キリスト教の本をたくさん読んだらといって、必ずしも、その心髄を理解できるとは限りません。知識は「知識」であって、「体験」ではないからです。
特にドストエフスキーに関しては、 「原罪」と「赦し」の感情が理解できなければ、話になりません。
『罪と罰』の根底にあるのも、カラマーゾフの兄弟の葛藤も、すべては「過ち(原罪)と罪悪感」「キリストの愛と赦し」に基づくからです。
この二作に限っていえば、本物の悪人は存在しません。ラスコーリニコフは老婆と義理妹リザヴェータを、スメルジャコフは一家の主フョードル(もしかしたら義理父)を手にかけますが、サタンのように邪悪な意図をもって殺害したというよりは、「こじらせた」というのが最大の理由だからです。
ラスコーリニコフは極度の貧困から、スメルジャコフは卑しい生い立ちから、心をこじらせ、ねじれた願望を抱くようになりました。
どちらも環的に恵まれ、劣等感に苛まれることさえなければ、普通の学生、普通の料理人として、普通の人生を送っていたでしょう。
ところが、人間は弱い。貧苦にあえげば、金持ちに殺意を覚えるし、出生を理由に、あからさまに差別されれば、世の中すべてが悪意に満ちたように感じられます。
どんな罪人にも、どこか理解できるところがあり、彼らがその非に気付き、改悛すれば、再び神の国に迎えられる……というのが、キリスト教の心髄です。
その点、日本文化は懲罰主義ですから、たとえ相手が謝っても、それ相応の報いを受けるべきという考え方が根強いです。日本昔話でも、おばあさんをいじめたタヌキや、村人を苦しめた鬼はとことん懲らしめ、謝罪させ、無様な姿を晒して、やっと許されるところがあります。「詫びる心」よりも、まず謝罪という「型」が大事で、その型が皆を納得させるものでなければ、さらに痛めつけ荒れる懲罰が待っています(芸能人の記者会見など)。
そうした精神風土では、キリスト教の「まるっと赦す」は理解できないし、その人の罪が深ければ深いほど、悔い改めた時の祝福も大きいという考え方も理解できないと思います。死刑制度に対する考え方も、キリスト教圏と日本では大きく異なりますね。犯人が悔い改めることよりも、「謝罪として死んで見せる」ことの方がはるかに重要なので、廃止の方には向かわないんですね。
しかし、「悔い改めれば、赦される」という気持ちを理解しなければ、ラスコーリニコフが最後に辿り着く改悛と魂の解放は実感できないし、ソーニャの愛がなぜ彼の心に深い感銘を与えたのかも分かりません。また、神の代理人である教会が「赦しの免罪符」を脅しの材料にして、現代人の心や行動を縛り付け、かえって不幸にしているのではないかというイワンやフョードルの疑問も理解できないし、そんなイワンやフョードルも優しい眼差で包み込むアリョーシャの愛も理解できないと思います。
ソーニャにしても、アリョーシャにしても、単なる親切や同情ではなく、男女愛や兄弟愛を超えた、神の慈愛の話なんですね。
しかし、そのような気持ちは、聖書を100回読んだところで身につきませんし、旧約聖書の人物やエピソードや詩編を全て暗記したところで理解できるものではないです。
なぜなら、人間は、自分が体験したことしか理解できないし、自分の中に無いものは理解しようがないからです。
たとえば、生まれた時からエリートで、受験も就職も一度として躓いたことがなく、「分からない人の気持ち」が分からない、みたいな優等生がいますね。彼らに、浪人の情けなさや、第二志望で妥協する学生の葛藤など分からないし、零細企業で安月給で働く人の気恥ずかしさも永久に分からないでしょう。
でも、一度でも挫折して、他人に馬鹿にされたり、仕事もお金もないどん底を経験した人なら、たとえ現在が順調でも、焦り、絶望する人の気持ちが分かると思います。
愛と赦しも、それと同じ。
自分の中に、それに近い気持ちがなければ、ドストエフスキーの作品に描かれている愛も赦しも理解できません。
彼が何を目指し、何を伝えようとしたかも、分からないと思います。
そこに書かれているのは、「情報」ではなく、「志し」だからです。
執筆当時も、ロシアにはいろんな考え方があったと思いますが、彼が目指したのはキリスト教による社会改革と感じます。
教会に実権を与えたり、司祭が政治家を兼ねる宗教国家ではなく、国民一人一人が、キリストの教えに耳を傾け、地上で愛を実践する、夢のような話です。(キリスト教会が政治に強い影響を及ぼす事は、ポーランドでは実際にありますね。特に中絶、結婚、家庭観においては非常にカトリック色が強い)
当時、西洋から、科学万能主義や個人主義、大量消費社会と金銭崇拝の波が押し寄せつつあることは、「西洋帰りのミウーソフ」や「俺はヨーロッパに行く」というイワンの台詞などから強く感じられますし、ゾシマ長老の説教の中にも、そうした風潮への警告が盛り込まれています。
ロシアでは革命が起きて、皇帝を頂点とする貴族社会から、ソビエト主導の社会主義国家に移行しましたが、ドストエフスキーとしては、キリスト教に基づく、人道主義的・民主主義を実現したかったのではないでしょうか。資本主義に関しては難しいですが、要は「分配」であって、弱者や貧者に十分に救済が行き渡らない事こそが問題なのですから。
ドストエフスキーに近づくには、聖書に書かれた神の愛を実践するより他ありません。
その根幹となるのは、「赦す」「手放す」「委ねる」です。
人間の裁量において許すのではなく、その人の罪も、心持ちも、存在そのものを赦す。
自身の判断や信念や目標に拘るのではなく、手放す。
自分で何とかしようと気張るのではなく、謙虚な気持ちで神の意に委ねる。
努めて、それに従う以外、聖書やドストエフスキーを理解する術はないと思います。
なぜなら、自分の中にそういう部分がなければ、イエスの言葉も、アリョーシャの台詞も、実感として理解できないからです。
それは「信者になれ」という話ではなく、擬似的な体験と想像力の問題ですね。
もし、あなたが神ならば、目の前の相手を無条件で抱きしめることができるか。
たとえ、それが極悪人であっても、醜い男であっても、その人の過ちをすべて赦して、理解することができるか。
そうしたことを、頭の中でシミュレーションする、できれば、現実生活において実践する、その中で、キリスト教に対する知見も磨かれていくのではないでしょうか。
ドストエフスキーに限らず、美術家、音楽家、舞踊家、映画監督、哲学者、、、古今の文化人やアーティストがこの主題に取り組んできました。
彼らの人生の大半は、「どんな作品を作るか」ではなく、答えを見出すことに費やされています。作品は、その過程で生まれた、一点の造形に過ぎません。
ゆえに、キリスト教の影響を受けた、どんな作品も、その真価を理解するには、キリスト教の理解が不可欠なのです。