もなくなったからです。
ここで言う『自由』とは、個々の自由意思を尊重する freedom ではなく、自分たちで勝手に善悪を定め、我欲のままに振る舞う selfish のことです。
創世記、男と女はエデンの園で、飢えとも労働とも無縁の暮らしをしていましたが、「食べてごらん、神のように賢くなれるよ」という蛇にそそのかされ、知恵の実を口にします。男と女は、自分の頭で考える力を得ましたが、神の怒りを買って楽園から追放されます。人間はもはや神の教えに耳を貸さず、何でも自分たちで善悪を判断して、勝って気ままに振る舞うようになったからです。
神は、イエスを通して、「愛しなさい。貧しい者に施しなさい」と説きましたが、それを実践する者は少数です。強い者が何もかも独り占めして、『分配』などありません。
愛より我欲を優先する世の中で、神の恵みと金儲けが両立するはずがなく、それゆえ人間の苦悩もいっそう深いんですね。
第二の誘惑 【誰に仕えるべきか】 ~
『第二の誘惑』で、悪魔は「権力と繁栄をやろう」とイエスにささやきかけます。
しかし、イエスはそれも退け、神である主に仕える大切さを説きます。
が、そのことは、かえって人間を迷わす結果になりました。
なぜなら、姿形のない神より、パンの方がはるかにわかりやすいです。
現代社会において、お腹が空いた時、教会に話を聞きに行く人はないですね。パンを与えてくれる会社や、国や、権威を頼ると思います。
神の教えと、パンを与えてくれる人と、どちらが正しくて、誰に仕えるべきなのか。
社会が高度になれば、なるほど、価値観も多様化します。
「積極的に生きろ」「あるがままに生きろ」「ゆっくり生きろ」...人生論だけでも、星の数ほどあって、考えれば考えるほど、迷うばかりです。
≪ひざまずくべき対象≫を見誤れば、心が傷つくばかりか、仕事を失い、家族も失い、人生もめちゃくちゃになってしまうからです。
《パン》の奇跡を認めることによって、おまえは、個個人ならびに全人類にとって共通した人間の永遠の悩み、すなわち、《だれの前にひざまずくべきか?》という悩みに、解答を与えられたはずなのだ。自由となった人間にとっては、一刻も早く自分がひざまずくべき対象を探し出すことが、何よりも苦しい、常住不断の心労であった。
こうした迷いは、多くの人がパンだけでは満足せず、次は精神的充足を求めるところに起因します。
毎日、お腹いっぱいパンを食べて、物質的には満たされても、生き甲斐もなく、愛する人もなく、広い屋敷にぽつんと一人で置かれるような人生なら、「やはり、パンのみに生きるのは間違いだ」と思い直すでしょう。
その矛盾と葛藤を、大審問官は次のように指摘します。
ところで、人間たちの自由を支配できるのは、彼らの良心を安めてやれる者にかぎられる。おまえにはパンという絶対確実な旗が与えられた。パンを与えさえすれば人間はひざまずく。なぜならパンより確実なものは何もないからだ。
しかし、もしそれと同時にだれかおまえのほかに人間の良心を支配する者が現われたら――おお、そのときは、人間はおまえのパンを投げ捨ててでも、自分の良心を誘惑する者のあとに従うだろう。その点ではおまえは正しかった。なぜなら、人間存在の秘密はただ生きるということにあるのではなく、なんのために生きるかということにあるからだ。なんのために生きるかについて確固たる観念を持てぬかぎり、人間はたとえパンの山に囲まれていようと、生きることをいさぎよしとせず、この地上にとどまるよりは、むしろ自ら生命を絶つだろう。それは確かにそうだ。
だが、実際にはどうなってしまったのだ。おまえは人間の自由を支配する代りに、むしろ彼らの自由をより大きくしてしまったではないか! それともおまえは、善悪の認識における自由な選択よりも安らぎのほうが、いっそ死のほうが、人間にとって大事なものだということを忘れてしまったのか? 人間にとって良心の自由ほど魅力的なものもないが、しかしこれほど苦しいものもないのだ。
ところが、人間の良心を永久に安らかにできる確固とした基礎を与える代りに、おまえが選んだのは、およそ異常な、謎めいた、あいまいなもの、とうてい人間の手には負えないものばかりだった。そこでおまえの行為は、まるで人間をまったく愛していない者の行為のようになってしまった。
イエスも、教会も、人間を正しい方向に導こうとして、時に、無理な要求をします。
欲望を捨てなさい。
優しくしなさい。
敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
しかし、人間は神ではありませんから、お洒落なものを見れば欲しいと思うし、無礼をされたら腹も立ちます。
にもかかわらず、善良であることを説くイエスは、あまりに人に厳しく、人間のことなど、まったく愛してないみたいです。
ついには、現実の矛盾に耐えられなくなり、「人間がおまえの姿をも拒否し、おまえの真理にさえ異を唱えるようになるだろう」、イワンやスメルジャコフのような人間が誕生します。
「誰に心を委ねるか(人生の指針を求めるか)」は、人の一生を左右する大きな選択です。
「神」一択なら迷うこともないですが、選ぶのが自由な時代においては、選択を誤ることもあります。
第三の誘惑【心弱き人間】 奇跡と神秘と権威を示せ
さらに大審問官は、迷える人間が神の教えを信じるには、「奇跡と、神秘と、権威」が必要だと指摘します。
イエスが悪魔の誘いにのって、神殿の屋根の上から飛び降り、奇跡を見せれば、何も言わなくても、人間は無条件に信奉したでしょう。
しかし、イエスはそれも退け、人間の知性と良心に期待しました。自らの内側に、神を見いだし、常に神とともに在ると信じたのです。
が、それも期待外れに終わり、迷える現代人は、まがいものの奇跡と神秘と権威に惹きつけられています(インチキ教祖や自己啓発インフルエンサー、等々)
人はイエスが思うほど賢くもないし、強くもないからです。
おまえは神の子として誇り高く、立派に振舞ったにはちがいない、だが人間たちは、この弱い反逆者の種族はどうなのだ、彼らは神ではあるまい?
おまえはあのときはっきりと悟ったのだ、わずかの一歩でも踏み出せば、身を投げようというそぶりでも見せれば、たちどころにおまえは神を試みることになり、神への信仰はすべて失われて、おまえは自分が救いにやって来たはずの大地にぶつかって粉々になり、おまえを誘惑した賢い悪魔を喜ばすことになるということを。
しかし、くり返して言うが、おまえのような人間は数多くいるものだろうか? それにおまえは、そのような誘惑が人間にも耐えられるものだなどと、ほんの一瞬にもせよ本気で考えることができたのか? いったい人間の本性というものは、そのような恐ろしい生死の瞬間にも、自分の魂の根底をゆさぶるような恐ろしい、苦痛に充ちた疑問の瞬間にも、奇跡をしりぞけて、心の自由な決定だけを拠(よ)りどころとしていけるように創られているものだろうか?
おまえは、人間は神よりもむしろ奇跡を求めるものであり、奇跡を否定するや否や、ただちに神をも否定するようになることを知らなかった。こうして、奇跡なしではいられない人間は、今度はもう自分で勝手に新しい奇跡を次々と創り出して、祈祷師のまやかしや巫女の妖術にまで頭を下げるようになる、たとえ自分が本来は反逆者、異教徒、無神論者であってもそうするのだ。
誓って言うが、人間は、おまえが考えていたよりも、かよわく、いやしいものに創られていたのだ!いったいこんな人間に、おまえと同じことがやりとげられるものだろうか? 人間を買いかぶるあまり、おまえは人間にあまりにも多くのことを要求し、その結果、おまえの行為は、人間に対してまるで思いやりのない仕打ちになってしまった。
【コラム】 イエスの接吻が意味すること
大審問官は90歳近い老人ですが、大審問官がイエスに対して投げかける辛辣な言葉は、信仰を疑うイワンの憤懣であり、ドストエフスキーの神に対する問いかけに他なりません。
一つのレトリックとして、ドストエフスキーは大審問官というキャラクターにイワンの疑問と葛藤と語らせ、それに答える形で、イエスの接吻を描いているわけですね。
大審問官の言い分は、これでもか、これでもか、というほど怨嗟に満ち、不条理な現実に対するイワンの怒りとやるせなさが、ひしひしと伝わってきます。
この場面を、イワンの口から直接語らせるのではなく、大審問官というキャラクターを借りて主張させたのは、ドストエフスキー(神)の究極の回答である「イエスの接吻」を描きたかったからでしょう。
イエスの接吻は、いわば、赦しと抱擁の証し。
人類のあらゆる苦悩――大審問官の神への怨嗟も含めて、寛く包み込み、「恨んでも、憎んでも構わない。それが人間だから。そして、そのようなあなたを心から愛します」というメッセージですね。
そして、兄弟の会話の最後、アリョーシャがイワンに同じようにキスすることで、「神の代理人による赦し」がイワンに与えられます。
イワンが「盗作だぞ!」と叫びながらも、最後には「(話を聞いてくれて)ありがとう」と礼を言うのは、「怨嗟も含めて、あなたを愛する」というアリョーシャの思いが伝わったからでしょう。
イワンがどんな屁理屈を並べようと、人は愛なしに生きられないし、こんな瞬間にさえ、アリョーシャの優しいキスに心を救われています。
つまり、神とはそういうものです。
*
続きのコラムはこちら。
『イエスの沈黙』の意味と、「愛と否定は両立しない」をテーマにしたコラムです。
江川卓『謎解き・カラマーゾフの兄弟』の解説より
謎解き『カラマーゾフの兄弟』 ~第Ⅻ章 「実現しなかった奇跡」より。
「間もなくイエスは悪魔の誘惑にあうため御霊につれられて荒野に上がられた。四十日四十夜断食されると、ついに空腹を覚えられた。すると誘惑する者(悪魔)が進み寄って行った。『神の子なら、そこらの石ころに、パンになれと命令したらどうです』。しかし答えられた。「≪パンがなくとも人は生きられる。神はそのお口から出る言葉のひとつびとつで、人を生かしてくださる≫と聖書に書いてある」
ところが、イワンの語る話はすこし異なる。
「かつて恐ろしい、賢い霊(ドウーフ)、自滅と虚無の霊、偉大な霊が荒野でおまえと問答したことがある」という表現で、それははじまる。すでにここまでを訊いた段階で、アリョーシャの心には一つの疑問が生まれたはずである。
なぜイワンは、聖書がはっきり「悪魔(ディーアボル)」「誘惑する者(イスクシーチェリ)」(悪魔の別名)と呼んでいる存在を、「恐ろしい、賢い霊(ドウーフ)、自滅と虚無の霊、偉大なる霊」などと呼ぶのだろうか。イワンはこれを「悪魔」とは認めないのか。なぜ「霊」などという言葉を使うのか。「霊」といえば、イエスを荒野に連れていった「御霊」が、大文字ではじまっているとはいえ、やはり同じ「ドウーフ」と呼ばれているではないか。兄はこの「御霊」と「悪魔」を混同しているのではないか。黙って先を聞いていっても、「悪魔」という言葉は慎重に避けられている。すべて、「力ある賢い霊」「恐ろしい、聡明このうえない霊」「力ある霊」という言葉である。
「それにしても」と、アリョーシャの疑問はさらにふくらむ。
どうしてこの「霊」に「賢い」とか「力ある」とか、「聡明このうえない」とかいった形容詞が必要なのだろう。ついには「霊」の知力に関して、「おまえの相手がうつろいやすい人間の知恵ではなく、永遠にして絶対の英知であることが理解できようというものだ」といった言葉も出てくる。「永遠にして絶対の英知」といえば、これは神そのひとの英知を指す言葉ではないか。それを「悪魔」に、いや、何かわけのわからない「霊」なんぞに与えるとは。
アリョーシャの疑問はぐんぐん大きくなっていく。ことによるとアリョーシャは「霊」の賢さ、聡明さのあまりの協調に、自分の知力、知性に対するイワンの絶大な自信の反映を見ていたのかもしれない。
それにしても、どうしてドストエフスキーないしイワンは大審問官に、マタイ福音書の「御霊」といかにもまぎらわしい「霊」などという語で「悪魔」を呼ばせたのだろうか。
この箇所の解説も非常に長いので、続きは、ぜひ江川氏の著書を手に取って、読んで頂きたいが、ざっくばらんに申せば、イエスの前に現れた悪魔は、いわゆる「サタン」、悪魔の尻尾をもった、地獄の使いではなく、イエスの中の「心の弱さ」の象徴ではないか、ということ。
たとえば、ダイエット中の女性は「いいじゃないか、ケーキ一個ぐらい」という心の声をよく聞きます。
それを「悪魔の囁き」と捉え、必死で振り切る人も少なくないでしょう。
イエスも同じ。
神の子と言えども、空腹や名誉欲に心が揺れないはずがありません。
「愛より金」「教祖になって丸儲け」「女性にモテまくり」等々、数え切れないほどの悪魔の囁きが聞こえたと思います。
それを「誘惑」と捉え、常に自分を厳しく律したことは想像に難くありません。
邦訳では、「悪魔」という言葉が一般的ですが、露語の原文においては、「霊(ドワーフ)」という言葉が使われ、必ずしも「サタン(地獄の使い)」を意味しているわけではありません。
ドミートリイが自分の胸を叩きながら「ここでは悪魔と神が戦っている。で、その戦場は――人間の心なんだ」と言う名台詞に表されるように、イエスの心の中の葛藤と解釈するのは最適解ではないでしょうか。
そう考えれば、大審問官というキャラクターも、イワンの心に棲みついた懐疑の象徴であり、結末がイエスの接吻で終っているということは、それこそ、彼の本心と言えるでしょう。
それが分かったから、アリョーシャも同じことをして返し、イワンも「ありがとう」と頬を緩める。
ゆえに、このパートはハードな宗教談義であると同時に、兄弟愛を描いた美しい場面でもあるんですね。
いずれにせよ、この後、イワンがフョードルの命を受けて旅立ち、アリョーシャの側を離れたことは痛恨でしかありません。
この後訪れる悲劇を予感しながら、「わざと離れて父親を見殺しにした」というのは、その通りだと思います。
【終わりに】 『大審問官』の意味を探しても答えはない
『大審問官』は、内容が抽象的なこともあり、何が言いたいのかさっぱり分からない人も多いと思いますが(私も原卓也・訳は挫折した)、要はイワンや大審問官の疑問も含めて「神は愛する」という意味だそうです。江川卓訳と謎解き本を読めば、よく分かります。
イエスも「こんな風に生きなさい」と理想を説いてはいますが、それだけで人は生きられない現実も熟知しています。
だから、心を強く保ち、誘惑を遠ざけることを、繰り返し、弟子にも言い聞かせているんですね。
そもそも神は、願いに報いてくれるスロットマシーンではありません。
「信じれば救われる」というのは、明日にも奇蹟が起きて、恋人ができたり、高収入になるという話ではなく、心を高く保てば、災いを遠ざけ、穏やかな気持ちで過ごせますよ、ぐらいの意味であり、見返りを期待するものではないです。
にもかかわらず、神を信じれば、明日にも奇蹟が起きて、人生がビッグに変わると期待するから、神に失望し、信仰が裏切られたと自暴自棄になるのです。
ドストエフスキーも答えを授けるために小説を書いたのではなく、自身の思考の道程をアリョーシャやイワンに託したまでです。
(ちなみに答えを授けようとするのは自己啓発と言います)
万人が納得いく答えなど、この世の何所にも存在しないことは、彼自身が一番よく知っているし、書きながらも必死に答えを探し求めている様子が伝わってきます。
つまり『答え』ではなく、彼自身の『問いかけ』を小説に著しているわけですね。
ですから、大審問官の意味について、正解を求めること自体がナンセンスだし、絶対的な解釈など、この世には存在しません。
それよりも、「これはどういう意味なのか」と考えながら読み進めること自体に意義があります。
下記リンクの荻原さんも書いておられますが、
「ドストエフスキーをすらすら読んでもらっては困る。登場人物と対話をかわしながら、考えながら、つっかえつっかえ読んでもらわなくては、困る」
その通りです。
作者のイワンでさえ、大審問官の問いかけに対し、一言の反論も書かず、「イエスの接吻」で総括しているのですから、読者に正答など分かるはずがありません。
大審問官のパートを呼んで、「パンが、愛か、どちらが大事なのだろう」と一瞬でも考えることができたら、それだけで読んだ価値があるし、それこそドストエフスキーが読者に期待したことではないでしょうか。
https://yumetiyo.hatenablog.com/entry/20151006/1444104602
亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がいかにひどいか(連絡船 / 木下和郎)
http://www.kinoshitakazuo.com/kameyama.pdf
(496ページにわたる大作です。スマホ閲覧はご注意下さい。私用に限り、ダウンロード可能です)
『大審問官』の江川卓の注解は、下記リンクより。
初稿 2017年11月21日