江川卓『カラマーゾフの兄弟』は滋賀県立図書館にあります詳細を見る

    一つの生命を代償に、数千の生命を堕落と腐敗から救う ~ドストエフスキーから永遠の問いかけ

    居酒屋で談笑するイワンとアリョーシャ カラマーゾフの兄弟
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    人間の意識と世界の事象は時間と空間を同じくして、形に現れるするという。

    いわゆる、『シンクロニシティ』。

    ユングの唱える「共時性」では、意識的にせよ、無意識にせよ、人々が心に抱くもの――恐れ、願望、憧れ、予感などが、目に見える事象となって現れるという。

    それも個人レベルではなく、時に、集団、しいては、世界レベルで。

    そう考えると、今、世界で起きている様々な事象――天災、紛争、デモ、格差、等々も、もしかしたら、潜在的に人が望んでいるのではないかと思うことがある。

    突き詰めれば、人類滅亡=リセット願望だ。

    今の世の中、一人一人が努力して、正義の声を上げたところで、変えられることなど、たかが知れている。

    正直に生きたところで、善が報われ、悪が裁かれるわけではないし、多くの場合、最後に待ち受けているのは、絶望と諦めだったりする。

    だったら、丸ごと、滅びた方がいい。

    こんな世の中、生きていて楽しいのは悪人ぐらい。この後、どうなろうと、知ったことじゃない。

    そうした投げやりな感情が、希望より、はるかに勝るので、地上に決して平安が訪れることはない――という訳。

    ところで、シンクロニシティといえば、街角やTVで偶然見かけたものが、人生を左右することがある。

    たとえば、CMの看板。電車の中で耳にした他人の噂話。新聞の求人広告。駅前のチラシ。

    目にした瞬間、全身に稲妻が走り、「これだ!!」と大声で叫びたくなるような、運命の答えだ。

    『罪と罰』のラスコーリニコフにも、そのような場面が訪れる。

    性悪な金貸しの老婆を殺害するか、否か、思い倦ねるラスコーリニコフは、ふと立ち寄った安料理屋で、学生と将校のこんなやり取りを耳にするのだ。

    ところどころ、略しています
    ● 学生
    「ひとつ考えてくれ。

    一方には、おろかで、無意味で、くだらなくて、意地悪で、病身の婆さんがいる。だれにも必要のない、それどころか、みなの害になる存在で、自分でも何のために生きているの
    かわかっていないし、ほっておいてもじきに死んでしまう婆さんだ。わかるかい?」

    ● 将校
    「まあ、わかるよ」

    ● 学生
    「ところが、その一方では、若くてぴちぴちした連中が、だれの援助もないために、みすみす身を滅ぼしている。それも何千人となく、いたるとこでだ!

    修道院へ寄付される婆さんの金があれば、何百、何千という立派な事業や計画を、ものにすることができる!

    何百、何千という人たちを正業につかせ、何十という家族を貧困から、零落から、滅亡から、堕落から、性病院から救い出せる――

    これがみんな、彼女の金でできるんだ。

    じゃ、彼女を殺して、その金を奪ったらどうだ?

    そして、その金をもとに、全人類の共同の事業に一身を捧げるのさ。

    きみはどう思う?

    ひとつのちっぽけな犯罪は、数千の善行によって、つぐなえないものだろうか?

    ひとつの生命を代償に、数千の生命を腐敗と堕落から救うんだ。

    ひとつの死と百の生命を取りかえる――こいつは算術じゃないか!

    それにいっさいを秤にかけた場合、この肺病やみの、おろかな意地悪婆さんの生命がどれだけにつくだろう? 虱かゴキブリの生命がいいところだ。

    いや、それだけの値打ちもない。

    だって、この婆さんは有害なんだからな。

    この婆さんは他人の生命をむしばんでいるんだから」

    ● 将校
    「もちろん、彼女は生きるにあたいしないさ。しかし、それが自然というものじゃないか」

    ● 学生
    「いや、きみ、自然を修正し、正しく導くのが人間さ。でなけりゃ、偏見に溺れてしまわなくちゃならない。

    でなけりゃ、偉大な人間なんてひとりも存在できないはずだ。

    人ははよく“義務だ、良心だ”と言う。ぼくは義務にも良心にも反対しないさ。

    しかし問題は、それをどう理解するかだ。

    待てよ、もうひとつ、きみに質問を出そう」

    ● 将校
    「いや、きみこそ待て。ぼくが質問を出す。

    きみはいま大演説をぶってみせたが、きみは自分で婆さんを殺すのか、殺さないのか」

    ● 学生
    「もちろん、殺すもんか! ぼくは正義のために言ったんで……ぼくがどうのという問題じゃない……」

    ● 将校
    「しかし、ぼくに言わせりゃ、きみ自身がやるんでなければ、正義もへちまもないと思うな?」

    『罪と罰』 江川卓・訳

    二人の会話から、ラスコーリニコフは啓示を受け、老婆殺しへと駆り立てられていくのだが、これも決して偶然ではなく、「誰かに後押しして欲しかった」ラスコーリニコフの願望が、まるで結晶するかのように彼の目の前に現れた証だろう。

    もって生まれた良心によって、自分の忌まわしい思い付きを何度も否定するけれど、腹の中は既に決まっていて、後は決め手になる何かがあればいい。

    もし、二人の会話を偶然耳にする前に、母と妹に再会していたら、老婆のことなど忘れて、いつものラスコーリニコフに戻れたのかもしれないが、何の因果か、そうはならなかった。

    よく言えば、過ちを通して、悟りを得る為の、神の遠大な計画と取れなくもないが、この場面はやはり自ら破滅を願う負の感情が招いたシンクロニシティではないかと。

    ラスコーリニコフは、世界を憎んではいるけれど、一方で、自分自身の破滅も願っており、老婆殺しが何を意味するかも、非常によく理解している。

    大義を掲げて、老婆の眉間に斧を振り下ろしたはいいものの、完全犯罪を目指すでもなく、必死で逃亡するわけでもなく、断頭台までの時間稼ぎをするみたいに、ぐずぐず寝込んだりする様を見ていると、彼は破戒者というより、自分で自分の首に縄をかける勇気もない臆病者という気がする。

    だからこそ、彼には「彼の論理を後押ししてくれる何か」が必要で、その思いが、形となって現れたのが、安料理屋の二人の会話だ。

    もっとも、この二人が、「神の遠大な計画」における使徒か、あるいは本物の悪魔かは分からない。

    何にせよ、ラスコーリニコフ一人では、到底、斧は振り下ろせなかったのは確かである。

    ところで、あなたは、「ひとつの生命を代償に、数千の生命を腐敗と堕落から救う」という学生の理屈に、何と答えるだろうか?

    例えば、ここに一人の独裁者がいて、彼の為に何万、何十万という庶民が不当に虐げられて、苦しんでいるとしたら?

    独裁者を殺すことは、万人を救うことにならないだろうか?

    だが、それでも、断じて、人を殺すことが肯定されてはならないのだと思う。

    その為の法律であり、文明社会なのだから。

    いかなる理由があれ、人殺しが肯定される世界では、正義もまた一方的という気がするのだが、いかがだろう?

    そして、将校の、「きみ自身がやるんでなければ、正義もへちまもない」という言葉もまったくその通り。

    思想というのは、誰かに代わって実行してもらうものではないし、口先で終わるものでもない。

    自身が実行して初めて、思想は思想の意味をもつ。

    知的遊戯としての論争は楽しいが、いざ実行するとなると、日頃の思想など、何の役にも立たないことは、現実社会でもお馴染みではないだろうか。

    罪と罰 上 (岩波文庫) Kindle版
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