あらすじ
【39】 世界を変えるのは人の心から ~告解と改悛と赦しの意義の続きです。
ゾシマ長老は死を前にして、アリョーシャや神父らに最後の訓諭を与えます。前章では、ゾシマ長老の人格形成に大きな影響を与えた兄マルセルの死と変容、青年時代の愚かな決闘と悔悟、入信への決意、謎の訪問者の罪の告白と改悛が描かれ、後半部となる『第Ⅵ編 ロシアの修道僧 / 第3章 ゾシマ長老の談話と説教より』では、ドストエフスキーの遺言ともいうべき「願い」が綴られています。
章内の構成は次の通りです。
(i) 主従について、主従は精神的に互いに兄弟となりうるか
(g) 祈りと、愛と、他界との接触について
(h) 人は同胞の裁き人となりうるか? 最後までの信仰について
(i) 地獄と地獄の火について、神秘論的考察
動画で確認
映画『カラマーゾフの兄弟』(1968年)より。1分クリップ。
最後の訓諭を与えるゾシマ長老と神父たち。兄たちの面倒に耐えられず、泣きつくアリョーシャが可愛い・・・
愛と祈りを忘れるなかれ
不確かな思考が「念」となるまで
若者よ、祈りを忘れてはならぬ。その祈りが真心から出たものであるなら、祈りをあげる都度、新しい感情がひらめき、そこにはまた、それ以前には知ることのなかった新しい思想が生れ、その思想にあらためて力づけられることになろう。そして、祈りが修養であることを悟るようになる。
祈りは、「信念」と置き換えてもいいですね。
自分の人生について、あるいは身の回りの世界に対して、心の核となる信念を持ち続けることは非常に重要です。
自己啓発の本を読んで、その場でぱっとやる気になるけど、次の日には醒めて、跡形も無くなってしまうようなものは信念とは言いません。
今は不確かなアイデアや想いが揺るぎない「念」になるまで、繰り返し自問自答し、心の核に育てていく。その過程が学びであり、青春そのものです。
愛によって自分を美しく保つ
お坊さま方、人間の罪を恐れず、罪あるままの人間を愛されるがよい、なぜなら、それこそが神の愛に近い形であり、この地上での愛の極致だからである。神のすべての創造物を、その全体をも、一粒一粒の砂をも愛されよ。一枚の木の葉、一条の光をも愛されよ。動物を愛し、植物を愛し、一切の物を愛されよ。一切の物を愛するとき、それらの物のうちにひそむ神の機密を会得できよう。 ≪中略≫
ある種の考えを前にして不審の念に襲われることがある。とりわけ人々の罪を目のあたりにしたときは、思わず、『力によって捕えるべきか、それとも謙虚な愛をもってすべきか?」と自問するものである。つねに、『謙虚な愛をもって捕えよう』と決意されるがよい。いったんこのように決意して変ることがなければ、全世界を征服することも可能になろう。愛に充たされた謙虚さは恐ろしい力であり、それは他に匹敵するものを持たぬほど、あらゆる力のうちでももっとも強い力である。日々、また刻々に自身をかえりみて、おのれの姿をつねに美しく保つよう心するがよい。
人間というのは、意識して高く保つ努力をしなければ、一気に奈落に転がり落ちる喩えです。
登山がそうであるように、登るのは大変ですが、降るのは面白いほど楽チンです。
何の努力もせずに、楽だ、楽だと構えていたら、知らない間に奈落まで落ちています。その頃には、顔つきも、態度も、暮らしぶりも、何もかも落ちぶれて、もう一度、取り戻したいと思っても、それこそ至難の業になるでしょう。
精神面においても、投げたり、諦めたり、見限ったりするのは楽ですが、相手とがっつり向き合えば、非常に憑かれるし、自分の生活が犠牲になることもあります。
全面的に自分を犠牲にすべきとは思いませんが、愛には痛みが伴うのが真実ではないでしょうか。
真実の愛は命がけです。
愛とは長い努力を積んで身に付けるもの
お坊さま方、愛は教師であるが、それを身につけるにはそれなりの方法を知らねばならぬ。なぜなら愛をうるのはたやすいわざではなく、高い代価をはらい、長い努力を積み、そのうえではじめてあがなわれるものだからである。
愛するとは、偶然の束の間のものであってはならず、持続するものでなければならないのだから。偶然に愛することならだれにもできるし、悪人にもそれはできる。
愛と言えば、ふわふわした、ロマンチックなものというイメージがありますが、真実の愛は、そう簡単には手に入らないし、愛し続けることも、普通の人間には至難です。
ワンコやニャンコも、一時期、「かわいい~」と思っても、家の中でおしっこする、うんちする、ワンワン吠える、障子に孔を開ける・・という事が続けば、誰でも放り出したくなるのではないでしょうか。
そこを耐えて、工夫して、最後まで責任をもって飼うのがどれほど大変か、そして、犬猫でさえこれほど大変なものを、相手が人間となれば、どれほど苦しいか、愛とは戦いであって、平和ではありません😓
真心は大海のひとしずくのようなもの
私の若き兄は小鳥に赦しを乞うた。これは一見、無意味なことのように思えるかもしれないが、実はここに真理がある。なぜなら、すべては大海のようなもので、つねに流れ動き、相接しているから、その一端に手をふれれば、その反響はたちまち世界の他の涯にまでも及ぶからである。
小鳥に赦しを乞うのは気ちがいじみているかもしれない。だが人間がいまある姿より、いくらかでも心美しいものとなるならば、それは小鳥にとっても、子供たちにとっても、人間を取り巻くすべての生き物にとっても、心安まることではないか。たとえほんのわずかにもせよ、そのようになるに越したことはないのだ。すべては大海のようだ、と私はくり返したい。
『ペイ・フォワード』の考え方に似ていますね。
自分が受けた善意を他者に返すことで、善意が善意を生み、やがてそれは大きな善となって、社会を豊かにする、というものです。
例えば、日本の新幹線や公共施設は清潔で知られていますが、あれも小学校の頃から、義務教育の一環として、教室や廊下の清掃を課している文化の賜です。幼い頃から訓練することで、責任感や公共意識が育まれ、サッカースタジアムでもきちんと後片付けする、それが世界的に注目を集めるのは、出来ない人や国の方が圧倒多数だからです。
コンビニで唐揚げを買ったら、ゴミはちゃんとゴミ箱に捨てる。一人の行為はまるで無意味かもしれませんが、同じ意識を持つ人が何万人、何十万にんと集まれば、ゴミ一つない美しい町は実現できます。
愛や優しさも、それと同じ。
小鳥や花を慈しむ気持ちは、いずれ波動のように拡がり、美しい大海となって、世界を満たす――という喩えです。
人間のあらゆる罪の責めを自分に負う
「悪業の力が、無法の力が、みにくい環境の力があまりにも強く、一方、われわれは孤立無援である。これではみにくい環境に妨げられて、われわれの高貴な事業の成就もおぼつかない」などと泣き言を言ってはならぬ。お坊さま方、このような意気阻喪に陥らぬことだ!
この場合、救いの道は一つ、――おのれをしっかりと持して、人間のあらゆる罪の責めを自身に負うことである。
友よ、これはまことにそのとおりなのだ、なぜなら自分が一切のもの、一切の人に対して責めを負っていると心から認めるなら、たちまちのうちに、確かに事実はそのとおりであり、自分が万人に対し、万物に対して罪があることを理解できるからである。ところが自分の怠惰と自分の無力を他人に転嫁するならば、結局は悪魔(サタン)の傲慢にくみし、神に対して不平をとなえることにならざるをえない。
「自分が一切のもの、一切の人に対して責めを負っていると心から認める」というのは、日本人にはなかなか分かりにくいですが、他人が過つように、自分も過つ、といったところでしょうか。
自分一人が正しくて、周りがみな間違いと思えば、孤独もますます深まるばかりか、争いも増えて、いっそう不幸になるばかりです。
でも、他人が過つように、自分も過つと思えば、誰の過ちにも理解が及び、許せるようになりますね。
ゾシマ長老も、アリョーシャも、再三にわたり、「赦し」の大切さを説いていますが、その基本となるのは、「自分も心弱き一人の人間である」という喩えです。