江川卓『カラマーゾフの兄弟』は滋賀県立図書館にあります詳細を見る

    【28】 イリューシャ少年とスネギリョフ ~貧しい一家とカラマーゾフ家の施し

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    江川卓の注解

    みなを和解させ、むすびつけるためだった

    アリョーシャは、イワンとカチェリーナの痴話喧嘩を目の当たりにし、助言もしてみたが、後になって、下記のように考える。

    『いったいぼくに何がわかるんだ、この問題でぼくに何が理解できるというんだ?』顔を赤らめながら、もう百ぺんめの自問を彼はくり返した。『ああ、恥ずかしいことなんて問題じゃない、恥ずかしさは、ぼくが当然受けてしかるべき罰だ。いけないのは、このぼくが原因になって、これからいろいろと新しい不幸が起るだろうということだ……長老さまがぼくをおつかわしになったのは、みなを和解させ、結びつけるためだった。いったいこんな結びつけ方があるだろうか?』

    ここはマタイ福音書第十章三十四節「我の来れるは和平のためにあらず、剣を投ぜんためなり」の一句、つまりいわゆる「剣の教え」を逆説的に踏まえているように見える。

    どちらも耳が遠かった

    スネギリョフ一家の住まいは、町人の後家カルムイコワの持家で、「家主の老婆」と「その年老いた娘」が暮らしていて、どちらも耳が遠かった。

    ドストエフスキーは作品に異常なほどの執着をもって不具者を登場させる。『罪と罰』ではソーニャの下宿先の家主ペルナウモフ一家が全員どもりで聾(つんぼ)だったし、『悪霊』のマリヤ・レピャートキナはびっこである。

    百姓小屋同然の一間暮しというわけだった

    スネギリョフは、二等大尉でありながら、「百姓小屋同然の一間暮らしであった」

    ロシアの百姓家は、正方形ないし長方形の建物を二つに仕切って、その片方、厨房の置かれていないほうを「きれいな半分」「白い半分」などと呼んで居間に使い、「きれいでない半分」を台所に使うのがふつう。ここは板敷間をへだてて正方形の二部屋が接続した構造になっており、二等大尉の住居のほうはいちばん簡単な正方形の百姓小屋のような形になっている意味だろう。窓が三つというのは、標準型の百姓家のサイズである。なお板敷間は、ふつう「玄関」とも訳されるが、戸外から直接居間に寒気が入らぬようにするための緩衝装置的な部屋で暖房の設備はなく、ふつう物置代りなどに用いられる。

    讃(たた)えよう気とて彼はなかった

    プーシキンの抒情詩『悪魔』の最後の一節で、「彼は愛も、自由も信じようとしなかった / 人生の冷笑のまなざしで眺め/またこの世の何ものをも、讃えよう気とてなかった」とうたわれている。

    チェルノマーゾフさん

    精神を病んだスネギリョフの妻アリーナ・ペトローヴィナが、訪問したアリョーシャに対して、「チェルノマーゾフさん」と呼びかける。

    カラマーゾフ姓に関しては、下記URLにも詳しい解説があります。

    【25】 イリューシャと少年たち ~未来の12人の使徒

    219ページ下段の注にカラマーゾフの姓のことを述べたが、ここでチェルマーソフというのは、日本語に訳すと「黒塗り」の意。カラはチュルク語で黒を意味し、そのことが頭にあるので二等大尉夫人が「チェルノマーゾフさん」という言いちがいををしたらしい。「チェルノマーズイ」という形容詞には「色黒の」という意味もあり、この長編でしばしば引用されるグリボエードフの『知恵の悲しみ』に、チャーツキイのせりふとして、「どうしました、あの色黒さん、トルコ人だがギリシャ人だか、名前はおぼえていないが」というのがある。ドストエフスキーは一八七六年末のノートにこのせりふを引用して、『このかんしゃく持ちの全世界観、全感情がこの言葉に表現されている」と注記しているくらいで、その印象が残っていたとも考えられる。

    カラマーゾフとチェルノマーゾフの言いちがいについては、もう一つ、プーシキンの『二審スラヴ人の歌』に収められた小叙情詩『ゲオルギイ・チョールヌイの歌』の主人公ゲオルギイ・ペトローヴィチが、チョールヌイ・ゲオルギイ、あるいはカラ・ゲオルギイ(いずれも「黒いゲオルギイの意」)と綽(あだ)名(な)されていたこととの関連が考えられる。このセルビア独立運動の闘士は、トルコへの反逆をためらう父親を殺したことで「黒い」と綽名されたことがプーシキンの詩に歌われており、「父親殺し」のテーマとの連想も生きることになる。ドストエフスキーは一八七七年二月の『作家の日記』でプーシキンのこの小叙情詩を絶賛しており、「カラ」と「チェルノ」の言いちがえを記したさい、このことを意識しなかったとは考えられない。

    女だてらに大学生

    スネギリョフが年上の娘について紹介する、「あとの一人は、足は達者でございますが、なにせ頭がきれすぎまして、女だてらに大学生というわけで、ぜひもう一度ペテルブルグへ飛び出して、ネヴァのほとり首都ペテルブルグでロシア婦人の権利を見つけ出すんだと言っております」

    ロシアで女性に大学教育が認められるのは、一八七〇年にペテルブルグで事件的な「男女学生のための公開講座」が開催されたのが最初で、これが常設の大学化する一方、一八七二年にモスクワに女子大学が開設される。女子学生は当時まだきわめて数少なく、その専攻は主として教育学と助産婦学にかぎられていた。

    わがロシアでは酒飲みがいちばん善良でございまして

    ドミートリイに往来に引きずり出された次の日、辛い気持ちをまぎらわせる為に、酒を飲んだ、というスネギリョフ二等大尉の告白にもどつく。

    ドストエフスキーは酒飲みがいちばん善良でございまして、ドストエフスキーは酒飲み、酔っぱらいについて、きわめて深い関心をもっていた。すでに『貧しき人々』でもこの問題が取りあげられているし、『罪と罰』は、『酔っぱらいたち』という長編の構想が発展したものである。ドストエフスキー自身は、すくなくとも確かな記録の残っている晩年については、かなり酒を節制していた節が見られる。ということは、逆に若い頃には深酒の経験もあったのではないだろうか。酒について、ロシアの諺はなかなか雄弁である。「のむのがじゃない、いい人たちとつき合うのが好きなのさ」「酒の中に真理あり」「飲み助は神が守りたまう」「酔いどれは、霧の中にだが、つねに神を見る」ただし、「飲むのはよいことだ、飲まぬはもっとよいことだ」「酒の飲みすぎは、悪魔に身をゆだねるならい」……

    ロシアの男の子というのは……ございますからな

    学校でいじめられたイリューシャが「他の町へ行こう」とスネギリョフ二等大尉に訴えた時、空想の話として、馬と馬車を買おうじゃないかと口にすると、イリューシャはとても喜ぶ。「ロシアの男の子というのは、馬といっしょに生れてくるようなものでございますからな」

    アンナ夫人注――「これは夫が、長男フェージャが馬の大好きなのを見て、よく口にしていた言葉。フェージャはよく馬のことを夫にたずね、夫は細かいところまで満足が行くように答えてやっていた。

    凧あげの季節

    イリューシャとスネギリョフ大尉が散歩している時、空を見上げると、一面に凧があがっていた。

    「いまがちょうど凧あげの季節なんでございますな」

    ロシア語では「凧」のことを「ズメイ」というが、この言葉は「蛇」の意味ももつ。そこで「凧あげの季節」は「蛇の季節」とも読めるわけで、去勢派の儀礼ないし、黙示録で「悪魔たりサタンたる古き蛇」と呼ばれている「龍」のイメージが喚起される。

    黒馬にしてくれとせがみます

    アリョーシャがカチェリーナから預かった見舞金200ルーブリを見せると、スネギリョフ二等大尉が答える。

    「それに、ひょっとしたら、手前とイリューシャの夢もほんとうに実現できるかもしれませんのです。馬と小さな幌馬車を買いまして、馬は黒馬にいたします、あれがぜひとも黒馬にしてくれとせがみますので」

    アンナ夫人注――「馬が好きだったフェージャは、どうしても黒馬を買ってくれとよくせがんでいた」
    ここでは「ヴォローネンキイ・コーニ」という語が使われ、黙示録で「飢」を象徴する「ヴォロノーイ・コーニ」の指小形が用いられている。やがて「蒼(あお)ざめた馬」(死)の訪れを受ける少年が「黒馬」を愛する点に象徴が読みとれる。
    アリョーシャとスネギリョフ二等大尉の会話も、何気ない日常会話に見えますが、これほど多くの意味が込められていることに驚かされます。「凧」や「黒馬」など、注解がないと、何となく見逃してしまう個所も多いですね。改めて、「カラマーゾフの兄弟」は、解説なしに理解できない作品とつくづく思います。
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    誰かにこっそり教えたい 👂
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