江川卓『カラマーゾフの兄弟』は滋賀県立図書館にあります詳細を見る

    【5】リアリストは自分が信じたいものを信じる ~アリョーシャの信仰とゾシマ長老

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    目次 🏃‍♂️

    アリョーシャの信仰と現実主義

    このページでは、原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』(新潮文庫)の引用を紹介しています。私が挫折する前、メモしたものです。

    長老について

    江川訳『ロシア僧院における長老の役割と原罪からの救済』に該当する個所は次の通りです。

    その修道院が栄え、ロシア全土に有名になったのは、まさに長老のおかげであり、長老に会い、長老の話を聞くために、信者たちがロシア全土から、何千キロの道もいとわず、群れ集ってこの町にやってくるのだった。

    それなら、長老とはいったい何者なのか?

    長老とは、すなわち、あなた方の魂と意志を、自分の魂と意志の内に引き受けてくれる人にほかならない。いったん長老を選んだならば、あなた方は自己の意志を放棄し、完全な自己放棄とともに、自分の意志を長老の完全な服従下にさしだすのである。自己にこの運命を課した人間は、永い試練のあとで己れに打ち克ち、自己を制して、ついには一生の服従を通じて完全な自由、つまり自分自身からの自由を獲得し、一生かかっても自己の内に真の自分を見いだせなかった人々の運命をまぬがれることができるまでにいたるのだという希望をいだきながら、この試練を、この恐ろしい人生の学校を、すすんで受けるのである。

    江川訳『長老というのは――人の魂、人の意志を、自分の魂、自分の意志の中に取りこんでしまう存在なのである』とかなりニュアンスが異なりますね。江川訳では「取りこむ」と訳詞、原訳では「引き受けてくれる」になっています。私は原文を知らないので、どちらが正しいか分かりませんが、英語で言うところの「take」に相当するのかなと思っています。

    また、原訳では、『長老の完全な服従下にさしだす』になっていますが、江川訳では『まったき服従にゆだねる』という表現がなされており、江川訳の方がマイルドですね。「服従」という言葉は、どうしても奴隷的なニュアンスを匂わせるので、まるで長老が信徒を完全コントロールするような印象ですが、現代に喩えれば、医師と患者みたいなものです。医療でもよく言いますね。「治療に全力を尽くします」「はい、私たちには何も分かりませんから、先生に全ておまかせします」。信頼関係がある場合、医師に全面的におまかせすることで、患者さんもほっとされるのではないでしょうか。患者がネットで仕込んだ変な知識を振りかざして、あれがいい、これはイヤとごねていたら、いつまでたっても病気は治りません。

    長老に頼る人も同じ、いったん悩み苦しみを長老にゆだねて、頭の中を空っぽにし、導きに委ねる――そういう感覚だと思います。カルトの洗脳とは大きく異なります。(ただ、ロシアの長老制度においても、カルト的な要素があるのは、本作でも言及されています)

    長老はもう永年にわたって、心の秘密を告白しにやってきて彼から忠告や治療の言葉をきこうと渇望している人たちを、ことごとく近づけ、数知れぬほどの打ち明け話や嘆きや告白を自分の心に受け入れたため、しまいにはもうきわめて鋭敏な洞察力を身につけ、訪れてくる見ず知らずの人の顔をひと目見ただけで、どんな用事で来たのか、何を求めているのか、どんな悩みが良心を苦しめているのか、それまで見ぬくことができるほどになり、訪問者が一言も口をきかぬうちに相手の秘密を言いあててびっくりさせ、うろたえさせ、時には怯えに近い気持ちさえひき起させたという。

    江川訳では、『ゾシマ長老については、多年、彼のもとへ心の懺悔にやって来ては、ぜひとも彼の助言や心癒やす言葉を聞きたいと願う人々に、だれかれの別なく接し、さまざまな懺悔や、悲嘆や、告白をおのれの心に受け容れてきたので、ついには、彼を訪ねて来る未知の人々をひと目見るだけで、その人がなんのためにやって来たのか、何を必要としているのか、さらにはどのような悩みに良心を責められているのかさえ見抜けるほどの、まことに鋭敏な洞察力をそなえるにいたった、と言われていた。ときには、訪ねてきた当人がまだ何も言わない先から、その人の心の秘密を言い当ててしまうので、当人が驚き、当惑し、気味悪く思うようなこともあった』となっており、私は江川訳の方が分かりやすいです。

    信仰が奇蹟から生まれるのではなく、奇蹟が信仰から生まれるのである

    アリョーシャはむしろだれにもまして現実家(リアリスト)であったように思われる・・・」の個所は次のように翻訳されています。

    わたしには、アリョーシャはだれにもまして現実主義者(リアリスト)だったような気がする。
    もちろん、修道僧に入ってから彼は全面的に奇蹟を信じてはいたが、わたしに言わせれば、奇蹟が現実主義者を困惑させることなど決してないのである。
    現実主義者を信仰に導くのは、奇蹟ではない。
    真の現実主義者は、もし信仰をもっていなければ、奇蹟をも信じない力と能力を自己の内に見いだすであろうし、かりに反駁しえぬ事実として奇蹟が目の前にあらわれたとしても、その事実を認めるぐらいなら、むしろ自己の感情を信じないだろう。

    ≪中略≫

    現実主義者にあっては、信仰が奇蹟から生まれるのではなく、奇蹟が信仰から生まれるのである。現実主義者にあっては、信仰が奇蹟から生まれるのではなく、奇蹟が信仰から生まれるのである。現実主義者がいったん信じたなら、まさしく自己の現実主義によって必ず奇蹟をも認めるはずである。

    原卓也訳でもあるように、カラマーゾフ一家の中で、誰よりもクールな諦観の持ち主だからこそ、一家の大事にも動じることなく、淫蕩父フョードルや激情家のドミートリイの心の支えになれたのです。無神論者で分裂症気味のイワンも例外ではありません。

    それはまた思いがけない自我の強さの表れであり、後に世間が驚くような社会活動家になったとしても、まったく違和感がないんですね。
    (参考 予告された皇帝暗殺 ~江川卓のドストエフスキー解説より

    神の道を目指した動機

    また、江川訳の『彼がこの道に足を踏み入れたのは、当時この道だけが彼に感動を与え・・』の個所は、原卓也訳では下記の通りです。

    彼がこの道に入ったのは、もっぱら、当時それだけが彼の心を打ち、闇を逃れて光に突きすすもうとあがく彼の魂の究極の理想を一挙にことごとく示してくれたからにほかならない。
    さらに、彼がすでにある程度までわが国の現代青年であったことも、付け加えてみるがいい。
    つまり、本性から誠実で、真理を求め、探求し、信ずる人間であり、いったん信ずるや、心の力のすべてで即刻それに参加することを求め、早急に偉業を要求し、その偉業のためにならすべてを、よし生命をも犠牲にしようという、やむにやまれぬ気持ちをいだいている青年なのである。

    江川訳『彼がこの道に足を踏み入れたのは、当時この道だけが彼に感動を与え、暗黒の中に光明を求めてもがいていた彼の魂に一挙にして理想の進路を示してくれた、それだけの理由からである。』とかなり違っていますね。どちらが分かりやすいかは、読者さんにお任せします。

    また『早急に偉業を要求し、その偉業のためにならすべてを、よし生命をも犠牲にしようという、やむにやまれぬ気持ちをいだいている青年なのである』の個所も、江川訳『一刻も早く偉業を成しとげようとし、しかもその偉業のためには、どうあってもいっさいを、生命をさえ犠牲に供しようと望んでやまないのである。』も、かなりニュアンスが異なります。

    原卓也訳では、「よし生命をも犠牲にしよう」と、まるでイエス・キリストの再臨のようなイメージですが、江川訳では、「生命を犠牲にしても構わない、と思うくらいの熱望」と受け取れます。思想のために命を捨てるのが目的ではなく、「捨てることになっても、悔いはない」という印象ですね。

    わが国の現代青年(19世紀)

    『わが国の現代青年』というのは、もちろん、ドストエフスキーの生きた19世紀後半のことです。

    『1917年のロシア革命以前』『産業革命の只中の、急激な工業化と庶民の不満』をキーワードにすれば、現代の青年と大差ないように感じます。

    ただ一点、微妙に異なるのは、現代は真理を追求するより、持論の正しさを証明することにウェイトが置かれ、「皆で知恵を出し合って、最善の道を選ぶ」という姿勢からは程遠い、という事でしょうか。注目を集めるために、逆張りファッションや思想ファッションに染まっている人も少なくありません。その人たちにとっては、真理や公利など、どうでもよく、自分の思想が大勢に支持されたら、それで満足なんですね。

    そのあたり、考え方も、価値観も、実際に革命に身を投じた19世紀の青年と大きく違っていると思います。

    いつの時代も、「純粋」「真っ直ぐ」「熱狂的」は若者の特権ですが、アリョーシャはそれに加えて現実主義です。大衆主義や評価システムに易々と踊らされる、無思慮な青年ではありません。現実をクールに見据えながらも、心の内では、みずみずしい理想に燃える、誠実で志の高い青年です。

    無神論から社会主義へ

    『カラマーゾフの兄弟』でも、『無神論』は繰り返し議論されますが、アリョーシャの宗教的スタンスも、作品の冒頭で明確に説明されています。

    江川訳『もし彼が不死と神は存在しないと結論したのだったら、彼はただちに無神論者や社会主義者の仲間に投じていたにちがいない』の個所は、原卓也訳では次のようになります。

    真剣に思いめぐらして、不死と神は存在するという確信に愕然とするなり、彼はごく自然にすぐ自分に言った。

    『僕は不死のために生きたい。中途半端な妥協は受け入れないぞ』

    これとまったく同じことで、かりに彼が、不死や神は存在しないと結論をだしたとすれば、すぐに無神論者か社会主義者になったことだろう(なぜなら、社会主義とは、単に労働問題や、いわゆる第四階級の問題ではなく、主として無神論の問題でもあり、無心論の現代的具体化の問題、つまり、地上から天に達するためではなく、天を地上に引きおろすために、まさしく神なしに建てられるバベルの塔の問題でもあるからだ)。

    江川訳もそうですが、本作では、「神の存在の否定」が社会主義に繋がることが暗示されています。

    社会主義の定義もまちまちで、日本大百科全書(ニッポニカ)コトバンクでは、「社会主義は、社会の富の生産に必要な財産の社会による所有と、労働に基礎を置く公正な社会を実現するという思想として生まれた。思想と運動の歴史での社会主義と共産主義の区別は厳格ではないが、一般に共産主義は、社会主義がさらに発展した平等な社会として理解されてきた。」とありますが、その時々の時勢や政権によって、都合よく解釈されてきた、というのが実際ではないでしょうか。

    では、なぜ「神の存在の否定」が社会主義に繋がるかといえば、『神』がなくなれば、思想や善悪、心の拠り所となるものも失われるからでしょう。

    キリスト教では、生きる指針も、善悪の基準もはっきりしていますが、「個々が好きなように解釈できる世界」では、権威が神に成り代わったり、怪しげな魔術師が救世主と崇められたり、イロイロです。かといって、そうしたものを心の底から信じきることができるか……と問われれば、決してそうではなく、遅かれ早かれ、人は神に代わるものを求めて、うろうろ彷徨うことになるでしょう。そこに「帰属する社会は個人の利益や自由に優る」という考え方が生まれたら、どうなるか。政府や社会規範が本当に神の代わりになればいいですが、多くの場合、そうはなりません。なぜなら、そこには支配な権益が伴うからです。無償で愛してくれる神さまとは随分違います。

    原卓也訳では、『地上から天に達するためではなく、天を地上に引きおろすために、まさしく神なしに建てられるバベルの塔の問題でもあるからだ』

    江川訳では、『地上から天に達しようためにではなく、天を地上に引きおろそうために、まさしく神なしで建設されるバベルの塔の問題だからである』、

    とあるように、政府や社会のルールが、神に成り代わって人を支配するようになれば、愛より恐怖、公平より独占が横行するでしょう。

    神の否定を存在するのは、個々の自由かもしれませんが、「神なしに建てられるバベルの塔」に真の幸福はないんですね。「神なし」の部分は、「神なるもの」=愛と理想の否定、伝統の否定、多様性の否定、公益の否定、、、いろんなものが当てはまります。

    本作は、全編で、信仰の価値を説いていますが、それはキリスト教に限ったことではありません。

    生徒が教師を嘲笑い、子供が親を「お前」呼ばわりし、国民が伝統や礼儀を踏みにじる社会がどうなったか。

    金を稼ぐ者が一番偉くて、生産能力のない者は蔑まれる社会がどうなったか。

    身近な事例に置き換えれば、『神なしで建設されるバベルの塔』がどんなものか、またなぜ神の存在を否定する者は無神論(冷笑主義)や社会主義に走るのか、何となく理解できるのではないでしょうか。

    ロシア民衆の願いとソビエト連邦

    本作が書かれたのは、「礼拝こそ救い」の時代だったことが窺えます。

    いったい何ゆえに信者たちがこれほど長老を慕い、顔を拝んだだけで、なぜその前にひれ伏して感涙にむせぶのか、そんなことはアリョーシャにとって何ら疑問となるものではなかった。

    そう、労働と悲しみと、そして何よりも、常日頃の公正と、自分自身の罪ばかりか全世界の罪によっても常に苦しめられているロシア民衆の穏やかな魂にとって、聖物なり聖者なりを見いだして、その前にひれ伏し、礼拝する以上の、慰めや欲求など存在しないことを、彼はよく知っていた。

    『かりにわれわれに罪悪や、不正や、悪の誘惑があるにせよ、やはりこの地上のどこかに神聖な、最高の人がいることに変わりはない。われわれの代わりに、その人のところに真実が存在し、その人が代わりに真実を知っておられるのだ。してみれば、真実がこの地上で滅びることはないわけだし、つまりは神の約束なさったとおり、そのうちに真実がわれわれのところにもやってきて、全地上に君臨するようになるのだ

    ≪中略≫

    『長老は聖人で、御心の中には万人にとっての更生の秘密と、最後にこの地上に真実を確立する力とが隠されているのだ。やがてみんなが聖人になって、互いに愛し合うようになり、金持ちも貧乏人も、偉い人も虐げられている人もなくなって、あらゆる人が神の子となり、本当のキリストの王国が訪れることだろう』
    こんな夢をアリョーシャの心は描くのだった。

    『カラマーゾフの兄弟』が連載された11年後にマルクス主義のロシア社会民主労働党が結成され、1900年代初頭から革命運動が活発化したことを考えると、興味深いです。

    その後、地上に現れたのは、キリスト王国ではなく、ソビエト連邦だったのですから。

    カラマーゾフの兄弟(上中下)合本版(新潮文庫) Kindle版
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