江川卓『カラマーゾフの兄弟』は滋賀県立図書館にあります詳細を見る

    【40-4】 たとえ一人になっても、たゆみなく努めよ ~人を裁くなかれ

    聖書 エンジェル 祈り
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    あらすじ

    【39】 世界を変えるのは人の心から ~告解と改悛と赦しの意義の続きです。

    ゾシマ長老は死を前にして、アリョーシャや神父らに最後の訓諭を与えます。前章では、ゾシマ長老の人格形成に大きな影響を与えた兄マルセルの死と変容、青年時代の愚かな決闘と悔悟、入信への決意、謎の訪問者の罪の告白と改悛が描かれ、後半部となる『第Ⅵ編 ロシアの修道僧 / 第3章 ゾシマ長老の談話と説教より』では、ドストエフスキーの遺言ともいうべき「願い」が綴られています。

    章内の構成は次の通りです。

    動画で確認

    映画『カラマーゾフの兄弟』(1968年)より。1分クリップ。

    最後の訓諭を与えるゾシマ長老と神父たち。兄たちの面倒に耐えられず、泣きつくアリョーシャが可愛い・・・

    何びとも裁くなかれ

    その時はかならず来る

    人は何びとの裁き手となることもできない、このことをとくに銘記すべきである。なぜなら、犯罪者の裁判官自身が、自分もまた目の前に立っている人間とまったく同じ犯罪者であり、ことによると、自分の前に立っている人間の犯罪にだれにもまして責任があるのは、ほかでもない自分自身であることを認識しないかぎり、この地上に裁判官は存在しえないからである。このことを会得してはじめて裁き人たりうるのである。

    一見、いかにも気ちがいじみた考え方ではあるが、これは真理である。なぜと言って、もし私自身が心義(ただ)しい人間であったなら、あるいは、私の前に立っている犯罪者ももともと存在しなかったかもしれないからである。

    そして、もし自分の前に立ち、自分の心によって裁かれている犯罪者の犯した罪をわが身に引き受けることができるとなったら、即刻、彼に代って自分が苦しみを背負い、犯罪者はなんら咎めることもなく釈放してやるがよい。たとえ国法によって裁き手たることを定められたとしても、それが可能なかぎりで、やはりこの精神をつらぬいて事を行なうがよい、そのとき犯罪者は法廷を去ったのち、おまえの裁きよりもいっそう厳しく自分で自分を裁くであろう。

    たとえ彼がおまえの接吻を受けてもなんら心を動かされず、逆におまえをあざ笑いながら去って行くとしても、それにも心を惑わされてはならない。それはつまり、彼の時がまだ来ていないことであり、その時はかならず来るからである。だが、その時が来なくても、どのみち同じことである。彼がだめなら、他の者が彼に代って認識し、苦しみ、自分で自分を裁き、責めることになり、かくて真理は実現されるからである。このことを信んずるがよい、疑いなく信ずるがよい、なぜなら聖者たちの期待と信仰のすべてはこのことにこそ根拠を置いていたからである。

    「人は何びとの裁き手となることもできない」というのは重い言葉ですね。

    ここで言われる「裁き」とは法的に処罰することではなく、感情の問題です。

    『どうしてこんな人間が生きているんだ!』 なぜゾシマ長老は大地に頭を下げたのかで、ゾシマ長老がドミートリイの足元に叩頭して訴える「赦しておあげなさい!」の台詞にもあるように、ゾシマ長老、およびキリスト教の核は一環ちして『赦し』にあります。

    恨み憎しみがある限り、争いは続くし、自分も周りも不幸にするだけです。懲罰や仕返しに何の意味もなく、ただ果てしなく地獄が拡がっていくだけです。

    パン泥棒を、たとえ法的に処罰しても、人間的には赦す努力をする。その気持ちなくして真の更生は有り得ないし、救済というのは、最終的には、そこに辿り着くのではないでしょうか。

    「彼の時がまだ来ていないことであり、その時はかならず来るからである」の言葉も、「愛とは待つこと」を思い起こさせます。

    本当にこれが可能であれば、それはもう人ではなく、神の領域なのですが😅

    参考として、死刑囚と赦し、死刑制度について描いたアカデミー賞受賞作の映画コラムはこちらです。

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    たゆみなく努めよ ~一人になっても希望を失うことなく

    たゆみなく努めるがよい。もし夜、眠りに落ちようとしながら、『私はなすべきことを果さなかった』と思い起したならば、ただちに起き出して、それを果すがよい。

    周囲の人たちが意地の悪い、つれない人ばかりで、こちらの言うことに耳をかそうともしないなら、彼らの前に身を投げて、彼らに赦しを乞うがよい。なぜなら、おまえの言葉に人が耳をかそうとしない点で、まさしくおまえには罪があるからである。また、もしそのような悪意の人々とは話をすることもできないというのであれば、無言のままひたすら身を屈して彼らに仕え、けっして希望を失わぬことである。

    さらにまた、もしすべての者に見捨てられ、力ずくで追われるようなことになったならば、一人その場にとどまり、大地にひれ伏して、それに口づけ、おのれの涙をもって大地をうるおすがよい。すれば大地はおまえの涙の実りを与えてくれるであろう、孤独のうちにあるおまえを見る者、聞く者がたとえ一人もいなかったとしても、最後まで信ぜよ、たとえ地上のすべての者が邪道に落ちて、神を信ずる者とてはおまえ一人だけになったとしても、その時にすら犠牲をいとわず、ただ一人、神を讃えるがよい。もしそのような人が二人いて、めぐり会えたならば、それはすでに全世界、生ける愛の世界そのものであり、二人は感激のうちに抱き合い、ともに主を讃えるがよい。たとえ二人だけにおいてとはいえ、主の真理が実現されたのだからである。

    価値のあることを訴えても、誰にも見向きもされず、自分の方が間違っているのかと落ち込むこともしばしばあります。

    そんな時も、「たゆみなく努め」「孤独のうちにあるおまえを見る者、聞く者がたとえ一人もいなかったとしても、最後まで信ぜよ」とゾシマ長老は説きます。

    どんな人も、常に周囲に理解されるとは限りませんし、時には真実ゆえにそっぽを向かれることもあります。

    だからといって、すぐに投げ出すのではなく、たゆみなく努めよ、そうすれば、いつか地上で、同じ志をもった人に巡り会うかもしれない、という喩えです。

    光は消えず、死後も輝き続ける

    もし他人の悪行にもはや抑えきれぬほどのいきどおりと悲しみを覚え、ついにはその悪人どもに復讐をさえ願うまでになるならば、この感情をこそもっとも恐れなければならない。

    その他人の悪行について責めを負うべきは自分であるとして、ただちに行って自分のために苦痛を求めるがよい。この苦痛をおのれに負って耐え忍ぶなら、おまえの心もいやされ、おのれに罪のあることが会得されるであろう。なぜなら自分こそただ一人の罪なき者として悪人たちに光を与えてやることもできたはずであるのに、それを怠ったからである。

    もしそれを怠っていなければ、おのれの光によって他人の道を照らしてやることができたはずであり、すれば、悪行を犯した者も、おまえの光のおかげでそれを犯さずにすんだかもしれないからである。

    もしまた、自分は光を与えたのに、おまえの光の下でも他の人々が救われることがないのを見るとしても、心を堅固にして天上の光の力に疑いをさしはさんではならぬ。いますぐには救われぬとしても、いつかは救われるものと信ずるがよい。いつになっても救われぬとしても、その息子たちが救われるであろう。なぜならおまえはすでに死んでしまっても、おまえの光は死ぬことがないからである。心義しき者は世を去っても、その光は消えずに残る。救済はつねに救い主の死後に来るものである。

    他人の所業にムカついて、復讐を願っても、自分も相手も滅ぼすだけ。それよりは、光となって照らすことを考えなさい、という喩えですね。

    「いますぐには救われぬとしても、いつかは救われるものと信ずるがよい。なぜならおまえはすでに死んでしまっても、おまえの光は死ぬことがないからである」

    ゾシマ長老の語る≪ドストエフスキーの遺言≫が現代のロシアにまったく生かされることなく、イエス・キリストとは真逆の、身勝手な独裁者によって、自国も他国も破壊されていることを思えば、「いますぐに救われない」どころか、「永遠に救われないのではないか」という気がしますが、こうして、海の向こうの読者に、何十年、何百年とわたって読み継がれることを考えると、決して無駄ではないし、現ロシアにも理解する人は少なからずあるでしょう。(怖くて表に出られないだけ)

    いつの日か、ドストエフスキーの願いが叶って、ロシアが自国民や隣国と仲好く手を取り合い、地上に愛の楽園を築く様を見たいですが、まあ、そんなことは、永遠に叶わない気がします・・😑

    江川卓の注解

    おのれの涙をもって大地をうるおすがよい

    「もしすべての者に見捨てられ、力ずくで追われるようなことになったならば、一人その場にとどまり、大地にひれ伏して、それに口づけ、おのれの涙をもって大地をうるおすがよい」より。

    ちなみに、『罪と罰』のソーニャとラスコーリニコフのやり取りでは下記のようになっています。

    「いったい僕はあの婆を殺したんだろうか?
    いや、僕は自分を殺したんだ、婆を殺したんじゃない!
    僕はいきなり一思いに、永久に自分を殺してしまったんだ!

    「お立ちなさい! 今すぐ行って、四辻にお立ちなさい。
    そして身を屈めて、まずあなたが汚した大地に接吻なさい。
    それから、世界じゅう四方八方に頭を下げて、はっきり聞こえるように大きな声で、
    『私は人を殺しました!』とおっしゃい!
    そうすれば神様がまたあなたに命を授けてくださいます。
    行きますか? 行きますか?」

    興味のある方は、『罪と罰』 僕は永久に自分を殺してしまったんだ!をご参照下さい。

    この表現はドストエフスキーの好んで用いるものであり、『悪霊』では、ある老婆がマリヤ・レビャートキナに次のように告げる。「聖母さまは大いなる母、うるおえる大地でね、それがまた人間にとっての大きな喜びでもあるんだよ。だからこの地上のどんな憂いも、この地上のどんな涙も、わたしたちにとっては喜びなのさ。自分の涙で足もとの土を半アルシンもの深さにうるおせば、どんなことにも喜びを感ずることができるようになる。そしてもうどんな、どんな悲しみもなくなるのさ。これがわたしの予言だよ」「大地への接吻」という設定は、すでに『罪と罰』でもラスコーリニコフに対するソーニャの言葉に出てくるし、この長編のクライマックスの一つである第七編の「ガリラヤのカナ」の章では、アリョーシャがこれを実践する。
    誰かにこっそり教えたい 👂
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