神がなければ全てが許される?
章の概要
長男ドミートリイと父フョードルの金銭問題を解決する為、ゾシマ長老の仲裁の元、家族会議が開かれますが、遅刻したドミートリイを待つ間、知恵の深いパイーシイ神父やヨシフ神父らを相手に、イワンが論議を交わします。(参考→ 「【10】 キリスト教徒の社会主義者は無神論者の社会主義者より恐ろしい ~イワンと神父の議論」
イワンの主張は、「不死がなければ善行もない、人肉嗜食さえも許される」という極端なものであり、それを耳にしたドミートリイは、「あらゆる無神論者にとっては、悪業が許されるばかりか、それが賢明な活路となる」というところに同調します。
しかし、ゾシマ長老は、イワンの苦悩を見抜き、解決が訪れるよう祝福します。
『第Ⅱ編 場ちがいな会合 / 第2章 どうしてこんな男が生きているんだ』では、冷笑系のイメージが強いイワンですが、実は、三兄弟の中で、誰よりも高潔、かつ繊細で、そのために苦悩している様が描かれます。
動画で確認
1967年映画より。イワンと神父らの会話です(1分)
イワンの意見に耳を傾けるヨシフ神父とパイーシイ神父
不死がなければ、善行もない
『第Ⅱ編 場ちがいな会合 / 第2章 どうしてこんな男が生きているんだ』では、父フョードルの愚弄と長男ドミートリイの憤怒を劇的に描いたエピソードと併せて、イワンが「不死がなければ、善行もありません」と発言する名場面が描かれています。
一般に、この会話は、「神がなければすべてが許される」と象徴的に語られますが、作中にそうした台詞は登場せず、「もし人類が抱いている不死についての信仰を根だやしにしてしまえば~人肉嗜食さえも許される」「不死がなければ、善行もありません」といった形で述べられています。
そして、その意見を聞いたドミートリイが、「聞きちがえのないように念を押しておきたいのですが、『あらゆる無神論者にとっては、悪業が許されるばかりか、彼が置かれた状況からの必要不可欠にしてもっとも賢明な活路と認められなければならない!」こうなのですね?」とパイーシイ神父に問いかけ、その後、「どうしてこんな男が生きているんだ」と父フョードルへの激しい怒りを表すから、「父親殺しの肯定」として、非常に強い印象を残すんですね。
このパートを理解するには、キリスト教における『不死』の意味を理解しなければなりません。
キリスト教における不死とは、永遠に若く生きることではなく、『復活』によって永遠の生命を得る=天国に迎えられ、永遠にイエスと共にある――という考え方です。詳しくは、第3編第8章「コニャックをやりながら」 / 『「神はあるのか」「いいえ、ありません」「イワンのほうが正しいらしいな」』不死とは何か ~『復活』が意味するものをご参照下さい。
不死を得るには、キリスト教的な善行を為さねばなりません。教えに背けば、地獄に落ちると脅す者もあります。
そして、その教義が、逆に人を苦しめることもあります。
たとえば、無礼に対して怒りを表明することも、DV夫と離縁することも、キリスト教的に罪悪とされたら、人はますます行き場をなくしてしまうからです。
『【10】 キリスト教徒の社会主義者は無神論者の社会主義者より恐ろしい ~イワンと神父の議論』からの続きで、イワンは、本気で人類を救済するのであれば、国家の一部として教会が機能するのではなく、国家が教会そのものになる必要があると説きます。何故なら、国家として法を適応すれば、法的に罪を犯した者は、社会的に裁かれるばかりか、教会からも追放されて、何所にも行き場を無くしてしまうからです。そうではなく、国家が教会そのものになって、脱落した者にも手を差しのべられるような機能が必要だ、という訳ですね。
しかし、それを実現することは、国民全員にキリスト教を押しつけ、社会全体の方向を固定してしまう、社会主義(全体主義)になりかねない、と、西欧かぶれのミウーソフは反論します。
ミウーソフはまた、イワンが「もし人類が抱いている不死についての信仰を根だやしにしてしまえば、人肉嗜食さえも許される」といった趣旨の発言をしたことを指摘します。
「もう一度お願いしますが、とにかくこの話はやめにしていただきたいですね」ミウーソフがくり返した。
「そのかわり、みなさん、イワン君その人について、たいへん興味深い特徴的な逸話をもうひとつ紹介しましょう。
つい五日ばかりのことですが、当時の上流婦人たちを主にした集まりの場で、イワン君は堂々と継ぎのような説を主張されたものです。
つまり、この地上にはどこを探しても、人間として自分と同じ人間への愛を強制するようなものは断じて存在しないし、また、人間は人類を愛せよというような自然の法則ももともと存在していない、で、もし現に愛が存在し、これまでも地上に愛が存在したとすれば、それは自然の法則によるものではなくて、ただただ人々が自分たちの不死を信じていたからにほかならない、というのですね。
さらにイワン君はそれにつけ加えて、いわばカッコにはさむという形で、この点にこそ自然の法則の全本質があり、したがって、もし人類が抱いている不死についての信仰を根だやしにしてしまえば、人間のもつ愛ばかりか、現世の生活をつづけて行くためのいっさいの生命力もたちどころに涸渇してしまうだろう、と言われました。
そればかりじゃない、そのときには、不道徳などということはひとつもなくなって、すべてが許される、人肉嗜食さえも許されるというのです。
いや、まだ先がありましてね、イワン君はその話の結びに次のように主張されたものですよ。
要するに、いまのわれわれのように、神も信じなければ自分の不死も信じない個々人にとっては、自然の道徳律がただちにこれまでの宗教的な道徳律とは正反対のものに変り、悪業にもひとしい極端なエゴイズムが人間に許されるばかりでなく、それこそがその状況のもとでは不可欠な、もっとも合理的な、むしろもっとも高潔な活路として認められることにさえなるはずである、というのです。
このような逆説から推して考えれば、みなさん、この愛すべきエキセントリックな逆説家のイワン君が現に唱導し、今後とも唱導しようとしておられる他のすべての議論についても、容易に結論を出せるのじゃないでしょうか」
「神も信じなければ自分の不死も信じない個々人にとっては、極端なエゴイズムが人間に許されるばかりではなく~」のくだりは、『罪と罰』のラスコーリニコフの非凡人思想に繋がるものです。(参考→ 『罪と罰』 名言と解説(米川正夫訳) ~ラスコーリニコフの非凡人思想)
この世の人間は、「凡人」と「非凡人」の二種類に分かれ、非凡人は、善徳を為すために、法を超える権利をもつ。あくどい金貸し老婆は殺しても構わない、その金を貧しい人々に役立てれば、一つの死は千の生命で購われる、という考え方です。
人の行動の抑止力になっているのは、「罪の概念」です。
殺すなかれ、盗むなかれ、という戒めは、「教典で定められているから」ではなく、幼少時から社会生活を通して育まれるものです。「嘘をついてはいけません」「お友達を殴ってはいけません」等々。そうしたルールを家庭や学校で教えられて、我々は善悪を学びます。店先で「この髪飾り、欲しいなぁ。今なら店員さんも見てないし、盗っても分からないかも・・」と思っても、「いや、そんな事をしたらいけない」と思い止まることができるのは、「万引きは犯罪である」という社会通念と、「こんな事をしたら、お店の人が悲しむ」「警察に捕まったら、お父さんもお母さんも悲しむ」という罪悪感があるからです。その元になっているのは何かと言えば、家庭の方針だったり、日本的な価値観だったり、仏教だったり、様々です。そして、キリスト教圏の場合、キリスト教的な価値観が人の感じ方や考え方に大きな影響力を持つわけですね。
反面、過剰な戒めが、人間の心を苦しめることもあります。
ドミートリイのように、不幸の半分は淫蕩父のせいなのに、「親に逆らってはいけない。地獄に落ちるぞ」という観念を刷り込まれたら、父親に怒る自分こそが「悪」と思いこみ、二重に苦しむことになります。
「淫蕩父に異議を申し立てることは、正当な行為である」という考えを持つには、キリスト教的な道徳の概念を打ち破らなければなりません。
それが人によってはエスカレートし、「あんな淫蕩父は殴り殺しても構わない」となるでしょう。
イワンが指摘する、「不死もなければ、善行もない」というのは、そういうことですね。
道徳の概念を打ち破れば、「悪いこと」もなくなり、「善いこと」をする必要もなくなります。
腹が立てば殴り、お腹が空けば盗む。
しかし、そんなことが正当化された社会が、果たして万人にとって、幸福の楽園と言えるでしょうか。
そこで、ゾシマ長老が、疑問を投げかけるのが、次のパートです。
解決されない問題とイワンの苦悩
「あなたはほんとうに確信しておいでなのかな、おのれの霊魂の不死への人間の信仰が涸渇した場合、そのような結果が起きるだろうと?」
長老がふいにイワンがたずねた。
「ええ、ぼくはそう主張しました。もし不死がなければ、善行もありません」
「そう信じておられるとすれば、あなたはしあわせなお人じゃ、いや恐ろしく不幸なお人かもしれん」
「なぜ不幸なのです?」
イワンがにやりとした。
「なぜといって、どう見てもあなたは、ご自分の魂の不死も、それどころかご自分が教会や教会問題について書かれたことさえ、信じておられないようだからじゃ」
「おっしゃるとおりかもしれません!……しかし、それでも、ぼくはまるっきりの冗談を言ったわけじゃなくて……」
イワンはふいに奇妙な白状なしかたをしたが、それでもその顔はさっと赤くなった。
「まるっきりの冗談ではない、それはまことのことじゃ。この思想はまだあなたの心のなかで解決されぬまま、あなたを苦しめておるのじゃ。しかし殉教の受難者もまた、ときにはおのれの絶望を、やはり絶望のあまりに、慰みとすることがある。あなたもいまは絶望のあまり慰みとしておられるのじゃ――そのような雑誌論文や社交界での議論などをな。そのくせ当のあなたはご自分の論法をひとつも信じておられず、内心ではその論法を痛ましく冷笑しておられる……この問題があなたのなかで解決されていない、その点にあなたの大きな不幸がありますのじゃ、なぜといってそれは解決を強要してやまないものですからな……」
「それがぼくのなかで解決されることがあるものでしょうか? 肯定のほうへ解決されることが?」
依然としてなにやら説明のつかない微笑を浮かべて長老を眺めながら、イワンは奇妙な調子で質問をつづけた。
自分で自分の言説を信じないなど、意外な気もしますが、その点は現代も同じです。
たとえば、『家族の絆』を説く人が、現実には、話し合いごときで夫婦関係が修復しないことも、ちょっとした工夫で良い子に育つわけでもないと知っていながら、ひたすら、理想論を並べるようなものです。
ゾシマ長老にしても、『第Ⅲ編 場ちがいな会合 / 第8章 コニャックをやりながら』でフョードルが指摘するように、心の底では神を信じていません――というより、どうしても人間の心には限界があることを痛感しています。
「これっぽっちも信じちゃおらんよ。おまえ知らなかったのかい? あの男は異聞からみんなにそう言っておるんだぞ、もっとも、みんなといっても、よそからやって来る賢い人たちだけにだがな」
それと同じように、イワンも、心の底から「不死がなければ、善行もありません」と信じているのではなく、ほとんど諦めの境地ですね。そう思いたいだけです。あまりにも多くの不条理、あまりにも多くの不幸を目にしたがために、「信仰が本当に人を救うのか」と懐疑的な気持ちになっている。それで、いろいろ理屈を作り出し、自分も周りも納得させようとするけども、所詮、人間の考えることには限界があるし、自分自身も信じてないので、特効薬にはなりません。ゾシマ長老が、「この思想はまだあなたの心のなかで解決されぬまま、あなたを苦しめておるのじゃ」と言う所以です。
苦しみに解決が訪れ、その行路が祝福されるように
その上で、「なにとぞ神のお恵みで、まだ地上におられるうちに、あなたの心の苦しみの解決があなたを訪れ、神があなたの行路を祝福されますように!」と励まし、イワンも感激して、ゾシマ長老の手に接吻します。
「肯定のほうに解決されることがなければ、否定のほうにもけっして解決されることがない、このあなたの心の特性は自分でご存じのはずじゃ。つまい、これがあなたの心の負っている苦しみなのじゃ。だが、そのような苦しみを悩むことのできる至高の心を授けられたことを、あなたは創造主に感謝されるがよい。『上にあるものに思いを寄せ、上にあるものを求めよ、われらのすまいは天にあればなり』。なにとぞ神のお恵みで、まだ地上におられるうちに、あなたの心の苦しみの解決があなたを訪れ、神があなたの行路を祝福されますように!」
長老は片手をあげ、席についたままイワンに十字を切ってやろうとした。
しかしイワンはふいに席から立ちあがって長老のほうへ近寄り、彼の祝福を受け、その手に接吻すると、無言で自分の席に戻った。彼の顔つきは決然としていて真剣だった。
本当に神も教会も信じてなければ、こんな行動には出ません。
イワンはただ迷っているだけ、何でも茶化して馬鹿にする冷笑系でもなければ、否定者でもないんですね。
そして、この問答は、『『第Ⅳ編 ProとContra / 第4章 反逆』から『第5章 大審問官』において、料亭『みやこ』での、アリョーシャとの宗教談義で繰り返されます。
そこでアリョーシャは、イワンに回答を与えているので、この章が見事な伏線になっています。

江川卓による注解
上にあるものに思いを寄せ……天にあればなり
ゾシマ長老からイワンへ、励ましの言葉。「上にあるものに思いを寄せ、上にあるものを求めよ、おのれのすまいは天にあればなり」
該当箇所は次の通りです。
さて、あなたたちは、キリストとともに復活させられた(「洗礼」を暗示)のですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたたちは死んだのであって、あなたたちの生命は、キリストとともに神の内に隠されているのです。
『新約聖書 新共同訳 Kindle版』より
「目標を目指して」(標題)
わたしは、すでに自分の目的に達しているわけではなく、あるいは、すでに完全な者となっているわけでもありません。でも、なんとかして目指すものを捕らえようと努めています。自分がキリスト・イエススに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身はもう捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、うしろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエススによって天へ召して、オア立てになる賞与を目指してひたすら走ることです。
だから、わたしたちの中で信仰に成熟した者はだれでも、このように考えるべきです。
しかし、あなたたちに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。いずれにせよ、わたしたちは目指してきた方向に沿って突き進むべきです。
兄弟たち、皆いっしょにわたしに倣う者となりなさい。また、あなたたちと同じように、わたしたちを模範として生活している人々に目を向けなさい。
何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対する生活を送っている者が多いのです。彼らの行きつくところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、そして、この世のことしか考えていません。
しかし、わたしたちの本国は天にあり、そこから主イエスス・キリストが救い主として来られるのを(世の終りにおかえるキリストの再臨を指す)、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しいからだを、ご自分の栄光ある身体と同じ形に変えてくださるのです。
イワンも、アリョーシャも、ゾシマ長老も、立っているのは同じ平原です。しかし、アリョーシャとゾシマ長老が、ひたすら天(上)を信じ、その理想に突き進んでいくのに対し、イワンは地上の現実に囚われ、懐疑的になっています。
そうした葛藤は即座に解決できないにせよ、イワンが高潔な心で真理を探求する限り、いずれ迷いにも答えが与えられ、心に平安が訪れる、とゾシマ長老はイワンを励ましているのです。
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