江川卓『カラマーゾフの兄弟』は滋賀県立図書館にあります詳細を見る

    【10】 キリスト教徒の社会主義者は無神論者の社会主義者より恐ろしい ~イワンと神父の議論

    カラマーゾフの兄弟 イワン 善行はありえません
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    国家と宗教 ~イワンと神父の議論

    章の概要

    父フョードルと兄ドミートリイの金銭問題を解決するため、ゾシマ長老の仲裁のもと、カラマーゾフ一家が一堂に会しますが、ドミートリイは遅刻して、なかなか姿を現わしません。しかし、他の参加者は特に意に介する風もなく、イワンを中心に、ロシアのキリスト教会や国家の在り方について、活溌に議論を交わします。

    『第Ⅱ編 場ちがいな会合 / 第5章 かくあらせたまえ、アーメン!』では、かなり踏みこんだ政治的・宗教的発言がなされ、作中においても、特に難解なパートで知られていますが、その後のロシア革命、ソビエト政権樹立、ソ連崩壊、、といった流れを考えると、非常に興味深いです。

    動画で確認

    下記のクリップは、ドミートリイが入室してからの「神がなければ、すべてが許される」の場面なので、このパートとは直接関係ないですが、庵室での議論の様子がイメージできると思います。
    映画『カラマーゾフの兄弟』(1968年)より。イワンが知的で恰好いいですね♪

    このパートを縦書きPDFで読みたい方は下記リンクからどうぞ。PC・タブレット推奨。閲覧のみ(10ページ)
    第Ⅱ編 第5章 かくあらせたまえ、アーメン! (Googleドライブ)

    国家が教会そのもになる、ということ

    カラマーゾフ一家が僧院で会合するにあたって、アリョーシャは無神論者イワンの冷笑を懸念していましたが、イワンは神父らと熱心に議論を交わし、その態度は知識人を気取るミウーソフも圧倒するほどです。

    長老がふたたび庵室に戻って来たときには、客人同士がたいそう活溌な議論に花を咲かせていた。話を主になって進めていたのは、イワンと二人の修道司祭だった。ミウーソフもこの会話に、見受けたところ、たいへん熱心に口をはさもうとしているらしかったが、彼はまたしてもうまく行っていなかった。どうやら脇役にまわっているらしく、ろくに返事もしてもらえない有様で、この新しい事態は、以前から鬱積していた彼のいらだちをいっそう強めることにしかならなかった。

    というのは、もともと彼は学識の点でイワンと張り合うような立場にいたし、相手が自分に対していくぶんそっけない態度を取るのを腹に据えかねていたということである。

    『少なくともこれまでのところ、おれはヨーロッパの先進的な傾向の頂点に立ってきた。ところがこの新世代は、おれたちを頭から無視しようとする』

    「この新世代は、おれたちを頭から無視しようとする」というのは現代も同じですね。その時は自分が主流でも、どんどん新しい知識と若い感性を持った新星が現われて、メインストリームだった人や考え方を駆逐していきます。

    ミウーソフは、先妻アデライーダの従兄であり、『【1】淫蕩父 フョードル・カラマーゾフ 指針を欠いたロシア的でたらめさ』でも書いているように、首都じこみ、外国じこみの開けた考えの持主で、おまけに生涯を通じての西欧人であり、晩年には四〇年代、五〇年代の自由派として知られていた。

    ミウーソフも、一時期、育児放棄されたドミートリイを引き取ったことがありますが、存在そのものを忘れ去り、哀れなドミートリイは親族間をたらい回しされます。

    そんなミウーソフとは対照的に、イワンは、司書の修道司祭ヨシフらと「社会的教会的裁判」や「国家と宗教」について議論を交わします。

    イワンは、「社会的教会裁判」の問題について、教会と国家の分離を完全に否定していました。

    イワンの主張は、国家の中に教会があるのではなく、「教会のほうが国家のいっさいを自身のうちに包含すべきであって、国家の一隅にわずかな場所を占めるべきではない」というものです。

    イワンといえば無神論、教会否定派のイメージがありますが、そうではありません。

    教会が、過ちを犯した人々に対し、「破門」や「天国に行けない」のように裁くから、かえって人を不幸にしている、それならば、いっそ、国家全体が聖母マリアみたいに慈愛の組織になって、過ちを犯した人も、底辺に転落した人も、みな包括して、面倒見てやろう、という話です。

    「ぼくの出発点になりましたのは、教会と国家というこの二つの要素、つまり、二つの別個の実体の混淆状態は、いうまでもなく、永遠につづくだろうという仮定です。実を言えば、そういう混淆状態はありえないはずのものだし、もともとそういう事態の根本に虚偽がひそんでいるのですから、それを正常化することはおろか、一応の妥協状態にもって行くこともけっしてできないはずなのですがね。

    たとえば、裁判というような問題についての国家と教会との間の妥協は、ぼくに言わせれば、そのもっとも完全にして純粋な本質からいって、不可能です。ぼくが反論したあの聖職者の方は、教会は国家のなかに明確な、確固とした地位を占める、と主張されています。ぼくはその人に反論して、むしろ反対に、教会のほうが国家のいっさいを自身のうちに包含すべきであって、国家の一隅にわずかな場所を占めるべきではない、たとえそのことが、いまはなんらかの理由によって不可能であるとしても、ことの本質からして疑いもなく、それはキリスト教社会の今後の全発展の直接的な、最重要な目的とならなければならない、と主張したのです」

    学識のある、寡黙なパイーシイ神父は、イワンの意見に完全に同意しますが、ヨシフ神父は、いかなる社会的団体も、その構成員(市民ら)に対し、権力を掌握することはできないし、また、刑事・民事の裁判権が教会に帰属すべきものではない、といった観点から、「教会はこの世の王国にあらず」と疑問を呈します。(イワンの考え方は、教会のほうが国家のいっさいを包含すべきなので)

    それに対して、イワンは次のように続けます。

    古代にキリスト教が生れてから最初の三世紀ほどは、キリスト教はこの地上に教会としてしか現われることがなく、また事実、教会でしかありませんでした。ところが異教国であるローマがキリスト教国家たらんとする考えを起したとき、必然的に次のような事態が生じました。

    つまり、ローマはキリスト教国家とはなったものの、それはただ教会を国家の中に組みこんだにすぎず、それ自体は、そのきわめて多くの機能において依然たる異教国家としての存在をつづけたのです。実際問題として、そうなるしかなかったわけでもあります。ところがローマという国には、異教的な文明やものの考え方の異物があまりにも多く残っていて、たとえば、国家存立の目的や基礎までもがそうでした。

    ところでキリスト教会は、国家の中に組みこまれても、当然、自身の基礎、それがこれまで立脚してきた土台については、何ひとつ譲歩できるはずがなく、神自身によって永久不変に定められ、示された自身の目的を追求する以外にはどうしようもなかったのです。なかんずく、全世界を、したがってまた古代の全異教国家を教会に変えてしまうという目的がそれです。

    となれば(つまり、将来の目的という点では)、教会が国家の中に『社会的団体一般」として、あるいは『宗教的目的のための人々の結社』(これはぼくが反論している著者が教会について使っている表現ですがね)として一定の地位を占めることを求めるべきではなくて、むしろ反対に、いっさいの地上の国家こそがゆくゆくは完全に教会に変って、たんなる教会以外のなにものでもなくなり、教会の目的にそぐわないような目的はすべて捨て去るべきだということになるのです

    しかもそれでいて、これはけっして国家の位置を押しさげたり、大国としてのその名誉や栄光、ないしはその支配者の栄誉を奪ったりするものではなく、たんに国家を、それが立っているいつわりの、いまだに異教的な、誤った道から、永遠の目的へと通ずる唯一正しい真実の道へと移してやるだけなのです。

    ローマでも、日本でも、キリスト教会や神社仏閣は、あくまで「国家の中の一部」ですね。信じたい人だけが信じて、その中だけで救われる。それ以外の人には御利益はありません。それどころか、「教えに背いた」というだけで、「お前はもう信徒じゃない」と責められ、時には「地獄に落ちるぞ」と責められる。そうなると、救済どころではないし、また人々も脱落を恐れて、自由に振る舞うことができません。中には、服装や食事まで、厳しく制限している宗教もありますね。

    それよりも、真に人類全体の救済を願うなら、国家が教会そのもになるべきだ、というのがイワンの考え方です。

    それって、まるで●●国じゃ……と震えるような話ですが、「いっさいの地上の国家こそがゆくゆくは完全に教会に変わる」というのは、規律を国民に強いる、という意味ではないです。

    「キリスト教のように、慈愛でもって国を治める」とでも言うのですか。

    現代は、どこの国も、営利第一で、稼げない人間はどんどん脱落していきます。資本主義においては、稼ぐヤツが一番偉くて、稼げない人間は無価値であり、自業自得だからです。その結果、大勢が競争から落ちこぼれ、自殺したり、犯罪に走ったり、不幸も多いです。

    でも、キリスト教の精神を大事にする「慈愛の国」が、国民の救済を第一に掲げ、老人も、病人も、犯罪者さえも、きちんと掬い上げて、生きる道を開いてくれたら、これほど有り難いことはないですね。

    イワンは、決して、信仰やキリスト教そのものを否定しているわけではありません。

    そんなイワンの意見に対し、パイーシイ神父が言い添えます。

    わが十九世紀に入ってとくにはっきりと唱導されはじめたある種の理論に従いますと、教会派、ちょうど下等な種が高等な種に進化するように、国家への転形をとげ、やがてはその国家の中で、科学や時代精神や文明やらに押されて、消滅すべきだというのでございます。

    もし教会がそれを望まず、抵抗を示すようですと、教会は国家の中にいわばほんのつつましい一隅といった場所を割りふられるのですが、それとても監視つきでして、これが現在、ヨーロッパの近代国家でおしなべて見られる現象でございます。

    けれど、ロシア人の理解と希望から申しますと、教会が下等から高等への進化をとげて国家へと形を変えるのではなくて、逆に、国家が究極においてはもっぱら教会となる、教会以外のなにものでもなくなるべきなのでございます。かくあらせたまえ、アーメン!

    国家が究極においてはもっぱら教会となる、教会以外のなにものでもなくなるべきなのでございますという一文を見れば、まるで●●国のように、宗教イデオロギーによって国民を支配する――という印象がありますが、ここで語られているのは、「教会のような包容力」であって、国民皆がキリスト教を信仰し、その掟に従え……というのはちょっと違うと思います。

    それでも、一歩間違えば、教会(宗教)が国を支配する、全体主義や社会主義になりかねませんから、これもある種の危険をはらんだ考え方ではありますね。

    社会主義の危うさ

    その点について、ミウーソフは次のように合いの手を入れます。

    「なるほどね、いや、それをうかがって、いくらか安心しましたよ」

    ミウーソフがまた足を組みかえて、にやりとした。

    「してみると、それは、ぼくの理解するかぎり、ずっと遠い将来、キリスト再臨のころにでも実現される理論というわけなんですね。それならご遠慮なく、戦争消滅、外交消滅、銀行消滅を願う美しいユートピア的空想というあけだ。ちょっと社会主義にも似ているじゃありませんか。ぼくはまた大まじめに取ってしまって、教会がいますぐにも、たとえば、刑事犯を裁判にかけて、笞刑や徒刑や、へたをすると死刑まで宣告したりするのじゃないか、と思ったものですからね」

    自由主義的な人が恐れるのは、まさにこの点です。

    国民全体が、右向け右で、教会(キリスト教)のイデオロギーに倣うとすれば、そして、それ以外は許されないとすれば、結局は、一党支配に他なりません。

    むしろ、国民全員を同じ方向に向かせるために、生き方も、考え方も、一つの枠に嵌めて、統制する必要が出てきます。

    ということは、それって、ほとんど共産主義時代のソ連ではないでしょうか。

    その点について、イワンは次のように言及します。

    「もし教会がすべてになってしまえば、教会は犯罪者や不服従者を破門するだけで、首をはねたりはしないでしょうよ」

    イワンはつづけた。

    「うかがいますけど、いったい破門された人間がどこへ行けると思います? なにしろそうなれば、そういう人間は、現在のように人間社会からだけでなく、キリストからも離れなくてはならなくなるんですからね。罪を犯すことによって、その男は、たんに人間社会に対してばかりでなく、キリストの教会にも叛くことになるんですからね。

    なるほど、現在でも、厳密にいえばそうなんですが、それでも公にそう宣告されるわけではない。だから現在の犯罪者は、きわめて多くの場合自分の良心と適当に妥協してしまうわけですよ。

    『盗みはしたが、おれは教会に刃向かったわけじゃない、キリストの敵になったわけでもない』――現在の犯罪者は、十人が十人、自分にこう言い聞かせます。

    けれど、教会が国家にとって代ったそのときには、世界じゅうの全教会を否定するのでないかぎり、こんなふうに言うことは困難になります。

    『みながまちがっているんだ、道にはずれているんだ、どれもこれもいつわりの教会だ、おれ一人が、殺人者で泥棒であるおれ一人が、正しいキリストの教会なんだ』

    こうはなかなか言いきれないでしょうよ、そう言えるためにはどえらい条件が、めったにないような状況が必要になりますからね。

    で、今度は、別の面から、教会そのものの犯罪観を考えてみましょう。やはりそれも大きく変らないわけにはいかないのではないでしょうか。

    現在の、ほとんど異教的ともいえる見解を改めて、病毒に犯された手足をただもう機械的に切除するようないまのやり方から、人間の新生、その復活と救済という理念に、今度こそ完全に、偽り抜きで変るべきではないでしょうか……」

    この部分もなかなか分かりにくいですが、教会であれ、なんであれ、一つの価値観で全体を従わせても、その中には必ず捻くれた物の考え方をする人が現れて、「自分は何も悪くない」と言いだす、という話です。現に、六法全書で、社会の白黒を定めても、「オレは人を欺して、特定商取引法には背いたが、生きていく為に仕方なかった。たくさんお金を持ってるヤツから、10万円を欺し取って、何が悪い」と開き直る人は必ず出てきますね。そうした過ちを正すには、社会の根本、人間の生き方そのものから刷新すべきではないか……という話です。(多分)

    それについて、ゾシマ長老が同調します。

    「いや、ほんとうのことを言えば、いまでもそのとおりになっておりますのじゃ」

    ふいに長老が口を切り、一同はいっせいに彼のほうををふり向いた。

    「現にいまでも、もしキリストの教会がなかったならば、犯罪者の悪業にはなんの歯どめもなくなり、そのうえ悪業に応じた罰というものさえなくなってしまう。むろん、それは、いまこの方が言われたような、多くの場合、人の心をいきどおらせるにすぎない機械的な罰ではなくて、ほんとうの意味での罰、真に効果をもった唯一の罰、人を畏怖せしめると同時に宥和せしめ、おのれの良心を自覚せしめる唯一無二の罰のことですがの

    「たくさんお金を持ってるヤツから10万円を欺し取ったところで何が悪い」と開き直るような人間に対して、「懲役5年」みたいな罰則を設けても、何の役にも立たないどころか、この程度で済んだと甘く見て、また繰り返す恐れもあります。

    「ほんとうの意味での罰」というのは、『罪と罰』のラスコーリニコフのように、神の慈愛を通して、己の罪深さを知るような魂の経験がなければ分かりません。

    その点について、ゾシマ長老は、「キリストの掟以外にはありえない」と断言します。

    では現代において、たんに社会を保護するばかりでなく、犯罪者をも矯め直し、別の人間に生れ変らせるようなものがあるかといえば、それはやはり、おのれの良心の自覚という形であらわれるキリストの掟以外にはありえないのです。キリストの社会の息子、つまりは教会の息子としての自分の罪を自覚する場合にのみ、犯罪者は社会そのもに対する、つまりは教会に対する自分の罪を悟ることができますのじゃ。そういうわけで、現代の犯罪者は教会に対してこそ自分の罪を自覚することができるけれど、国家に対してはそうではないのです。

    ゆえに、「教会」と「裁判(国家)」は分離してはならない、イワンの言う通り、「いっさいの地上の国家こそがゆくゆくは完全に教会に変って」という考えになるわけですね。

    「魂の救済」と「国家による法の裁き」が、それぞれ独立して、双方から罰を与えたら、犯罪者は、どこにも行き場がなくなり、それこそ孤独な脱落者になってしまうからです。

    そこで、もし裁判が、教会としての社会に属することになれば、社会はだれの破門を解いてふたたびおのれの一員に加えたらよいかを自分でわきまえるはずなのです。

    ところがいまの教会は、実際的な裁判権は何ももたないで、たんに精神的な非難を加える権利を留保しているだけですので、犯罪者に対する実際的な処罰は自分から放棄してしまっておるのです。つまり教会は犯罪者を破門することをしないで、父親としての監視の目を離さぬだけなのです。

    そればかりか、つとめて犯罪者とのキリスト教会的なまじありを絶やさぬようにして、教会での礼拝にも参加させ、聖体もいただかせ、施しも与え、罪人というよりはむしろ捕虜の扱いをしておりますのじゃ。

    考えてもみなされ、もしキリスト教社会、つまり教会までもが、世俗の法律か犯罪者を排除し、切り捨てるのにならって、法を排斥するとしたら、犯罪者はどうなると思われます? 

    もし国法による処罰が行なわれるそのたびに、教会もすぐさま犯罪者を破門にしていたなら、どういうことになりましょう? すくなくともロシアの犯罪者にとっては、これに過ぎる絶望はありますまい、

    そうして、ゾシマ長老は、現在の国家と教会の在り方を批判した後、次のように締めくくります。

    いまのキリスト教社会は、まだまだそれ自体が出来あがったものではないし、七人の義人(注解参照)によってやっと存立しているような有様ですがの、ただ、その義人たちの力はまだ衰えてはおりませんのでな、まだほとんど異教的な結社ともいうべき現在の状態から、全世界に君臨する単一の教会へと完全な変貌をとげる日を期して、いまもなお心を堅固に精進しておりますのじゃ、かくあらせたまえ、あらせたまえ、たとえ永劫の後なりとも、かくあらせたまえ、かくあるこそ神の定めたまいし道なればなり、アーメン! 

    それに、時間や期限のことではなにも気に病む必要はありませんのじゃ、もともと時間と期限の秘密は、神の英智と神の先見と、神の愛のうちにあることですからな。人間の計算ではまだずっと遠くにあるように思えることも、神さまのご予定では、ことによると、もうその出現の前夜で、ついその戸口まで来ていることかもしれませぬものな。されば、かくあらせたまえ、アーメン、アーメン」

    全世界に君臨する単一の教会へと完全な変貌をとげる日を期して、いまもなお心を堅固に精進しておりますというのは、ドストエフスキーの願いでしょう。現実には、キリスト教ではなく、ソビエト政権が樹立されましたが。

    最後に、パイーシイ神父が総括します。

    わかっていただきたいのですが、教会が国家になるのではございません。それはローマであり、その夢想です。悪徳の第三の誘惑です! そうではなくて、国家が教会となるのです、教会の高みにまで達して、全世界的な教会となるのです、――これはもう法王全権論(注解参照)や、ローマや、あなたの解釈とはまったく正反対のもので、地上における正教の偉大な使命であるにすぎません。この星は東方より輝きわたるのです(注解参照)

    壮大な夢ですね。その「教会」となるものが、本当に理想の教会であればいいですが、世の中はそう単純ではなく、結局のところ、万民を統制しようとして、強権、独裁に走って行くのです。

    キリスト教との社会主義者は無神論者

    その不安を象徴するように、西欧かぶれのミウーソフが、「パリで当時要務についていた興味ある人物(秘密政治警察隊の長官)」の言葉として、次のように述べます。

    実をいうと、無政府主義者とか、無神論者とか、革命歌とか、そういった種類の社会主義者は、それほど危険視しておらんのです。

    彼らにはちゃんと目をつけていますし、その手口はよくわかっていますからね。

    ところが、少数ですが彼らのなかにだいぶ毛色の変った連中がまじっておる。

    つまり、神を信ずるキリスト教徒であって、同時に社会主義者でもあるんですよ。われわれがいちばん危険視するのは、ほかでもないこの連中です、

    これは恐ろしい連中ですよ! キリスト教徒の社会主義者は無神論者の社会主義より恐ろしい存在ですね

    ぼくはそのときにも、この言葉にショックを受けたものですが、いま、みなさん方のお話をうかがいながら、ひょいとその言葉を思い出しましてね……」

    「といわれると、わたくしどもにその言葉をあてはめて、わたくしどもを社会主義者とおっしゃるのですか?」

    パイーシイ神父が正面からずばりと反問した。

    キリスト教が悪いのではなく、「全国民にそれを求める」=「思想統制」=「社会主義」に走っていく怖れがある、ということでしょう。しかも、キリスト教は、信じる人にとって絶対正義ですから、方針も揺るぎません。信じない人、背く人は、社会から爪弾きにされることは容易に想像がつきます。ということは、やはり●●国に他ならず、実は、こうした宗教観に支えられた人間の社会主義(全体主義)は、無神論者の社会主義より恐ろしい訳です。

    そして、この話は、多分、「第二の小説」のアリョーシャの皇帝暗殺説に繋がっていきます。

    アリョーシャが過激な「キリスト教徒の社会主義者」になるとは思いませんが、それを過大解釈した少年たちが暴走するのは十分に有り得ます。

    このパートも、非常に分かりにくいのですが、ドストエフスキーの願望と分析を表すと共に、「第二の小説」の伏線になっているのではないでしょうか。

    江川卓による注解

    法王全権論

    「教会のほうが国家のいっさいを自身のうちに包含すべきであって、国家の一(いち)隅(ぐう)にわずかな場所を占めるべきではない」というイワンの意見に対して、ミウーソフが「法王全権論だ!」と反論する。

    ローマ法王に教会権力だけでなく、国家的権力をも与えるべきだとする主張を指した言葉で、すでに中世期からフランス、ドイツで広く用いられていた。ラテン語のultra montes (山の向う)から出た言葉で、アルプスの向う、すなわち、フランス、ドイツから見たローマを指す。

    『この世のものならず』

    パイーシイ神父の言葉、「聖職者の言葉として、『教会はこの世の王国にあらず』などと言われているのに愕然といたしました。もしこの世のものならず、ということであれば、この地上には教会がまったく存在しえないことになる道理ではありませんか。聖福音書では、『この世のものならず』(「ヨハネ福音書」 第十八章三十六節)という言葉は、そのような意味では使われておりません。主イエス・キリストは、地上に教会を建てるためにこそおいでになったのでございます。天上の王国は、申すまでもなく、この世のものではなく、天上にありますけれど、そこへ到る道は、この地上に創始され建立された教会を通じてしかございません。」より。

    捕らえられたイエスが、「汝はユダヤの王なるや?」というピラトの問いに答えて言った言葉で、「この世のものならば、われに従う者は戦いて、われのユダヤ人に渡さるるを免れしめしならん」とつづく。この言葉は、イエスが政治的な意味での王でなく、神の国から来た「真理の王」であるという意味で解釈されるのがふつう。

    「ヨハネ福音書」第十八章三十六節のピラトとのやり取りは次の通り。

    ピラトゥスはもう一度官邸に入り、イエススを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋ねた。

    イエススは答えた。「あなたは自分自身の考えで、そう言うのか。それともほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのか」

    ピラトゥスは言い返した。

    「わたしをユダヤ人とでも思っているのか。お前の問題や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか」

    イエススは返した。

    「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に族していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないようにと、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない」

    聖書 新共同訳 新約聖書

    七人の義人

    イワンとパイーシイ神父らの宗教談義が白熱する中、ゾシマ長老が現行のロシアのキリスト教社会についてコメントする。「いまのキリスト教社会は、まだまだそれ自体が出来あがったものではないし、七人の義人によってやっと存立しているような有様ですがの、ただ、その義人たちの力はまだ衰えてはおりませんのでな」

    ロシアの諺に「一人の聖者なくして町は立ちゆかず、一人の義人なくして村は立ちゆかぬ」というのがあり、これはそのヴァリエーションと考えられるが、ドストエフスキーはこの表現を『悪霊』などでも使っている。七はもともと周日と同じくキリスト教では神聖な数とされ、「周には七日あり、この世には七人の賢者ありき」などとも言われるが、動乱時代大貴族の割拠したモスクワ公国を指して、「町は小さいのに、首長は七人」などとも言われる。

    その戸口まで / いちじくの木の教訓

    上述の続き。ロシアのキリスト教社会は決して好ましい状況ではないが、将来の期待を込めて、ゾシマ長老が言う。「神さまのご予定では、ことによると、もうその出現の前夜で、ついその戸口まで来ていることかもしれぬものな」

    マタイ福音書の該当個所は次の通り。

    マタイ福音書第二十四章三十三節の言葉。イエスは、いちじくの木の葉が伸びると、夏の日の近づいたことがわかる、という例を引いて、「人の子」の現われるしるしを見たら、すでに彼が「戸口に近づいていることを知れ」と教えている。
    いちじくの木の教訓

    「いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことがわかる。それと同じように、これらすべてのことを見たなら、(人の子)が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておくが、これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉はけっして滅びない」
    新約聖書 新共同訳 Kindle版』より

    この星は東方より輝きわたるのです

    パイーシイ神父の言葉、「教会が国家になるのではなく、国家が教会となるのです」に続く言葉。

    正教会では、東方は太陽が昇る方向で、信者が暗黒の迷いより真理の巧妙に向うことを表わすものとされ、聖堂も東方に向けて建てられる。西方は不正、暗黒の象徴として用いられることもある。ドストエフスキーはスラヴ派の影響のもとにロシア・メシアニズム的思想傾向をもち、神を抱く民としてのロシア人が堕落した西欧を救うべきだといった考え方に近かったため、この句を各所で愛用している。
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    誰かにこっそり教えたい 👂
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