江川卓『カラマーゾフの兄弟』は滋賀県立図書館にあります詳細を見る

    【13-2】 ラキーチンは裏切り者のユダ? 嫉妬と野心が結びつく時

    ラキーチン
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    ラキーチンの野心とカラマーゾフ一族に対する屈折した感情が見え隠れするスリリングな場面。アリョーシャの秘めた好色と生きる意欲の源泉に関する江川卓の解説を交えながら、幻の後編に描かれたかもしれない皇帝暗殺計画について解説しています。
    目次 🏃‍♂️
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    ラキーチンは裏切り者のユダ?

    章の概要

    ゾシマ長老の仲裁の元、カラマーゾフ家の会合が開かれ、長男ドミートリイと淫蕩父フョードルは話し合いの場を持ちますが、フョードルは息子ばかりか、神父まで愚弄し、会合は物別れに終わります。

    その席で、フョードルは「息子のアレクセイは家に引き取らせてもらいまさあ」と言い放ち、一家の不幸を予感したゾシマ長老も、「僧院はお前の居るべき世界ではない。父と兄たちのそばにいなさい」と、アリョーシャに僧院を出るよう促します。

    茫然自失としながら、ゾシマ長老の庵室と僧院をへだてる矢無の小道を歩いていると、突然、ラキーチンに出くわします。

    カラマーゾフ家に揉め事に興味津々のラキーチンは、アリョーシャに「犯罪が起きる」と喚起し、アリョーシャもまた、カラマーゾフ家の好色な血を受けついでいることを仄めかします。

    果たして、ラキーチンは親友なのか、裏切り者なのか。

    『第Ⅱ編 場ちがいな会合 / 第7章 出世好きの神学生』では、本作のキーパーソンの一人である、ラキーチンの本質とアリョーシャとの関係が描かれています。

    動画で確認

    TVドラマ(2007年版)より。アリョーシャとじゃれるラキーチン。この後、一緒に自転車に乗るシーンもあります。

    https://youtu.be/-YcFzj5MyMo?t=1824

    ドラマではラキーチンが自転車に乗っていますが、原作では突然現れて、アリョーシャを驚かせます。
    小道の雰囲気はその通りですね。

    僧院の小道で話すラキーチンとアリョーシャ カラマーゾフの兄弟

    破廉恥な男 ~自惚れと野心

    ラキーチンは、アリョーシャと同年代の神学校の出身者です。

    しかし、アリョーシャのような大地主の息子ではなく、庶民の出なので、アリョーシャより格下の扱いです。

    生まれ育ちのコンプレックスもあって、アリョーシャには屈折した感情を抱いており、カラマーゾフ家の事件を踏み台に、出世することを画策しています。

    同年代ながら、親友とは言い難く、腹に一物もった、小賢しい人物として描かれています。

    『第Ⅱ編 場ちがいな会合 / 第2章 老いたる道化』では、次のように描写されています。

    片隅に立ったまま待っている若者がいたが(彼は最後まで立ちどおしだった)、彼は見たところ二十二、三歳で、普通のフロックコートを着用し、未来の神学者たらんとする神学校出身の男で、なにかの理由でこの僧院と修道僧たちの厄介になっていた。背はかなり高く、頬骨の張った色つやのいい顔に、聡明らしく注意深い、細い茶色の目をしていた。その顔には敬虔そのものの表情が表われていたが、それも作法にかなったもので、ことさらへつらうようなところは見えなかった。入ってきた客人たちには、会釈ひとつしようとしなかったが、これは自分が対等の人間であるどころか、むしろ人に使われ、世話になっている身分であることを示すためであった。

    第Ⅱ編 場ちがいな会合 / 第2章 老いたる道化

    また、ラキーチンが下世話な好奇心の持主で、そねみ屋であることも、『第8章 スキャンダル』で、次のように描写されています。

    (僧院長の食堂にて) 清潔なテーブル・クロス、まばゆいばかりの食器類、みごとに焼かれた三種類のパン、二壜(びん)のぶどう酒、僧院製の高級蜜酒が二本、それが近在でも有名な僧院勢のクワスを入れた大きなガラスの水差しなどが並べられていた。ウォッカはまったく出ていなかった。

    あとでラキーチンが話したところによると、このときの食事は五品が用意されていた。まず、魚肉入りのピロシキを添えたちょうざめのスープ、次が、何か特別の調理法でこしらえた煮魚、それから、ちょうざめ肉のコロッケ、アイスクリームとコンポート、最後がブラマンジェふうのジェリーであった。これはすべてラキーチンが、こらえ性もなく、かねて渡りのついている僧院長の料理場がわざわざのぞきに行って、かぎ出してきたことだった。

    彼はどこにでも渡りをつけていて、いたるところに情報源をもっていた。じっと落ちついていられない性分で、そねみ屋でもあった。

    自分がなかなかの才覚をもっていることはちゃんと自覚していたが、うぬぼれからそれを病的に誇張して考えがちだった。

    彼は自分がある種の社会的活動家になるだろうことを確実に予感していたが、しかし彼に強い友情をおぼえていたアリョーシャにとって悩みのたねだったのは、親友のラキーチンが、ほんとうは破廉恥な男であるのに、自分にはまったくその自覚がなく、それどころか、テーブルの上に放ってある金を盗んだりはしないという自信から、自分の最高度に道徳的な男ときめこんでいることだった。この点は、アリョーシャにかぎらず、だれにもどうしようもないことであった。

    第Ⅱ編 場ちがいな会合 / 第2章 老いたる道化

    「どこにでも渡りをつけて、いたるところに情報源をもっていた」という部分は、恐らく、幻の続編「第二の小説」で、アリョーシャと少年たちを破滅に追い込むスパイ行為に現われると思います。

    「ほんとうは破廉恥な男であるのに、自分にはまったくその自覚がなく……」というのも、ラキーチンの自惚れた性格をよく表していますね。

    そんなラキーチンは、自らの野心を隠そうともせず、フョードル殺しの主要人物である、婚約者カチェリーナ、情婦グルーシェンカ、ホフラコワ夫人(アリョーシャの婚約者リーズの母親)の間を渡り歩き、ドミートリイの裁判では穿った証言をして、名を挙げようとします。(ドミートリイには『豚野郎』と罵倒されている)

    またラキーチンは、法廷で『グルーシェンカのいとこ』であることを暴露され、大恥をかかされます(本人は「ぼくが淫売女のグルーシェンカの親戚であるわけがないじゃないか、その点はちゃんと心得ておいていただきたいね!」と全力で否定している)。

    一方、カチェリーナやグルーシェンカに懸想していたフシもあり、カラマーゾフ兄弟に対する恨みも深いです。

    恋と名誉の両面で挫折したラキーチンが、ドミートリイの裁判後、出版業界に潜り込み、政治力を得ればどうなるか。幻の続編を読むまでもなく、容易に想像がつきますね。

    ラキーチンの名前の由来 ~『やなぎ』はユダの象徴

    ロシア文学者の江川卓氏は、ラキーチンの名前の由来として、次のように述べています。
    (出典『謎とき『カラマーゾフの兄弟』 (新潮選書) 』)

    まず第二章七編『出世好きの神学生』の章でラキーチンがアリョーシャにくいさがる。

    「ぼくはきみだけには驚いているよ、アリョーシャ、どうしてきみはそんなに純真なんだ? きみだってカラマーゾフなのにさ! きみの一家では好色が炎症を起こさんばかりになっているというのにさ」

    「やっぱりきみもカラマーゾフなんだな、完璧なカラマーゾフなんだな――してみると、種の淘汰(注解参照)にも意味があるわけだ。父親からは好色を。

    「きみの身内にさえ好色漢の血が流れているとしたら、きみと同腹のイワンはどうなんだ? 彼だってやはりカラマーゾフだよ。きみたちカラマーゾフ一族の問題は、ほかでもない、揃いも揃って、好色漢で、業つくばりで、聖痴愚だ、という点にあるのさ!」

    ラキーチンという人物はほんの副人物に相違ない。

    しかし彼は、ことカラマーゾフ家の内情に関してはたいへんな事情通で、しかもジャーナリスチックなセンスももっている。

    ラキーチンは本来「オシーニン」と命名されるべきだった。というソ連の研究家ヴェトロフスカヤの証言もある。

    ラキーチンの姓のもとになった「ラキータ」は「やなぎ」の意味だが、オシーニンの語源である「オシーナ」は「やまならし」の意である。

    ところでやまならしは、その昔ユダが首を吊った木として知られ、この木では風もないのに葉がそよぐ、と伝えられている。

    もしドストエフスキーがこの「出世好きの神学生」をオシーニンと命名していたら、彼は長編で「ユダ」の役割を演ずることになるだろうことが、だれの目にも歴然としたはずである。
    しかしドストエフスキーはそこまで底を割ることを望まなかった。

    そこで彼は、同じ「やなぎ」科に属する「ラキータ」から姓をつくることを考えたのだ、というのである。

    事実、ラキーチンは、「一本のねぎ」の章で語られるように、アリョーシャをグルーシェンカのもとへ連れて行き、「友を売った」代償は二十五リーブルの金を受け取る、そうしておいて、わざわざアリョーシャに念を押す。

    「なるほど、さっきの二十五ルーブリの件でぼくを軽蔑しているんだな? 真の友を売ったというわけだ。だがね、きみはキリストじゃないし、ぼくもユダじゃないからね」

    謎とき『カラマーゾフの兄弟』 (新潮選書)

    皇帝暗殺と裏切りのシナリオ

    ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』を二部構成とし、「第二の小説」と呼ばれる幻の続編(実質はこちらが本編)では、成人したアリョーシャが国父である皇帝暗殺に関わり、身近な人間の裏切りによって、最後は銃殺刑に処されるというシナリオを考えていた――というのは有名な話です。

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    江川氏の解説によると、イリューシャの葬儀に集まった『十二人の少年たち』の一人、カルタショフ君ではないか――とのことですが、加えて、当方はこう考えます。

    裏切りの糸を引くのはラキーチンではないか、と。

    ラキーチンがアリョーシャに友情を感じているとは到底思えないし、高潔な人柄と信望、貴族という生まれ育ちに嫉妬して、心の底では破滅を願っているように感じるからです。

    皇帝暗殺計画は、恨みを晴らす絶好のチャンスであり、同時に、名を売る機会でもあります。

    召使いスメルジャコフが、カラマーゾフ兄弟に対する嫉妬心から、イワンとドミートリイに恐ろしい罠を仕掛けたように、ラキーチンは大勢の前で恥をかかされた恨みと野心から、アリョーシャを売るのではないでしょうか。
    (参考→ いやな臭いのリザヴェータと聖痴愚(ユロージヴァヤ)とスメルジャコフの誕生

    そして、その裏には、「覗き見」「立ち聞き」大好きの、悪妻リーズとホフラコワ夫人が居て、アリョーシャの交友関係(成人した少年達)に疑問を持った母娘が、よりによってラキーチンに相談し、そこから情報が漏れ出す……というのが、一番考えられる筋書きなんですね。

    もちろん、すべては推測の域を出ませんが、ラキーチンが悪魔の尻尾であることは間違いないと思います。

    野心と嫉妬が結びつく時

    そんなラキーチンの心情は次のように綴られます。

    「ぼくの聞いたところじゃ、おととい、カチェリーナ・イワーノヴナのところで、ぼくのことをさんざんにこきおろしたそうだぜ、この忠実なるぼくに関心をお持ちなこと、かくのごとしさ。こうなると、いったいだれがだれに嫉妬しているんだか、わかったものじゃない! なんでもこんな意見を表面されたそうな、もしぼくがきわめて近い将来、大僧院長になる夢を捨てて、剃髪(ていはつ)をあきらめるとしたら、まちがいなくペテルブルグへ行って、どこかの大雑誌社の、しかもかならず批評部門にもぐりこんで、十年ほども書きまくったうえ、最後にはその雑誌を乗っ取ってしまうだろうとさ。

    それからまた雑誌の発行をつづけていくが、それはかならず自由主義的、無神論的傾向で、社会主義的ニュアンスを帯びたものになる、というより、ちょっぴり社会主義的なわさびまで利かせたものになるんだそうだ。ただし、耳だけはぴんとおっ立てて、ということは、実際には敵にも味方にも警戒心を怠らず、馬鹿者どもの目をくらまして行くことになる。

    で、ぼくの出世コースの終着点は、きみの兄貴の解釈によると、社会主義のニュアンスはほどほどにして、雑誌の予約金をせっせと自分の当座勘定に溜め込み、機会があれば、どこかのユダヤ人の指導を受けて、融資なんかにもまわし、ついにはペテルブルグに大ビルディングを建てて、そこに雑誌の編集部を移し、ほかの階はアパートにして貸しつけるんだと。しかも、そのビルの建築場所までご指定いただいてね、なんでもネヴァ河の新カーメンヌイ橋のたもとで、この橋はいま、ペテルブルグのリチェイナヤ区とヴィボルグ区の間に架設の計画されているんだそうな……」(105P)

    ラキーチンにとっては、神学も、社会問題も、出世の道具でしかありません。

    利用できるものは何でも利用して、自分の才知を知らしめ、影響力を誇りたいタイプです。

    いや、もう、きみたちカラマーゾフ家のご一統ときたら、まるで由緒正しい大貴族きどりだけれど、その実、きみの親父さんは、道化役でよその家を居候してまわっちゃ、お情けで食卓の末席にはべらせてもらっていたんじゃないか。

    なるほどぼくは坊主の息子で、きみたちのような帰属の前では屑の屑かもしれないさ

    しかし、そうまで気やすく、おもしろ半分なからかい方はしてもらいたくないな。

    これがラキーチンの本音でしょう。

    深く、静かに、恨み辛みをつのらせていく。

    スメルジャコフが「陰の悪魔」とするなら、ラキーチンは「太陽によく似た悪魔」かもしれません。

    アリョーシャと話すラキーチン。映画ではゾシマ長老の死の後、語り合います。
    アリョーシャと話すラキーチン カラマーゾフの兄弟

    1968年版映画ではドミートリイの公判でメモを取るラキーチンの姿も描かれています。
    後半でメモを取るラキーチン

    好色こそ人生のモチベーション

    淫売婦をめぐる父と息子の争い

    一方、ラキーチンは、淫売女グルーシェンカをめぐるフョードルとドミートリイの争いについて、次のような見解を持っています。

    「ぼくの考えじゃ、あの爺さんなかなか目が利くぜ(ゾシマ長老のこと)。犯罪を嗅ぎつけるんだから。君の家はだいぶ臭いものな」

    「犯罪って、どんな?」

    ラキーチンは何か言いたいことがあって、うずうずしているらしかった。

    「きみの一家に起るのさ、その犯罪はね、きみの二人の兄貴と、きみの金持の親父さんの間にね。だからゾシマ長老は万一を考えて、おでこをこつんとやったんだよ(ゾシマ長老がドミートリイの前で叩頭したこと) ≪中略≫」

    「犯罪って何さ? 人殺しって、だれが? きみはどうしたんだ?」

    アリョーシャはその場に釘づけになったように立ちどまった。ラキーチンも足をとめた。

    ≪中略≫

    「もしきょう、きみの兄貴のドミートリイさんがどういう人間か、それこそ一発で、ずばり正体を見抜けなかったからね。何かのちょっとしたきっかけから、たちまちあの人の全貌がつかめてしまったんだよ。

    ああいう生一本な、そのくせ情欲のはげしい人間には、そこだけは越えてはいけない一線があるんだ。さもないと――さもないと、親父さんをナイフでぐさりとやりかねないのさ。どうにも抑えのきかない道楽者だ。何事につけても節度ということを知らない。二人が二人とも抑えがきかないとなりゃ、いっしょに溝のなかへどぶんさ……」(99P~100P)

    カラマーゾフ的好色とは

    アリョーシャは「そこまで行くわけがない」と否定しますが、男女の機微にも通じたラキーチンは、いずれ流血沙汰になると予見し、次のような台詞をアリョーシャに投げつけます。

    「確かにあの人は、ミーチャは、生一本な人かもしれない。(頭は悪いけど、生一本な人だよ)。しかしね、あの人は好色漢だからね。これがあの人の内的本質を規定する定義だよ。それも父親譲りの下劣な好色なんだ。

    ぼくは、きみだけには驚いているよ、アリョーシャ、どうしてきみはそんなに純真なんだ? きみだってカラマーゾフの一人なのにさ! きみの一家では好色が炎症を起こさんばかりになっているというのにさ! ところでこの三人の好色漢がいまやたがいに相手の出方をうかがっているんだ――長靴の胴にナイフをかくし持ってね。

    で、三人が角突き合わせたわけだが(フョードル、ドミートリイ、イワン)、きみも、ひょっとして、第四の好色漢かもしれないな

    「あの女(ひと)のことじゃ、きみ、まちがってるよ。ドミートリイはあの人を……軽蔑してるんだ」

    体を大きく震わせるようにしながら、アリョーシャが言った。

    「グルーシェンカのことかい? ちがうな、きみ、軽蔑なんぞしているものか。れっきとした婚約者を公然とあの女に見替えた以上、軽蔑していることにはならない。これには……これにはだね、きみ、いまのきみには理解を絶した何かがあるんだよ。いったん男が美しい女に、女の肉体に、いや、その女の肉体のある一部にでもいい(好色漢にはわかることさ)、そこに迷いこんだら、そのためには自分の子供だろうと、両親だろうと、祖国ロシアだろうと、なんでも売り渡してしまうものなんだ。正直者も、盗みをやりかねないし、おとなしい男が、刃傷沙汰を起すし、忠実な人間が、裏切りをやるんだ。女性の足の歌い手であるプーシキンは、韻文体で女性の足を讃(さん)美(び)している*55。ほかの連中は詩にして讃美こそしないが、戦慄を覚えずには女性の足を見ることができない。もっとも、足だけとはかぎらないがね……こうなるとだね、軽蔑の情なんて意味をなさないんだ、たとえきみの兄貴がグルーシェンカを軽蔑しているとしてもだよ。軽蔑していても、どうしても離れられないんだ」

    それはぼくにもわかるよ」 ふいにアリョーシャがつぶやいた。

    「ほほう? ぼくにもわかるよなんて、さらりと言ってのけたところを見ると、ほんとうにわかっているんだな

    ラキーチンがしたり顔で言った。 ≪中略≫ 

    「きみはおとなしい坊やで、聖人のような人間さ、確かにそのとおりだけれど、おとなしい坊やのくせをして、内心、何を考えているかわかったもんじゃない、どこまで心得ているのかわかったもんじゃない! 童貞かと思えば、もうそんな深刻なところまで究めているんだもの、――ぼくはずいぶん前からきみを観察しているんだぜ。やっぱりきみもカラマーゾフなんだな、完璧なカラマーゾフなんだな――してみると、種の淘汰にも意味があるわけだ。父親からは好色を、母親からは聖痴愚の血を受けついだわけか

    カラマーゾフ一家の『好色』については、江川氏もえらく熱を入れて解説しておられる。

    アリョーシャは自分が兄と同じく「好色」な人間であることを自認している。 ≪中略≫ 

    二年前、モスクワで、彼はしばしばリーザを訪れて行ったことになっている。だとすると、アリョーシャが自分の「好色」を意識したのはその頃からだろうか。ところがそのリーザにアリョーシャは告白する。

    「それに何よりあなたはぼくより純真です。ぼくはもういろんなことに、いろんなことに触れすぎているんです……ああ、あなたは知らないでしょうけれど、ぼくだってカラマーゾフですからね!」

    いったい、いつ「いろんなことに触れすぎ」る暇があったのだろうか

    私も知りたい。

    いったい、いつ、いろんなことに触れすぎたのか....

    その点について、江川先生の見解はこうだ。

    現に彼は兄のドミートリイに告白している。

    「ぼくは兄さんの話で顔を赤らめたんじゃないし、兄さんのしたことを恥じてでもない、ぼくも兄さんとまったく同じだからなんです」
    「おまえが? いや、それはすこし言いすぎだよ」
    「いえ、言いすぎじゃありません」 アリョーシャは熱っぽく言った。(どうやら、この考えはもうずっと前から彼のうちにあったものらしい)、立っている階段はまるで同じなんです。ぼくはいちばん下の段にいるけど、兄さんは上のほう、十三段目あたりにいるんですよ」

    ≪中略≫

    いったいいつ「いろんなことに触れすぎ」る暇があったのだろうか。
    これはアリョーシャについて、明らかにひとつの鍵となっている。強いて考えれば「数えの二十歳で、まぎれもない不潔な淫蕩の巣窟と化していた父の家に帰ってきて」から、そこで見聞きした破廉恥な光景が原因になっているのではないだろうか。「童貞で純真無垢な彼は、見るに耐えないようなことがあると、ただ黙って席をはずすだけで、だれに対しても軽蔑や非難の色はこればかりも見せることがなかった」という。しかし、さすがのアリョーシャも、「不潔な淫蕩」の現場を見せつけられては、それなりの衝撃を受けずにいなかったろうし、思わずも「カラマーゾフ」の一員であることを自覚させられたのではないだろうか。

    彼がラキーチンに誘われて、グルーシェンカのもとを訪れたときのことは、とりわけ注目に値いする。グルーシェンカは「猫が甘えるように」、笑いながら彼の膝の上にひょいと飛び乗ると、いかに童貞で志操堅固であっても、いや、それだからこそかえって、何かのなまなましい感覚が彼のうちに生じないではいないはずのところである。

    ≪中略≫

    「いままでだれよりも恐れていたこの女、いま彼の膝に乗って彼を抱きしめているこの女が、突然まったく別の感情、思いもかけなかった特別の感情を彼の心に呼びさましたのだった。それは彼女に対するいわば異常ともいえるほどの、この上もなく大きい、純真そのものの好奇心であったが、そういった一切が、いまはなんの恐れも、以前のような恐怖の片鱗をさえ感じさせないのである――これが思わずも彼を驚かせた最大の原因であった」

    「この上もなく大きい、純真そのものの好奇心」などというものが、ありうるものか、ありえないものか。これについては、ドストエフスキーを信頼するしかあるまい。しかし慎重そのものの言葉づかいではあるが、やはりここではアリョーシャのある意味での「女性開眼」が語られている語られているように思われる。この「女性開眼」は、それから二、三ヶ月の事件を叙述した「第一の長編」ではなんの結果ももたらさないかもしれないが、十三年後に予定されている「第二の長編」では、おそらく中心的な主題の一つを構成することになると思われる。「第二の長編」についてのとぼしい資料の中に、アリョーシャがリーザと結婚し、つづいてグルーシェンカに誘惑されることを示唆したものがあるのは偶然ではない。やはりアリョーシャも「好色なひとたち」の仲間入りをするしかないのである。

    『謎とき カラマーゾフの兄弟』 「Ⅲ 好色な人たち」より

    「純真そのものの好奇心」などというものが、ありうるものか、ありえないものか・・・という江川氏の言葉がいいですね。

    天使のような見た目とは裏腹に、アリョーシャが内に熱いもの(?)を秘めた人物なのは確かで、後編に行くほど、彼の意外なほどの心の強さが際立ちます。

    「英雄、色を好む」の喩えもあるように、ドストエフスキーがカラマーゾフ一家の『好色』を強調するのも、それこそが皇帝暗殺に至るモチベーションだからではないでしょうか。

    アリョーシャが根っからの童貞で、色恋にも何の興味もない青年なら、ドミートリイの事件をきっかけに厭世的になり、動乱の時代になっても、僧院の奥深くで瞑想の日々を過ごしたような気がします。

    でも、そうではないことを、ゾシマ長老も見抜いていました。

    一生涯を僧院で過ごすような人間ではないと思えばこそ、還俗を勧めたような気がします。

    江川卓による注解

    いつものありがたいお芝居

    ゾシマ長老がドミートリイの足元に額づき、「お赦しくだされ! 何もかもお赦しくだされ!」と叩頭した事に対し、ラキーチンはゾシマ長老の行為を半ば揶揄し、「犯罪を嗅ぎつけた」とアリョーシャを挑発します。

    「ありがたいお芝居」の原語は、直訳すると「ありがたいたわごと」の意味で、ドストエフスキーの論敵であったサルティコフ・シチェドリンの短編『村の静寂』に出てくる言葉。ここではパロディ化して使われている。

    女性の足を讃美している

    「男が美しい女の肉体に迷いこんだら、自分の子供だろうと、良心だろうと、何でも売り渡す」というラキーチンの台詞より。プーシキンの女性讃美を喩えとして。

    プーシキンの「エヴゲニーイ・オネーギン」の第一章に、舞踏会での貴婦人の足をたたえた次のような一節がある。「ぼくは愛する、女性たちの足を。けれどこのロシアに、すらりと整った女性の足が、三組とあるだろうか。ああ、ぼくはどうしても忘れられない、あの二本の足を……心冷え、心沈みながらも、忘れられぬあの足、夢の裡(うち)にさえ、ぼくの心を悩ましてやまない……」。当時、この詩句がエロチシズムの極致として騒がれたことがある。

    種の淘汰

    ラキーチンの揶揄。純真なアリョーシャも「父親からは好色を、母親からは聖痴愚の血を受けついだ」、遺伝という意味。

    ダーヴィンの『種の起源と自然淘汰』は1865年にロシア語訳が出ており、ドストエフスキーが編集していた雑誌「エボーハ」でも取りあげられている。

    母親からは聖痴愚(せいちぐ)の血を受けついだ

    聖痴愚に関しては、いやな臭いのリザヴェータと聖痴愚(ユロージヴァヤ)でも詳しく紹介しています。

    アリョーシャとイワンの母であるソフィヤは信心深い「わめき女」であったことから、「聖痴愚」と呼ばれている。なおドストエフスキーはソフィヤという名に強い愛着をもっており、『罪と罰』のソーニャ、『未成年』のアルカージイの母、「悪霊」の聖書売りがいずれもこの名で呼ばれており、ソーニャ・マルメラードワなどは、ラスコーリニコフによって「聖痴愚」と呼ばれている。ソフィヤという名はギリシャ語の「知恵」から出ており、「神の叡知」を意味するが、東方教会、ロシア正教では、この「ソフィヤ」を「ロゴス」によって覆いつくされぬ美、愛等を包括する原理として重要視していた。「神の叡知(えいち)ソフィヤ」と題された聖像画もあり、このソフィヤ像がしだいに聖母マリヤに近づいていったこともある。

    原卓也訳 ~「僕もわかるよ」「本当にわかってるってわけだ」

    江川訳で、「いったん男が美しい女に、女の肉体に、いや、その女の肉体のある一部にでもいい(好色漢にはわかることさ)、そこに迷いこんだら、そのためには自分の子供だろうと・・・」の個所は、原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』(新潮文庫)では、次のように翻訳されています。

    「男ってやつはね、何かの美に、つまり女性の身体なり、あるいは女性の身体のごく一部分なりにでさえ、ぞっこん参ってしまったら(女好きなら、このことはわかるんだが)、そのためには自分の子供でも手放すし、父や母でも、ロシアでも祖国でも売り渡しちまうもんなんだ。正直だった男が盗みを働き、温厚でありながら人殺しをし、忠実だった男が裏切ったりするのさ ・・≪中略≫」

    「それは僕もわかるよ」

    ふいにアリョーシャが口をすべらせた。

    「ほんとかい? 一言のもとに僕もわかるなんて口をすべらせたからには、つまり本当にわかるってわけだ」

    ラキーチンが小気味よさそうに言った。 ≪中略≫

    「僕はずっと前から君を観察してるんだがね。君自身もやっぱりカラマーゾフだよ。完全にカラマーゾフだ。要するに、血筋がものを言うってことだな。父親譲りの色好みで、母親譲りの神がかり行者ってわけか。どうしてふるえてるんだい? 僕の言うとおりなんだろ? あ、そうそう、グルーシェニカに頼まれてきたんだ。『あの人を』つまり君のことだぜ『あの人を連れてきてよ、あたし僧服をぬがせてみせるわ』だとさ。連れてきてって、そりゃしつこく頼んでたぜ。...」

    江川訳 「父親からは好色を、母親からは聖痴愚(ユロ-ジヴイ)の血を受けついだわけか」

    原卓也訳 「父親譲りの色好みで、母親譲りの神がかり行者ってわけか」

    江川訳の『聖痴愚』は、原訳では『神がかり行者』と訳されているのも大きな違いですね。

    聖痴愚は、英語だと、「Holy Fool(聖なる愚者)」になりますが、「神がかり行者」より、聖痴愚の方がイメージ的には分かりやすいです。

    Wikiでは「佯狂者(ようきょうしゃ)」として紹介されています。

    しかし、原訳の「色好み」という翻訳は、なかなか強烈ですね。「父親からは好色を」の方が、まだライトなイメージがあります。

    また、江川訳「アリョーシャ、どうしてきみはそんなに純真なんだ? きみだってカラマーゾフの一人なのにさ!」の個所は、原訳では次のようになっています。

    「つまり、ミーチャのことさ。彼は愚かではあるけれど、正直だからな。だけど、彼は女好きだ。これが彼の定義であり、内面的本質のすべてさ。これは父親から卑しい情欲を譲り受けたんだ。とにかく僕は、アリョーシャ、君にだけはおどろいているのさ。どうして君はそんなに純情なんだろう? 君だってカラマーゾフなんだぜ! なにしろ君の家庭じゃ情欲が炎症を起こすほどになってるんだからな!」

    ミーチャのことも、江川訳では「あの人は好色漢だからね」ですが、原訳では「彼は女好きだ」とストレートに訳されており、これは原訳の方が分かりやすいと思います。

    次の個所も、かなりニュアンスが異なりますね。

    江川訳 「きみだってカラマーゾフの一人なのにさ! きみの一家では好色が炎症を起さんばかりになっているというのにさ!」

    原訳 「君だってカラマーゾフなんだぜ! なにしろ君の家庭じゃ情欲が炎症を起こすほどになってるんだからな!」

    「好色」も「情欲」も似たような印象ですが、好色の方が、より助平な性質を表しており、「情欲」よりも、人間性を感じさせますね。情欲は、心の中に湧き起こる欲情。好色は、スケベ野郎ですから。

    いずれにせよ、アリョーシャにも似たところがある、というのがなかなか衝撃的で、幻の続編「第二の小説」では、リーズと結婚生活に破れたアリョーシャがグルーシェンカと懇ろになるという説も、なかなか説得力をもって聞こえます。(ドミートリイは獄中死か病死)

    しかし、それこそ生きるエネルギーであり、好色=悪ではないです。

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