アリョーシャの信仰とゾシマ長老
章の概要
『第Ⅰ編 ある一家の由来』では、淫蕩父フョードル・カラマーゾフと三人の息子、ドミートリイ、イワン、アリョーシャ(アレクセイ)の生い立ちが語られます。
父から育児放棄された、不幸な境遇にコンプレックスを抱き、屁理屈人間になっていく次男イワンや、自分は金持ちと勘違いして放蕩に身を持ち崩す長男ドミートリイと異なり、アリョーシャは天真爛漫に育ち、「彼がこの道に足を踏み入れたのは、当時この道だけが彼に感動を与え、暗黒の中に光明を求めてもがいていた彼の魂に一挙にして理想の進路を示してくれた」という理由から神の道を志します。
わけても、彼の人生に多大な影響を与えたのが、高徳の僧、ゾシマ長老です。
ここではゾシマ長老の思想と物語のもう一つの舞台である『僧院』、アリョーシャの信仰心について語られます。
● 【2】 愛の欠乏と金銭への執着 ~父に捨てられた長男ドミートリイの屈折
● 【3】自己卑下と高い知性が結びつく ~人間界の代表 イワン
● 【4】 幸福に必要な鈍感力・アリョーシャ ~鋭い知性はむしろ人間を不幸にする
奇跡から信仰が生まれるのではなく、信仰から奇跡が生まれる
『第Ⅳ章 アリョーシャ』で、「兄のイワンが、大学生活の最初の二年間、自分で働いて食べていく貧乏生活を送り、ほんの幼い時分から、自分は恩人の家で他人のパンを食べて生きているのだと、痛切に感じていたのと比べると、その点、アリョーシャはまったく正反対であった。」と描写されているように、アリョーシャは明朗な人柄で、周囲にも愛され、素直な青年に育ちます。
ひょっとすると、読者のなかにはわがアリョーシャのことを、病的で、感激症で、知的発達のおくれた、青白い空想家、ひよわな、痩せこけた青年と考える人があるかもしれない。
だが、実際はその正反対で、当時のアリョーシャは均整のとれた体躯と、ばら色に輝く頬、明るく澄んだ目をもった、健康そのもののような十九歳の青年であった。
当時の彼は、むしろ美貌の持ち主といってもよいくらいで、中肉中背のすらりとした身体つき、栗色の髪、いくぶん面長だが、卵形のととのった顔つきに、左右の間隔のはなれた、輝きをひそめた深い灰色の目をして、一見、いかにも思慮深い、落ち着いた人柄に見えた。
そんな彼が、神の道を志したのは、熱狂的な信仰心が理由ではなく、むしろ、徹底した『現実家(リアリスト)』であったからです。
その点について、「作者」は次のように述べます。
私の感想を言わせてもらうと、アリョーシャこそむしろだれにもまして現実家(リアリスト)であったように思われる。
むろん、僧院での彼は心から奇跡を信じたにちがいないが、私の考えでは、リアリストはけっして奇跡に困惑をおぼえるものではない、奇跡がリアリストを信仰に傾かせるのではない。
真のリアリストは、もし彼が神を信じない人間であるならば、奇跡をさえ信じないだけの力と能力をつねに自身のうちに見出すはずであり、もし奇跡が否定しえない事実となって現われるならば、彼は事実を認めるよりは、むしろ自身の感覚を信じまいとする。
かりにその事実を認めるとしても、それは、これまで自分が知らないでいた自然現象の一つとして認めるだけである。リアリストにあっては、奇跡から信仰が生れるのではなく、信仰から奇跡が生れるのだ。
たとえば、スプーン曲げを目にして、自称・超能力者に傾倒する人は、「奇跡から信仰が生まれる」タイプです。
「何やら凄いもの」に権威や神秘性を感じ、無条件に信じ込むタイプですね。「地球は平たい」「世界は統一政府に支配されている」といった陰謀論を信じ込む人もこれに含まれます。
その点、アリョーシャは、感化されやすいように見えて、案外、クールです。
誰かが目の前でスプーンを曲げても、「何か仕掛けがあるのだろう」と思い、「地球は平たい」という言説が流布しても、科学本を精読し、「それは間違いだ」と冷静に判断するタイプです。
それは、彼が徹底した現実主義者で、ありもしない奇跡や陰謀を単純に信じるほど、お目出度くもないという証しです。
叡知をもって真偽を見定め、自身の価値判断によって、信じる対象を選びます。
ゾシマ長老に心酔するのも、決して「奇跡」や「まじない」的なものに権威や神秘性を感じたからではなく、自分が必要とする教えを与えてくれる人だと直感したからですね。
ゆえに作者は言います。
リアリストにあっては、奇跡から信仰が生まれるのではなく、信仰から奇跡が生まれるのだ。
最初にスプーン曲げの奇跡があるから信仰が生まれるのではなく、真摯に学び、愛と正義を求める結果として、奇跡のような出来事に巡り会うのだと。
「奇跡のような出来事」とは、たとえば、フョードルみたいな淫蕩父が息子たちに心底詫びたり、放蕩息子のドミートリイが自らの過ちに気付くような、心的な大変化です。
アリョーシャにとっては、その手がかりと道筋を教えてくれるのがゾシマ長老だったのではないでしょうか。
神の道を志した理由 ~『幻の続編』への伏線
こうしたアリョーシャの造形は、ドストエフスキーの急逝によって幻となってしまった『第二の小説』、つまり続編への伏線でもあります。
「予告された皇帝暗殺と幻の続編 ~江川卓のドストエフスキー解説より」にもあるように、その内容は、後編に登場する『少年たち』を実行部隊とした皇帝暗殺ではないかと言われています。そして、アリョーシャはその首謀者として捕らえられ、銃殺されるという筋書きですね。
もし、アリョーシャが、おかしな思想に取り憑かれ、現代の陰謀論者のように、盲目的に破壊行為に走る狂信者であれば、皇帝暗殺の動機にも説得力がないでしょう。
そうではなく、アリョーシャほどの善人、そして常識人が、祖国の未来を憂う気持ちから、皇帝暗殺計画に関わった(積極的に主導したか、少年たちの先走りで巻き込まれたかは定かでないけども)――からこそ、読者の共感を呼ぶのです。作中でも、多くの嘆願が寄せられ、一時は恩赦に傾くが、別の政治勢力に押されて、恩赦を取り消されるという筋書きだったのではないでしょうか。
その為にも、アリョーシャは、何でも単純に信じ込む陰謀論者や狂信者ではなく、いたってまともな常識人であり、これと決めたら真っ直ぐ突き進む純実な青年でなければなりません。
ゆえに、作者は次のように述べます。
すでに前述したことをもう一度くり返しておくが、彼がこの道に足を踏み入れたのは、当時この道だけが彼に感動を与え、暗黒の中に光明を求めてもがいていた彼の魂に一挙して理想の進路を示してくれた、それだけの理由からである。
それに加えて、すでに彼は現代の青年に特有の一面をさえそなえていた。
つまり、嘘のないひたむきな性格で、いちずに真理を求め、探究し、信じようとしていて、いったんある真理を信奉すると、今度は全精神をあげてただちにその真理のもとに馳せ参じ、一刻も早く偉業を成し遂げようとし、しかもその偉業の為には、どうあってもいっさいを、生命さえ犠牲に供しようと望んでやまないのである。
聖トマスの疑い ~自分が信じたいものを信じる
さらに、作者は、一つの喩えとして、制約聖書で有名な『トマスの疑い』を引き合いに出しています。
信徒トマスは、自分の目で見ないうちは信じない、と言明したが、いざ自分の目で見たときには、「我が主よ、わが神よ!」と言った。
では、彼を信ずる者とさせたのは奇跡だったのだろうか?
おそらく、そうではあるまい。
彼はただ信じたいと望んだゆえのみ信じたのであって、もしかしたら、「この目で見ないうちは信じない」などと言っていたすでにそのときから、心の深奥では、もう完全に信じていたのかもしれない。
一般に『聖トマスの不信(疑い)』と呼ばれるエピソードは、新約聖書・ヨハンネスによる福音に記されています。
復活の噂を耳にすると、トマスは、「実際に、その傷跡に指を入れてみるまでは信じない」と疑っていましたが、目の前に復活したイエスが現れ、傷跡に指を入れた時、信じるようになったという話です。
「あのかたの手に釘の跡を見、自分の指をその釘跡に入れてみなければ、また、自分の手をsのわき腹に入れてみなければ、わたしはけっして信じない」
さて放火の後、弟子たちは、また家の中におり、トマスもいっしょにいた。戸は閉まっていたのに、イエススが入って来て、真ん中に立ち、「お前たちに平安があるように」と言った。
「お前の指をここに当てて、わたしの手をよく見なさい。また、お前の手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。不信仰な態度を改めて、信じる者になりなさい」トマスは、「わたしの主よ、わたしの神よ」と答えた。
イエススはトマスに言った。「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである。
イエススとトマス(ヨハンネスの福音書) - 聖書 新共同訳 新約聖書
このエピソードについて、作者は次のように解説します。
使徒トマスは、自分が信じたいものを信じたのだ。
トマスは皆の前では疑念を呈しますが、心の底ではイエスの復活を信じています。
だからこそ、「実際に目の前に現われて、傷痕に指を入れさせてくれ。そして、オレに主の復活を信じさせてくれ!」と願うのです。
アリョーシャも、トマスと同じ。「復活」や「蘇り」といった事実は、信仰上の一つのイベントに過ぎません。
事実があるから信じるのではなく、信じるから、事実の方で目の前に現われるのです。
イエスの復活に関しては、映画『復活』(RISEN) 復活とは何か ~12人の弟子と信仰の奇跡も参考にして下さい。
不死のために生きたい
また、アリョーシャに関する重要な情報として、「不死」に対する考え方があります。
有名な父フョードルとの問答、『「神はあるのか」「いいえ、ありません」「イワンのほうが正しいらしいな」』にもあるように、アリョーシャは思想的にイワンの合わせ鏡となります。
アリョーシャが絶対的に不死を信じるなら、イワンはそれを否定する者です。(だからといって、イワンが背徳的な無神論者というわけでありません。その理由は、第Ⅴ編 ProとContraに詳しく描かれます)
アリョーシャが不死を信じる理由は、次のように描かれています。
まじめな思索の結果、不死と神は存在するという確信に打たれた瞬間から、当然のことながら彼はただちに、「不死のために生きたい、中途半端な妥協はすまい」と心に決めたのだった。
それとまったく同様に、もし彼が不死と神は存在しないと結論したのだったら、彼はただちに無神論者や社会主義者の仲間に投じていたにちがいない。
(なぜといって、社会主義はたんなる労働者の問題、ないしは、いわゆる第四階級の問題ではなくて、主として無神論の問題、現代における無神論の具体的あらわれ方の問題、地上から天に達しようためにではなく、天を地上に引きおろそうために、まさしく神なしで建設されるバベルの塔の問題だからである)。
アリョーシャには、これまでどおりの生活をつづけることが、もはや奇怪なこと、不可能なことにさえ思えた。聖書には、『なんじ完全ならんと欲せば、すべてを施し、来りてわれに従え』(「マタイ福音書」第十九章二十一節)と言われている。
そこでアリョーシャは自分に言った。「ぼくは『すべて』の代りに二ルーブリを施し、『われに従え』の代りに、朝の礼拝に通うだけですますことはできない」
≪中略≫
思いに沈んだ様子で彼があのとき私たちの町へ帰郷したのは、ひょっとしたら、ここではすべてが施されているのか、それともここでもやはり二ルーブリだけなのか、それを見きわめるためだけであったのかもしれない。けれど――この僧院で彼はあの長老にめぐり会ったのだった……
この個所は、『第Ⅴ編 ProとContra』の、イワンとの会話を照らし合わせた方が分かりやすいです。
『まじめな思索の結果』、イワンは不死も神も認めない方を選び、アリョーシャは信じ抜くことを選びました。
そして、同じ信じるならば、人生の全てを懸けて究めたい――といったところでしょうか。
アリョーシャは、俗世も名前も捨てて、僧院に入り、ゾシマ長老と出会います。
ゾシマ長老は六十五、六歳、出身は地主で、かつてごく若いころには軍務に服し、尉官としてコーカサスに勤務していた。
疑う余地もなく、彼はその一種独特な魂の力でアリョーシャをとりこにしてしまったのだった。
アリョーシャは長老にたいへん愛され、とくに許されて、その庵室に寝起きしていた。
断っておかなければならないが、僧院でこそ暮らしていたが、当時のアリョーシャはまだなんの拘束を受けていたわけでもなく、どこでも好きなところへ幾日でも外出することができたし、法衣をつけていたのも、僧院のなかでとくに目立った服装をするまいと、自発的にしていたことである。しかし、この服装が自分でも気に入っていたことはまちがいない。ひょっとすると、青年アリョーシャの想像力に強い影響力をおよぼしたのは、たえず長老をとりまいていた大きな名声と力であったかもしれない。
≪中略≫
ゾシマ長老については、多年、彼のもとへ心の懺悔にやって来ては、ぜひとも彼の助言や心癒やす言葉を聞きたいと願う人々に、だれかれの別なく接し、さまざまな懺悔や、悲嘆や、告白をおのれの心に受け容れてきたので、ついには、彼を訪ねて来る未知の人々をひと目見るだけで、その人がなんのためにやって来たのか、何を必要としているのか、さらにはどのような悩みに良心を責められているのかさえ見抜けるほどの、まことに鋭敏な洞察力をそなえるにいたった、と言われていた。
ときには、訪ねてきた当人がまだ何も言わない先から、その人の心の秘密を言い当ててしまうので、当人が驚き、当惑し、気味悪く思うようなこともあった。
しかし、それでもアリョーシャは、はじめて長老のもとを訪れて、二人だけの対話をする人たちの多くが、ほとんど例外なく、入るときには恐怖と不安にかられた様子をしているのに、出て行くときには、ほとんどきまってはればれとした喜ばしげな顔付きになっており、暗鬱このうえない顔までが幸福に輝くのを、ほとんどいつも目にとめていた。
現代に喩えれば、占い師やホステス、医療従事者といったところですね。
あまりにたくさんの悩みを聞いてきたので、今では顔を見た瞬間に、相手の気質や悩みを言い当てることができます。
ゾシマ長老も、信徒の悩み句漆身を聞くうちに、水晶玉のような洞察力を身に付けたのでしょう。
その上、機智に富み、的確な助言を与えることができます。
「神がかり」というよりは、人生の先達としての知恵ですね。
聖者として慕われるのも納得です。
ロシア僧院における長老の役割と原罪からの救済
ところで、ロシア僧院における『長老』とは、どのような役割を果たすのでしょう。
作者いわく、
長老というのは――人の魂、人の意志を、自分の魂、自分の意志の中に取り込んでしまう存在なのである。
いったん長老を選んだなら、人はおのれの意志を捨て、完全な自己放棄とともに、自分の意志を長老へのまったき服従にゆだねることになる。
そう発心した者が、このような試練、このように恐ろしい人生行路をすすんで我が身に引き受けるのは、長い試練ののちにおのれに打ち克ち、おのれを統御しえて、ついには全生涯の服従を通じて今度こそ完全な自由、すなわち自分自身からの自由を獲得できる。
そして、一生涯をただ漠然と生きたばかりで、結局は、自分の中に自分を発見できずに終わる人々の運命を免れうる、という希望があればこそである。
この新機軸、つまり長老制度は、理論的なものではなく、東方諸国での実践の中から生み出されたもので、今日ではすでに千年の経験を積んでいる。そして、長老に対する義務は、わがロシアの僧院にもつねに存在したふつうの《服従》とは趣を異にしている。ここの制度では、長老に仕える者の永遠の懺悔と、束縛者と被束縛者の間の絶ちえないきずなが認められている。
「人はおのれの意志を捨て、完全な自己放棄とともに、自分の意志を長老へのまったき服従にゆだねることになる」というと、洗脳された人形のような印象がありますが、それとは少し違っています。
これはキリスト教における『原罪』に基づく話であり、我欲を捨てて、ゾシマ長老を通して、神の教えに立ち返ることが、信徒にとっては救いになるわけですね。
ちなみに、原罪とは、「神のように賢くなれる」というヘビの言葉に惑わされ、男と女が知恵の実を口にしたことに起因します。中途半端に開眼した男と女は、自分たちが裸であることに気付き、慌てていちじくの葉で恥部を隠します。「神のように賢くなる」というのは、神の義から離れ、人間が個々の価値判断に基づいて、好き勝手に振る舞うことを指します。一見、自主的で、良い事のように感じますが、それを都合よく解釈すれば、「DEATH NOTE」の夜神ライトや、『罪と罰』のラスコーリニコフのように、「自分が悪いと思った人間は殺してもいい」という考えに走ってしまいます。
人殺しとまではいかなくても、自分の得手勝手な解釈で、苦しんでいる人はたくさんいますね。
しかし、エゴを手放し、基本=神の義に立ち返ることで、安らぎを取り戻します。
ゾシマ長老の元に悩みを打ち明けにくる人々も、同様です。悩みを話すことで、思い込みやこだわりを手放し、長老の教えに心を委ねます。そうすることで、生まれ変わったような気持ちになり、「救われた」と実感するわけですね。
逆に、イワンのように、現実に失望して、神を信じることも止めてしまった人は、ああでもない、こうでもないと、自分の頭で理屈をひねり出して、人一倍苦しんでいます。
原罪にたとえれば、「知恵の実」を口にした典型です。神に代わって、人と社会を救う真理を自分の頭で考え出そうとしても、思いつくはずがありません。
しかし、そんなイワンも、アリョーシャとの語らいを通して、心を慰められます(解決策は得られないとしても)。これも間接的には、キリストの愛に救われたようなものです。
どんな人も、愛や真理から離れて生きていくことはできないのです。
そういう事実を、アリョーシャも自分自身で体感し、人生の師としてゾシマ長老を「選び取った」ということです。
一方、長老制度の弊害も作者は指摘しています。
民間では、長老はすぐさま高い尊敬を集めるようになった。たとえば、この町の僧院の歴代の長老のもとへも、一般民衆ばかりか、きわめて身分の高い人たちまでがぞくぞくと押しかけてきて、長老の前にひれ伏しては、自分の疑惑や、罪や、悩みを告白し、その助言と訓戒を求めたものである。
こういう様子を見て、長老制度の反対派は、他のさまざまな非難とあわせて、ここでは懺悔の機密が勝手気ままに、無思慮に俗化されているなどと騒ぎたてたが、実を言うと、修道僧ないし俗界の人が長老に対して行う常任不断の魂の懺悔は、けっして機密として行われていたのではない。
しかしながら、結局のところ長老制度はすたれることなく、しだいにロシアの僧院に根をおろしてきている。
とはいえ、その反面、人間を精神的に生れかわらせて、奴隷状態から自由と道徳的完成へと導くべき、すでに千年の歴史をもつこの試験ずみの武器も、ときには両刃の剣に変ることもありうるのであって、そのため、なかには、忍従と徹底した自己統御へいたる代りに、逆にもっとも悪魔的な傲慢へ、つまり、自由にではなく束縛の鎖へと導かれる者も出てくるのである。
これはカルトの洗脳(ブレインウォッシュ)に置き換えると分かりやすいですね。長老の中には、信徒の純実な信仰心を利用して、脅し、束縛し、また長老自らも自分を神のように思い上がるケースもあったでしょう。当時は、まともな科学教育もなく、学校制度も本当に恩恵を受けられるのは裕福な人に限られたでしょうから、貧しい人の中には、妖術みたいな教えに絡め取られ、かえって不幸になる人も少なくなかったのだと思います。
原罪に関する参考URL
原罪については、下記の記事でも紹介しています。
● 裁きは神の領域 ~真の善悪を知るのは神だけ
● 米川正夫・訳で読み解く ドストエフスキー『罪と罰』 の名言と見どころ
● 処世の知恵と真理の違い 『人は魂で生き、理性で現世を渡る』
奇跡を待つアリョーシャ
やがてアリョーシャは心の底からゾシマ長老を敬い、奇跡を待ち望むようになります。奇跡といっても、「瓶の中からワインが無限に湧いてくる」とか「食べても食べてもパンが倍々に増える」というような奇跡ではなく、ファンがアイドルに『神聖』を求めるような気持ちです。アリョーシャにとって、ゾシマ長老は霊的な指導者ですから、それを裏付けるような「何か」が起きて欲しいんですね。
長老が奇跡をあらわす力をもっておられることについては、アリョーシャも無条件に信じて疑わなかった。それは彼が、教会から飛び出した例の柩の話を無条件に信じたのと同じである。病気の子供や身内の大人を連れてきて、病人に手をあてて祈祷を捧げてほしいと長老に頼みこむ人たちのうち、多くの者がほどなく、なかにはすぐその翌日にまた訪ねて来て、涙ながらに長老の前に身を投げ、病人がなおったといって礼を言うのを、アリョーシャは目にしてきた。それがほんとうの治療であったが、それとも病状がおのずと快方に向かったのか、――アリョーシャはその点についてはなんの疑問もなかった。なぜなら彼は自分の師の霊的な力を完全にもう信じきっていて、長老の栄誉はいわば彼自身の勝利とさえなっていたからである。
≪中着≫
「いずれにしても、あの方は聖者なのだ。あの方の心には、すべての人をよみがえらせる秘密があり、ついにはこの地上に真理を実現する力がある。そうなれば、すべての人が聖なる存在となり、おたがいがおたがいを愛し、富める者も貧しい者もなくなり、地位高い者も賤(いや)しめられた者もなくなり、だれもが一様に神の子となり、こうして真のキリストの王国が到来するのだ」アリョーシャの心はこうした空想に大きくふくらむのだった。
これは決してカルトではなく、たとえば、自分の尊敬する先生が表彰されたり、メディアで大きく取り上げられたら、我が事のように嬉しいですよね。また、そうあって欲しいと願うはずです。なぜなら、その人の成功は、その人を信じた自分の成功であり、肯定でもあるから。
アリョーシャも、ゾシマ長老を心から慕うからこそ、それを目に見える形で証して欲しいのだと思います。
ところが、現実には、長老も一人の人間であり、逝去すれば、他の人と同じように肉体も腐敗を始めます。アリョーシャは激しいショックを受け、一時は自暴自棄になりますが。グルーシェンカとの触れ合いと新約聖書『ガラリヤのカナ(カナの婚礼)』が彼に新たな生命を吹きこみます。アリョーシャが信仰心を新たにし、人間的に覚醒する過程が『第Ⅶ編 アリョーシャ』で描かれます。(『カナの婚礼』に関するエピソードは、ヨハネによる福音書2章1-11節「カナの婚礼」(心に響く聖書の言葉)を参考にして下さい。
動画 ~ロシアの僧院
ロシアの僧院のイメージが湧かない方はクリップ動画を参考にして下さい。(15秒)
映画版(1968年)冒頭のシーンです。
江川卓による注解
わが主よ、わが神よ!
使途トマスは、自分の目で見ないうちは信じない、と言明したが、いざ自分の目で見たときには、「わが主よ、わが神よ!」と言った。に関する注釈。
シナイとアトス
長老ないし長老制度がわがロシアの僧院に出現したのはごく最近のことで、まだ百年にもなっていないというが、一方、東方の正教諸国、とりわけシナイとアトスでは、もう一千年以上も前からこの制度が存在していた――に関する注解。
コゼーリスカヤ・オプチナ修道院
作中に登場する、実在の「コゼーリスカヤ・オプチナ修道院」に関する注解。
現代ロシアの修行僧の一人
上述の続き。「現代ロシアの修行僧の一人がアトスで修業を積んでいたところ」の注解。
キリストの王国
アリョーシャのゾシマ長老への信仰心「あの方は聖者なのだ……だれもが一様に神の子となり、こうして真のキリストの王国が到来するのだ」の注解。
懺悔の機密
長老制度に対する反対派の意見として「ここでは懺悔の機密が勝手気ままに無思慮に俗化されている」に関する注解。
わたしたちのところにはない真理があり
アリョーシャの信仰心、「たとえわたしたちのところは罪と、虚偽と、誘惑にみちていようと、それでもなおこの地上のどこかには神聖にして至高の方がおられる。その力のもとにこそ、わたしたちのところにはない真理があり、その方こそが真理をわきまえておられる」に関する注解。
仲に立てたのかな
ゾシマ長老の立ち会いのもと、家族会議が開かれることが決まった時に、長老が言う言葉。「「だれがわたしを分配者として仲に立てたのかな」に関する注解。
次のページでは、原卓也訳(新潮文庫)を紹介しています。翻訳の比較にどうぞ。