江川卓『カラマーゾフの兄弟』は滋賀県立図書館にあります詳細を見る

    【31】現代のジョーカー スメルジャコフの怨念 ~卑しい生まれと認められぬ存在

    ギターを抱いたスメルジャコフとマリア・コンドラーチエヴナ
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    現代のジョーカー スメルジャコフの怨念

    章の概要

    アリョーシャは、長男ドミートリイと父フョードルの破滅的な不幸を回避すべく、兄の姿を求めて、フォマー家の四阿(あずまや)に忍び込みます。

    すると、そこにはギターをつま弾くスメルジャコフと、彼を慕うマリヤ・コンドラーチェヴナの姿がありました。

    スメルジャコフは、卑しい出自のために周りにも蔑まれ、一文無しのごろつきでも、富裕な地主の息子というだけでちやほやされるカラマーゾフ兄弟への恨み言を口にします。

    『第Ⅴ編 ProとContra / 第2章 ギターを抱えたスメルジャコフ』では、イワンやドミートリイの腹違いの兄弟かもしれない、スメルジャコフの鬱屈した心理が描かれています。
    (ちなみにスメルジャコフの父親は、フョードルではなく、脱獄囚 ≪ねじ釘のカルプ≫ という説が有力)

    スメルジャコフの出生と思想については下記リンクをご参照下さい。

    ● 【16】 いやな臭いのリザヴェータと聖痴愚(ユロージヴァヤ)
    スメルジャコフが生まれて、フョードルに引き取られるまでの経緯と、本作でしばしば登場する「聖痴愚」に関する江川氏の注解を掲載しています。

    ● 【18】 スメルジャコフと悪魔 ~ 無神論と反キリストの違い
    養父である忠僕グリゴーリイは熱心に神の教えを説きますが、スメルジャコフはだんだん心がひん曲がり、神を否定するような言動をするようになります。イワンへの屈折した憧れと劣等感が垣間見える場面です。

    動画で確認

    映画版『カラマーゾフの兄弟』(1967年)より、1分クリップ。

    ギターを抱いたスメルジャコフ。なんか、『ギターをもった渡り鳥(小林旭)』みたいですね。←かなり古い
    歌がお上手。多分、原作の歌詞に合わせて、メロディも作ってるんでしょうね。
    メロディラインが、ロシア。

    恨み言を口にするスメルジャコフ。(父親がフョードルかもしれない)という無責任な噂が彼の心を蝕みました。
    彼ほど運命の理不尽が身に染みる人物もありません。

    スメルジャコフとマリヤ

    パート全体を見たい方はYouTubeでどうぞ。(3分26秒から)
    https://youtu.be/I4arxS-jvJc?t=206

    詩なんてまじめな仕事じゃないんですよ

    カラマーゾフ家の料理人、スメルジャコフはフォマー家の四阿(あずまや)でギターをつま弾き、その傍らでは、マリヤ・コンドラーチエヴナがうっとりと耳を傾けています。

    この四阿は、先日、ドミートリイが道行くアリョーシャをつかまえ、カチェリーナとグルーシェンカ、3000ルーブリをめぐる争いについて告白した場所です。
    (参考→ 【17】ドミートリイの告白 ~3000ルーブリをめぐるカチェリーナの愛憎とフョードルの金銭問題

    四阿は、カラマーゾフ家の庭続きにあり、窓が四つの、傾きかけた小さなぼろ家です。ぼろ家の持主は、娘と二人暮らしの足の悪い老婆で、ひどい貧弱状態にあり、毎日のように、カラマーゾフ家にパンやスープをもらいに来ています。しかし、娘の方は、金銭的に困窮しているにもかかわらず、一着のドレスも売ろうとせず、しかもその一枚などは、やたらと長い裳裾(もすそ)までついたものでした。

    これがスメルジャコフの隣で、うっとり耳を傾けているマリヤ・コンドラーチエヴナですね。1967年版の映画では、みずぼらしいドレス姿で描かれています。

    マリヤにとって、スメルジャコフは「頭のいい青年」で、憧れの人です。

    「詩なんてつまらないものですよ」スメルジャコフがぶっきらぼうに言った。

    「あら、そんなことないわ、わたし、詩は大好きよ」

    「詩の形にしなきゃならないなんて、それこそ愚の骨頂ですよ。考えてもごらんなさいな、だれがいったい韻を踏んでしゃべったりします? だいいち、たとえばお上の命令だとしたところで、みなが韻を踏んで話すようになったら、思うさましゃべることもできないじゃありませんか。詩なんてまじめな仕事じゃないんですよ(注解参照)、マリヤ・コンドラーチエヴナ」

    この台詞には、「自分はその程度の器ではない」という自負とプライドがにじみ出ていますね。

    料理人になれたのは、フョードルがスメルジャコフの腕を見込んで、モスクワに修業にやってくれたからで、痴れ者の女性が生んだ子供に対する扱いとしては上等な方と思うのですが(当時のロシア社会を鑑みれば)、スメルジャコフはそんな事に恩義は感じていません。
    もしかしたら、ドミートリイやイワンと同じ「カラマーゾフの兄弟」で、本来なら、富裕層にふさわしい地位と教育が保障されてしかるべきと考えています。

    詩作や歌唱など褒められても、何の慰めにもならないのは、それが実利的ではないからでしょう。底辺の人間が、イラストをちょっと上手に描くからといって、表彰されるわけでもなければ、収入に繋がるわけでもないと考えれば、分かりやすいですね。

    呪わしい運命 ~個人の恨みから全体への憎しみ

    スメルジャコフは自分の卑しい生まれについて、下記のように述べます。

    私も、この世に生を享けた瞬間からあんな運命を背負わされていなかったら、もっといろんなことができたろうし、もっと知識も得られたはずですがねえ。

    私は決闘の場に出てピストルで撃ち殺してやりたいですよ、おまえは卑しい男だ、いやな臭いの女(スメルジャーシチャヤ)の腹から出た父なし子じゃないか、なんて言うやつがいたら。モスクワに行ってまで、面と向かってそう言われたんですよ、グリゴーリイ爺さんがそんな噂を流してくだすったもんですからね。

    グリゴーリイ爺さんは、私が自分の出生を呪っていると言って責めるんですよ、『おまえは母親の胎を開きおったんだぞ*(注解参照)』と言いましてね。胎のほうはどうでもいいですがね、こっちとしちゃ、この世に生れ出ないですむものなら、いっそ腹の中にいるうちに自殺でもしたかったですよ。

    市場へ行けば、あの女は頭の髪がすずめの巣みたいだったとか、背が二アルシンとちょーっぴりしかなかっただとか言われますしね、あなたのお母さまなんかも、人の気持がまるでおわかりにならないのか、平気でそんなことをおっしゃるんですからね。ふつう、みんなが言ってるようにちょっぴりと言えばいいところを、どうしてちょーっぴりなんて言うと思います? これは涙っぽく話したいからなんですがね、こいつは、なんと言うか、百姓ふうの涙っぽさ、まったく百姓ふうの感情なんですよ。

    いったいロシアの百姓に教養人なみの感情なんか持てるものですかね? あの無教養さだけからいっても、どだい感情なんて持てやしませんよ。私は頑是ない子供の時分から、この《ちょっぴり》を聞くたびに、壁にどすんとぶつかったような気がしたものですよ。

    私はロシア全体が憎くてならないんですよ、マリヤさん」

    私も、この世に生を享けた瞬間からあんな運命を背負わされていなかったら、もっといろんなことができたろうし、もっと知識も得られたはずですがねえ」という台詞は、現代も同じでしょう。昔から格差は存在しましたが、「実家が太い」「親ガチャ」「勝ち組・負け組」といった言葉で下層の現状と鬱屈した感情が語られるようになったのは、ここ数年の話です。

    近年、話題になった映画「ジョーカー」も、貧しい境遇から恨みをつのらせ、ついには社会的破壊に向かうストーリーでした。
    (参考→ 勝者の語る正義に説得力なし 映画『ジョーカー』とホアキン・フェニックスの魅力

    選んで、痴れ者リザヴェータから生まれてきたわけではないのに、たまたま生まれ出た胎(はら)が違うというだけで、スメルジャコフは周りに蔑まれ、その才能を認められることもありません。なまじ、「父親がフョードルかもしれない」という思い込みがあるから、余計でしょう。

    スメルジャコフがイワンに歪んだ憧れを抱き、『第Ⅲ編 好色な人たち / 第6章 スメルジャコフ』で、無神論っぽいことをひけらかして見せるのも、そうした気持ちの現われですね。(スメルジャコフの無神論は、イワンの「天国への入場券をつつしんで神さまにお返しする」とは似て非なるもの)

    そうした個の恨み辛みは、やがて社会全体に向けられ、「ロシア全体が憎い」と叫ばせる。それは現代もまったく同じではないでしょうか。

    「十二年一八一二年にフランス皇帝ナポレオン一世のロシア大遠征がありましたがね、いまのナポレオンの親父(おやじ)実際は叔父さんですよ、いっそあのとき、そのフランス人がこの国を征服してしまったらよかったんですよ。頭のいい国民が愚鈍な国民を征服して、併合してくれていればね。そうすりゃ、様子もすっかり変ってきていたでしょうがね」

    ウクライナ侵攻を見ていると、私もそう感じます。まだロマノフ王朝の頃の方がましだったのではないかと思うことも、しばしば・・

    カラマーゾフ兄弟への憎しみ

    さらにスメルジャコフは、ドミートリイとイワンに対する憎しみも露わにします。

    「だけどあなた、イワンさんのことは尊敬してるっておっしゃってたわ」

    「でもあの方は、私のことをいやしい下僕として扱いますからね。私が謀反を起しかねない男だと見ておられるようだけど、これはあの方の思いちがいですよ。私だってまとまった金がふところにあれば、こんなところはとっくにおさらばしていますがね。

    ドミートリイさんなんかは、身持からいっても、頭の程度からいっても、貧乏さ加減からいっても、どこの召使よりも劣った人間で、何ひとつまともにできることもないくせに、逆にみんなから敬われているんですからね。なるほど私はただのコックでしかないとしても、これでも運さえ向けば、モスクワのペトロフカモスクワの繁華街にカフェ・レストランぐらいは開けますからね。なにしろ私は特別の料理法を心得ていましてね、モスクワでも、外国人を別にしたら、こういう特別なものを出せるコックは一人だっていないんですよ。

    ところがドミートリイさんは一文なしのごろつきのくせに、あの人が決闘を申し込めば、名門の伯爵家の息子だってちゃんと応じてくれるんですよ、いったいあの人のどこが私より偉いんですかね?なに、それはあの人が私なんぞとは比較を絶した大馬鹿者だからなんですよ。まったくなんの役にも立たないことにどれだけの金を使っちまったことか」

    「まとまった金がふところにあれば」というのは、フョードルが首から提げている3000ルーブリに繋がりますが、それが直接の動機ではありません。

    スメルジャコフにとっては、「陰の実行部隊」としてイワンの思想と秘めた願望を遂行することに意味があります。

    ドミートリイ裁判の最中、イワンがスメルジャコフを訪ねた時、スメルジャコフは次のように語って聞かせます。
    (『第Ⅺ編 兄イワン・フョードロヴィチ / 第8章 三度目の、最後の面談』)

    「この金はどうぞお持ちください……私には全然必要がないんです」片手を振って、スメルジャコフは震える声で言った。「以前はこういう大金を持って、モスクワか、いっそ外国へでも行って、新しい人生を始めようかと思ったこともありました。そういう夢をあたためていましたんですよ、なにしろ《すべてが許される》わけですからねえ。これはほんとうにあなたが教えてくだすったことですよ、あのころのあなたはいろいろそういうことを話してくださいましたからね、無限なる神がなければ、なんの善行もない、だいたい善行などなんの必要もないって。あなたは本気でしたよ。で私もそう考えたんです」

    スメルジャコフの怨念は、社会に対する憎しみよりも、イワンの秘めた願望を実行して、自分の存在価値を認めてもらうことに向けられます。

    それがスメルジャコフの悪魔性であり、自分の心の影が具現化するするほど恐ろしいものはないです。

    スメルジャコフとアリョーシャの会話

    スメルジャコフの姿を見かけたアリョーシャは、ドミートリイの行方を尋ねますが、スメルジャコフは「どうして私がドミートリイさまのことを存じておりましょう。そりゃ、あの方の見張り番とでもいうのなら、話は別でございますが」と小馬鹿にするように答えます。

    あの方はここへ来てまでも、旦(だん)那(な)さまのことを根掘り葉掘りおたずねになって、情け容赦もなく私をいじめなさるんですよ。うちの様子はどうだとか、だれが訪ねて来て、だれが出て行ったとか、ほかに何か知らせることはないかとか。二度ばかりは殺すぞと言っておどかされましたですよ ≪中略≫

    もしアグラフェーナさまをお通しして、あの方がここで泊って行くようなことがあったら、まっ先にきさまの命がないものと思えっておっしゃいますので。私はもうあの方が恐ろしくてなりませんし、これ以上恐ろしい思いをするくらいなら、いっそ警察へ訴え出ようかと思っておりますんですよ。まったく何をなさるか知れたものじゃございませんから。

    ですが、くれぐれもお願いいたしますが、私のことも、私がお知らせしましたことも、あの方にはご内聞にお願いしますですよ、さもないとそれこそわけも何もなく殺されてしまいますから。

    繰り返し、「ドミートリイによる父親殺し」を仄めかし、アリョーシャの不安を搔き立てます。

    これもアリョーシャにとっては悪魔の囁きですね。

    スメルジャコフの具体的な話によって、ドミートリイに父親殺しの疑いをもってしまいます。

    アリョーシャも、少なからず、ドミートリイの犯行を疑いますから、スメルジャコフはそれぞれの信頼を壊すことに成功したといっても過言ではありません。

    もっとも、アリョーシャは神の人なので、最後にはドミートリイの無実を信じますが。信じるだけでは、無実の証明にならないのが、現世の裁判です(T_T)

    ちなみに、アリョーシャの不安は、章の冒頭、次のように描写されています。

    時刻はずんずん経って、もう午後の二時をまわっていた。

    アリョーシャは自分の全存在が、いま僧院で息を引きとろうとしている《偉大な人》(ゾシマ長老)のほうへ吸い寄せられるのを感じていたが、しかし兄のドミートリイに会わねばならないという気持が他の一切にうちかった。避けようもない恐ろしい破局が差し迫っているという確信が、アリョーシャの頭の中で刻一刻とつのっていくのだった。

    もっとも、その破局がいったいどんなもので、いまこの時間、兄に何を言おうとしているのかという点については、まだ自分でもしかと決めてはいなかったようである。

    「たとえ恩師の死に目にあえなくても、すくなくとも、おれは救おうと思えば救えたものを救おうとせず、素知らぬ顔でわきを通りすぎ(注解参照)、さっさと家へ帰ってしまったという自責の念に生涯苦しむことはないだろう。そうすることが、あの方の偉大なお言葉に従うことになるのだもの……』

    カラマーゾフ家の良心として、悲劇を回避しようとするアリョーシャの心根がよく表れていますね。ゾシマ長老は、アリョーシャに『行動の愛』の大切さを説き、アリョーシャはそれを忠実に実践しています。

    それとは対照的に、父親殺しの悲劇を予感しながら、わざとモスクワに旅立ったのがイワンです。

    第Ⅲ編 好色な人々 / 第9章 好色な人たち』で、「ぼくはいつだって親父を守ってみせるよ」とアリョーシャに約束しながら、とっととモスクワに去りました。

    そして、この事がイワンの良心を苦しめ、しまいには悪魔の幻影を見るようになります。

    モスクワ行きは、イワンの潜在意識が為した事かどうか、イワン自身にも分かりません。(本気でドミートリイもフョードルも死んでしまえと願ったのか、それとも一家のゴタゴタに嫌気が差して距離を置いたのか、カチェリーナへの失恋からヤケクソになったのか、理由はいろいろ)

    しかし、スメルジャコフに「だいたい善行などなんの必要もないって。あなたは本気でしたよ」「あなたのご指導によってです」と指摘されたことで、イワンは激しく動揺します。(スメルジャコフが影の実行部隊と分かった)

    どんな理由があるにせよ、踏みとどまるべきところで踏みとどまらなかった、イワンの弱さが浮き彫りになります。

    江川卓による注解

    わきを通りすぎ

    ドミートリイと父の不幸を予感しながら、「素知らぬ顔でわきを通り過ぎれば」、後で自責の念にかられるのではないか、という喩え。

    ルカ福音書第十章三十―三十七説に語られている「よきサマリヤ人」のたとえ話を踏まえている。この話は、第十一編でイワンが行倒れを救う場面でも用いられる(下巻334―335ページ)。

    『いとしの君のすこやかならば』

    スメルジャコフが歌う、

    "いとしの人のすこやかならば、
    王の冠いただく心地。
    憐れみたまえ主よ
    かの人とわれを! "

    ここに引かれている小唄は、ドストエフスキーの創作ではなく、モスクワで記録されたものだという。一八七九年、作家はリュピーモフ宛ての手紙で、「それを聞いたのはもう四十年も前のことで、小さな商店の番頭たちが作り、従僕、給仕たちに拡まったものです。蒐集家はだれも記録していないので、私がはじめて発表するわけです」と書いている。「いとしの人の」と「いとしの君の」の相違は、後者だと「いとしの君」がはっきりマリヤをさすことになるが、前者だと、二八八ページに出てくる第三連の「花の都」をさすことになりかねない相違がある。おそらく、このときのスメルジャコフは、マリヤなど眼中になく、ひたすら「派なの都」であるパリ行きを夢見ていたせいで、ふっと口がすべったのだろう。ドストエフスキーはそこまで計算しているらしい。

    詩なんてまじめな仕事じゃないんですよ

    マリヤが「詩は大好きよ」と言い、スメルジャコフに好意を持っていることを仄めかすと、スメルジャコフが「詩なんて・・」と自嘲する。

    プーシキンの『詩人と俗界』という詩に、「風のように詩人の歌は自由だけれど/そのかわり風のように実りはない/そんなものがわれらになんの利益になる」という一説があり、それを踏まえているように見える。これは、詩人の高尚な真理を理解できない俗衆への怒りを「詩人」と「愚かな俗衆」の対話の形で表現した有名な詩だが、その「俗衆」の言葉には、「われらは臆病者、狡智にたけた者/破廉恥にして、腹黒い忘恩のやから/われらは心冷ややかなる去勢者/中傷者、従僕、愚か者」といった一説もあって、いかにもスメルジャコフの性格を連想させる。

    胎を開きおったんだぞ

    スメルジャコフが痴れ者リザヴェータから生まれたことに対して、「グリゴーリイ爺さんは、私が自分の出生を呪(のろ)っていると言って責めるんですよ、『おまえは母親の胎(はら)を開きおったんだぞ』と」

    「胎を開く」という言葉は出エジプト記第十三章二節、ルカ福音書第二章二十三節などに出てくる表現で、日本語訳聖書ではふつう「生まれた」と訳されているが、ロシア語訳聖書では教会スラヴ語系の古めかしい言葉があてられている。「胎を開く」という訳語は日本正教会訳から借用した。グリゴーリイがこのような表現を使ったのは、彼が「神さまの本」を耽読していた影響であろうし、一方、スメルジャコフのほうは、この耳なれぬ表現を「腹を切り裂いた」といった非難の言葉として受けとり、両者の間に言葉のうえでの行きちがいが生じたものらしい。

    見張り番

    アリョーシャがドミートリイの居場所をスメルジャコフに尋ねた時の返事。「どうして私がドミートリイさまのことを存じておりましょう。そりゃ、あの方の見張り番とでもいうのなら、話は別でございますが」

    旧約聖書創世記4章のカインとアベルの物語を踏まえている。弟を殺したカインにエホバが「アベルはどこにいるか」とたずねると、カインは「知らない。わたしが弟の見張り番でしょうか」と答える。この表現は二九五ページ下段では、イワンがアリョーシャに対して使っており、そこではっきりと神話起原が命じされている。

    『臼でひきつぶしてやる』

    ドミートリイがしばしば父親殺しを仄めかすような事を口にし、マリヤも、「この間も『臼(うす)でひきつぶしてやる』なんておっしゃいましたのよ」とアリョーシャに伝える。

    ロシアの成句に「臼でもひきつぶせないやつ」(強情な女)、「臼に入れて、杵でこねてもどうにもならぬ」(ぬらりくらりと逃げを張る男)、「馬鹿は臼でひいても処置なし」などがあり、ドミートリイは「豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまえ」式の言い方をしたのだろうと推測される。
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