江川卓『カラマーゾフの兄弟』は滋賀県立図書館にあります詳細を見る

    【7】 自分にも他人にも嘘をつけば真実が分からなくなる 老いたる道化 フョードルとゾシマ長老の会話

    カラマーゾフの兄弟 ゾシマ長老 愚かな言い方をなされるな
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    老いたる道化

    ゾシマ長老と場ちがいな人々

    カラマーゾフ一家と、長男ドミートリイの大伯父にあたるミウーソフ、その縁者のカルガーノフ、途中で知り合った地主のマクシーモフは、父フョードルとドミートリイの金銭問題を決着する為に、ゾシマ長老の僧院を訪れる。

    だが、冷やかし半分、興味半分の一行は、じろじろと辺りを見回すだけで、敬虔な気持ちなど、これっぽちもない。

    いよいよ、ゾシマ長老がアリョーシャともう一人の見習僧に付き添われて入室すると、アリョーシャの不吉な予感が現実となる。

    ゾシマ長老は一人の見習い僧とアリョーシャにつきそわれて入ってきた。

    二人の修道司祭が立ち上がり、指が床にふれるほどの深いお辞儀で長老を迎え、それから、長老の祝福を受けると、その手に接吻した。

    二人を祝福した長老は、やはり床に指がふれるような深い礼をそれぞれに返し、その一人ひとりに向かって祝福を求めた。

    ≪中略≫

    しかし、ミウーソフには、万事がわざとらしい思わせぶりのように思えた。彼はいっしょに部屋に入った仲間たちの先頭に立っていた。

    彼はいっしょに部屋に入った仲間たちの先頭に立っていた。

    実を言うと、ミウーソフはすでに昨夜のうちから、思想はどうあれ、たんなる礼儀の上からだけでも(ここではそれがならわしになっているのだから)、長老の前へ出て祝福を乞わずばなるまい、手に接吻するのはともかく、少なくとも祝福だけは乞わずばなるまい、とさまざまに思いめぐらしていたものだった。

    ところが、いまこうやって修道士祭たちのお辞儀やら接吻やら目にしたとたん、彼は一転、その決心を変えてしまった。

    いかにもしかめつらしい様子で、世間流のかなり深いお辞儀をしただけで、彼は椅子のほうへ引き下がってしまった。

    フョードルもまったく同様にふるまい、しかも今度は、猿がやるように、寸分たがわずミウーソフのしぐさをまねてみせた。

    イワンはいたって丁重に、しかめつらしく、一同に会釈したが、これまた両手はズボンの縫い目につけたままであった。

    カルガーノフはすっかりうろたえてしまって、そのお辞儀さえまったくしなかった。

    長老は、祝福をするためにあげかけた手をおろし、もう一度みなに会釈してから、席につくようにすすめた。

    アリョーシャの頬にさっと血がのぼった。

    恥ずかしくてならなかったのだ。

    不吉な予感が、いまや事実になろうとしていた。 (49P~50P)

    ミウーソフは、誰もが『この人、イイネ』と賛同すると、何かと難癖つけて、貶めずにいられないタイプ。

    素晴らしいものを目にしても、「どうせ裏があるんだろう」と疑ってかかり、またそんな自分を人一倍利口と思っている。

    現代のSNSにもたくさんいる、こういう人。

    フョードルは、誰かが難癖をつけたら、自分もその尻馬に乗っかって、輪をかけて茶化すタイプ。

    「猿みたいに、ミウーソフの真似をする」という一文から、フョードルの、おちょくりな性質が窺える。

    イワンは、何を目にしても、自分のポーズを崩さないタイプ。

    信念というよりは、何も信じておらず、世の中に対して、完全に冷め切っている。

    それぞれの為人が、仕草や表情に表れているのが興味深い。

    場ちがいな会合に、場ちがいな人々。

    純真なアリョーシャが気を揉むのも頷ける。

    ちなみに、このパートでは、「きらきらと輝く飾り額に納めた聖像画がほかに二枚並べられ」「いくつもの小天使の聖像や、陶製の卵や、嘆きの聖母に抱かれたカトリックふうの象牙の十字架や」、等々、庵室の様子が細かく描写されている。

    それを目にしたミウーソフは『紋切り型』と感じ、早くも白々しい気持ちになる。

    『紋切り型』について、江川氏は、次のように解説する。

    ミウーソフは西欧に長く暮らしていたために、この庵室の装飾を《紋切型》と感じたらしいが、実は、この装飾はロシアの僧院においてはきわめて独自なものである。とくにカトリックふうの象牙の十字架や聖母像などは、正教教会では禁制だったはずのものである。ゾシマ長老の特異性を強調するためにドストエフスキーが意図的にこのような描写を行っていることは明らかで、同様の装飾は、《悪霊》のスタヴローギンの告白の章のテホン神父の庵室にも見られる。そのような事情のために《紋切型》がわざわざ引用句でくくられている。
    なお、ここの装飾には教会分裂以前の聖母像などにも見るように、キリスト教内部の分裂状態に対するドストエフスキーのある種の批判を読み取ることも可能である。

    自分を恥じぬこと ~ゾシマ長老からフョードルへ

    なんとも雰囲気の悪い中、早速、フョードルが感極まったように喋りだす。

    あなたさまの前におりますのは、正真正銘の道化でございます! のっけから名乗りをあげてしまいます! 

    いやはや、昔からの癖でございまして、どうしようもございません!それでも、こうやって場所柄にもない嘘はつきますが、私にはまたそれなりの考えがあったのことでして、つまり、なんとか人を笑わせたい、愉快な男になりたい、と思ってのことなんでございます。

    なにせ人間、愉快でないことにははじまりませんですからな、そうじゃございませんか?

    ≪中略≫

    偉大なる長老さま! お許しくださいませ。

    いまのディドローの話で洗礼の一件のほうは、たったいま、お話をしているうちに、自分で創作した話でして、これまでは頭に浮かんだこともございませんでした。ちょっと胡椒をきかしてやろうと思って、でっちあげましたので。

    つまり、私がお芝居をするのはですね、ミウーソフさん、人に感じよく思われたい一心からなんですよ。

    もっとも、自分でもときにはなんのためやらわからなくなることがありますがね。 (51P~53P)

    【1】淫蕩父 フョードル・カラマーゾフ 指針を欠いたロシア的でたらめさにも書いているように、元々、フョードルは繊細かつ純朴な人間で、自分と向き合う度胸もなければ、ほんとうの自分を見せる勇気もないのだろう。

    大地主らしく、いつも威張って、群れのボスでなければ、格好がつかないと思っている。

    周りに侮られぬよう、また自尊心を保つため、わざと無頼漢を気取り、さして面白くもない皮肉や冗談を口にする。

    そうして、心にもないことを口にし、無骨を気取るうちに、自分でも、どちらが本当の自分か分からなくなっていく。

    そんなフョードルを、ゾシマ長老は優しくたしなめる。

    「あなたにも、ぜひにのお願いじゃ、けっして心配や遠慮はなさらぬように」

    長老が諭すような調子で言った……

    「遠慮なさらず、自分の家におられるのと同じつもりでくつろいでくだされ。それから大事なことは、そのように自分を恥じぬということですじゃ、それがすべてのもとになりますでな」

    ゾシマ長老にも、幼子みたいなフョードルの本性が分かるのだろう。

    「自分を恥じぬ」の一言は重い。

    そして、フョードルも、大袈裟なほど感激してみせる。

    家におるのと同じつもりで? つまり、生地を出せとおっしゃいますので? 

    いえ、長老さま、それは分にすぎております、あんまりでございます、が――喜んでお受けいたします!

    ≪中略≫

    まったく私は、人前に出ますと、いつも自分はだれよりもいいやしい男だ、みなから道化あつかいされているような男だ、という気がしてくるんでございます。

    そこで、『よし、それならいっそほんものの道化になってやれ、おまえたちの取り沙汰なんぞこわくないぞ、だいいちおまえたちからして、一人残らず、おれさまよりいやしい連中ぞろいじゃないか!』

    まあ、そんなわけで私は道化になりましたので、恥ずかしさがもとの、長老さま、恥ずかしさがもとの道化でございますよ。

    ひがみ根性のひとつから大あばれもいたしますので。もし人前で出ますとき、みながかならず私のことをもっとも愛すべき聡明な男として迎えてくれるという自信さえありましたら、おお! そのときは私もどんなに善良な人間になっておりましたでしょう! 師よ!」

    彼はだしぬけにその場にひざまずいた。

    「永遠の生命をうけつぐには、いったいどういたせばよいのでございますか?」 (55P~56P)

    フョードルは、表面に出さないだけで、けっこう冷静に自己分析している。

    それに対して、ゾシマ長老の回答はなおも優しく、真実を言い与えている。

    (ゾシマ長老)「どうすればよいかは、とうに自分でご存知のはずじゃ。あなたにはそれだけの分別がおありなさる。飲酒にふけらず、言葉をつつしみ、女色に、わけても拝金におぼれなさるな。それから、あなたの酒場を閉じなされ、全部をというわけにいかぬなら、せめて二、三軒なりと、ところで、大事なのは――嘘をつかぬことでうぞ」

    (フョードル) 「と申しますと、例のディドローの件でございますか?」

    「いや、とくにディドローのことというわけではない。肝心なのは、自分自身に嘘をつかぬことですじゃ。自分自身に嘘をつき、おのれの嘘に従うものは、ついには自分のうちにも、周囲にも、真実というものを見分けられなくなり、そうなれば、自分に対しても他人に対しても尊敬を抱けなくなる。

    ところで、だれをも尊敬できなくなれば、愛するということもなくなってしまい、愛がないのに自分を楽しませ、気をまぎらそうために、情欲やいかがわしい快楽におぼれて、ついにはけだものにもひとしい所業に走るようになるが、もとはといえば、それもこれも他人に対して、また自分に対して、たえず嘘をつくことから出ておりますのじゃ。

    自分に対して嘘をつく者は、まただれよりも腹を立てやすい。

    腹を立てるのは、どうかすると、まことに気持ちのよいことでな、ちがいますかな? なにせ当人自身、だれが自分を侮辱したわけでもないことをよく承知しておる。

    だいたいその侮辱というのが、自分で勝手にこしらえあげた代物で、あることないことつきまぜて色とりどりを添え、派手な一幕に仕立てあげようと自分で誇張し、片言隻句にからんで、豆粒を山のように見せた(針小棒大の意味)ものなのだが、そのことを自分でちゃんと承知しながら、そのくせ自分から先に腹を立てる。

    気分よくなって、たいそうな満足感を味わえるまで腹を立てる。

    そしてそのあげくほんものの敵意を抱くまでになりますのじゃ……」

    フョードルはさっと立ち上がると、長老の痩せこけた手にすばやくチュっと接吻した。 (57P)

    フョードルの最大の不幸は、真に彼を理解する人間が側になかったことだろう。

    誰もが彼の虚勢を「ほんもの」と思い込み、お情けで芝居に付き合ってやる。

    誰一人として親身に語りかけることはなく、フョードルもそんな現状に満足してしまう。

    そして、ますます自分にも他人にも素直になる機会を失い、無頼漢の芝居が、本物の無頼漢へと変わってしまうわけだ。

    それを見抜いたゾシマ長老の言葉に、フョードルも感極まって、長老の手に接吻する。

    「ありがたい聖人さま!」

    彼は感情をこめて叫んだ。

    「もう一度お手を接吻させてくださいませ! いえ、あなたさまはなかなか話のわかる方だ。おつきあい願える方ですよ! 

    私がいつもこんなふうに嘘をついたり、道化芝居を演じたりしているとお考えですか! 

    実を申せば、あれはあなたさまを試そうと思って、わざとあんなまねをしつづけていたんでございます。

    あなたとおつきあい願えるかどうか、ずっと探りを入れておれいましたんです。

    あなたさまの誇り高いお心のそばに、私めのつつましい心の居場所があるものかどうか、とですな? 

    でも、結果は賞状ものでございましたな、あなたとならおつきあい願えますよ! 」

    先の台詞から鑑みるに、心を打たれたのは本当だろう。

    果たして、それが長続きするか否かは、神のみぞ知る、だが。

    江川卓による注解

    飾り額

    聖像画にかぶせる覆(おお)いで、ロシア語では「リーズイ」と言い、司祭が礼拝のときに着用する祭服も同じ言葉で表わされる。聖像の顔と手の部分だけを残して、他の部分をこの飾り額ですっぽり覆ってしまうのがふつうで、材料は銀、金メッキ、純金で、宝石がちりばめられていることもある。

    家族の会合が行われる庵室の描写。「きらきらと輝く飾り額*23に納めた聖像画がほかに二枚並べられ」の注釈。

    《紋切型》

    ミウーソフは西欧に長く暮らしていたためにこの庵(あん)室(しつ)の装飾を,《紋切型》と感じたらしいが、実は、この装飾はロシアの僧院においてはきわめて独自なものである。とくにカトリックふうの象牙の十字架や聖母像などは、正教会では禁制だったはずのものである。ゾシマ長老の特異性を強調するためにドストエフスキーが意図的にこのような描写を行っていることは明らかで、同様の装飾は、『悪霊』の「スタヴローギンの告白」の寮のチホン神父の庵室にも見られる。そのような事情のために、《紋切型》がわざわざ引用句でくくられている。
    なお、この装飾には、教会分裂以前の聖母像などにも見るように、キリスト教内部の分裂状態に対するドストエフスキーのある様の批判を読み取ることも可能である。

    庵室の作りに対するミウーソフの感想に関して。

    悪魔が住みついとる

    十九世紀中葉には、道化や聖痴愚的な瘋癲(ふうてん)行者は、ロシアでも、教会によって異端とされ、その行状を悪魔の所業とする見方が一般的であった。

    フョードルの台詞「長老さま、私は生れながら、根っからの道化でございまして、聖痴愚(ユロ-ジヴイ)も同然でございます。そりゃ、おまえの身内にたぶん悪魔が住みついとるんだ、とまで言われても仕方がありません」に関して。

    エカテリーナ女帝の御代に・・・まいりました

    フランスの啓蒙主義哲学者ディドロー(1713-84)は、1773年にロシアを訪れ、エカテリーナ二世に対して進歩的改革の必要を説いた。ここに語られている逸話は、エカテリーナ女帝の「啓蒙君主」化に反対する大貴族たちの間から意図的に流されたものらしい。なおドストエフスキーは1869年初め、スイス、イタリアを旅行中にディドローの著作を読み、非常な関心をもつようになった。

    フョードルの台詞「私は哲学者のディドローのようなものでございますな。ご存じでいらっしゃいますか、聖なる長老さま、エカテリーナ女帝の御代に哲学者のディドローがプラトン大主教のもとへまいりました」に関する。

    『愚かなる者はおのが心に神なしと言う

    旧約聖書詩編第十三(十四)歌一節、同第五十二編二節の引用。

    上述の続き。フョードルの台詞「(ディドローが)部屋に入るといきなり、『神はない』と申しました。すると大主教さまは即座に指をあげられて、『愚かなる者はおのが心に神なしと言う』と答えられたものです」に関する。

    第十三(十四)歌は次の通り。日本聖書(WordProject)より

    1 愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。彼らは腐れはて、憎むべき事をなし、善を行う者はない。
    2 主は天から人の子らを見おろして、賢い者、神をたずね求める者があるかないかを見られた。
    3 彼らはみな迷い、みなひとしく腐れた。善を行う者はない、ひとりもない。
    4 すべて悪を行う者は悟りがないのか。彼らは物食うようにわが民をくらい、また主を呼ぶことをしない。
    5 その時、彼らは大いに恐れた。神は正しい者のやからと共におられるからである。
    6 あなたがたは貧しい者の計画をはずかしめようとする。しかし主は彼の避け所である。
    7 どうか、シオンからイスラエルの救が出るように。主がその民の繁栄を回復されるとき、ヤコブは喜び、イスラエルは楽しむであろう。

    教母をつとめたのがダシコワ公爵夫人で、教父がポチョームキン

    ダシコワ公爵夫人(1743-1810)は、エカテリーナ二世が一七六二年に当時の皇帝ピョートル三世に対してくーデーターを起して帝位を奪ったとき以来の女帝の側近、後にロシア学士院総裁、外国旅行さい、ディドロー、ヴォルテールと会っている。ポチョームキン公爵(1739-1791)もエカテリーナ女帝の有力な寵臣の一人。

    上記の台詞に続く。ディドローがその場で洗礼を受けたことにちなみ。

    このあたりは、池田理代子氏の歴史漫画「女帝エカテリーナ」を読むとイメージが掴みやすいです。続きで、「オルフェウスの窓」ロシア編を読むと、いっそう分かると思います。ビジュアル的に。一つの参考として。

    なんじを宿せし母胎は幸いなり……とりわけ乳首こそ幸いなれ!

    ルカ福音書第十一章二十七節に出てくる言葉のパラフレーズ。この言葉は、イエスの話を聞いていた一人の女が群衆の中からイエスに向かって叫んだだもの。これに対してイエスは、「神の言葉を聞きて、これを守るものこと幸いなり」と答える。

    フョードルの台詞。「なんじを宿せし母胎は幸いなり、なんじを養いし乳首もまた幸いなり、とりわけ乳首こそ幸いなれ!」とミウーソフを挑発する。

    ルカ福音書 第十一章二十七節の記述は次の通り。

    真の幸い

    イエススがこれらのことを話していると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。
    「なんと幸いなことでしょう。あなたを産み、あなたを育てたお母さんは」
    しかしイエスは言った。
    「むしろ幸いなのは、神の言葉を聞き、それを守る人である」
    新約聖書 新共同訳 Kindle版

    詳しくは、聖ルカ伝第11章(WordProject)を参照のこと。

    永遠の命を受けつぐには

    ルカ福音書第十章二十五節の引用。イエスはこれに対して「主を愛せよ、隣人をおのれのように愛せよ」と教え、「よきサマリヤ人」のたとえ話を語る。ここでは、「受けつぐ」という言葉がロシア語で「遺産」と同語原であることもあり、作品の構造とのより深い結びつきを読みとることもできる(四二ページ上段の注意照。なお「よきサマリヤ人)のたとえ話は、第十一編八章(下巻334-335ページ)でイワンが行倒れの通行人の世話をするところに使われており、この場にイワンがいたこととの関連も考えられる。

    フョードルが半分冗談、半分本気で長老に問う、「師よ、永遠の命を受けつぐには、いったいどういたせばよいのでございますか」

    まことに嘘は嘘の父なり

    ヨハネ福音書第八章四十四節に、悪魔が嘘を言うのは、自分にふさわしいことである、なぜなら彼は嘘を言うものであり、かつ「嘘の父」だからである、という一句がある。フョードルはこの一句を頭に置いているように見える。

    フョードルの台詞「それにしても私は、それこそ一生涯、毎日毎時、嘘をつきどおしでまいりました。まことに嘘は嘘の父なり、でございますな!」に対して。

    殉教者伝集成

    十一世紀ごろから各種編まれており、一年の各各日にあわせて聖者伝を集めたもの。正式には『チェチイ・ミニェイ』(月の読物)と呼ばれ、十六世紀にロシア正教会のマカーリイ主教が編纂した『大チェチイ・ミニェイ』全十二巻がもっとも名高い。自分の首に接(せっ)吻(ぷん)した聖者とは、カトリックの聖者パリのディオニシイのことで、ヴォルテールの『オルレアンの処女』にも登場する。ヴォルテール、ディドローらの『百科全書』派が、しばしばこの伝説を材料にして宗教の欺瞞性を揶揄している。

    フョードルが長老に『殉教者伝集成』のどこかに、「ある奇跡の聖者が、信仰のために迫害を受けられて、最後に首をはねられましたとき、むっくと起きあがって、ご自分の首を拾いあげられると、『いとおしげに口づけぬ』と言う話が載っていませんか?」と訊ねる。

    誰かにこっそり教えたい 👂
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