蛇が蛇を食い殺すだけ ~ドミートリイの暴力と殺人の予感
章の概要
3000ルーブリの使い込みで、窮地に陥ったドミートリイを救うため、アリョーシャはカラマーゾフ家を訪れ、父フョードル、次兄イワンルの三人で歓談します。
「神はあるのか、ないのか」 有名な論議の後、激怒したドミートリイがやって来て、父親に襲いかかります。
父親殺しを予兆するドミートリイの言動と、冷ややかに見つめるイワン、不幸を予感するアリョーシャの気持ちが交錯する名場面です。
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映画『カラマーゾフの兄弟』(1968年)より(1分動画)
突如、ミーチャがカラマーゾフ家に現れ、父フョードルをメッタ打ちにします。
こうした激しい一面を見れば、忠僕グリゴーリイやイワンやアリョーシャが、ドミートリイの父親殺しを予感するのも頷けます。
カチェリーナとグルーシェンカの三角関係、3000ルーブリの使い込みの経緯は下記URLにて、図解で解説しています。
きさまの血を流したからって後悔なんかしていない
父フョードル、アリョーシャ、イワンの三人が仲好く歓談しているところに、突然、ドミートリイが現われ、皆の制止を振り切って、父親に襲いかかります。
ドミートリイは、グルーシェンカがカラマーゾフ家に来たと思い込み、金も女も失うのではないかと逆上して、殴り込みに来たのです。
そのとき、ドミートリイがふたたび広間に姿を現わした。むろん、彼は、裏手の入口に錠がおりていることを見定めてきたのだった、そしてその裏口の鍵はたしかにフョードルのポケットに入っていた。どの部屋の窓もすっかり閉めきられていて、どう見ても、グルーシェンカがどこからも家に入れるわけがなかったし、また逆に、どこから飛び出せるわけもなかった。
「やつをつかまえろ!」ふたたびドミートリイを目にするや否や、フョードルが金切り声をあげた。「おれの寝室で金を盗みやがったんだ!」
そう言いざま、イワンの手を振りほどいて、彼はまたもやドミートリイにとびついて行った。
しかし相手は両手をあげると、老人のこめかみのあたりにわずかに残っている髪の毛をむんずとつかんで、ぐいと引き寄せ、すさまじい物音とともに床に叩きつけた。そして、倒れている父親の顔をいちはやく二、三度踵で蹴とばした。老人は甲高い呻き声をあげた。ドミートリイほどの腕力はないイワンが、兄を両手で抱きかかえ、力まかせに老人からもぎ放した。アリョーシャも心もとない力をふりしぼって、前から兄に抱きついて加勢した。
「気ちがい、殺しちまうじゃないか!」イワンが叫んだ。
「そうしてやって当然さ!」息を切らしながらドミートリイは叫んだ。「これで死ななかったら、また殺しに来てやる。かばい立てしてもむだだぞ!」
アリョーシャとイワンは必死になってドミートリイを止め、「グルーシェンカはここには来ていない」と説得します。
しかし、ドミートリイはなおも興奮し、父に暴言を吐きます。
「きさまの血を流したからって後悔なんかしていないぞ!」 彼は叫んだ。
「図に乗るなよ、爺い、夢を見るのもほどほどにしておくがいい、おれにだって夢があるんだからな! きさまなんか、おれのほうから呪ってやる、きっぱり縁を切ってやる……」
『愛の欠乏と金銭への執着 ~父に捨てられた長男ドミートリイの屈折』でも描かれているように、淫蕩父フョードルは、最初の妻アデライーダとの結婚生活が破綻した後、長男ドミートリイの存在もすっかり忘れ去り、養育を忠僕グリゴーリイに押しつけて、放蕩三昧に明け暮れます。
ドミートリイが、顔もよく知らない、守銭奴な父親を忌み嫌うのも当然で、現代においても、こうした憎悪と暴力は存在するのではないでしょうか。(そして今は、父がドミートリイの愛する女グルーシェンカを大金で抱き込もうとしている)
蛇が蛇を食い殺すだけ
凄まじい暴力の現場を目にしたイワンは、「畜生め、もしおれが引き離さなかったら、ひょっとすると、あのまんま殺しちまったかもしれないぜ。イソップ爺さんじゃ、手間ひま要らないからな」とアリョーシャに耳打ちし、アリョーシャは「なんて恐ろしいことを!」と震撼しますが、イワンは淡々と返します。
「なにが恐ろしいことだい?」
憎々しげに顔を引きゆがめ、あいかわらずのひそひそ声でイワンはつづけた。
「蛇が蛇を食い殺すだけさ、二人ともそれが当然のむくいさ!」
江川氏の注解によると、「蛇が蛇を食い殺す」の意味は、
イワンが自然科学系の大学で学んだことから、この一句にダーウィンの淘汰説の影響を見る解釈もある。
今風に言えば、「どっちもどっち」、互いに食い合い、滅んでくれたら、かえって好都合というニュアンスですね。
イワンも心底、「二人とも死ねばいい」と思っている訳ではなく、身内のゴタゴタに心底嫌気が差し、「消えてくれ」という心境でしょう。現代の家族も同じです。身内の争いほど、みじめなものはありません。
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イワンとアリョーシャの語らい。すでにイワンはドミートリイとフョードルの問題にうんざりしており、醒めた目で見ています。
蛇が蛇を食い殺すだけ。
きわめて正論を言えば、イワンがもっと身体を張って、ドミートリイとフョードルの仲裁に努めればよかったんですね。
しかし、カチェリーナとの報われない恋もあり、問題から遠ざかる事を選びました。それがモスクワ行きです。
その事実は、後々までも、良心の呵責に苦しめられ、悪魔の幻影まで見るようになりました。
いろんな物事の板挟みになって、一番傷ついたのはイワンかもしれないですね。
ドミートリイより、イワンの方が怖い
傷ついたフョードルを寝室に運び込むと、アリョーシャは父を介抱します。
しかし、フョードルは、ドミートリイではなく、「イワンが怖い」とつぶやきます。
アリョーシャは、たんすの上に立ててある小さな折り畳み式の丸鏡を取って父に渡した。老人は鏡をのぞきこんだ。鼻はかなりひどく腫れあがり、額には左の眉の上に大きな紫色の皮下出血の痕(あと)があった。
「イワンはどう言ってる? アリョーシャ、おれのたった一人のかわいい子、おれはイワンが怖(こわ)いんだ。あいつより、イワンのほうが怖い、おれが怖くないのはおまえだけだよ……」
「イワン兄さんだって、恐がることはありませんよ、イワンは起こってるけど、お父さんを守ってくれますよ」
「アリョーシャ、で、あいつはどうした? グルーシェンカのとこへ飛んで行ったんだな! かわいらしい天使、ほんとうのことを教えてくれ、さっきグルーシェンカは来たのかい、それとも来なかったのかい?」
「だれもあの人を見ちゃいませんよ。錯覚ですよ、来やしなかったんです」
「でもミーチカのやつはあれと結婚するつもりだからな、結婚する!」
「あの人は兄さんといっしょになりませんよ」
「そうだとも、なりゃせん、なりゃせん、けっしてなりゃせん!……」
いまこの瞬間、これ以上うれしい言葉はないといわんばかりの調子で彼は悦びに全身をぴくぴくと震わせた。狂気のあまり、彼はアリョーシャの手を取って、それをひしと胸に押しあてた。目には涙の玉さえ光っていた。
「ドミートリイより、イワンの方が怖い」というのは納得です。
フョードルにしてみたら、直情径行のドミートリイより、何を考えているか分からないイワンの方がはるかに怖いでしょう。いつも冷ややかな目をして、本音も決して明かさない。それでいて、誰よりも的確に問題の本質を見抜き、金銭やお愛想でどうにかなるタイプではありません。
ドミートリイは単純ですから、突然、ころりと気が変わり、「親父、殴ってごめん。これからは大事にするよ」とか言いそうですが(実際、カチェリーナと結婚したら、地元に戻り、父親の面倒を見るつもりでいた)、イワンはそこまで甘くありません。いったん見切りをつけたら、ドミートリイよりあっさり縁切りする冷徹さを備えています。親にとっては、一番気をつかうタイプです。
それで、フョードルは、唯一信頼するアリョーシャに言います。
「あいつは金がないんだ、ビタ一文ないんだ(ドミートリイの事)。なあ、アリョーシャ、おれはひと晩寝て、よく考えてみるから、おまえはもう行っていいぞ。あれにも会うかもしれんな……ただ、あすの朝早くぜひまた寄ってくれないか、ぜひともな。あした、おまえにひと言いっておきたいことがあるんだ、寄ってくれるな?」
「寄ります」
「もし来ても、自分から見舞いに来たようなふりをしてくれ。おれが呼んだことは、だれにも言うんじゃないぞ。イワンにはひと言も言うなよ」
「わかりました」
「じゃ、さようなら、天使、さっきはおれをかばってくれたな、一生忘れんぞ。あした、ひと言おまえに言うことがある……ただ、もうすこし考えてみないとな……」
ずいぶんしおらしいね。豪傑な親も、年を取れば、こんなものです。
しかし、アリョーシャ一人では、父親を守り切ることはできませんでした。せめてイワンが協力してくれたなら、結末も全然違っていたでしょうに。
フョードルも時間をかければ、考えが変わったかもしれません。
他人が人の生きる価値を決められるだろうか
ゴタゴタが一段落すると、アリョーシャは、ドミートリイの婚約者、カチェリーナ・イワーノヴナに会うために、いったん、その家を離れます。
そして、庭を抜けて行く途中で、門の脇のベンチに腰をおろしているイワンに出会います。
イワンは、「アリョーシャ、できたらあすの朝ぜひともおまえと会いたいんだがな」と、いつになく朗々と言いますが、アリョーシャの方は、明日ホフラコワ夫人と面会し、今日カチェリーナに会えなかったら、明日で直さなければなりません。
すると、イワンは、「じゃ、いまはやはりカチェリーナさんのとこへ行くんだな! 例の『頭を下げます、頭を下げます』だろう?」とにこやかに言い、アリョーシャは戸惑います。イワンがカチェリーナに秘かに想いを寄せているのを知っているからです。
アリョーシャは、ここにもドミートリイ、イワン、カチェリーナの三角関係があることを思い知り、「兄さん! お父さんとドミートリイ兄さんのこの恐ろしい事件は、いったいどう納まるんです?」と思わず口にします。
「はっきりした予測はつかないな。別にどうってこともなく、うやむやになってしまうかもしれない。あの女は――けだものだよ。いずれにしても親父を家から出さないようにして、ドミートリイを家に入れないことさ」
「兄さん、もうひとつ聞きたいことがあるんです。いったいどんな人間にしても、ほかの人たちについて、だれそれは生きる価値がある、だれそれはもう価値がないなどと決める権利をもつものでしょうか?」
「どうして価値の決定なんかここへもちこむんだい? この問題は、価値なんてものにはまるで関係なく、もっと自然なほかの理由から、人の心の中で決められることがいちばん多いのさ。でも、権利ということなら、だれにだって希望する権利はあるんじゃないか?」
「でも、他人の死を希望する権利じゃないでしょう?」
「他人の死だろうとそうじゃないのかな? どうして自分をいつわる必要があるんだ、みながそんな生き方をしていて、どうやら、それ以外の生き方はできそうもないというのにさ。おまえがそんなことを言いだしたのは、さっきぼくが『二匹の蛇の食い合いさ』なんて言ったからだろう? だったら、ぼくにもひとつ聞かしてくれ、おまえはぼくのことも、ドミートリイと同じように、イソップ爺の血を流せる男、つまり。親父を殺せる男と思っているのかい、え?」
「何を言うんです、イワン! そんなこと考えたこともないですよ! それにドミートリイ兄さんだってそんな人とは……」
「それだけでもありがたいな」イワンは薄ら笑った。「覚えておいてくれ、ぼくはいつだって親父を守ってみせるよ。しかしぼくが何を希望するかについては、いまの倍、完全な自由を留保したいね。じゃ、あしたまた。ぼくを非難したり、そう悪者あつかいしないでくれよ」彼は笑顔でつけ加えた。
誰かに対し、「生きる価値があるか、ないかを、決める権利を持つものですか」というアリョーシャに問いかけに対し、イワンは、「人の心の中で決められることがいちばん多い、だれにだって、希望する権利はある」と答えますが、これは絶対的な価値基準の否定ですね。この場合、「神」と言った方が分かりやすいです。
キリスト教においては、いかなる殺生も禁じていますし、人が人を裁くのは傲慢でしかありません。
しかし、そのような基準を無視すれば、誰が何を思おうと、その人の自由だし、誰にでも「あんなやつ、死んでしまえ」と望む権利はある、というのがイワンの考えです。
それに対して、アリョーシャは、「でも、他人の死を希望する権利じゃないでしょう?」と反駁しますが、イワンは、「どうして自分をいつわる必要があるんだ、みながそんな生き方をしているだろう」と現実的に答えます。実際、その通りです。
それでもイワンは、「覚えておいてくれ、ぼくはいつだって親父を守ってみせるよ」と約束した上で、「しかしぼくが何を希望するかについては、いまの倍、完全な自由を留保したいね。」と付け加えます。
「汝、殺すなかれ」の原理原則は理解しているし、父に対する情愛もあるけれど、今は自由にかんがえさせてくれ、ということですね。無視するか、全力で阻止するか、カチェリーナへの想いも含めて、思い倦ねている段階です。
アリョーシャと話したいのも、まだそこまで気持ちが固まってないからでしょう。
もし、アリョーシャが、全力でイワンを説得し、神の側にいるよう、確信をもたせることに成功していたら、イワンもモスクワに旅立ったりせず、ドミートリイがフョードルを襲撃する運命の夜に居合わせ、殺害の悲劇には至らなかったかもしれません。
このあたりが運命の分かれ目です。
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映画『カラマーゾフの兄弟』(1968年)より。(1分動画)
フョードルと話した後、「庭を抜けて行く途中で、アリョーシャは問のわきのベンチに腰をおろしていたイワンに出会った。イワンは鉛筆で何やら手帳に書きこんでいた。」の場面です。
背後にスメルジャコフがいて、じっと二人のやり取りを見ているのが印象的です。スメルジャコフがイワンにあれこれ吹きこむのは、この後です。
他人の死を希望する権利
「社会に有害な人間は殺してもいいのか?」という命題は、ドストエフスキーの『罪と罰』のメインテーマであり、日本では、死神のノートを手にした高校生・夜神ライトが大量殺人を行なう『DEATH NOTE』が話題になりました。
(参考→ 漫画『DEATH NOTE』 なぜ人を殺してはいけないのか)
『罪と罰』では、「有害な一人の死で、大勢が救われる」という思想のもと、ラスコーリニコフが高利貸しの老婆を殺害し、『DEATH NOTE』でも、ライトが開設したウェブサイトに、「○○を殺してくれ」というリクエストが殺到します。みな、建前では「人を殺してはいけない」と言うけども、心の底では、「あんなヤツ、死ねばいいのに」と思っているわけですね。
イワンが言いたいのも、まさしくそれで、「どうして自分をいつわる必要があるんだ、みながそんな生き方をしていて、どうやら、それ以外の生き方はできそうもないというのにさ」という台詞は、「この社会において、綺麗事で人は救われない」という現実を物語っています。
「でも、権利ということなら、だれにだって希望する権利はあるんじゃないか?」というのは、「心の中で思うくらい、いいじゃないか」ということですね。
しかしながら、他人の死を願うことに、何の良心の呵責も感じなくなれば、行きつく先は、本物の殺人であり、スメルジャコフのような冷笑主義です。心の隅で、「あんなヤツ、死ねばいいのに」
と思ったとしても、「だが、それは正しい考え方ではない」という理性が働かなければ、モラルも失われ、いずれ罪に手を染めるのではないでしょうか。
確かに、イワンの言う通り、心の中で思うだけなら自由だし、「他人の死を希望する権利」と言うならば、「ある」という答えになるのかもしれません。
でも、そこには戒めが伴い、罪悪感を忘れたら、人は人でなくなります。
この場合、戒めとなるのは神の教えであり、愛の原理原則です。
たとえ、万死に値するような人間でも、我々は理解し、許さなければならない、というのがアリョーシャの立場ですね。
イワンは尖った意見を口にしますが、まだ心を決めていません。アリョーシャと話したいのも、迷いがあるからです。
そして、心底では、神の言葉が聞きたいのです。
フョードルにしても、イワンにしても、結局、アリョーシャに行き着くのは、そういう事ではないでしょうか。