江川卓『カラマーゾフの兄弟』は滋賀県立図書館にあります詳細を見る

    ProとContra の注釈 ~肯定と否定、世界を形作る二つの相反する価値観

    ProとContra の注釈 ~肯定と否定、世界を形作る二つの相反する価値観
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    『カラマーゾフの兄弟』 第1部 第五編 『ProとContra』 より

    第五編 ProとContra ―― とりわけ、アリョーシャとイワンが料亭『みやこ』で落ち合い、思い出のさくらんぼのジャムを食しながら、生の渇望、家族への思い、人生の展望、恋愛観など、胸を開いて語り合う 第三節『兄弟相識る』 は、それぞれの価値観や青年らしい心情が表現され、このパートだけでも素晴らしい一篇となっている。

    特に有名なのが、イワンの無神論を象徴する叙情詩『大審問官』で、そこに至るまでの間、二人のキリスト教観や世界観が光と影のように対立する過程が非常にスリリングだ。

    一見、この二人は水と油のようだが、心が根ざす部分はまったく同じに感じる。

    同じ愛の培養液に根ざしながらも、イワンは世界に対する失望から無神論に走り、アリョーシャはそれでも『赦し』に象徴されるキリストの愛と救済を信じ続ける。

    要は、体験と感性と精神力とが、枝葉の色を変えていく……ということだろう。

    そう考えれば、善人も悪人も大差はなく、人はきっかけ一つで、どのようにでも人生を形作っていくものだ。

    カラマーゾフの兄弟に起きたことは、いずれも不幸に違いないが、何かしらそれぞれに救いを感じるのは、愛に根ざした生き方を感じさせるからだろう。金銭と愛欲にまみれたドミートリイの葛藤も、元はといえば「真面目に生きたい」という願いから派生したものであり、誰から金を借りようが、湯水のように使い込もうが、恥も呵責も感じない人間なら、ヘラヘラ笑って済ませるはずだから。

    ドミートリイもイワンもなまじ「愛と義の人」であるが為に、並より、いっそう不幸に陥る現実が哀しい。

    そして、そういう人たちの為にアリョーシャのような救い(=キリストの愛)があると考えれば、本作の精神がいっそう強く感じられるはずだ。

    ラテン語で「賛成と反対」「肯定と否定」などの意味をもつ。この変はドストエフスキー自身が長編の頂点をなす編と呼んでおり、またドストエフスキーの創作方法の本質がこの言葉に含まれているとする見方も多い。祠宇濾布スキーにはこの言葉のロシア語訳を題名にしたドストエフスキー論がある。

    キャラクターに置き換えれば、「イワンとアリョーシャ」がその象徴だろう。

    不死を否定するイワンと、イエス・キリストも不死も信じるアリョーシャ。

    相対する二人の価値観は、この世の矛盾そのものでもある。

    一方、東洋には「陰と陽」の考えもあるように、肯定と否定がワンセットになって、世界のバランスを保っているとも考えられる。

    もし、地上が、アリョーシャのような善人であふれかえれば、確かに人々は幸福かもしれないが、工業製品のように、野心や物欲から創出するものもあり、一概に善が全てとは言えない。

    肯定と否定。

    人は迷いや不安を解消する為に「どちらか一つ」を選ぼうとするが、私たちは双方と上手に付き合うことによってしか地上に存在しえないように感じる。イワンのように、否定ばかりでは心がもたないし、アリョーシャのように、あまりに心が清らかだと、かえって物事が混乱するかもしれないから。

    カラマーゾフ親子のごたごたに殺人という形で決着をつけたのが、スメルジャコノフという歪んだ男――というのも象徴的。

    イワンはどうにもできないし、アリョーシャでも手に負えなかっただ。それこそドミートリイが手を下したかもしれない。

    いずれにせよ、私たちは、ProとContraの間に生きている。

    地上に生きるということは、選択の結果。

    誰かにこっそり教えたい 👂
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