現代は自由主義のご時世、汽船と鉄道の時代ですぜ
章の概要
高徳の僧、ゾシマ長老が仲裁する家族会議で、さんざん醜態をさらしたフョードルは、僧院長の食事会を断り、一人で帰路につきますが、途中で気が変わり、「どうせなら、とことん道化を貫いてやろう」と踵を返します。
フョードルがいなくなってせいせいしていた他の参加者は、突然、フョードルが姿を現わしたことに嫌悪感をあらわにします。
しかし、フョードルは売り言葉に買い言葉で、皆をさんざん愚弄すると、「息子のアレクセイは家に引き取られてもらいまさあ!」と言い放ちます。
一見、恥知らずなフョードルですが、シビアに現実を見つめ、「丸いものは丸い」と正直に言い放つ潔さもあります。
19世紀末という時代の変わり目において、もはや奇跡や神性が物を言う時代ではなく、「 現代は自由主義のご時世、汽船と鉄道の時代ですぜ」と持論を展開する、興味深いパートです。
また、これをきっかけに、アリョーシャが還俗する転換期となります。
僧院の偽善 ~誰のおかげで美味いものが食えるのか
フョードルは、ゾシマ長老の前で、『私は人前に出ますと、いつも自分はだれよりもいやしい男だ、みなから道化扱いされているような男だ、という気がしております、そこで、よし、それならいっそほんものの道化になってやれ、だいたいおまえたちからして、一人残らず、おれさまより愚かな、いやしい連中ばかりじゃないか!』と言ったことを思い出し、途中で引き返します。
(参考→ 【7】 自分にも他人にも嘘をつけば真実が分からなくなる 老いたる道化 フョードルとゾシマ長老の会話)
『ままよ、はじめた以上は、行きつくところまで行ってやれ』
彼はふいに心を決めた。この瞬間、彼の内奥にうごめいていた感覚は、次のような言葉で表せるものだったろう。
『もういまさら名誉回復はおぼつかない、それならいっそ、厚顔無恥に居直って、もう一度やつらに唾を引っかけてやるか。きさまらなんぞ屁とも思っちゃいねえや、ってわけだ!』
≪中略≫
彼が僧院長の食堂に姿を現わしたのは、ちょうど祈祷が終って、一同が食堂につこうと動きだした瞬間であった。戸口で立ちどまってひとわたり一座の様子に目をやると彼はみなの顔をじろじろと眺めまわしながら、人もなげな毒々しい調子でながながと笑いだした。
「もう帰ったとお思いだったかもしれんが、おれさまは、ほれ、このとおりだあ!」
彼は広間いっぱいにひびき渡るような声を立てた。
早速、ミウーソフは「もう我慢できない!」と叫び、僧院長は、「一時の争いは忘れて、主への祈りを捧げ、この平和な食事の間に、愛と一族の和合を実現されますように……」と窘めますが、フョードルは、ますます興奮して、僧院や神父らを愚弄します。
神父さま方、私はみなさま方に憤慨にたえんのですわ。だいたい懺悔というものは偉大な機密でございまして、私なんぞも敬虔の気持を抱いておりますし、その前にひれ伏すことも辞さぬつもりがあります、ところが、どうでございましょう、あちらの庵室ではみながひざまずいて大声で懺悔しておるじゃありませんか。いったい大声で懺悔するなどということが許されておりますのですか?
もともと懺悔は耳もとでささやくもの(注解参照)と神聖な神父さま方によって定められておりまして、それでこそ機密となるのでございますよ、これはもう古来からのことでして、それを公衆の面前で、たとえば、わたくしはこれこれしかじか、などと告白できるものでしょうか? いかがです、このこれこれしかじかがおわかりですか? ときには口に出すさえ恥ずかしいようなことだってあるんですからね。
これじゃまるでスキャンダルでさあ! いえね、神父さま方、みなさん方にかかっちゃ、うっかりすると鞭身派(注解参照)に引きこまれかねませんや……私はさっそくにも宗務院に上申書を送りますし、息子のアレクセイは家に引き取らせてもらいまさあ……」
もちろん、これはフョードルの思い込みで、うろ覚えの古い風説や中傷をたよりに、口に出してみただけに過ぎません。
しかし、いったんばかげた話を口に出してしまうと、もう自分で自分をどうすることもできず、ますます興奮して、神父らを嘲弄します。
「なんと下劣な!」ミウーソフが叫んだ。
「お許しくだされ」とふいに僧院長が言った。「昔からこう言われております。『人われをそしり、ついには穢(けが)らわしき言葉を口にするといえども、われ、かかる言葉をすべて聞きて、心に言う。これイエスの医薬にして、わがおごれる魂を癒さんがために送られしものなり』 それゆえ、わたくしどももお客人の言葉をありがたくお受けいたします」
こう言うと彼は、深く頭を垂れてフョードルに会釈した。
「そら、はじまりやがった! 偽善だ、紋切型のきまり文句だ! 文句も古けりゃ、仕草まで古いや! その地につくようなお辞儀も、かびの生えた嘘とただの形式じゃないか! そんなお辞儀は先刻ご承知なんだぜ! 『口へは接吻、胸へは剣』たあ、シラーの『群盗』のせりふでさあ。
神父さん方、私は偽物のきらいな男でしてね。真実が欲しいんですわ! ≪中略≫
それはそうと、いったいどんなご馳走ができているんだろう?」
彼はテーブルに近づいた。
「ファクトリの年代ものポートワインに、エリセーエフ兄弟紹介のメドクか、こりゃたいしたもんですぜ! すなむぐりとはちょっぴりちがうようで、それにしても、しこたま酒瓶を並べたてたもんですな、へへへ!
でも、だれのおかげでこんなものがここに並んでいると思います?
こいつはね、ロシアの百姓どもが、手にまめをこしらえて稼いだなけなしの金をですよ、家の者の食いぶちをへらし、国家に納める分をへずって持ってきたものなんですぜ。
え、坊さま方、あんた方は人民の生き血を吸っておられるんだ!」
「誰のおかげで美味いものが食えるのか」という感覚は分からないでもないです。信徒には厳しい戒律をしき、生活費を削っても寄進することを求めるのに、自分たちはその上に胡座をかいて、なかなかいい生活をしているというのは現代も同じですね。宗教に限らず、国民に清貧を説く人が、自分自身は大きな屋敷で豊かに暮らしをしているのはよくある話です。
また、腹の底では立腹しながらも、「神の教えに従い」、受け入れる振り(?)をする僧院長の聖者ぶった態度も、直情径行のフョードルにしてみたら、偽善にしか見えません。
気持ちは分からないでもないですが、しかし、言い過ぎですね(^_^;
いまは自由主義のご時世、汽船と鉄道の時代
あまりの言いように、ヨシフ神父が「無礼な」と窘め、ミウーソフとカルガーノフが、二人して外に飛び出すと、フョードルもさらにけしかけます。
「では、神父さま方、私もミウーソフさんについてまいりますよ。もうこんなところへは、けっして来やしませんぜ、膝をついて恃まれたって来てやるもんか。千ルーブリ寄進してやったから、また貰えるかと目を皿にしておいででしたな、おれはな、もう帰らぬ青春時代の、おれが受けたいっさいの屈辱の意趣返しをしているんだ!」
彼は自分でこしらえあげた感情の発作にかられるまま、はげしくテーブルを叩いた。
「このちっぽけな僧院も、おれの生涯には深い意味のあったところなんだ! この僧院のおかげでどれほどの苦い涙を流したことか!
女房のわめき女をそそのかして、おれに謀反を起させたのだって、あんた方じゃないか。七つの教会会議でおれを呪って、近在にふれまわったのもあんた方ですぜ!
もうけっこう、いまは自由主義のご時世、汽船と鉄道の時代ですからな。千ルーブリはおろか、百ルーブリだって、百カペイカだって、あんた方にやってらまるもんか!」
科学技術が発達し、人々の暮らしが向上すればするほど、信仰は薄れ、神聖さも失われていくものです。
誰もが無知な時代なら、『受胎告知』や『復活』にも説得力があったでしょうが、受精の仕組みや化学反応を知った今は、それを心底から信じる方が難しいでしょう。
とりわけ、19世紀後半は、産業革命を経て、本格的な機械の時代(モダンタイムス)に移行する過渡期でもあります。人の生き方も、価値観も、すべてが様変わりし、信仰より技術、教会より学校、王侯貴族より会社が豊かさを保証します。一人一人が社会的人格を意識し、民主化も急速に高まる中、もはや教会が人類の庇護者となり、生き道を授けた時代も終わりです。現代社会においては、金銭こそ「神」、その真逆を行く教会とは相容れないものがあります。
「いまは自由主義のご時世、汽船と鉄道の時代ですからな」というのは、本当にその通りで、僧院や神父がどれほど理想を唱えても、説得力はありません。
にもかかわらず、信徒には古い価値観を押しつけ、自分たちは寄進によって美味しい物を食べているのが、フョードルにては偽善に見えるのでしょう。
元から信仰とは縁のないフョードルですが、ここで決裂が決定的となります。
それはまた、後の悲劇の予兆とも言えますね。
キリスト教的には、神の加護が得られなくなった、破門者みたいなものです。
恥知らずと愚かな結末
かくして、フョードルは、アリョーシャに家に帰るよう求め、同行の地主マクシーモフを娼館で殺された男「フォン・ゾーン」に喩えて嘲った後、イワンと馬車に乗りこもうとします。
イワンはマクシーモフを突きとばし、フョードルと二人で帰路に就きますが、イワンはひと言も口をきこうとせず、結局、家族の会合は愚かな結末に終わります。
「アレクセイ!」彼を見かけると、父親は遠くから声をかけた。「きょうのうちに、うちへ引っ越して来るんだぞ、枕もふとんも引っかついでな、ここにはおまえの臭いも残らんようにするんだ」
アリョーシャはその場に棒立ちになって、無言のまま、この光景をしげしげと観察していた。
フョードルはそれにはかまわず、さっさと馬車に乗りこみ、つづいてイワンが、アリョーシャのほうを振り返って声ひとつかけるでもなく、にこりともしないで馬車に乗ろうとした。
ところが、ここでまたまた道化芝居じみた、ほとんど信じられないような一幕が突発して、このエピソードを完璧なものに仕上げることになった。
突然、馬車の踏み段のかたわらに地主のマクシーモフが姿を現わしたのだ。彼は遅れまいと、息せき切って駆けつけた。彼の駆けて行くところは、ラキーチンとアリョーシャが目にしていた。ひどくあわてていたマクシーモフは、まだイワンの左足がかかっていた踏み段に、もどかしげに片足をかけ、車体にとりすがって、馬車の中へ跳びこもうと身がまえた。
「あたくしもお連れくださいな!」
≪中略≫
しかし、すでに席についていたイワンは、無言のまま、いきなりマクシーモフの胸を力まかせにどんと小突いた。相手はたちまち二メートルほども吹っとんだ。彼がころげなかったのは、ほんの偶然である。
「やれ!」
イワンは憎々しげに御者に向かってどなった。
「おい、どうしたんだ? なんだっていうんだ? どうしてそんなことを?」
フョードルがうろたえたが、馬車はもう走りだしていた。イワンは何も答えなかった。
「まったくおまえというやつは!」
二分ほど黙っていたフョードルが、息子のほうを横目に見ながら、また口を切った。
「この僧院さわぎをもくろんだのは、もともとおまえなんだぞ、自分でたきつけて、自分で承知しておきながら、いまさら何を怒っているんだ?」
「ばかを言うのもいい加減にしたらどうです、せめていまくらい休んだらいい」
イワンが無愛想にさえぎった。
フョードルはまた二分ほど黙っていた。
「こういうときはコニャックがいいもんだぜ」フョードルがさも心得たふうにつぶやいた。しかしイワンは何も答えなかった。
「着いたら、おまえも一杯やるか」
イワンはなおも押し黙ったままだった。
フョードルはなお二分ほどころあいをはかっていた。
「アリョーシャのやつは、やはり僧院から引き取ることにするよ。おまえにはさぞかしいやなことだろうがな、尊敬すべきカール・フォン・モール君」
イワンはさげすむように、ひょいと肩をそびやかし、顔をそむけて、窓外を眺めはじめた。あとはもう家へつくまで、二人は口をきかなかった。
この後、カラマーゾフ家のダイニングで、イワン、フョードル、アリョーシャの三人でコニャックを飲みながら繰り広げられるのが、「神はあるのか」「いいえ、ありません」「イワンのほうが正しいらしいな」という『第Ⅲ編 好色な人たち / 第8章 コニャックをやりながら』です。
動画で確認
最後の馬車のシーンは、私も少し意味が分からないです。イワンがマクシーモフを突きとばす理由が、いまいちピンと来ない。そこまで悪い人ではないのに、つっけんどにされて、ちと気の毒です。
TVドラマ(2007年版)より。
https://youtu.be/-YcFzj5MyMo?t=1720
この後、アリョーシャは、ゾシマ長老から「僧院はお前の居るべき場所ではない。父や兄たちの側にいてあげなさい」と促され、僧院を出ることになります。
【まとめ】 場ちがいな会合と行き場のない人々
フョードルの殴り込み(?)で締められる『第8章 スキャンダル』が、「第Ⅱ章 場ちがいな会合」のエンディングとなります。
私は原文を知らないので、「場ちがいな会合」というタイトルが何を意味するのか、深く考察することはできませんが、フョードルが僧院にふさわしいタイプでないのは確かで、それゆえに、皆が引っ掻き回されている印象があります。
会合での会話「神がなければすべてが許される? イワンの苦悩とゾシマ長老の励まし 」や「『どうしてこんな人間が生きているんだ!』 なぜゾシマ長老は大地に頭を下げたのか」を見ても分かるように、イワンも、ドミートリイも、真っ当な人間で、むしろ、そこらの庶民とは知性も品性も桁違いなほど。にもかかわらず、ひねたキャラクターで現実社会と折り合いがつかなくなっているのは、こんな愚劣な父親のせいです。……とはいえ、フョードルもそこらの庶民に比べたら、センスも知性も一級なのですが。
そう考えると、フョードルも、イワンも、ドミートリイも、信仰中心になり立っている地域社会に馴染めず、精神的にも、社会的にも、行き場のない人々なのかもしれません。
ドストエフスキーのテーマの一つとして、「神なき時代の、神なるもの」について考えると、彼らの彷徨は現代人の彷徨であり、どこに救いを見いだすかと言えば、結局は、アリョーシャ=神です。アリョーシャの優しさは神の優しさ――荒ぶるフョードルも、意気がるイワンも、迷えるドミートリイも、アリョーシの前ではしおらしくなり、自分をさらけ出すことができるのも、そこが魂の故郷だからでしょう。特に、イワンにとっては。
さらには、本作を読んで、アリョーシャの優しさと兄弟愛に感動する読者も、心の底では正解を知っているからだと思います。
江川卓氏みたいに、本作が「美しく感じる」のも、そのあたりが理由かもしれないですね。
江川卓による注解
淫乱の宿
フョードルの品性下劣な振舞に対し、自称・知識人のミウーソフと、地主のマクシーモフは嫌悪感を露わにし、「もう我慢できない!」と叫ぶ。そんなマクシーモフに対し、フョードルは、「淫乱の宿で殺されたフォン・ゾーンがあの世からよみがえった」と揶揄する。フョードル的に解釈すれば、ミウーソフもマクシーモフも、上品な信仰者を装っているが、中身は俗物で、自分の方がむしろ真面目に信仰というものを受け止めている……といったところ。あまりに真面目すぎて、逆に道化になるのが、フョードルの人間性。
懺悔は耳もとでささやくもの
フョードルは僧院を侮蔑する理由として、「あちらの庵室ではみながひざまずいて大声で懺悔しておるじゃありませんか。これじゃまるでスキャンダルでさあ!」とわめき立てる。もっとも、これはデタラメで、フョードル自身、そうと分かっているのに、口に出した以上は引っ込めることができない。ついにはアリョーシャを引き取ると言い出し、せっかくの会食をめちゃくちゃにしてしまう。フョードルの挑戦的な一面を表す場面。
鞭身派
上記に続く、侮蔑の言葉。「みなさん方にかかっちゃ、うっかりすると鞭身派に引き込まれかねませんや。息子のアレクセイは家に引き取らせてもらいまさあ……」。これもフョードルの一方的な思い込み。