江川卓『カラマーゾフの兄弟』は滋賀県立図書館にあります詳細を見る

    【9】 人類一般を愛すれば、個々への愛は薄くなる ~「空想の愛」と「行動の愛」の違い

    人類一般を愛すれば、個々への愛は薄くなる ~愛の実践には厳しさを伴う(9)
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    目次 🏃‍♂️

    愛の実践とは

    章の概要

    父フョードルと兄ドミートリイの金銭問題を解決する為、高徳の僧、ゾシマ長老の仲裁でカラマーゾフ一家が一堂に会します。フョードルらが食事をする間、ゾシマ長老は、自分に合い来た大勢の信徒と面会するために、アリョーシャに伴われて、回廊に顔を出します。

    貧困と虐待に苦しむ農婦らの告白を聞いた後、ゾシマ長老は、裕福な未亡人、ソフラコワ夫人とその娘リーズと面会します。14歳の娘リーザは、足の麻痺を患い、車椅子生活を余儀なくされていました。

    アリョーシャとは幼なじみで、家庭教師としてホフラコワ夫人の家に出入りしていた経緯があります。

    『第Ⅱ編 場ちがいな会合 / 第4章 信仰うすい貴婦人』では、頭の中で奉仕に憧れるホフラコワ夫人に対し、ゾシマ長老が「行動の愛(愛の実践)には労働と忍耐が伴う」と諭すエピソードが描かれています。この再会がきっかけで、アリョーシャはリーズと婚約します。

    母娘の様子は、前の第三章『信仰の篤い農婦たち』に記述されています。

    母親のホフラコワ夫人は裕福な貴婦人で、いつも趣味のよい服を着こなし、まだ年もかなり若く、いくぶん青白い顔に、ほとんど真っ黒に近い目を生き生きと輝かせた、たいへん魅力的な顔だちの女性であった。年はまだせいぜい三十二、三歳だが、未亡人になったのはもう五年も前である。

    十四歳になるその娘は、足の麻痺をわずらっていた。哀れな少女はもう半年ほど前から歩くことができなくなっていて、車のついた細長い安楽椅子に乗せられていた。病気のためにいくぶんやつれてはいるが、明るい表情のその顔はすてきに愛らしかった。長いまつ毛のかげからのぞいている、色の深い大きな目には、なにやらいたずらっぽい光が宿っていた。

    動画で確認

    TVドラマ『カラマーゾフの兄弟』(2007)より

    車椅子に乗ったリーズと華やかに着飾ったホフラコワ夫人がゾシマ長老&アリョーシャと話す場面です。

    https://youtu.be/-YcFzj5MyMo?t=1024

    リーズ カラマーゾフの兄弟

    人の好いホフラコワ夫人は、ゾシマ長老の体調を気づかいながら、「わたくしの苦しみは不信でございます」と悩みを打ち明けます。

    人は幸福のために創られる

    「いえ、いえ、神さまはあなたをわたくしどもから奪ったりなさいません、あなたはまだまだ長生きなさいます」母夫人が大声をあげた。「それに、どこがお悪いのです? そんなにお元気そうで、楽しい、しああせそうなご様子じゃありませんか」

    「きょうはめずらしく気分がよろしいが、これもほんの一時のこととわかっておりますのじゃ。このところは、自分の病状をまちがいなく判断できますのでな。あなたは、わたしが楽しそうに見えるとおっしゃったが、ほんとうに何よりうれしいことを言ってくだされた。なぜといって、人は幸福のために創られるのだし、真に幸福な人こそが、『自分はこの世で神のお言いつけを果した』と言いきれる資格をもつのですからな。心優しい人、聖者といわれる人、殉教者はすべて幸福であったわけですじゃ」

    「ああ、なんという大胆な、高邁なお言葉でしょう」

    母夫人が叫んだ。

    「あなたのお言葉は、ひとつひとつわたくしの心に突き刺さるようでございます。けれど、幸福、その幸福は、どこにあるのでございましょう? いったいどういう人が、自分は幸福だと申せるのでしょう? ああ、きょうせっかく二度目の対面をお許しくだすったご好意に甘えて、この前言い残しましたこと、申しあげる勇気の出ませんでしたことをすっかり聞いていただきとうございます、わたくしが悩み苦しんでおりますこと、ずっと以前から、もうずっと以前から苦しんでおりますことを! わたくしの苦しみと申しますのは、お聞きくださいませ、わたくしの苦しみは……」

    そう言うと彼女は、なにかの激情にかられるように、長老の前に手を合わせた。

    「といわれると、何かとくに?」

    「わたくしの苦しみは……不信でございます……」

    「人は幸福のために創られる」というのもいい言葉ですね。

    人生が上手くいかず、同情によって周りの歓心を買おうとする人は、「元気そうね」と言うと、たちまち不機嫌になります。元気だと、誰にも構ってもらえないからです。それより、「あなた、顔色が悪いわね。大丈夫なの?」と気遣ってもらえた方が嬉しい。人はすっかり売るものがなくなって、容姿やキャリアすらも自慢にならなくなったら、不幸にすがるようになります。そうした人たちにとって、「不幸に見える」というのは美人であるのと同じくらい価値があるんですね。

    しかし、ゾシマ長老は、人々を幸福にするために生きています。人は幸福のために創られるのだし、真に幸福な人こそが、『自分はこの世で神のお言いつけを果した』と言いきれる資格をもつのですからなというのは本当にその通りで、不幸そうなカウンセラーや、貧乏そうなコンサルタントに、悩みを相談する人はいません。この人はいつ見ても快活だ、自信に満ちあふれて、人生の成功者だ、というのが誰の目にも分かるから、周りも「どうすれば成功しますか」と助言を求めるわけで、ゾシマ長老の場合、たとえ病魔に侵されても、神の恵みにより、いつも生き生きと輝いて見えることが何よりも重要なのです。

    金持ちの道楽としての人助け

    ゾシマ長老の「幸福」

    「わたくし、よくこう目をつぶりまして、考えることがございますの、――みなの人がもっている信仰というのは、いったいどこからきたものなのか? って。こういうことは最初は自然界の恐ろしい現象に対する恐怖から出たのであって、もともとは何もなかったのだ、と主張する人たちがおります。けれど、わたくしの思いますのに、一生涯信仰おもちつづけましても、いったん死んでしまえば、急に何もかもなくなってしまって、ある作家の本で読んだことですが、ただ『墓の上に山ごぼうが茂るばかり(注解参照)』ということでしたら、どうでございましょう。

    恐ろしいことでございます! どうやって、どうやって信仰を取りもどせましょう? 

    もっとも、わたくしの信仰と申しましても、ほんの幼いころ、なにも考えずに、ただ機械的に信じていただけですけれど……いったいどうすれば、どうすればこれが証明できますのでしょう? 

    死ぬほど、死ぬほどつろうございます!

    ずいぶん大げさな物言いですが、要は、心の中で祈りを唱えても、それが役に立っている実感がないので、空しい……とういことですね。

    それに対して、ゾシマ長老は的確に答えます。

    「たしかに、死ぬほどつらいことですじゃ。とういうても、これは証明のできることではない、信念をもつことはできますがの」

    「どうやって? どのようにして?」

    行動の愛の体験によってですじゃ。あなたの隣人を行動的に、倦むことなく愛するように努力してみなされ。愛の体験を積むことができるようになるにつれて、神の存在も、あなたの霊魂の不死も信じられるようになりますのじゃ。そして、もし隣人への愛において完全な没我にまで到達できれば、そのときこそは疑いもない信仰をもたれ、もはやいかなる疑念もあなたの心にきざすことがない。これはすでに確かめられた、まちがいのないことですじゃ」

    偉大な人類愛の空想に耽るより、「身近な人間に愛を実践しなさい」ということです。

    「愛の体験」というのは、「好きよ、愛してるわ、ラブラブ、うふふ」の事ではなく、自分の怒りや要求は後回しにして、相手の過ちを許したり、願いを叶えたり、果てしない赦しと忍耐の連続です。

    その中で、人は神なるものを見いだし、愛とは何かを学びます。

    「セレブ妻が教える、もっと愛される10の法則」とは違うんですね。

    行動の愛 ~愛を実践する、ということ

    ゾシマ長老の『行動の愛』という言葉に心を震わせながらも、ホフラコワ夫人は、それが何を意味するのか、理解できずにいます。

    「行動の愛でございますか? けれど、それがまた問題、しかも大問題、大問題なのでございます! 

    現にわたくしは、このうえもなく人類を愛しております、この愛のためには、ほんとうにしていただけないでしょうが、なにもかも投げうって、リーズさえ捨てて、看護婦になろうと空想することもございます。

    こう目を閉じまして、考えて、空想いたしますの、すると、そういう瞬間には、抑えようもない力が身内にみなぎってくるのを感じます。どんな傷も、どんな膿だらけの潰瘍も恐ろしくはなくなります。わたくし、自分の手でその傷口を洗い、繃(ほう)帯(たい)を替えることも平気ですし、そういう苦しんでいる方々の付添婦になってあげて、その潰瘍に接吻することもいとわない気持になります……」

    こういう気持ちで、医療福祉業界に来るのは止めた方がいいですね、燃え尽き、幻滅して、早々に退職することになるから😅

    ホフラコワ夫人は、愛や奉仕というものを夢のように思い描いているだけであって、まったく実践が伴っていません。

    そんな夫人に、ゾシマ長老は、「そういうことを空想されるだけでも、立派な、たいしたことですじゃ。そのうちにはひょっとして、ほんとうに何かよいことをなされることがあるかもしれぬ」と理解を示しますが、夫人はますます自分自身に興奮して、

    「はい、ですが、わたくし、そういう生活を長いこともちきれますでしょうか?」 (←まあ、無理と思う)

    夫人は熱っぽく、ほとんど前後も忘れたようになってつづけた。

    「これがいちばん大きな問題なのでございます! いちばんわたくしを悩ませている問題なのでございます。目をつぶって、よく自問してみることがあります、

    ――いったいおまえはこの道を長いこともちこたえることができるのか? もしおまえがその傷口を洗ってやっている病人が、すぐさま感謝の気持で応(こた)えないばかりか、反対に、おまえの人類愛的な奉仕を評価しようとも、認めようともせず、かえっていろいろなわがままを言っておまえを苦しめたり、おまえをどなりつけたり、無理をいって困らせたり、あげくはだれか上役に告げ口でもしたら(これはひどい苦痛に悩んでいる人にはよくあることでございます) (← よく分かっているじゃないか)

    ――そのときはどうだろう? それでもおまえの愛はつづくのか、つづかないのか? 

    ところが――どうでしょう、わたくしは愕然とする思いで、この自問の答を見つけてしまったのでございます。

    もし人類に対するわたくしの《行動的な》愛を即座に冷ましてしまうものがあるとしたら、それは妄想以外にはありえませんのです。

    つまり、ひと言で言ってしまえば、わたくしは報酬めあての労働者でしかないのです、わたくしはその場での報酬を求めます、つまり、自分に対する賞讃を、愛が愛でむくわれることを求めるのです。でなければ、わたくしはだれを愛することもできません!」

    現代でも、こういうタイプは多いですね。

    「奉仕すること」が自己実現のツールであり、他人の幸福よりも、「かわいそうな人に奉仕している自分」が好きなのです。もし、自分の善行を誰にも知られぬようにやれ……と言われたら、とても損したような気分になってしまう。「こんなに善いことをしましたぁ!」という自分をアピールする方がうんと大事なんですね。

    ホフラコワ夫人は自覚があるだけ上等かもしれません。

    人類一般を愛すれば、個々への愛は薄くなる

    ホフラコワ夫人の疑問に対して、ゾシマ長老は「人類一般を愛することが深ければ深いほど、個々の人間をひとりひとりとして愛することが薄くなる」と答えます。

    「もう年輩の、疑いもなく聡明なお人でしたがの、その人が、あなたと同じようい率直に話してくだすった、なるほど冗談めかしてではあったが、痛ましい冗談でな。私は人類を愛しています、と言われるのじゃ。

    ところが、われながら驚いたことに、人類一般を愛することが深ければ深いほど、個としての人間を、つまり、個々の人間をひとりひとりとして愛することが薄くなる

    空想のなかでは、私はよく人類への奉仕ということについて熱烈な考えにまで達することがあって、もしひょっとしてそんな必要が生じたなら、ほんとうに人々のために十字架も負いかねない気持なのだが、そのくせ、相手がだれであれ、一つ部屋に二日とは暮せない、そのことは経験でわかっている。相手が近くにいるというだけで、もう相手の存在が私の自尊心を圧迫し、私の自由を束縛する。ほんの一昼夜のうちに、どんなに立派な人間でも私は憎むようになってしまう。ある者は食事に時間がかかるからといって、ある者は、風邪を引いていて、しょっちゅう洟をかむからといって憎みだす。つまり、私は、人がほんのちょっとでも自分に接触すると、たちまちその人たちの敵になってしまう。

    その代り、いつもそうなのだが、個としての人間を憎むことが強ければ強いほど、人類一般に対する私の愛はますます熱烈なものになる、と言われるのじゃ」

    イワンも、アリョーシャとの宗教談義で、「人間は近づきすぎると愛せない」と言ってますね。

    どんな人も、「人類みな兄弟」のスローガンを掲げるのは得意です。「人類」というマッスであれば、いくらでも愛することができます。

    しかし、家族や同僚のように近い関係になると、相手の欠点が目について、時には憎むことすらあります。

    人類全体を愛することは得意でも、自身の現実である、隣人を愛するのは非常に難しいわけですね。

    そして、面白いことに、家族関係が破綻したり、孤独な人ほど、人類愛や社会愛について語りたがります。現実の人間関係がまったく機能してない負い目からか、あるいは、身内に目を向けるのが嫌なのか、外のことばかり気にして、「人生とはー」「平和とはー」「友情とはー」みたいな大演説を始めます。要は暇で、誰とも深く接する機会がないから、ホフラコワ夫人みたいに、ふわふわした理想の愛に憧れるわけですね。老親の介護者とか、幼子の母親とか、身近なところで愛を実践している人は、愛について考える暇もないですから。

    それに対して、ゾシマ長老の答えは次の通りです。

    「あなたはもう多くのことを成しとげられた、なぜといってあなたはそれほどに深く、またいつわりなく自分で自分を意識することができたのじゃから。

    ただ、いまあなたがそれほどまで誠実にわたしと話されたのが、わたしからいま受けたように、あなたの誠実さに対する賞讃を受けたいというそれだけのためのものであったとしたら、もちろん、行動の愛の実をあげるうえではなんの成果にも達することはできませんぞ。

    すべてはただ空想のなかにのみとどまって、全人生はまぼろしのように過ぎ去ってしまうにちがいない。

    そうなれば、知れたこと、来世のことなど忘れはてて、あとはおのずと安逸に甘んずるようになられるじゃろう」

    つまり、理想語りだけで愛は実感できない、というたとえです。

    そればかりか、何ひとつ実践できないまま、理想語りだけで空しく終わってしまうかもしれない。

    「空想のなかにのみとどまって」というのは、そういうことです。

    行動の愛とは、きびしく恐ろしいもの

    最後に、ゾシマ長老は、愛を実践することの厳しさを説きます。

    たとえ幸福までは行きつけなくとも、ご自分が正しい道に立っておられることをつねに忘れず、その道を踏みはずさぬように努められるがよい。なにより肝要なのは、嘘をつかぬこと、いかなる嘘もつかぬこと、とりわけ自分自身に対して嘘をつかぬことですじゃ。自分の嘘をよく見張り、片時もそれから目を離さぬようになさるがよい。

    他人に対して、また自分に対しての嫌悪の気持も避けなさるがよい。自分のうちに醜いと思われるものがあるとしても、あなたがそれに気づいたというだけで、もうそれは浄められるのじゃ。恐怖の気持も避けなさるがよい、と言うても、恐怖そのものがあらゆる嘘の結果にしかすぎんのじゃがな。愛を実現するうえでおのれが小心であることにおののいていてはならぬし、たとえそのさいよからぬ行動があるとしても、さほどまで尻込みすることはない。

    あなたのはげみになるようなことを何も言えなくて残念じゃが、行動の愛というものは、空想の愛とはちがって、きびしく恐ろしいものじゃ。空想の愛はすぐさまかなえられる功業を渇望し、世人に認められることを求める。そうなると、ただもう手間ひま取らず、一刻も早くそれが実現するためには、しかもちょうど舞台の上でのように、みなに見てもらい、讃められようためには、生命まで投げ出してしまうようなことにも、実際になりかねない。けれど行動の愛は労働と忍耐でな、ある人にとっては、いわば大きな学問にもひとしいものかもしれぬ。

    しかし、いまから言っておきますがの、あなたがどんなに努力をされても、いっこうに目的には近づかず、かえって目的を離れて行くような気持におそわれて、慄然となさるようなとき、――そういうときにこそ、よくよく言っておきますがの、あなたはふいに目的に到達され、たえずあなたを愛し、たえずあなたをひそかに導いておられる神さまの奇跡の力を、ご自身の上に明らかに目にされることになるのですじゃ。では、ごめんくだされ、これ以上、お話ししているわけにまいらぬ、待っておられる人がいますのでな。またお目にかかろう」
     夫人は泣いていた。

    『行動の愛というものは、空想の愛とはちがって、きびしく恐ろしいものじゃ。空想の愛はすぐさまかなえられる功業を渇望し、世人に認められることを求める』というのは本当にその通りで、現代のSNSでも、「私はいい人、社会に役立つ人」アピールが過ぎて、過激な行動に走ったり、他者を執拗に攻撃したり、どんどんおかしな方向に突っ走る人も少なくないですね。その人たちにとって、「人助け」は、自分の人生を飾るための思想ファッションであって、本当に他人を助けたいわけではない、むしろ、「人助け」をダシに周囲の賞讃を集め、自分自身が救われている、本来の目的とは真逆だったりします。

    ゾシマ長老の言う通り、行動の愛、現実に愛を実践することは、多大な痛みと犠牲が伴うものです。子育てなど、その典型ですね。結婚だって、我慢と譲歩の連続です。自分に100パーセント都合のいい人間関係など、どこにもありません。

    誰でも人類愛を熱烈に訴えることはできるけど、近づきすぎると愛せない、それが「個々の人間として愛することはできない」の意味です。

    ホフラコワ夫人の信仰心も、奉仕の気持ちも、今は自分勝手な空想で、本当に貧しい人々に憐憫を感じているわけではありません。しかし、その過ちに気付き、本気で愛の実践に取り組むなら、夢みたいな願望もいつかは現実社会で実を結ぶかもしれない、というゾシマ長老のアドバイスです。その後の夫人の言動を見る限り、その可能性は低そうですが――。

    こうしたゾシマ長老の「行動の愛」は、アリョーシャに対する還俗の勧告に繋がります。

    僧院はお前の居るべき世界ではない』という言葉は、若いアリョーシャにはショックですが、僧院に閉じこもり、頭の中で愛について思い巡らすより、修羅場のカラマーゾフ家に戻って、不幸な父や兄たちのために尽力する方が、よほど魂の修業であり、愛の実践である――というゾシマ長老の教えは、まったくその通りです。

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    【13-1】 僧院はお前の居るべき世界ではない ~行動の愛こそ魂の修業 カラマーゾフ一家の争いを目の当たりにしたゾシマ長老はアリョーシャに僧院を出て、二人の兄の側に居るよう促す。アリョーシャは動揺するが、俗世に戻り、家族に尽くすことが真の修業であることを教えす。「行動の愛」とは何か、ゾシマ長老の哲学が感じられる場面。

    また、「自分に嘘をつかぬこと」は、わざと道化を演じるフョードルにも繋がりますね。

    【7】 自分にも他人にも嘘をつけば真実が分からなくなる 老いたる道化 フョードルとゾシマ長老の会話】にもあるように、ゾシマ長老がお出ましになると、フョードルはさっそくふざけて、自虐ギャグに走ります。

    ホフラコワ夫人にしても、本当は奉仕にも他人にも興味がないのに、偉大な貴婦人でありたいが為に、病人に献身する自分の姿を夢見て、「信仰! 信仰!」と言ってるとしたら、それは嘘です。また、そうした嘘を自分にも他人にも続けていると、自分でもどれが本当か分からなくなって、結局は、自分も周りも不幸にしてしまう、という事ですね。

    江川卓による注解

    墓の上に山ごぼうが茂るばかり

    ホフラコフ夫人、「一生涯信仰おもちつづけましても、いったん死んでしまえば、急に何もかもなくなってしまって」に続く言葉。

    『山ごぼうが茂るばかり』 ツルゲーネフの小説『父と子』の主人公バザーロフの言葉の引用。百姓がよい暮らしをできるようにと、知識人たる自分が努力しても、百姓は自分に「ありがとう」も言わないだろうし、百姓が立派な家に住む時分には、「ぼくの体からは山ごぼうが生えているだろうさ」という文脈で出てくる(二十一章)

    ちなみにヤマゴボウは、「根菜のゴボウ」のイメージがありますが、こういうのです。空き地などに、よく茂ってますね。

    Phytolacca-americana-berries.JPG

    原卓也訳『信仰のうすい貴婦人』

    上記のパートについて、原卓也訳(新潮文庫)では、下記のようになています。

    幸福とはどこにあるのでしょう

    「神さまはあたくしたちから、あなた(ゾシマ長老)をお取りあげなさいませんわ。まだ、いつまでも長生きなさいますとも」

    母親が叫んだ(地主夫人)。

    「……もし快活そうに見えるとしたら、そうおっしゃってもらえるほど、わたしにとって嬉しいことは、いまだかつて何一つありませんでしたよ。なぜなら、人間は幸福のために創られたのですし、完全に幸福な人間は、自分に向ってはっきり『わたしはこの地上で神の遺訓をはたした』と言う資格があるからです。すべての敬虔な信者、あらゆる聖者、あらゆる尊い殉教者は、みな幸福だったのです」

    「ああ、なんというすばらしいお話。なんという大胆な尊いお言葉でしょう」

    母親が叫んだ。

    「お言葉の一つ一つが、心に突き刺さるような感じがいたしますわ。それにしても、幸福とは、幸福とはいったいどこにあるのでしょう?

    「あたくしが苦しんでいるのは……疑いです……」

    「神への疑いですか?」

    「……でも、来世ということが謎なのです! そしてだれも、だれ一人、これに答えてくれませんもの! やがてくる来世の生活という考えが、苦しいほどあたくしの心を乱すのでございます。 ≪中略≫ 何によって証明し、何によって確信すればよろしいのでしょう? ああ、あたくし不幸ですわ! こうして立って、あたりを見まわしてみると、どなたもみな、ほとんどすべての方が同じように、こんなことなぞ気に病んでいないのに、あたくしだけ、それに堪えぬくことができずにいるのでございます! これは死ぬほどつらいことですわ、死ぬほど!」

    「疑いもなく、死ぬほどつらいことです。だが、この場合何一つ証明はできませんが、確信はできますよ」

    「どうやって? 何によってですか?」

    実行的な愛をつむことによってです。自分の身近な人たちを、あくことなく、行動によって愛するよう努めてごらんなさい。愛をかちうるにつれて、神の存在にも、霊魂の不滅にも確信がもてるようになることでしょう。やがて隣人愛における完全な自己犠牲の境地にまで到達されたら、そのときこそ疑う余地なく信ずるようになり、もはやいかなる懐疑もあなたの心に忍び入ることができなくなるのです。これは経験をへた確かなことです」

    江川訳では「行動の愛」と訳されていますが、原卓也訳では「実行的な愛」になっています。

    どちらも、愛の実践を説いていて、言いたいことは同じです。

    相手の個性がわたしの自尊心を圧迫する

    「一言で申してしまえば、あたくしは報酬目当ての労働者と同じなのです。ただちに報酬を、つまり、自分に対する賞賛と、愛に対する愛の報酬とを求めるのでございます。そうでなければ、あたくし、誰のことも愛せない女なのです!」

    ≪中略≫

    「その人(ある医者)はこう言うんです。自分は人類を愛しているけど、われながら自分に呆れている。それというのも、人類全体を愛するようになればなるほど、個々の人間、つまりひとりひとりの個人に対する愛情が薄れてゆくからだ。 空想の中ではよく人類への奉仕という情熱的な計画までたてるようになり、もし突然そういうことが要求されるなら、おそらく本当に人々のために十字架にかけられるにちがいないのだけれど、それにもかかわらず、相手がだれであれ一つ部屋に二日と暮すことができないし、それは経験でよくわかっている。だれかが近くにきただけで、その人の個性がわたしの自尊心を圧迫し、わたしの自由を束縛してしまうのだ」

    江川訳では、「人類一般を愛することが深ければ深いほど、個々の人間をひとりひとりとして愛することが薄くなる」となっています。

    「相手がだれであれ一つ部屋に二日と暮すことができないし、それは経験でよくわかっている。だれかが近くにきただけで、その人の個性がわたしの自尊心を圧迫し、わたしの自由を束縛してしまうのだ」というのは、結婚したことのある人なら、頷きすぎて首の骨が折れるのではないでしょうか😂

    正しい道からはずれぬように

    「でも、どうしたらよいのでしょう? そんなときは絶望するほかないのですか?」

    「ご自分にできることをなさい、そうすれば報われるのです。あなたはもう、ずいぶん多くのことをやりとげていますよ。なぜってそれほど深く真剣に自覚することができたのですからね!  

    ≪中略≫

    かりに幸福に行きつけぬとしても、自分が正しい道に立っていることを常に肝に銘じて、それからはずれぬように努めることですな。肝心なのは、嘘を避けることです。いっさいの嘘を、特に自分自身に対する嘘をね。また、他人に対しても、自分に対しても、嫌悪の気持ちはいだかぬことです。内心おのれが疎ましく見えるということは、あなたがそれに気づいたという一事だけで、すでに清められるのです。もっとも、恐れというのはいっさいの嘘のもたらす結果でしかありませんがの。愛の成就に対するあなた自身の小心さを決して恐れてはなりませんし、それに際しての間違った行為さえ、さほど恐れるにはあたらないのです。

    かりに幸福に行きつけぬとしても、自分が正しい道に立っていることを常に肝に銘じて、それからはずれぬように努めることです」というのは、まったくその通り。

    今はまだ意味が分からず、成果が得られなくても、自分はどこを目指すべきか、常に肝に銘じて、それに殉じることが全ての基本です。

    江川訳では、この部分は、「たとえ幸福までは行きつけなくとも、ご自分が正しい道に立っておられることをつねに忘れず、その道を踏みはずさぬように努められるがよい」となっています。

    この部分は、原訳の方が分かりやすいかも。

    ゾシマ長老のキャラクターも、全体にマイルドな印象ですね。

    カラマーゾフの兄弟(上中下)合本版(新潮文庫) Kindle版
    カラマーゾフの兄弟(上中下)合本版(新潮文庫) Kindle版

    誰かにこっそり教えたい 👂
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