僧院はお前の居るべき世界ではない
章の概要
ゾシマ長老の仲裁の元、長男ドミートリイと淫蕩父フョードルの金銭問題を解決する為、家族の会合が開かれますが、そこでもフョードルは息子を愚弄し、神父らにも無礼な口をききます。その席で、フョードルは、アリョーシャに「きょうのうちに、うちへ引っ越して来るんだぞ、枕もふとんも引っかついでな、ここにはおまえの臭いも残らんようにするんだ」と言い放ち、家に帰るよう、強要します。
アリョーシャは僧院に残りたいと希望しますが、カラマーゾフ一家の不幸を予見したゾシマ長老は「おまえはあちらでこそ必要なのじゃ。兄たちのそばにおるのじゃ」と還俗を促します。
『第Ⅱ編 場ちがいな会合 / 第7章 出世好きの神学生』では、一貫して「行動の愛」を説くゾシマ長老の信仰と哲学が描かれています。
動画で確認
映画『カラマーゾフの兄弟』(1968年)より。ゾシマ長老とアリョーシャの語らい(1分動画)
TV版より雰囲気が良いです。
ゾシマ長老とアリョーシャの語らい
アリョーシャは長老を寝室まで連れて行って、ベッドに腰をかけさせた。それは、最小限必要な家具だけをそなえた、たいへん小さな部屋であった。 ≪中略≫ 長老は疲れきったようにベッドの上に腰をおとしたが、その目はきらきらと輝き、息づかいが苦しそうだった。腰をおろすと、何か思案するもののように、まじまじとアリョーシャを見つめた。
「行って来なさい、さあ、行って来なさい、わしにはポルフィーリイがおれば十分じゃから、おまえは急ぐがよい。おまえはあちらで必要な人じゃ。僧院長のところへ行って、食事の給仕をするがよい」
「ここに殘るようおっしゃってくださいませ」
アリョーシャは懇願するような口調で言った。
「いや、おまえはあちらでこそ必要なのじゃ。あちらには平和がないのでのう。給仕をしておれば、役に立つこともあるじゃろう。騒ぎが起ったら、お祈りをするがよい。それからな、せがれや(長老は好んで彼をこう呼んでいた)、言っておくが、今後ともここはおまえのおるべき場所ではないぞ。このことはよく覚えておくことじゃ、よいかな、神さまがわしをお召しになったら、お前は即刻この僧院を出て行くのじゃすっかりここを引きはらってな」
アリョーシャはぴくりとふるえた。
「どうしたのじゃ? ここはしばらくおまえのいるべき場所ではない。おまえを俗界での大きな修行に出すにあたって、祝福をしてやろう。おまえはまだまだ放浪すべき運命なのじゃ。それに妻ももたねばならぬ。もたねばならぬのじゃ。ふたたびここで来るまでに、いっさいを耐え忍ばねばならぬし、なすべきこともたくさん出てくるじゃろう。
だが、わしはおまえを信じて疑わぬ。だからこそおまえを送り出すのじゃ。おまえはキリストがついておられる。心してキリストを守るなら、キリストもおまえを守ってくださるだろう。大きな不幸を目にするであろうが、その不幸のなかでしあわせであるじゃろう。わしの遺言はな、よいか、不幸のうちにしあわせを求めよじゃ。
働くがよい。たゆみなく働くがよい。
いまからもうこのわしの言葉を覚えておきなさい。
おまえとはまだ話し合う折もあろうが、わしの命数はもう日数というより時間で数えられるほどに尽きてしまっておるのでな」 (97P)
アリョーシャにしてみれば、僧院に留まる方がはるかに楽です。俗世の揉め事からも超然とし、心清き人たちの間で安らかに暮らせます。
しかし、それでは真の成長に繋がりません。
僧院で修練するだけが全てではなく、俗世でもがき、苦しみながら、神の義を実践することも立派な修業です。
あるいは、その方が、もっと厳しいかもしれません。
ゾシマ長老も、カラマーゾフ一家の問題を目の当たりにし、彼らこそ多くの救いを必要としていることを痛感したのでしょう。たとえ僧院で修業を積み、高徳の僧になれたとしても、家族が不幸なら、アリョーシャも幸せにはなれません。
ゾシマ長老が還俗を促すのも当然で、アリョーシャにとっては、家族のため、社会のため、心を尽くす方が、よほど魂の修行になります。
アリョーシャこそ神の使い ~二人の兄の救いとなれ
アリョーシャが動揺すると、ゾシマ長老は次のように励まします。
「どうしてまだそうなのじゃ?」
長老は静かなほほえみをもらした。
「俗界の者は涙をもって亡き人を送るのじゃが、ここにおるわれわれは、去られる神父を喜びをもって送るのじゃ。喜びをもって、その人のために祈るのじゃ。さあ、わしを一人にしておくれ。お祈りをするのでな。急いで行きなさい。兄たちのそばにおるのじゃぞ。一人ではなく、両方の兄のそばにな」
『カラマーゾフの兄弟』において、アリョーシャは天界の象徴です。
(ドミートリイは大地(俗世)の象徴、イワンは人間界(混沌)の象徴)
一見、二人の兄は、アリョーシャよりも強く、世間慣れして、何の助けも必要ないようですが、ドミートリイには情の脆さ、イワンには潔癖なゆえの脆さがあります。彼らが心から信頼し、愛しているのはアリョーシャで、日頃、生意気な口をきいても、心の底では、愛と赦しを求めているのは明らかです。
人類一般を愛すれば、個々への愛は薄くなる 『行動の愛(愛の実践)』には労働と忍耐が伴うでも述べられているように、愛の実践こそ、まことの愛であり、神の心に適うことです。あんな兄と父だからこそ、実践する価値があるのです。
しかし、若いアリョーシャにそんな道理が分かるはずもなく、突然、突き放されたように感じて、泣きだしてしまいます。
泣くな、アリョーシャ・・
そうして、茫然と小道を歩いている時に、ラキーチンに出くわすわけですね。

ある意味、ラキーチンは、アリョーシャにとっての悪魔と解釈すると面白いです。
ゾシマ長老の死後、グルーシェンカの住まいに連れて行って、堕落させようと試みたのもラキーチンなら、カラマーゾフ一家の不幸をネタに、出世を試みようとするのもラキーチンです。
幻の続編「第二の小説」においても、小賢しく振舞い、アリョーシャを陥れようと画策するのが目に見えています。
それに対して、アリョーシャがどう振る舞うか、裏切り者のユダにどのような罰が降るのか、ドストエフスキーの急逝によって読めないのは本当に残念です。
原卓也訳 ~悲しみのうちに幸せを求めよ
この場面、原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』(新潮文庫)では、次のように翻訳されています。
「行きなさい。さあ、行くがよい。わたしならポルフィーリイでも間に合うから、急いで行きなさい。おまえは向うで必要な人間だ。院長さまのところへ行って、食事の給仕をしてきなさい」
「どうか、このままここにいさせてください」アリョーシャは哀願するような声で言った。
「お前は向うでいっそう必要な人間なのだ。向うには和がないからの。お前が給仕をしていれば、役に立つこともあろう。諍いが起ったら、お祈りするといい。そして、いいかね。息子や(長老は彼をこう呼ぶのが好きだった)、将来もお前のいるべき場所はここではないのだよ。これを肝に銘じておきなさい。わたしが神さまに召されたら、すぐに修道院を出るのだ。すっかり出てしまうのだよ」
アリョーシャはぴくりとふるえた。
「どうした? お前のいるべき場所は、当分ここにはないのだ。俗世での大きな修業のために、わたしが祝福してあげよう。お前はこれからまだ、たくさん遍歴を重ねねばならぬ。結婚もせねばならぬだろう。当然、ふたたび戻ってくるまでに、あらゆることに堪えぬかねばなるまい。やることは数多く出てくるだろうしの。しかし、わたしはお前を信頼しておる。だからこそ、送り出すのだ。お前にはキリストがついておる。キリストをお守りするのだ、そうすればお前も守ってもらえるのだからの。お前は大きな悲しみを見ることだろうが、その悲しみの中で幸せになれるだろう。悲しみのうちに幸せを求めよ。これがお前への遺言だ。働きなさい、倦むことなく働くのだよ。今日以後、わたしのこの言葉を肝に銘じておくといい。なぜなら、これからもお前と話をすることはあるだろうが、わたしの余命はもはや日数ではなく、時間まで限られているのだからの」
アリョーシャの顔にまたしても強い反応が描かれた。唇の端がふるえた。
「どうしたな、また?」長老が静かに微笑した。「俗世の人なら故人を涙で送るのもよいが、ここにいるわれわれは去りゆく神父を喜んであげねばならなのだよ。喜んであげ、その人のために祈ってあげるのだ。さ、わたしを一人にしておくれ。お祈りをあげねばならないから。行きなさい。急いでな。兄さんたちのそばにいておあげ。それも一人だけのそばにではなく、どちらのそばにもな」
原卓也氏の訳文の方が、マイルドですね。江川訳のゾシマ長老は、もっと峻厳で、「不幸」と「悲しみ」の違いは大きいです。
原訳 「お前は大きな悲しみを見ることだろうが、その悲しみの中で幸せになれるだろう。悲しみのうちに幸せを求めよ。これがお前への遺言だ」
また、兄たちのそばに居てあげなさい、の個所も、原訳の方が、本物のお祖父さんみたいです。
原訳 「兄さんたちのそばにいておあげ。それも一人だけのそばにではなく、どちらのそばにもな」
私がゾシマ長老でも、同じことを言うでしょうね。
確かに僧院に居れば、心穏やかに暮らせるかもしれませんが、家族が不幸になれば、アリョーシャも不幸に感じるだけですし、悔いも残るでしょう。
「悲しみの中で幸せになれるだろう」というのは本当にその通りで、まことの幸せは、苦難を突き抜けた先にあるものです。
私は江川っちのファンですが、原先生の『悲しみのうちに幸せを求めよ』という訳文も素晴らしいですね😊