江川卓『カラマーゾフの兄弟』は滋賀県立図書館にあります 詳細を見る

【21】 二人の女の愛と意地 ~プライドは愛より強し? 令嬢カチェリーナ

グルーシェンカとカチェリーナ カラマーゾフの兄弟
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目次 🏃‍♂️

婚約者カチェリーナと愛人グルーシェンカ

章の概要

ドミートリイは、グルーシェンカが父と逢い引きに来たと思い込み、カラマーゾフ家に殴り込みに行きますが、寸手のところで、アリョーシャとイワンに止められます。兄の暴力を目の当たりにしたアリョーシャは不吉な予感に震え、イワンに相談しますが、イワンは、「他人の死を希望する権利はある」と取り合いません。

アリョーシャは、父絡みの三角関係を解消し、ドミートリイを救うため、カチェリーナを訪ねますが、そこには思いがけない人物が控えていました。

『第Ⅲ編 好色な人々 / 第10章 二人いっしょに』では、カチェリーナとドミートリイの関係、放埒なグルーシェンカの真意など、女二人の意地とプライドが炸裂する、スリリングな場面を描いています。

動画で確認

映画『カラマーゾフの兄弟』(1968年)より、1分動画。

アリョーシャがカチェリーナを訪ねると、突然、グルーシェンカが姿を現わします。なんとも言えず、こわい場面です(^_^;

二人いっしょに……こわい。

カチェリーナ グルーシェンカ カラマーゾフの兄弟

なお、ドミートリイ、カチェリーナ、グルーシェンカの出会いと、イワンとフョードルの横恋慕、3000ルーブリ問題については、下記の記事にまとめています。

【17】ドミートリイの告白 ~3000ルーブリをめぐる男女の愛憎と金銭問題 カチェリーナとグルーシェンカ

カラマーゾフの兄弟 カチェリーナ アリョーシャ

美しいからといって、愛せるとは限らない

愛のメッセンジャー役を背負わされたアリョーシャは、重い足取りでカチェリーナの邸宅に向かいます。

ドミートリイはカチェリーナと婚約したにもかかわらず、グルーシェンカに熱を上げ、カチェリーナから預かった3000ルーブリをグルーシェンカとの遊びに使い込んで、返済の目処も立っていないからです。

カチェリーナがどれほど傷つき、失望したか、想像するだに恐ろしいです。

ところが、カチェリーナは堂々たる態度でアリョーシャを迎えます。取り乱すどころか、以前にも増して、美しさが感じられます。

しかし、その美しさも、「長く愛せるものではない」とアリョーシャは悟ります。

「ほんとうによかったわ、とうとうあなたも来てくださいましたのね! わたしきょう一日、あなたのことばかり神さまにお願いしておりましたのよ! お坐りになって」

カチェリーナの美しさは、この前会ったときにもアリョーシャを驚かせた。それは三週間ほど前、カチェリーナのほうからぜひにとせがまれて、兄のドミートリイがはじめてアリョーシャを彼女の家へ連れてきて、紹介したときだったが、そのときは、二人の間に話ははずまなかった。カチェリーナは、アリョーシャがひどくはにかんでいると思って、彼をいたわるように、そのときはもっぱらドミートリイとばかり話していた。

アリョーシャは無言でいたが、見ることだけはいろいろと目にしていた。彼の印象に強く残ったのは、気ぐらいの高い令嬢の居丈高な態度、傲慢にさえ見えるなれなれしさ、それと自信の強さだった。しかも、それらは疑問の余地のないほどはっきりしたことで、アリョーシャは自分が大げさに見ているのではないと感じた。彼は、カチェリーナの燃え立つような大きな黒い目が実に美しく、それが彼女の青白い、というより、いくぶん淡黄色がかった面長の顔に、ことのほかよくうつっているのに気がついた。

しかしこの目にも、また、美しい唇の形にも、なるほど兄をぞっこん夢中にさせるにはちがいないが、もしかしたら、長くは愛しつづけられないのでは、と思わせる何かが感じとられた

女性は特に勘違いしがちですが、美しいからといって、愛せるとは限りません。

カチェリーナのように、息を飲むような美しさであっても、「いとしい」と感じるか否かは別なんですね。

かといって、カチェリーナが全く魅力のない女性かといえば、決してそうではなく、イワンはカチェリーナという女性に心底惹かれています。

愛は、美しさと同意義ではありません。

美しさは、愛のきっかけになるかもしれませんが、愛を保証するものではないです。

美しければ、他人の愛を意のままに操れる、というのは驕りです。

それを理解しないから、美を誇れば誇るほど、愛されなかった時の反動も大きいのです。

アリョーシャは、カチェリーナの美しさに目を見張りますが、ドミートリイが長く愛するタイプの女性ではないと見抜きます。

それはカチェリーナが悪い人間だからではなく、どこか、情愛に欠けた所があるからでしょう。

ドミートリイも、一見、身勝手の女好きに見えますが、「カチェリーナと結婚したら、親父の面倒を見るつもりでいた」というほどの情けは持ちあわせています。

だからこそ、意地とプライドだけで自分を保っているようなカチェリーナには心を許せないのだと思います。

訪問のあとで、兄のドミートリイが、フィアンセからどんな印象を受けたか、隠さずに話してくれとしつこく迫ってきたとき、彼は自分の考えをほとんどありのまま兄に伝えた。

「あの人といっしょになれば幸福にはなるでしょうけれど、でも……平穏な幸福ではないかもしれませんね」

「それなんだよ、おまえ、ああいう女はいつまでもあのままで、けっして運命に甘んじようとはしないものなんだ。するとおまえは、おれが彼女を生涯愛しつづけることはできないと思うんだな?」

「いいえ、ことによったら、生涯愛しつづけるでしょうけれど、おそらく、いつも幸福でいられるとは思えないんです……」

「運命に甘んじようとしない」というのは、カチェリーナが、他人の気持ちよりも、現実よりも、自分のプライドを大事にする、ということです。

現実社会でも、恋人の気持ちが離れたにもかかわらず、「あの人は内気なだけ」「仕事が忙しいから」「何か誤解しているのだ。丁寧に説明すれば、気持ちも変わるはず」等々、悪あがきする女性は少なくないですよね。

カチェリーナも、そのタイプです。

すでにドミートリイの気持ちが彼女にないことを知りながら(そもそも、最初から本気で愛してない)、「私はいい女。彼のことは何でも分かってる。私はこれくらい許せる。こんな些細なことで動揺するほど、つまらない女ではない」+「淫売グルーシェンカに負けてたまるか」、自分のプライドを守ろうとする気持ちが渦巻いています。

彼女もまた、ドミートリイを愛してないし、尊敬もしていません。

にもかかわらず、愛している振りをするから、寒々とするのです。

カチェリーナの意地と都合のいい解釈

「ああ、お兄さまのお使いでしたのね、わたしの予感していたとおりですわ。わたし、もう何もかもわかっていますのよ、何もかも!」カチェリーナはふいに目をきらきらと輝かせて叫んだ。

≪中略≫

わたしね、もしかしたら、あなたよりずっといろいろなことを知っているがもしれませんし、ですから、あなたに事実の報告をしていただこうとは思っていませんの。それより、伺いたいのは、あなたご自身があの人から受けられた、いちばん新しい個人的な印象ですの、それを、できるかぎり率直に、飾らずに、ぶしつけにわたるくらいに(ええ、いくらぶしつけになってもかまいませんの!)話していただきたいんです、

≪中略≫

「兄はあなたに……頭を下げて、もう二度とこちらへはうかがわないから――あなたに頭を下げるようにと申しました」

「頭を下げる? あの人その通りに言いましたの、その通りの言い方で?」

「そうです」

「ひょっとして、なにかのはずみで、なにげなく口をすべらせて、言いまちがえたんじゃありませんの、ちょうどいい言葉が浮かばなかったりして?」

「いいえ、まちがいなくこの言葉を伝えるように頼まれたんです、――『頭を下げる』という言葉を。忘れずに伝えてくれと、三度も念を押されました」

ドミートリイの『頭を下げる』は、「これで終わりにしてくれ」ということですね。

「3000ルーブリを返せないので、ごめんなさい」「グルーシェンカと浮気しました、ごめんなさい」ではなく、『今後、君の元に帰ることはない』という強い宣言です。

もし、もう一度、カチェリーナとやり直す気があるなら、3000ルーブリのことも、グルーシェンカのことも、自分で話して、許しを得ようとしたでしょう。でも、アリョーシャを使いに立てて、ただひたすら「頭を下げる」というのは、もう二度と、やり直す気はない、ということです。

で、その言葉の意味を、カチェリーナも理解しているにもかかわらず、「なにかのはずみ」と都合よく解釈する。自分のプライドを守りたい一心でしょう。だって、ドミートリイの謝罪を受け入れることは、縁切りに賛同することですから。

さらにカチェリーナは、「自分の決心におびえている」=ドミートリイは、カチェリーナとの別れを決断したものの、それは"もののはずみ"で、今ではそのような決断を下したことを後悔している――と言いだします。

そして、アリョーシャも、「そうかもしれない」と考えます。

「もしあの人がただ何かのはずみで、その言葉にはそれほどこだわらずに、ぜひともその言葉を伝えてほしいというわけでもなくて、頭を下げるように、と言ったのでしたら、それでもう万事おしまいなんです……もうそれきりなんです! 

でも、あの人がことさらその言葉にこだわって、わたしにそのお辞儀を忘れずに伝えるようにとわざわざ頼んだのでしたら――それはつまり、あの人が興奮して、われを忘れるほどになっていたということじゃありませんかしら? 

決心はしたものの、ご自分の決心におびえているんですわ! 

しっかりした足どりでわたしを捨てて行かれたのじゃなくって、山からころげ落ちるような具合に逃げていかれたんです。

その言葉にとくに力を入れたのはただの虚勢ということになるんじゃないでしょうか……」

「そうです、そうです!」アリョーシャは熱っぽくうなずいた。「ぼくも、そんな気がしてきました」

「もしそうなのでしたら、あの人はまだだめになってはいません! あの人は絶望していますけれど、それだけのことで、わたしがあの人を救うことはまだできるんです。ちょっとお待ちになって、あの人はお金のことを何かあなたにことづけませんでした、三千ルーブリのことを?」

「話したどころか、どうやら、そのことが何より兄を苦しめていたらしいんです。兄は、もうこうなったら名誉も何も失われたんだから、どうなったって同じことだ、と言っていました」

アリョーシャは熱をこめてこう答え、希望がひたひたと胸にみなぎってくるのを、そして、もしかしたら、兄にとっての救いの道はほんとうに実在するのかもしれないと、心の奥底から感じられた。

「でもあなたはほんとうに……そのお金のことをご存じなんですか?」彼はこう言い足して、ふと口をつぐんだ。

自信満々のカチェリーナ。アリョーシャは辛そうですね……この役は荷が重いのでは??
自信満々のカチェリーナ アリョーシャ カラマーゾフの兄弟 

さらにカチェリーナは、ドミートリイの3000ルーブリの使い込みをかばい立てしますが、これは自分のプライドを守るための詭弁であることが見て取れますね。

どうすればあの人が三千ルーブリの使いこみのことでわたしに恥ずかしい思いをしないですむようにできるのかって。

ええ、ほかの人に対して、ご自分に対して恥ずかしいと思われるのはかまいませんけど、わたしに対しては恥ずかしいと思ってほしくないんです。

だって神さまには、あの人だってなにも恥ずかしがらずに、なんでも話すじゃありませんか。

どうしていまになってもあの人は、わたしがあの人のためにならどれほどのことでも忍べるってことが、わかってくださらないんでしょう? 

カチェリーナは、こう思いたい。

ドミートリイは、3000ルーブリの使い込み(グルーシェンカとの豪遊)が、カチェリーナにバレたら、カチェリーナはきっと激怒すると思い込んでいる。だから、カチェリーナの怒りを恐れて、もう別れよう、頭を下げる、みたいな気持ちでいるのだ、と。

が、カチェリーナいわく、「自分は神様みたいなもの。真実を知ったところで、決して怒ったりしない、私は神のように優しく耐え忍ぶことができる」。

しかし、二人の間には、グルーシェンカという第二の女性が存在し、彼女に対するドミートリイの想いは切実です。父親に殴りかかったドミートリイの激情を目の当たりにしたアリョーシャは、ドミートリイの「頭を下げる」の意味が、「カチェリーナに怖れをなして」とは思えないのです。ドミートリイは本気でカチェリーナと別れ、グルーシェンカと一緒になるつもりなのだと。

が、カチェリーナは、それさえも言い訳します。

「じゃあなたは、わたしがその女の人を見るのもいやだと思っていらっしゃるの? あの人も、わたしがそうだと思っていらっしゃるのかしら? でも、あの人はその女の人とは結婚なさいませんわ」彼女は突然ヒステリックに笑いだした。
「だいたいカラマーゾフともあろう人が、あんな情欲にいつまでも燃えていられるものかしら? あれは情欲で、愛なんかじゃありませんわ。あの人は結婚しませんとも、なぜってあの女がお嫁に行きませんもの……」
カチェリーナはふたたびだしぬけに奇妙な笑いをもらした。

だんだん説明が苦しくなってきましたね。確信というよりは、自分にもアリョーシャにも、そう言い聞かせている、という雰囲気です。

グルーシェンカは「遊びの恋」と思いたい

この後、カチェリーナがずいぶんグルーシェンカを持ち上げるので、何事かと思えば、本人がいました。

カチェリーナが「ドミートリイはグルーシェンカと結婚しない」と言いきるのも、事前に二人が話し合ったからです。(その場面は、小説内には描かれていません)

グルーシェンカを招くカチェリーナ アリョーシャ カラマーゾフの兄弟

グルーシェンカを初めて見たアリョーシャの印象は次の通りです。

豪奢な黒絹のドレスの衣ずれの音もさやかに、肘掛椅子にふわりと腰をおろすと、乳のように白いむっちりとした首筋とゆたかな肩を、高価な黒いウールのショールでやさしく包んだ。彼女は二十二歳で、その年齢にぴったりふさわしい顔だちをしていた。顔の色は抜けるように白く、両の頬には上品な薄紅色の紅潮がほんのりとさしていた。顔の輪郭はいくぶんふくらみすぎている感じで、下顎はほんの心もちしゃくれていた。上唇は薄かったが、いくらか受け口加減の下唇は倍ほども厚みがあって、腫れぼったいような感じがあった。

しかし、こよなく美しい豊かに波打つ栗色の髪と、黒貂のように黒々とした眉と、まつ毛の長い灰青色のすばらしい目とは、どこかの人ごみの中を足にまかせて歩いている、まるで無関心な、ぼんやりした男をさえ、思わずこの顔の前に立ちどまらせ、その印象を長く記憶に焼きつけずにはおかないほどのものであった。

アリョーシャがとくに強い衝撃を受けたのは、子供っぽい感じのする、あけひろげなその顔の表情だった。目つきも子供のようなら、何かうれしそうなその様子も、いかにも子供らしかった。そして、そういう《うれしそうな》様子で、彼女はテーブルのそばへやって来て、それこそ子供のように待ち遠しそうな、信じきった好奇の面持を浮かべて待ち受けているのだった。彼女の目を見ていると心が浮きたつように思われ、アリョーシャはそのことを直感した。

そのほかにも彼女のうちには、はっきりとつかみにくい、というより、彼にはまだ理解できない何かがあったが、それでも無意識にそれはアリョーシャにも伝わってくるのだった。

ほかでもない、あの例の身のこなしのやわらかさ、なよやかさ、その動作の猫のような忍びやかさである。とはいえ、その肉体は豊満で、力にあふれていた。ショールの下にはむっちりと肉づきのいい肩や、高く盛りあがった、まだ若さにはちきれんばかりの胸の線が感じられた。この肉体は、ひょっとしたら、本来はミロのヴィーナスのスタイルを約束するものであったかもしれない、

ずいぶんポイントが高いですね。カラマーゾフ一家が「好色」であり、アリョーシャもそれを自覚していることから推測すると、アリョーシャでさえグルーシェンカに性的魅力を感じたのは確かです。

1968年度版の映画に登場するグルーシェンカは、原作のイメージにそっくりです。

アリョーシャ、背中が煤けてます・・
グルーシェンカとカチェリーナ カラマーゾフの兄弟

しかし、カチェリーナの持ち上げ方は不自然です。腹の底では軽蔑し、恨んでもいるのに、無理している様子が窺えます。

「ねえ、アレクセイさん、この方はそれはもう想像もつかないような方ですのよ、それは気ままな方ですけど、そのかわりすばらしく高いプライドを持っていらっしゃいますの。それはもう高潔で、心のおおらかな方なんですの、アレクセイさん、おわかりかしら? ただたいそう不幸な方で、つまらない、おそらくは軽薄な男のために何もかも犠牲にする決心をすこしいそがれすぎましたのね。

グルーシェンカには、5年前、結婚を約束した将校がいました。ところが、無残に捨てられて、失意のどん底の時に、老いぼれ極道者の商人で、町長でもあるサムソーノフに拾われます。具体的に、どういう関係であったかは説明されていませんが、「人々の噂によると、囲い者であり、情婦であり、淫売という話です。(それなりに肉体関係もあったのでしょう)

にもかかわらず、カチェリーナは、自らの寛容と慈悲を示すために、グルーシェンカの手の甲にキスをして見せます。

「アレクセイさん、このふっくらした、小さな、美しいお手をごらんなさいな。ごらんになった? このお手がわたしに幸福を運んでくだすって、わたしをよみがえらせてくだすったの、ですからいま、わたし、このお手に接吻させていただくわ、上からと、それから掌(てのひら)にも、ほら、ほら、ほらもう一度!」

彼女は歓喜に酔ったようになって、実際に美しい、ただ、あまりにふっくりしすぎた感じもあるグルーシェンカの手を三度接吻した。

一方、グルーシェンカのほうは、その手を差しのべたまま、ヒステリカルな、よく透る、美しい笑い声をもらしながら、《やさしいお嬢さま》の動作を目で追っていたが、そんなふうに手を接吻されるのが、どう見ても楽しくてならないらしかった。『ひょっとして、有頂天の度が過ぎるんじゃないかな』という考えが、ちらとアリョーシャの頭をかすめた。彼は顔を赤らめた。この間ずっと彼は妙に胸さわぎを覚えていた。

しかし、自分で自分に酔いしれるカチェリーナは、グルーシェンカの心底やアリョーシャの憂慮に気付きません。

突然、グルーシェンカが豹変します。

「あたくしに恥をかかせないでくださいましな、やさしいお嬢さま、アレクセイさんの前であたくしのお手々に接吻なさったりして」

「あなたに恥をかかせるつもりでこんなことをしたですって?」いくぶん呆気にとられたようにカチェリーナが言った。「まあ、あなたったら、まるでわたしを誤解なさっていらっしゃるのねぇ!」

「でも、あなたのほうも、もしかしたら、あたくしのことを誤解なさっていらっしゃるかもね、おやさしいお嬢さま、あたくし、ことによると、あなたの見ていらっしゃるより、ずっと悪い女かもしれませんのよ。あたくしは性悪で、わがままな女ですの。ドミートリイさんだって、かわいそうに、ただからかい半分に迷わしてみただけなんですものね」

「でも、いまはそのあなたがあの人を救おうとなさっていらっしゃるじゃありませんか。あなたは約束なさいましたわ。もうずっと前からほかの人を愛していらしって、いまその人から求婚されていることを打ち明けて、あの人の目をさましてくださるって……」

あら、ちがいますわ、あたくしはそんなお約束をしませんことよ。それはあなたがご自分で勝手にお話しになったことで、あたくしはお約束なんていたしませんわ

「じゃ、わたしの思いちがいでしたのね」ちょっぴり顔青ざめた様子で、カチェーナは小声に言った。「あなたは確か……」

「あら、ちがいますわ、天使のようなお嬢さま、あたくしは何もお約束していませんことよ」あいかわらず楽しそうな、無邪気な表情を浮かべて、グルーシェンカは淀(よど)みなく、もの静かに相手をさえぎった。

事前の話し合いで、グルーシェンカはカチェリーナに「ドミートリイのことは本気じゃない。結婚もしない」というような事を口にしていたのでしょう。そして、直前まで、そのつもりだったのかもしれません。

しかし、グルーシェンカもカチェリーナの心底を見抜き、態度を翻します。ドミートリイよりも、3000ルーブリよりも、何よりも、自分のプライドが大事なカチェリーナの本性です。

さっきはあたくし、ほんとに、何かお約束したかもしれませんけど、いまはまた考えていますの、ひょっとしてまたあの人を好きになるんじゃないかしらって、あのミーチャを、……だって以前にも一度、すっかり好きになってしまったことがあるんですものね、ほとんどまる一時間もずっと好きになっていたことが。ことによったら、あたくし、これから出かけて、さっそくきょうからでもずっとうちにいるようにって、あの人に言うかもしれませんわ……あたくしって、こういう移り気な女ですの……」

「さっきとは……全然お話がちがうわ……」カチェリーナはやっとこれだけつぶやいた。

「ああ、さっきはね! でも、あたくし、意志の弱い、馬鹿な女ですの。あの人があたくしのためにどんなつらい思いを忍んだか、それを考えただけでもたまりませんわ! 家に帰って、ひょいとあの人が可哀想になったら、どうしましょう?」

動揺するカチェリーナに止めを刺すように、カチェリーナはけしかけます。

私もあなての手に接吻させていただきますわ……でも、あたくしはいたしません、と。

そして、暴露合戦。

女同士のキャットファイトの始まりです

「さあ、おやさしいお嬢さま、あたくし、あなたのお手をいただいて、さっきあたくしにしてくださったように、お手に接吻させていただきますわ。あなたは三度接吻してくださったけれど、あたくしは三百ぺんもお返しの接吻をさせていただかないと勘定が合いませんことね。それが当然ですのよ」

≪中略≫

彼女は張りつめた思いでグルーシェンカの目を見つめていたが、そこにはあいかわらず、あけひろげな、信じきった表情が、相も変らぬはればれとした楽しさが見えるだけだった……

『この人は、もしかしたら、無邪気すぎるのかもしれない!』カチェリーナの心を希望の灯がかすめた。

一方グルーシェンカは、《かわいらしいお手々》にうっとりしたような様子で、そろそろとそのお手々を自分の口もとに近づけていった。しかし唇のすぐそばまで来たところで、彼女はふいに何かを思いめぐらしでもするように、そのお手々を二秒、ないし三秒の間とめてしまった。

「ねえ、よろしいかしら、天使のようなお嬢さま」ふいに彼女は思いきりなよやかな、思いきり甘ったるい声を長く引きのばした。「よろしいかしら、あたくし、こうやってあなたのお手々をいただきましたけれど、接吻はいたしませんの」そう言うと彼女はいかにも楽しげに小さな声でくっくっと笑いだした。

「お好きなように……でも、どうなさったの?」カチェリーナはびくりと震えた。

「ですからよく憶えておいていただきたいんですの、あなたはあたくしの手に接吻なさったけれど、あたくしはいたしませんでしたって

彼女の目に何かがきらりとひらめいた。その目はらんらんとカチェリーナを見据えていた。

「失礼な!」 一瞬、何かに思いあたったらしく、だしぬけにこう言うと、カチェリーナはさっと顔を紅潮させ、席を蹴(け)って立ちあがった。グルーシェンカもおもむろに立ちあがった。

「さっそくミーチャにも聞かしてやりましょう、あなたはあたくしの手に接吻なすったけど、あたくしは真似ごとも しませんでしたって。さぞあの人が大笑いすることでしょうよ!」

「けがらわしい、出て行け!」

「あら、恥ずかしいことですわ、お嬢さま、あなたのようなご身分の方がそんなはしたない言葉をお使いになるなんて、恥ずかしいことですわ、おやさしいお嬢さま」

「出て行け、淫(いん)売(ばい)!」カチェリーナは金切り声を立てた。彼女のゆがんだ顔では一本一本の線がぴくぴくと震えていた。

「どうせあたくしは淫売ですのよ。でも、そういうあなただって、生娘のくせをしてお金ほしさに夕闇にまぎれて若い男のところへ忍んでいらっしゃいましたわね、その美しいお顔を売りにいらしったじゃありませんか、あたくし、ちゃんと存じておりますのよ」

「生娘のくせをしてお金ほしさに夕闇にまぎれて若い男のところへ忍んでいらっしゃいましたわね」というのは、カチェリーナが父の公金使い込みを解決する為に、ドミートリイの所にお金を工面しに行った夜のことです。その時、ドミートリイは彼女の美しさに心を打たれ、指一本、触れることなく、黙って5000ルーブリの無記名債権を渡してやりました。

その時は確かにカチェリーナもドミートリイを愛しただろうし、ドミートリイも「いいな」と思ったに違いないのです。

ところが、グルーシェンカと出会って、何もかも一変しました。

本当の意味で情の深い、なおかつ機知に長けたグルーシェンカに一目惚れするわけですね。

カチェリーナとしては、さっき、二人で話した時のように、「ドミートリイなんて、遊び相手よ。結婚などしないわ」とアリョーシャの前で断言して欲しかったのでしょうが、完全に当てが外れたばかりか、グルーシェンカに馬鹿にされて、激しくプライドを傷つけられます。

キスする振りをして、まんまと欺くグルーシェンカ
カチェリーナにキスをする振りをするグルーシェンカ カラマーゾフの兄弟

カチェリーナは激しく取り乱し、アリョーシャや二人の叔母に取り押さえられて、何とか理性を保ちますが、それこそグルーシェンカに掴みかからんばかりの勢いです。

「虎よ、あれは!」 カチェリーナはわめきたてた。
「どうしてわたしを止めたりなさったの、アレクセイさん、思いきり、思いきりぶってやったのに!」

「虎よ、あれは」という台詞も有名ですね。映画もめちゃ怖いです。(髪の毛を振り乱してますよ、奥さん……)

激しく取り乱すカチェリーナ カラマーゾフの兄弟

その後、アリョーシャは、リーズの母、ホフラコワ夫人からの手紙(小さなピンクの封筒 ^_^;)を受け取り、無意識にポケットにねじ込んで、僧院に向かいます。

うぶなアリョーシャには、三角関係の調停役など、荷が重すぎたのでしょう。

この後、アリョーシャに第二の試練が訪れます。ゾシマ長老の死です。でも、そのエピソードは、かなり後半になります。(その間に、「少年たち」「リーズとの婚約」のエピソードが入る)

【コラム】 プライドは愛より強し?

私の大好きな英国のシンガー、SADE(シャーデー)のヒット曲に『Love is Stronger Than Pride』というラブソングがあります。

「愛はプライドよりも強い」―― これは、聖書や偉人の名言でも知られる「愛は死よりも強し」の応用であり、真実の愛は、自分を誇る気持ち(自我)よりも強い、という意味です。

カチェリーナの場合、口では「ドミートリイさんを愛しています」と言いますが、それより何より、自分の面子(メンツ)を保つのに必死です。本当に愛しているのは「自分だけ」。ドミートリイの気持ちよりも何よりも、自分が立派な貴婦人であることの方が、100倍重要なのです。

そんなカチェリーナの心底を見切って、彼女に心惹かれていたはずのイワンもまた去っていきます。

相手より、自分の面子の方がもっと大事な女性と一緒に居ても、決して幸せになれないからです。

カチェリーナは、そこが分かっていません。

だから、グルーシェンカのような女性が、自分よりも愛されていることが許せないし、不思議です。

自分の方が何倍も立派で美しい貴婦人なのに、なぜ……とうい気持ちですね。

今度のことも、正直な気持ちをドミートリイにぶつければ、ドミートリイだって、気持ちが変わったかもしれません。

「私を捨てないで、浮気なんてしないで!」

プライドの高い女性はこれが言えないんですね (-_-) 

ゆえに、本物の愛は、Stronger Than Pride (プライドより強し)

私が、私が、と自我が前に出るうちは、本当に愛しているとは言えません。

その空々しさが分かるから、ドミートリイも愛そうが尽きたのでしょう。

もしかしたら、お情けでカチェリーナと結婚するかもしれませんが、生涯愛することもないし、どちらも幸せになれない――というアリョーシャの読みはまったく正しいのです。

誰かにこっそり教えたい 👂
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