江川卓『カラマーゾフの兄弟』は滋賀県立図書館にあります詳細を見る

    【24】イワンなんか糞くらえ、ミーチャはごきぶりみたいに踏みつぶす ~老親の妄執と息子への憎悪

    アリョーシャと話すフョードル カラマーゾフの兄弟
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    イワンなんか糞くらえ、ミーチャはごきぶりみたいに踏みつぶす

    章の概要

    父フョードル、長男ドミートリイ、次男イワンの、金と女の問題を目の当たりにしたアリョーシャは、なんとか家族を和解させようと奔走しますが、ドミートリイが金と女の恨みでフョードルを殴りつけてから、フョードルはいっそう息子たちを憎むようになります。
    (参考→ 【20】 蛇が蛇を食い殺すだけ ~他人の死を希望する権利はあるのか?

    『第Ⅳ編 うわずり / 第2章 老いたる道化』では、いまだグルーシェンカの色香と自分の資産に執着し、息子達を決して許そうとしないフョードルの内面を描いています。

    動画

    映画『カラマーゾフの兄弟』(1968年)より、1分動画。

    映画は、詳細は省いていることが多いのですが、このパートは、スリッパを履き、古外套を引っかけて、勘定書に目を通しているところにアリョーシャが訪ねて来て、アリョーシャが「一個3コペイカ」のフランスを食する場面、フョードルが≪お戸棚 >を鍵で開けて、コニャックを取り出す場面などが、原作に忠実に描かれています。

    老人はスリッパを履き、古外套を引っかけて、一人で食卓に向かい、気をまぎらすために、といっても、たいして身の入らぬ様子で、何かの勘定書に目を通していた。広い家に彼はまったくの一人ぼっちだった(スメルジャコフも昼食の買い出しに出かけていた)。もっとも、老人の心を占めていたのは勘定書のことではなかった。きょうは朝早くから起き出して、さも元気そうに振舞っていたが、やはりその顔つきには疲労と衰弱の気味がかくせなかった。一晩のうちに大きな紫色のあざができた額には、赤いハンカチが巻きつけられていた。鼻もやはり一晩のうちにひどく腫(は)れあがって、たいして大きなものではないが、ところどころに小さな打ち身のあざができ、それが顔全体にことさら毒々しい、いらだたしげな感じを添えていた。老人は自分でもそのことを自覚していて、入って来たアリョーシャのほうに無愛想な一瞥をくれた。

    イメージが掴みにくい方は参考にどうぞ。いずれも1分動画です。

    フョードルが勘定書に目を通していると、アリョーシャが訪ねてくる。
    ハンカチの色は、原作と異なり、緑地に赤い花模様(?)になっています。これは視覚効果でしょうね。赤ハンカチは目立ちすぎ。

    コニャックを取り出し、アリョーシャに二人の息子についてボヤく。

    全体に見たい方は、YouTubeからどうぞ。56:26秒より。
    https://youtu.be/z_U-juAzXik?t=3386

    フョードルの妄想と息子への憎悪

    アリョーシャが父を訪ねると、父は快く迎えてくれます。

    しかし、不意にイワンのことを口にし、嫌悪感をあらわにします。

    「イワンは出かけたよ」彼はふいに話しだした。

    「あいつめ、ミーチャの嫁さんを横取りしようとやっきになっていてな、それでここにがんばっておるのさ」彼は毒々しくこう言い足すと、口をゆがめて、アリョーシャを見やった。

    「兄さんが自分でそう言ったんですか?」アリョーシャはたずねた。

    「そうさ、それもずっと以前にだ。なんと、三週間も前のことだぞ。おれをこっそり殺すためにここへ来たわけでもあるまいし? ここへ来たのには、何かの魂胆があろうじゃないか?」

    「なんてことを! どうしてそんなことを言うんです?」

    アリョーシャはひどくうろたえた。

    次いで、フョードルは、「まだまだ長生きするつもり」とアリョーシャに語り、その為に金が必要なのだと明言します。

    年を取ると汚らしくなる、女の気を引くには金が必要だ、今までも汚穢(けがれ)の中で生きてきたいんだから、これからもそうする、と。

    まるで現代のパパ活オヤジと同じです。

    「確かにあいつは、おれに金をせびりはせん、だいたい、おれが一文でもくれてやるはずがないものな。おれはな、かわいいアレクセイ、まだまだできるかぎり長生きをするつもりだからな、このことはおまえらによく心得ておいてもらわなくちゃならんぞ。だからおれには一カペイカの金でも必要なんだ、長生きをすればするほど、金はよけい入用になる」

    彼は、夏ものの黄色い麻布でつくった、脂垢じみた幅広の外套のポケットに手をつっこんで、部屋の隅から隅へと歩きまわりながら、話をつづけた。

    「いまのところは、おれもまだ男で通る、まだ五十五だしな。だがおれは、あと二十年はまだ男でいたいのさ。ところが年をとると、汚らしくなってきて、女どもも自分から進んでは寄りつこうとしなくなる。つまり、そこで金が入用になる寸法なのさ。だから、いまおれが少しでも多くと思ってせっせと金を蓄めているのも余人のためならずでな、かわいいアレクセイ坊主、ここのところをよく心得ておいてもらいたいのさ。

    なにしろおれはとことん汚穢(けがれ)の中で生きていきたいんでな、これも心得ておいてもらうぞ。汚穢の中にいるほうが楽しいのさ。世間のやつらはこいつを悪く言うが、そのくせみなが汚穢の中で生きている。ただ、やつらがこそこそやることを、おれはおおっぴらにやるだけのちがいだ。実は、このおれのまっ正直さが世間の汚れたやつらの非難の的になるわけだがな。

    ところで、アレクセイ、おれはおまえの天国とやらには行く気がないから、承知しておいてもらうぞ。だいたいまともな人間が天国行きを考えるなんて、かりにそんなものがあったにしたところで、みっともないくらいのものだ。おれに言わせりゃ、いったん眠りこんだが最後、もう目をさましっこなしで、それきりなのさ。その気があったら供養してくれるがいいし、気がなけりゃ、どうとでも勝手にしてくれだ。これがおれの哲学だよ。

    きのうイワンがうまいことを言ったじゃないか、もっともみんな酔っぱらっちゃおったがな。イワンはほら吹きで、だいたいが学者なんて柄じゃない……だいいちこれといった教育も受けておらん。ただ黙ってこっちの顔を見ちゃ、にやにやしているだけだ、――やつの手と言やあ、それだけのことさ」

    このあたり、『第Ⅲ編 好色な人たち / 第8章 コニャックをやりながら』では、イワン、アリョーシャと食卓を共にし、「神はあるのか、ないのか」「ありません」という有名な問答と比較すると、ずいぶん禍々しいですね。

    さらにフョードルは、イワンがミーチャの婚約者カチェリーナを恋慕い、ついでに遺産も横取りする為に、ミーチャとグルーシェンカの結婚を画策し、その為に、フョードルの行動を見張っていると主張します。

    「なんだってあいつはおれと口をきかないんだ! 口をきくかと思やあ、えらく勿体ぶりやがって、まったくあのイワンというやつは悪党だぞ! 

    ところであのグルーシェンカだが、おれはその気になりしだい、すぐにも結婚してみせるぞ。なぜって金さえあれば、アレクセイ、ひょいとその気におなりあそばすだけで、万事、思いどおりになるんだからな。

    だからイワンのやつは、そこのところを心配して、おれが結婚しないように見張っているのさ。

    ミーチャをそそのかして、グルーシェンカと結婚させようとしているのも、そのためだ。

    そうやっておれとグルーシェンカを近づけまいとしながら(もしおれがグルーシェンカと結婚しなかったら、やつに金を残すとでもいうわけかい!)、その一方では、もしミーチャがグルーシェンカと結婚したら、やつの金持の嫁さんを横取りしようと狙っている、――これがイワンの腹のうちなのさ! あのイワンというやつは悪党だよ!」

    そんなフョードルを、アリョーシャは、「依怙地というより、ひねくれているんですよ」と指摘しますが、本当にその通りです。

    高齢の金持ちが、周りの人間が自分の財産を狙っていると被害妄想に陥り、言動がおかしくなるのは珍しくありません。

    「自分がコツコツ築き上げたものを、あいつにだけは渡すまい」と憎悪をこじらせ、身内の恨みを買うこともあります。(実際、それが原因で殺人事件も起きている)

    フョードルも現代人と同じ、財産に固執するあまり、疑心暗鬼に陥ります。

    イワンも、ドミートリイも、お金が欲しいのは本当だけど、それぞれに老親の面倒を見る気はあるし、丸取りしようというわけではないのですが。

    フョードルは、イワンを悪党、ドミートリイは「ごきぶりみたに踏みつぶしてくれるわ」と、さんざん罵った後、カチェリーナとドミートリイの関係に言及し、グルーシェンカは自分のものにすると息巻きます。

    だが相手が悪党なら、こっちも悪党になる。イワンのやつがチェルマシニャに行かないのは、どうしてだと思う? グルーシェンカが来たとき、おれが大金をやりやしないか、スパイする必要があるからさ。揃いも揃って悪党ばかりだ! 

    だいたいおれはイワンなんぞ息子とも思っちゃおらん。どこからあんなやつが出て来たんだろう? おれたちとはまるで出来のちがうやつだ。そのくせ何か遺産にありつける気でいやがる。いや、おれは遺言なんぞ残すつもりはないからな、ここのところも心得ておいてもらうぞ。

    ミーチャなんぞは、ごきぶりみたいに踏みつぶしてくれるわ。おれは夜中に黒いごきぶりどもをスリッパで踏みつぶしてやるんだが、ぐいと踏んづけると、ぐしゃっと音がする。おまえのミーチャもぐしゃっだよ。

    おまえのミーチャなんて言ったのは、おまえがやつを愛しているからさ。なに、おまえはやつを愛しているが、おまえが愛しているからって、おれは別に恐ろしいとは思わない。

    しかし、もしイワンがやつを愛しているとなると、イワンが愛しているってことが無気味に思えるだろうな。

    ところがイワンはだれも愛さない男だ。イワンはうちの身内じゃない、イワンのような人間はな、いいか、身内じゃなくって、風で舞いあがったほこり*11なんだ……風が吹けば、ほこりも消えてなくなる……

    実はきのう、おまえにきょう訪ねてくるようにと言ったときな、おれはひょっくりばかな考えを起したのさ、つまり、おまえの手を借りて、ミーチャの腹づもりを探ってもらおうと思ったんだよ、もしここでやつに千か、二千かの金を分けてやったら、あのならず者の乞食野郎はここからすっかり姿を消してくれるだろうかな、この先五年ぐらい、いや、なろうことなら三十五年と願いたいがな、むろん、グルーシェンカはここに残して、あの女とはきっぱり手を切っての話だが、どうだ?」

    「ぼく……ぼく、聞いてみますよ……」とアリョーシャはつぶやいた。「もし三千、耳を揃えてということだったら、ひょっとして、兄さんも……」

    「ばかを言え! いまさら聞いたりすることは要らん、何もしなくていい! おれは考え直したんだ。きのうはどうかしていてそんなばかげた考えがひょっくりおつむに浮かんだだけの話だ。ビタ一文もやりはせん、一文もだ、おれの金はまずおれ自身に入用なんだ」老人は手を振って見せた。

    フョードルとアリョーシャの別れ

    そんなフョードルに対し、アリョーシャは、別れの挨拶をするために近づいて、その肩口に接吻します。

    「おまえ、それはなんの真似だ?」

    老人はすこし驚いたふうに言った。

    「まだ会えるじゃないか。それとも、もうこれきり会えないとでも思ったのか?」

    「とんでもない、ただ、ついちょっと」

    「そうかい、おれもなんてわけじゃないが、ただちょっとな……」

    老人は彼を眺めやった。

    「おい、ちょっと待て」と彼は息子の後姿へまた浴びせた。

    「近いうちにまた来いや、魚汁(ウハー)をご馳走するぞ、きょうみたいのじゃなくて、特別製の魚汁(ウハー)をつくるからな、きっと来いよ! そうだ、あすがいい、いいか、あす来るんだぞ!」

    アリョーシャの予感通り、これが今生の別れになってしまいます。

    作品が冗長なので、また会うような気がしますが、アリョーシャが生きた父と話すのは、これが最後です。

    最後の最後まで、金の話、女の話、二人の息子にも悪態をついて、これがアリョーシャとの人生最後の会話とは、ずいぶん淋しい話です。

    この場面、映画も原作に忠実に描いています。

    この後のフョードルの運命を知るだけに、観る側は哀しい気持ちになりますね。

    【コラム】 カラマーゾフ一家に、本当に救いはなかったのか

    フョードルは、一方的に息子を憎悪しますが、ドミートリイも、イワンも、そこまで父を憎んでいるわけではないのは、細かな描写を見れば分かります。ドミートリイは、『第Ⅱ編 場ちがいな会合 / 第6章 どうしてこんな男が生きているんだ!』では、、、、、を描いています「ぼくの魂の天使ともいうべきフィアンセといっしょに故郷に帰ったら、親父の老後を大事に見てやろうって」と言っていますし(口先だけでなく)、イワンも『『第Ⅲ編 好色な人たち / 第10章 好色な人たち』で、「ぼくはいつだって親父を守ってみせるよ」とアリョーシャに約束しています。

    それぞれ、お金が欲しいのは本当ですが、「父親を殺してまで」という気持ちでないのは確かなんですね。

    お金に執着しているのは、むしろフョードルの方で、「ビタ一文もやりはせん」という憎悪が彼を盲目にしています。1000でも、2000でも、ドミートリイに貸し付けてやれば、もっと好ましい結末があっただろうに、老親の意地と妄執が最悪の結果を招いてしまいました。

    物語前半で、ドミートリイの短所ばかりが強調されるので、全面的にドミートリイが悪いような印象ですが、金、金、金で生きてきたフョードルにも因果はあるし、元は都いえば、自分が二人の妻を虐げ、育児放棄したのが悪いのですから、どちらに非があるかと言えば、やはり老親の方ではないかと私は思います。フョードルも決して悪人ではなく、知性も、教養もある、田舎の淫蕩オヤジに過ぎないのですが。

    カラマーゾフ一家の中で、唯一、アリョーシャだけがまともな感性を持ち、家族を繋ぎ止める天使になろうとするのですが、何せ、年若く、俗世にも疎いので、抑止力にはなりませんでした。老親の妄執や兄たちの情欲を断ち切るには、アリョーシャは幼すぎたのでしょう。

    父と兄たちが、金と女に血道をあげて、互いに所有にこだわるのは、作者の言う通り、「好色」という理由も大きいですが、それ以上に、社会に対する不信があるように感じます。フョードルも、ドミートリイも、イワンも、それなりに世間とよろしくやっていますが、なまじ頭がいいが為に、どこか世間に馴染めず、フョードルは愚かなことを口にして顰蹙を買い、イワンは冷ややかな態度で周りを遠ざけてしまう。ドミートリイは、周りの歓心を買うために、派手に遊んで散財し、人気はあっても、必ずしも愛と尊敬を勝ち得ているわけではない……となると、信じられるのは己だけ、それが高じると、金銭のように、目に見えるものに執着するのかもしれません。

    カラマーゾフ一家には、それぞれに背景があり、言い分があり、絶対的悪人というのは存在しません。

    「死ぬべき人」「殺されてもいい人」など、一人もなく、それ故に、フョードル殺しの残酷さが胸に迫ります。

    誰かが一歩譲れば、最悪の事態は避けられたでしょうに。

    救いとういなら、それぞれの心の中にあったのではないでしょうか。

    江川卓による注解

    汚穢(けがれ)

    フョードルの言葉、「なにしろおれはとことん汚穢(けがれ )の中で生きていきたいんでな」より。

    コリント後第七章一節に「内と霊の一切の汚穢から自分を清め、神を恐れて全く清くなろう」の言葉がある。ここで「汚穢」と訳したのは、フョードルの口から出たにしてはいくぶん奇異にひびく「スクヴェルニャ」という古い言葉なので、聖句を踏まえたものとして解釈すべきだろう。つまり、神を恐れぬキリスト教会への反逆宣言であり、「天国行き」を考えぬどころか、地獄への直行の覚悟を宣言していると見てよい。

    《お戸棚》

    フョードルがコニャックを取り出す場面、「彼は《お戸棚》を鍵であけ、グラスに一杯注いで、すぐまた戸棚に鍵をかけ、その鍵をポケットにしまった」より。

    ドストエフスキーがここだけわざわざ引用句でくくってこの言葉を強調したのか、またたんに「戸棚(シカーフ)」(一五七ページ上段)と言えばいいところをなぜ「お戸棚(シカーピク)」と言っているのか、断定できる資料はない。これは訳者の想像だが、《お戸棚》に鍵をかけてコニャックを蔵うという設定がかなり不自然であり、ひょっとすると、ここではコニャックを傅膏機密、聖傅機密に用いられる聖膏(聖油)になぞらえているのではないかという疑問が生ずる。聖油はオリーブ油に白葡萄酒、香料類を混じて作られるが、《聖化》の敷が行なわれて後は、容器に栓(せん)をして、教会内の特定の神聖な場所に厳重に保管され、必要量ずつを取り出すしきたりになっており、この場面を連想させる。こういう想像をあえてしたのは、カラマーゾフという姓の「マーゾフ」という部分が「塗る(マーザチ)」の意で、聖油塗布(ポマーザニエ)と同語原であることが根拠となっている。これだけではあまり意味がないが、この『カラマーゾフの兄弟』の大きな主題が「現代のキリスト」であることは解説でも述べたとおりで、「キリスト」という言葉が、もともとはヘブル・アラム語の「メシヤ」(油を塗られた者、王者、救世主を指す)のギリシャ語訳であり、動詞クリオー(油を塗る)から派生していることを考え合わせると、そこに偶然以上の暗合が感じとられるわけである。なお、カラマーゾフの姓の起源については二五五ページ上段の注意照。

    江川先生にかかると、「戸棚」にまで人格がありますね。そこまで読み取れる人も稀有ではないかと。

    お戸棚からコニャックを取り出すフョードル カラマーゾフの兄弟

    YouTubeで見たい方は、下記リンクよりどうぞ。
    https://youtu.be/z_U-juAzXik?t=3590

    誰かにこっそり教えたい 👂
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